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池田晶子コミュの「REMARK」を読む

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何度読み返しても面白い思考の宝庫、「REMARK」について語りましょう。

コメント(95)

「何も生きていない

生存すら生存ではない

生存という物語
を生きているということは、生存するということではない

物語を生きることは生存することではない(死んでいるわけでもない)

生でも死でもない物語のみが
動いて
いる
これは生きていることではない」 (P.148)

「物語」と言えるためには「現実」が存在しなければならない。
「それは生存ではない」と言えるためには「真の生存」が存在しなければならない。

しかしそれは、それもまた「現実」または「生存」という物語に過ぎないと一度問うた上での「現実」または「生存」でなければならない。
その場合、それがそうである(つまり実在である)と言えるのは何によってなのか。
真の実在…。あれもこれも単なる言語ゲームに過ぎない?
「百億光年向こうの星雲もまた
言語的存在である
言語によらずに、どうしてそれを認識し得るか
『星雲あれ』
と言ったから、星雲があるのである」 (P.21〜22)

では、「星雲」というその言葉は何故あるのか。
「星雲という言葉あれ」と言ったからその言葉はあるのか?
(あるいは、「ありとあらゆる意味を為す言葉よあれ」でもいいが。)
では、言葉は何故あるのか?
「言葉あれ」と言ったから?
言うまでもないが、これは禁じ手である。
やはり存在は狂気の沙汰である。

言葉は初めからあるとしか言えないのである。
「初めに言葉ありき」。
「その先」はやはり問えない。
以前取り上げたこれをもう一度。↓

「死んだら無なら
なんで宇宙が在るのよ
唯物論者のばか」(P.41)

やはりここでは生が存在することには意味があるということが信じられている。
あるいは、宇宙が存在することに意味があることが信じられている。
しかし徹底した思考は生の存在にも宇宙の存在にも存在理由が無いという虚無主義に行き着くはずである。
どうも池田晶子はときどき信念が思考に勝るときがあるような気がする。

おそらく、これはおそらくだが、
思考は理性の領域に、そして信念は魂の領域にあるのではないか。
そして、池田晶子の中で理性と魂とがせめぎ合っているのではないか。
しかしこれは池田晶子が特にそうだと言うわけではないのだが。

信念というものは理性によって考えられたものではないので根拠が無い。
そして一般に、理性にとって根拠の無いものは排除される。
しかし、根拠が無いから排除するというのは実は非合理である。何故なら排除する根拠もまた無いのだ。
理性は疑うことしか出来ないのだ。
「論理は現象を忘却する
だから、死ねば思い出すというのだ」 (P.95)

逆に言えば、「現象は論理を忘却させる。」
だから、生まれれば忘却するのだ。
生とは忘却の装置、あるいは、生とは忘却そのものなのである。

論理が純粋論理として存在する世界。
そこから論理が現象をまとう世界へと降りて来る。
再び論理は現象を忘却し、自己自身へと還る。
論理→現象世界→論理。
「内語において、コイツにおいて、
『私』と名のる
『お前』と呼びかける
そもそもこれが違うのである

自分が誰であるのかわからないのではない
そんなことはわかりきっている
そうではなくて!」 (P.185)

「私」という概念はどのように定義され得るのか?
「自分である」とはどういうことか。
自分が自分である、とは。
定義することが出来ない。あるいは出来るとしても難解な概念である。
が、三歳児でも自分が自分であるということを理解する。
彼らは当たり前のように「ボク」、「アタシ」と、その難解な概念を使用する。
まったくの驚異である。

概念の習得が後天的なものであるとすれば、だが。
はじめまして、大変わかりやすく面白く読ませていただきました。

>59

現象世界を認識するのは知覚で、もしも論理(思考)が知覚できたらそれも現象世界ってことになりますよね。

論理(思考)を含めて認識できた瞬間が俗に言う「悟り」で、哲学や禅って、実は思考を知覚するための努力じゃないかなって思います。


>arikadoさん

貴重なコメントありがとうございます。

>もしも論理(思考)が知覚できたらそれも現象世界ってことになりますよね。

おっしゃる通りです。
全く同じ事をコメント37で書いてます。

現象は現象なのですが、「論理」という特殊な現象、物性を伴わない、あるいは感覚器官を媒介しない、理性上にのみ立ち現れる現象。

そもそも通常、「現象」という言葉は物質的現象のことを指すので、意識上に立ち現れるという意味で「顕現」とか、何か別の言葉が必要ですね。

ご希望があれば「論理と現象」などとして、別トピック立てても良いですよ。

>論理(思考)を含めて認識できた瞬間が俗に言う「悟り」で、

私の見解では、認識を超えたところに悟りが成立すると考えています。
認識というのは認識主体と認識客体があるということなので、まだ主客の分裂の上に成り立っているのですよね。
で、真理の認識は主観と客観の一致である、というような定義も生まれて来るわけなのですが、それはたまたま一致したのに過ぎず、しかし、主客の分裂がある限り、主観と客観はまた乖離してゆきます。
悟りとは、もはや主客が乖離しない合一のことではないでしょうか。

