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教育って何だ?コミュの道徳って何を教える学問ですか?

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はじめまして。ことと申します。

前々からすごく不思議に思っていることです。
どなたか回答いただければありがたいです。


例えば、つい先日、遠出先で、私は明らかに道路交通法違反をしている自動車を見つけました。2,3kmよりも長く、延々とウインカーを右に出しっぱなしで走っている軽トラがいたのです。

最初は後ろのほうでクラクションを鳴らしていたのですが、気づく気配がないので、横付けして大声で注意しました。
その時運転者の顔も確認しましたが、かなり赤ら顔で、ひょっとするとアルコールも入っていたかもしれません(想像)。対向車があると怖いので前に回りました。

その後、まだ直す気配がありません。
このような車に、小学生などが巻き込まれたら、たまったものではないと考え、警察に通報すべきだと思い、もう一度後ろに回ってナンバーを調べました。

しかし、そこで携帯電話を取り出したりすると、私のほうが道路交通法違反(現行犯)になってしまいますので、停車してから状況を報告しました。

その後、家の近所の警察へ、自分の処置が正しかったのかどうか聞きに行きました。
すると、まず、停車してから状況を報告たのは賢明な判断であった旨を伺いました。
そして、それ以前に一番重要なことは、不法行為を見つけたらそれを注意したり報告したりしようとするのではなくて、まず不法行為をしている人/状況から逃げることが何よりも肝心だと伺いました。

不法行為を感じ取った私自身が、事故や事件に巻き込まれることこそ、一番避けないといけないと。


上記は一例ですが、他にも似たような状況は沢山あります。
社会一般的に、不法行為などを感じ取った場合、逃げることが一番重要なこととなります。守るべきは、自分と、家族。それ以外は、(極論すれば)守ろうとすべきではないのです。


私が社会で経験した実際と、私が学校で教わった道徳が、乖離しているように思うのですが、実際はどうなのでしょうか。
ご教示いただくとありがたいです。

コメント(22)

はじめまして、べっしょといいます。学生です。
自分とその家族を守っている、それだけでもすごいことだと私は思っています。
日本というか先進国の車社会って状況はある意味異常ですよね。日本では年間一万人以上の交通事故死亡者がいて、それを犠牲にしてでも文明の利器、便利さ、豊かさを享受しようとするんですから。自分や家族がいつ犠牲になるかわからないのに。


私は道徳というとカントを想像するのですが。。
自由な存在である人間が、道徳的たろうと意志することで世界により高い調和を導き出す。僕は小学校あたりでこれをすごくやさしい言葉で教え込まれていたように感じます。嘘をつかない、思いやりをもつ、けんかはお互い様など。。一人ひとりが道徳的に生きれば世界から戦争がなくなり平和が訪れるというような考え方を持っていました。
次に自分の自由を獲得することと他の人の自由を認めるという問題にもぶつかりました。憲法で公共の福祉を学んだときです。これは自由と秩序が両立できるかという問題でした。
そして大学生になって実社会が見えて来ると、道徳的に生きようと意志しても、世の中の矛盾は解決されないと気づくようになりました。小学校から培ったロマン主義、思い描いた理想主義が現実主義に収束されたということです。
ことさんのお話も、現実主義的に考えると、自己の自由を守るためには妥当な判断が必要ですよね、と思います。
他の例で考えると、ホームから人が落ちて、そこに電車が入ってこようとする。このとき自分がとっさに線路に下りて、その人を助けようとできるか。。(韓国人が死んで過去にニュースになったことがありますね)
一般人を助けるために自分の命を犠牲にする。理性を超越した意志に身を委ねる。多分僕はできなかった方だと思います。

学校でもこの題材を教えるのってすごく難しいですよね。。
まとまらなくてすいません。
>道徳は学問ではないと思います。学校で教えるものでもない でしょう。

KENさんと「道徳」という概念を共有していないので恐縮ですが、道徳哲学ならば、立派な学問なんですよね。カント、ヘーゲルの近代哲学では、物事において何が悪で、何が善かをどのようにして明確に言えるかを考えていましたから。
学習指導要綱を見る限りでも高校の倫理で扱える内容かと。現代に生きる人間の倫理的課題として素晴らしい題材だと僕は思います。

(公民の指導要綱です)
http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301/03122603/004.htm
>乱暴な言い方ですが、道徳は学問ではないと思います。

「道徳は学問ではない」というお考え、全く正しいと思います。私はかつて「音楽は学問か」という問題を考えたことがあります。そのとき私が至った結論は、「音楽は学問ではない」でした。学問の本質的特徴は、学理を基にして学理を探求する、という自己増殖性にあるような気がします。道徳には学理はありませんし、道徳の学理を元に新たに道徳の学理を探求する、という話しもあまり聞きません。だから、道徳は学問ではないと思います。しかし道徳には伝統精神があるでしょうね。逆に伝統精神を欠いている道徳は、表面的で長続きしないと思います。
>道徳哲学ならば、立派な学問なんですよね。

道徳哲学ならば立派な学問だ、というお考え、正しいと思います。これは例えば、音楽は学問ではないが、音楽学なら学問であるのと同じです。音楽と音楽学とは違うでしょう。同様に道徳と道徳哲学とは別ですから。
結論から言えば、道徳は学問とは言い得ないものです。なぜならば、道徳と学問には決定的な違いが存在するからです。

学問は基本的に知識の獲得を目的とします。要は、「知ること」が目的です。

一方、道徳は基本的に価値の獲得が目的です。要は、「どのように生きていくべきか」を考えていくものです。

それで、道徳は何を教えるのかということですが、私が考えるに、「人(人間・日本人・社会人など)として、生きていく上で善いとされる価値は何かを伝える」ことにあろうと思います。

