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100分de名著「100分de災害を考える」
第4回 池田晶子『14歳からの哲学』−自己とのつながり
ですが、
100分の4分の1という短い放送だったのですが、
全体的な印象として、講師の若松英輔さんは、
池田晶子の言葉で救われた経験があるとテキストに書かれていますが
情緒に傾いているというか、文学的というか、そういう見方を持っていると思いました。
今回、災害関連で取り上げたのは、
池田晶子の言葉を「明日の朝を迎えられないくらい苦しんでいる人に届けたい」
という思いから取り上げたとのことです。

以下、私が気になった点。
(ページ数のみは『14歳からの哲学』からの抜粋)

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この本の最初で、池田が注目するのは、「おもう」という営みのちからです。それは思考力ではありません。それは思考のさらに奥にあるものです。
(100分de名著 テキストp82)
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池田晶子さんは「おもう」にそんなに注目していただろうか。

池田晶子さんが「思う」で言いたかったのは、
「自分が思う以外に、他の誰も自分の代わりに思うことはできない」(p6)
ということだと思います。
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(中略)つまらないことをつまらないと思っているのは、やっぱりどこまでも君だよね。君につまらないことをする親や友だちも、君の代わりにそう思うことはできないよね。だとすると、いいかい、これを逆からいうと、彼らではない君は、自分で思うことができるということだ。「自分で思う」ことができるということだ。(「できる」に傍点)それなら君は、つまらないことをつまらないと思わないこともできるはずじゃないだろうか。(「できる」に傍点)
 もちろん、実際にそれができるようになるのはとても大変なことだ。でも、思っているのはいつでも自分だって、一番肝心なことを忘れずにいるなら、いつかきっとできるようになるはずだ。そうなった時は、きっとこう思うだろう。生きていることはつまらないって、ただ自分でそう思ってたにすぎないって。(p7)
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「自由に考える」ことについて。
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彼女は、「自由に考える」ことをめぐって、こう記しています。

 正しい定規はどこだろうってあれこれ探して回っているうちは、それは見つからない。考えることこそが、全世界を計る正しい定規になるのだとわかった時に、君は自由に考え始めることになるんだ。こんな自由って、他にあるだろうか。

 真の意味で自由であるために私たちが、まず、行わなくてはならないことは、自分を計る「定規」を手放すことだというのです。計測できるのは、量的なものです。自由はいつでも質的です。それを計ることはできません。しかし、現代に生きる私たちは、知らないうちに自分を「世の中」という定規に合わせがちなのではないかと池田は問うのです。
(100分de名著 テキストp85-86)
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量的なものと質的なものを比較しているわけではないと思います。
また、「定規」は量的なものを計るもののたとえとして使ってはいない。
池田晶子さんは「考えることこそが、全世界を計る正しい定規になる」
と書いていますが、考えることで絶対的な尺度を自らの中に見出し、
それを「正しい定規」と言っているのだと思います。

若松さんは、「彼女のいう『自由』とは、文字どおり『自ら』に『由る』ことです」
と書いていますが、「由る」ところの「自ら」が「定規」なのではないかと思います。

池田晶子さんは別の箇所で、こう記しています。
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自分の存在は他人の存在に少しも依ってはないないのだから、その意味で、自分というのは絶対的な存在なんだ。
(中略)
 自分が絶対的であるというのは、考えているのは自分だし、見ているのも自分である、自分でないものが考えたり見たりしているということはありえない、そういう意味で絶対的だということだ。この自分を「大きい方の自分」と呼ぶことにしよう。中学三年生の君は「小さい方の自分」だ。これ以後の「自分」はすべて「大きい方の自分」の意味だ。
 君は驚くと思うけど、この意味で、「世界」つまりすべてのことは、この大きい自分の存在に依っている。自分が存在しなければ、世界は存在しないんだ。自分が存在するということが、世界が存在するということなんだ。世界が存在するから自分が存在するんじゃない。世界は、それを見て、それを考えている自分において存在しているんだ。つまり、自分が、世界なんだ。(「自分において」に傍点)(p66-67)
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「全世界を計る正しい定規」は、「大きい方の自分」というものに気づけば、
自らの中に在るものとして在る、ということに気づくはずです。

コメント(1)

若松英輔さんは『14歳の教室』という本を出されていますが、
100分de名著のテキストの元としたものと思われます。
この本を読み、今回の放送について思ったこと。

池田晶子さんが書いたのには、
読者、言葉を受け取る側に
気づき(「わかる」という経験)を促すという目的があったのですが、

トピック「「しめた!」のその理由、そしてそれについての考えと行為。」参照
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=29345&id=50733945

でも気づく読者というのはごく一部でしかない。(その1人が陸田真志)
この「わかる」という経験は、自分が在る、世界が在る、ということについて、
自覚して考え始める14歳くらいが、経験しやすいとは言わないまでも、
その方向に導くことができるのではないか、という思惑があったのだと思います。

大雑把な推測でしかないですが、
『14歳からの哲学』は、存在の、宇宙の、精神の「形式」を書いている。
人生経験が長くなると、そこに(自身の経験としての)内容を入れて読んでしまう。
「形式」がぼやけ、「内容」として受け取り、紹介するとき、内容込みで語ってしまう。
語りに自分語りが含まれるようになるのです。
14歳くらいだと、「形式」をそのまま読む、受け取ることができる。
ということなのではないかと思います。

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