これについても、「悟りと認識」あるいは「悟りと哲学」などとして別トピック立てても良いかと思います。
池田晶子さんは禅についての言及個所もあるので、それとも絡めても良いかと。
>じみーさん

ご返答ありがとうございます。

>「現象」という言葉は物質的現象のことを指すので、意識上に立ち現れるという意味で「顕現」とか、何か別の言葉が必要ですね。

確かに「現象」という言葉は通常物質的現象をあらわすと思います。顕現とか表象とか言う言葉が適切かもしれませんね。
個人的には、形而上のもの(思考、意味など)も自然の一部として実在していると思っているので、論理にも現象という言葉を使いたくなるのですが^^;

>認識というのは認識主体と認識客体があるということなので、まだ主客の分裂の上に成り立っているのですよね。

たしかに、知覚認識には主客の分裂がありますね、見るものと見られるもの「私とは何か」という問いとそれを問うている「私」。じみーさんの言うように、それが合一したら悟ったということなのかもしれませんね。

逆にもしかしたら、生きている我々がもともとは合一した世界を小難しく分裂させているだけかもしれませんね、そうだとすれば、悟るってことはあたりまえの状態にもどるってことになってしまいますね(笑)

「不可知である
というこのことは、安心でもあるがヤケにも似ている
ヤケそのものであるような感じもする
しかし、存在が絶対不可知であるということが、安心であるのかヤケであるのか、いかにして分けられようか」 (P.101)

それを安心であるというとき、それは絶対不可知であると信じてられているとき、そしてヤケであるときは、どこかでまだそれを信じ切れていないのである。知れると思っているのである。

さて、存在が不可知であることを本当に知れば、知ることが可能であるのに知られていないことはもはや無いのだから、不可知の対象が既にそこには存在していない。
それでも「不可知」を措定するならば、そこに人間の理性以上のものを想定していることになる。
即ち、「神」を。

何故なら、人間の理性を超えたものが知ることの出来る対象が存在すると言っていることになるからである。
不可知を知るのにも深い浅いがあるとおもいますが、絶対不可知という深淵をのぞいたソクラテスや池田晶子さんは、なぜ「知らない」ということをみなに伝えようとしたのでしょう?

「自分だけ善ければよい」でしたか、非常に意味深い言葉をのこしながらも「おまえは知らないんだぞ」と言い続けている。なぜなんでしょう?

個人的にはそこに興味があります。

>arikadoさん

>絶対不可知という深淵をのぞいたソクラテスや池田晶子さんは、なぜ「知らない」ということをみなに伝えようとしたのでしょう?

それについては、みなが何事かを知っていると思っているから、としか答え様が無いですね。
それは啓蒙でしょうね。
では何故そのような啓蒙の精神が生じるのか、というところまで問えば、釈迦やイエスが何故人々に真理を説いて回ったかという問いにも等しいので、それ自身はとても深い問いであると思いますが(例えば「愛」とか「善」とか「真」を愛する心とか)、それも人によって一様かどうかも分からないので、私にはちょっとここではすぐには答えられません。

>「自分だけ善ければよい」

この言葉からだけでは分かりませんが、結局人は自分が善であるということ以上のことは出来ないということではないでしょうか。
人に「善たれ!」と言うことは出来ないということではないかと。
「自分が自分であるというまさにその完結において、何かをすることの理由がない
何かをする
ということは、したがって、
他のためにする
ということ以外ではあり得ない」 (P.31)

この世の原理は、何かすることがあるということによって全てが成り立っている。
何かすることがあるということが何か良いことであり、何もすることが無いということが何か悪いことであるという原理により、この世は動いている。
しかし、事実はある見方の中では実は逆であり、ニヒリズムとは一種の悟りである。
ニヒリズムは単に自己完結しているに過ぎないが、結果として、この世の原理を否定することになる。
実のところ、ニヒリズムを語らずして、池田晶子の本質は語れない。

ニヒリズムという言い方は、単にこの世の原理を是とした場合の言い方なのであって、ニヒリズムの側から言えば、自身は単なるひとつの是である。

これには多くの人が反発するに違いない。
何故なら自身の存在基盤が否定されたと感じるはずだからだ。
>自分が自分であるというまさにその完結

なぜか存在するという「絶対不可解」と自分が自分であるという「確信」 

対照的ですね。

なぜ「自分が自分である」つまり「私がある」ということだけは確信できるのでしょうか?