しかし、その価値は、実際社会において完全な形で実現することはありません。と言うよりも、実現していればあえて教える必要はありません。実現は出来ない、されど、人として必要だからこそ、教えないといけないのです。

だから、実際社会に出れば、道徳との乖離がでることは必然でしょう。むしろ、ことさんが乖離を感じることが出来るということは、道徳教育がしっかり根付いているということが出来ると思います。
道徳全般が、善良な人間の暮らす社会を前提にしていると
思う。
その為、犯罪者に対しては緊急的に彼(彼女)を避けると
いう手段がとられてしかるべきなのだと思います。

素人くさい意見ですいません。
学問だけやってればいいのなら学校はいらない。塾で充分でしょう。
修身のつづきです、学校で教えることやない、それと、自分はなんのために生まれたのか、世の中のゃくにたつ人間なのか、自省するのは別のこと
 道徳教育などでは、価値観の標準化という面は否めないと思います。ですので、机上で理論的な議論になってしまうと、個人の自由とか個性とか、人生観を阻害するみたいなことになるかもしれません。

 心理という観点から捉えると、この世に善悪などなくて(好きで悪人になって、生きづらくなりたがる人はいなくて)その人の個性と生育暦の問題が大きいと思います。ですので、理想を言えば、全ての人の心を健全にすれば、道徳は自発的に備わるべきものかもしれません。

 しかし長い歴史を紐解けば、少し前まで殺戮を繰り返してきた(今も繰り返している)人類が、そう簡単に理想的な姿になるとは思えません。
 ですので、道徳教育は、今直ちに最低限の社会的な利益を守るために行う妥協の産物ではあると思います。つまり、「犯罪を犯すことは悪い」と、とりあえず結論を先にもってきた方が、現状の社会はうまくいくということでしょう。

 そうしたことを前提に考えた場合、その妥協を少しでも小さくするために、「ハーバード白熱教室」みたいな議論によって、子どもたちが真剣に考える場を確保する必要があると思います。
学校教育で言う道徳は、教科であって、学問ではありません。
道徳は、教科ですが、何か一定の決りや価値観を教え込む教科ではありません。
その意味においては、トピックの文面に「何を教える学問ですか?」というのは、不適切です。
修身と同じにしては、ならない教科です。諭し、考える契機を充分に与える事が重要な教科です。

理想と現実との乖離という状況に在って、それでも自分は斯く在りたいと考える事のできる資質を培うための教科です。
修身のダイカエが道徳ダカラ、教えるほうもどうしたもんか、だったんじゃないかな、教育テレビみた記憶しかない、だいたぃ教員に道徳求めるのが、無理、なんんじゃないかな
他人や自分という「個人」の行動を制限するように思われたとしても、ルールが存在した方が「社会」が円滑に回るから、そのことを理屈と体験的に教えるということでしょ。
だって、食事を摂ることや空気を吸うことは生きていくために絶対的に必要な生理欲求だけど、道徳などは守らなくても生きていけますもの。
だから、何故必要なのかを理屈で理解することの難しい発達段階の子達には体験的に必要なことを教え、脳が論理的思考の適う年になったころには理屈で教えるんじゃないですかね。
そういう意味から、特に義務教育段階における道徳は学問ではないですが、教科であるといえるんじゃないでしょうか。
上でどなたかが仰ってましたが、道徳とは何ぞやと科学や事実を元にして考えていくことは学問になるんでないでしょうか。

それから、トピ主さんを責めるものではないことを先に明記しておきますが、社会で「道徳的」な行動を取らない人が多いからといって、自分もとらなくて良いということにはなりません。
但し、道徳も倫理も義務じゃないです。

最後に、「音楽」という大きな括りでは、何を前提としてさしてらっしゃるのか分かりかねましたが、音楽も他と同様に「音楽」としてのみ成り立っているのではないです。
音楽も、和声学を始め、楽器分類学や、音声生理学など、多岐に渡った学問から分析され、また成り立っており、またそれらの総称でもあります。
それゆえ、「音楽」を例えばピアノ弾いたり曲を聴いたりするという時点でいえば学問ではないといえますが、それは一部であり全部ではないと言い添える必要があるかと思います。
みなさん、自身の道徳についての教養を知らしめたくいろいろと意見しておられてますが、
トピ主さんの回答になってないと思いますよ。


道徳は相対的で子供における道徳と大人における道徳は違うと思っています。
子供は大人の責任範ちゅうの中で生きてますが、大人は事故責任の中で生きてます。
ですから、子供が嘘をつけば叱られますが、大人は嘘も方便だと言って
嘘を正当化します。つまり道徳はその人の都合によって変わってしまうので、
子供の時教わった道徳は社会に出ると通用しなくなるのでしょう。

あなたは主観で物言ってるだけでしょ。
他の方答えられてる方が教養示したいがためなのか、それらを示してこういうこと言われとるよと言いたいだけなのかは本人じゃなきゃ分かりませんよね。
あなたが「教養示したいだけ」と感じられたのは発言から分かりましたけど。

それから答えてる人もいますよ。
よくお読みください。
批判的意見言うなとは言いませんけど、それは相手の言ってることを良く読んで、理解してからにされたらいかがですか。
>ドァカベンさん
 確かに、答えている人がいました。申し訳ありません。
 でも、ほとんどの方は道徳は学問か学問でないという議論で、トピ主さん
 の「社会で経験した実際と、私が学校で教わった道徳が乖離しているように
思うのですが実際はどうなのでしょうか。」という問いの回答になっていませんよね。

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