ニヒリズムですと「私しかない」ってことになるのでしょうか?

どちらにしても「私がある」ということは確信してますよね。
>arikadoさん

コンスタントにコメントありがとうございます。

>ニヒリズムですと「私しかない」ってことになるのでしょうか?

それはどちらかと言うと独我論になりますね。
ここで言っているニヒリズムとは、主体性の反対の意味、何かをする理由が無い、という意味です。
これは池田晶子が言っているように自己完結なのですが、この世の原理は何かすることがあるということが当たり前であり、それが無いということは考えられないわけです。だから、「主体性の喪失」と言うわけです。
何もする理由が無いということを人はものすごく恐れるわけです。
「夢における視点の転々
転々とする当のものとは自己である
となお言わなければならないか」 (P.182)

実際には、夢においては特定の限定された視点を持たない。
限定された、固定された視点を持つということが自己であるということなのであれば、夢は自己を超えている。
しかし、それでもやはり夢を見る者にとっては、転々とする視点(=すなわち自己)として認識される。
それは昼の世界において、自己という認識を有しているからだ。
夢においてさえ我々は自己意識(「自己」意識)から解放されていない。
「自分が自分であるというまさにその完結において、何かをすることの理由がない」 (P.31)

自分が自分でない、すなわち自分が自分にとっての他者になるということは観念の存在無くしてはあり得ない。

「こうでありたい。」
「こうであらねばならない。」
「こうであるふりをする。」
等々…。

では生まれたばかりの赤ん坊が泣く理由は何故だろう。
「何も生きていない

生存すら生存ではない

生存という物語
を生きているということは、生存するということではない

物語を生きることは生存することではない (死んでいるわけでもない)

生でも死でもない物語のみが
動いて
いる
これは生きていることではない」 (P.148)

生きている者はいないのなら、誰が「いる」のだ?
誰も「いない」。
この世に誰も「いない」。

そうではなく、「物語」がいるのだ。
「私」とは、一個の物語なのか?
−YES。
「私」という物語があるのみなのだ。

だが、その物語を生きているのは「私」ではなくて、しかし、その物語を生きている者がいるとすれば、それはこの世に「いる」のではなく、この世の外に、この世を超えたところにいる。

生は実体ではなく幻想であり、その者こそが実体であるということ。(その者を何と名付けても構わない。)
仏教の言う「一切は空」とは、この世の話であって、実体の否定、実体が存在しないということではない。(おそらく。)
逆に言えば、実体が存在するから「空」が存在するとも論理的には言えるだろう。
でなければ、どうして「実体」という概念が存在するのだろう。
> じみーさん

神の真理。問うことが多分不必要な事だと思います。
>Μργι杏∞さん

コメントありがとうございます。

神の真理…、というと、神の存在/非在の問題のことでしょうか。
その議論には私は興味はありませんが、もし論じたいようでしたらそれに相応しいトピックがありますので。↓

●「神について」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=29647198&comm_id=29345

もし無神論でしたらその根拠をお聞きしてみたいです。
ちなみに、上のコメント75の補足をすれば、73で述べている「実在」を「神」と捉えてももちろん構いませんが、また別の捉え方もあると思います。

この世を超越した存在を「神」と定義する必要は無いからです。
また、もしそれを「神」と定義するなら、その場合の「神」の定義がいかなるものなのか。
もし全知全能とか創造主という意味なら、そうである必要は全く無いと思います。
単に超越者ということ以上は言っていないと思います。
三度(みたび)これを。↓

「自分が自分であるというまさにその完結において、何かをすることの理由がない」 (P.31)

これを上下ひっくり返してみよう。

「何かすることがある、あるいは何かしなければならないことがあるということは、自分が自分でないというその未完成において、またそのゆえに生ずる。」

これを言い換えればこうも言えるだろう。

「自分が自分でないというその未完成ゆえに、それが、この世のあれやこれやのドラマ(悲喜劇)を生じせしめる。」
「人間である夢を見ているように思われるだけであって、
非生物としての意識にとって、生物と無生物の境目はない」 (P.68)

夢においては、全ては意味である。
「生物」という意味、「無生物」という意味…、その他もろもろ。
そのように、意味であり意味でしかないということにおいて、全くの同一物であるから当然境目など無い。

しかし、だから何をしても良いのではない。
そこに「現実」という意味が加わるからである。
>人のなかのなかの人さん

>僕も池田晶子さんが好きでリマークも読み、分かったのは結局な〜んも分からないとゆう、無知の知だけでした(笑)

その通りだと私も思います。
それを明らかにするのが哲学の使命であるとさえ思っています。
それ以上のことは哲学には出来ない。
究極的に求めている真理を私も哲学には求めていません。

>議論する暇があれば普通に世のために生きるほうが実行的だと僕は思います。

ありがとうございます。
ただ、人は皆、色々な考えがあり、色々な道があります。色々あっていいと思います。
長い目で見た場合、何が自分にとって善いかは分からない場合があります。
ただ、自分が今出来ること、そして、やりたいことをやっているだけです。

私も「議論」するつもりは無いです。
このトピックのように一方通行で全然構わない。
それで受け取る人が何かを受け取ってもらえるなら。
共感も批判も、当然あるでしょう。
でもそれは、受け取り手の問題。
私は私の考えたことを述べるだけです。

また、「暇」で哲学をやっているわけでもありません。

また、上のような言説が既に議論を始めているわけなので、そのような発言をする時間を世のために使う方が良いということになってしまいますね?

>それが善く生きることだと思うっす!!

そのような考えがあって全然構わないと思います。

でも、私は私が正しいと信じる道を行きますし、人は結局それ以外のことは出来ません。
補足です。

ヘーゲルが「論理学」を書いたこととマザー・テレサが多くの人を助けたことと、どちらがより実行的か。

哲学の本を世に出すことで人々の意識を変えることと、東北へ行って震災の支援をすることと、どちらがより実行的か。

後者の方が実行的だというのは本当か。

池田晶子が阪神大震災のときに、現地にボランティアに行くことよりも著書を書くことの力の方を信じたのはどういう考えによってなのか。
>人のなかのなかの人さん

>勿論、意識なんです。

すいません、これは私のどの言葉に対するレスでしょうか。

>しかしながら、わかる人にはわかるわからない人にはわからない、もしくはわかりたくもない(笑)

はい、それでいいと思いますよ。
わかる人がわかってくれればそれでいいと思います。
哲学が万人のものになったことは未だかつて無いですし、これからも無いと思います。
私も万人に向けては書いていません。

また、わかりたくない人にもわからないでいることを選択する自由が与えられています。
そういう人はこういうコミュには来ないでしょうし、来たとしてもこのような私の書き込みは読まないでしょう。

>でも、なんも理解してなくても、地球にとって善的行為であるば、それわそれわと(笑)

それはそれでいいという意味でしょうか?
もちろん、その通りです。
よく考える者がより善い人間でもないし、人類にとって善い存在でもないと思います。

どころか、知らないなら知らないでいる方がよっぽど良いことも世の中にはあると思います。
「生存は存在の一形式にすぎない
生存は存在が自身を表現するひとつの仕方である」 (P.156)

生存ではない生存以外の存在形式というのはなかなか想像がつかない。
鉱物でさえ原子レベルでは生きている。
少なくとも私たちの世界では生存以外の存在形式は見出せない。
死がそれだと言うかも知れないが、死は存在の形式だろうか。それとも存在の欠如だろうか。
それとも、死と生存の間に無数の存在の形式が存在するのだろうか。

…ん?形式が存在する?
なるほど、ロゴスのことか。
確かにロゴスは生存していない。
「知ることを欲する理性は、まだこちらの側にある

理性は未だ自我にも近い

だから知ることができないことに抵抗を覚える

しかし、魂は知ることができないことを
受容する

魂は抵抗せず、排除もしない」 (P.113)

魂が何故それを出来るかと言えば、知っているからである。
自分がそれを知ることができない理由を知っている、そしてそれを受け容れているからである。
自我にも近い理性は、知れるはずだと思っているからである。
あるいは、知れない理由があることを知らないからである。
だから知ろうと抵抗するのである。
>自分がそれを知ることができない理由を知っている、

そうなんですか?

人間側から見れば、知る必要も無いように見えるし
魂側から見れば、知る/知らないも関係ない話の
ように見えるのですけど?

知る/知らないなんて、精度の細かい仕事は魂は
していないし、それでいて困らないように出来ている
ようですが?

>87

いいんじゃないんですか?そう思われるのならそれで。
特に私に反論して私の反応を確認しなくても。
私の方は特に反論はありません。
>いいんじゃないんですか?そう思われるのならそれで。

いや、こう思うから、こうだとかじゃなくて、事実はどうなって
いるんでしょうか?と言う意味です。

>自分がそれを知ることができない理由を知っている、

と言い切ってらっしゃるので、魂ってそういう器用な事が
出来るものなんだっけ?と疑問が沸いたわけです。

改めて、そうなんでしょうか?

>温泉さん

>>自分がそれを知ることができない理由を知っている、
>
>と言い切ってらっしゃるので、魂ってそういう器用な事が
>出来るものなんだっけ?と疑問が沸いたわけです。

それは同じですよ。
例えばあなたが以下のように思うとき、

>知る/知らないなんて、精度の細かい仕事は魂は
>していないし、それでいて困らないように出来ているようですが?

魂がそうあるということをどうして知っているのですか?と問い得るのと同じです。
それは温泉さんが魂に尋ねて返って来た答えがそうであるからそう思われるのではないですか?

これは哲学全般に言えることだと思います。

例えば、

世界は有限である、あるいは無限である、とか、
世界はイデアの反映である、とか、
世界は一切空である、とか、
世界は諸法則によって成り立っている、とか、
時間および空間は感性の認識形式である、とか、
世界の究極の真理は認識不可能である、とか、
世界は絶対精神の現れである、とか、
世界は永遠に繰り返している、とか、等々…、

これら全て、哲学者が世界に尋ね、返って来た答えですよね?

池田晶子が、

「魂は知ることができないことを受容する
魂は抵抗せず、排除もしない」

と言うときも同様です。
それは魂がそうだと言っているからでしょう。
>「魂は知ることができないことを受容する
>魂は抵抗せず、排除もしない」

これに関しては、元から何の異論も無いわけです。

>自分がそれを知ることができない理由を知っている、

ここでの自分とは魂の事を言ってらっしゃるのだから
魂に理由を聞いたら、魂は魂が知ることが出来ない
理由を知っていたと言う事なのですか?

これは、じみーがじみーさんの魂に尋ねたら、こうだったと
言われるのではあれば、ああそうなのですかで、終わりに
なりますが、池田さんが、そうだったと言うのなら、随分と
見方を変えないといけなくります。

この人の不思議な所は、何かの精神修行の類でもしなければ
たぶん間違えるだろうと思うようなところを、全く間違えないで
表現する所です。

池田さんが間違っていても咎めるつもりもありませんが、なんだ
この程度なのかと言うことで、読まなくなる事は充分ある話です。
>温泉さん

>これに関しては、元から何の異論も無いわけです。

はい、ですから、温泉さんが池田晶子の言説に正しさを見出したり、私の言説に違和感を感じるということは、既にあなたの中に答えがあるわけですよ。
それに照らし合わせて、「池田晶子は正しいことを言っている。」、「じみーさんは間違ったことを言っている。」と判断している。
そうではないですか?
ですから最初に言ったように、既に答えをお持ちならそれでいいじゃないですか、と言ったわけです。

>池田さんが、そうだったと言うのなら、随分と見方を変えないといけなくります。

この部分の「そうだった」の「そう」は何を指していますか?
「池田晶子も自分の魂に聞いて書いていたなら」ということですか?
もしそうなら、それは「この程度の人なのか」、ということでしょうか?
逆に私は、自分の魂によって語るのではなくて、仕入れた知識や思考による推理、推論からのみ書いているのでしたら、私はそれを信用しませんけどね。

>この人の不思議な所は、何かの精神修行の類でもしなければ
たぶん間違えるだろうと思うようなところを、全く間違えないで表現する所です。

それは「自我の底が抜けた」という体験をしたからではないですか?
修行をする目的のひとつが自我を超えるということだと思いますので、「或る日無限を考えていたら自我の底が抜けちゃった。」(本人談)のだとすれば、彼女のような表現が現れるのは不思議ではなく、普通の人が修行によって獲得する地平を徹底した思考によって獲得したと考えれば納得が行くのではないでしょうか。道は必ずしもひとつではないということです。

で、「REMARK」から逸脱して来ているので、まだこの議論続けるのであれば、よろしければ「魂について」という新しいトピックを立てて続けて欲しいのですが。
>この部分の「そうだった」の「そう」は何を指していますか?

自分がそれを知ることができない理由を知っている、

この部分です。まぁ何か文学的にそう表現したと言うのなら
そうかで終わるのですが、哲学的に言ってるとしたら、啓示上を
お履き違いになっているのだろうかと言うことです。

魂は、そんな事は知りもしないし、知る必要も無い。

と言うなら、判るのですが。

>温泉さん

もし新トピックを立てるほどのことでもない、と言うのでしたら、この議論はここまでにさせてください。
新トピックで引き続き論じるのであればお付き合いします。
>この議論はここまでにさせてください。

はい、ではここまでに致します。

ありがとうございました。

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