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憂国の士コミュの西洋をおどろかせた日本の識字率

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日本の識字率は、数百年に亘って世界一を誇る。
江戸時代の幕末期においては、武士はほぼ100%読み書きができたという。
庶民層でも男子で49〜54%は読み書きができた。
同時代のイギリスでは下層庶民の場合、ロンドンでも字が読める子供は10%に満たなかった。

世界一の就学率、識字率
日本は世界一の識字率を誇る。
江戸時代の日本は、庶民の就学率、識字率はともに世界一だった。
嘉永年間(1850年頃)の江戸の就学率は70〜86%で、裏長屋に住む子供でも手習いへ行かない子供は男女ともほとんどいなかったという。
また、日本橋、赤坂、本郷などの地域では、男子よりも女子の修学数の方が多かったという記録もある。

もちろん、寺子屋は義務教育ではない。寺子屋制度は、庶民自身の主体的な熱意で自然発生した世界的にも稀有なものだった。当時の日本は、重要なことは役所や国がやるべきだなどという発想はなく、自分にとって重要であるならば、自分たちで自治的に運営するのが当たり前という感覚を持っていた。

これに対し、1837年当時のイギリスの大工業都市での就学率は、わずか20〜25%だった。
19世紀中頃の、イギリス最盛期のヴィクトリア時代でさえ、ロンドンの下層階級の識字率は10%程度だったという。
フランスでは1794年に初等教育の授業料が無料となったが、10〜16歳の就学率はわずか1.4%にすぎなかった。<『大江戸ボランティア事情』(石川英輔・田中優子著、講談社)より>

江戸時代の幕末期では、武士階級はほぼ100%が読み書きができたと考えられている。
町人ら庶民層でみた場合も、男子で49〜54%、女子では19〜21%という推定値が出されている。
江戸に限定すれば70〜80%、さらに江戸の中心部に限定すれば約90%が読み書きができたという。<『「奇跡」の日本史』(歴史の謎研究会編、青春出版社)より>

外国人たちを驚かせた識字率の高さ
多くの外国人が、日本人の識字率の高さに驚嘆し、記録を残している。

1853(嘉永3)年に黒船を率いてアメリカからやって来たペリー提督は、日記(『日本遠征記』)に日本について「読み書きが普及していて、見聞を得ることに熱心である」と記している。
ペリーは日本の田舎にまでも本屋があることや、日本人の本好きと識字率の高さに驚いた。
<『日本絶賛語録』(村岡正明著、小学館)より>

また、1860(万延元)年に日本との間に通商条約を結ぶために来日したプロイセン海軍のラインホルト・ヴェルナー(エルベ号艦長)は、航海記で次のように述べた。
「子供の就学年齢はおそく7歳あるいは8歳だが、彼らはそれだけますます迅速に学習する。民衆の学校教育は、中国よりも普及している。
中国では民衆の中でほとんどの場合、男子だけが就学しているのと違い、日本ではたしかに学校といっても中国同様私立校しかないものの、女子も学んでいる。日本では、召使い女がたがいに親しい友達に手紙を書くために、余暇を利用し、ボロをまとった肉体労働者でも、読み書きができることでわれわれを驚かす。民衆教育についてわれわれが観察したところによれば、読み書きが全然できない文盲は、全体の1%にすぎない。世界の他のどこの国が、自国についてこのようなことを主張できようか?」<『エルベ号艦長幕末記』(ラインホルト・ヴェルナー著、新人物往来社)より>

1861(文久元)年に函館のロシア領事館付主任司祭として来日したロシア正教会の宣教師、ニコライは、8年間日本に滞在した。そして、帰国後に、ロシアの雑誌『ロシア報知』に次のような日本の印象を紹介した。
「国民の全階層にほとんど同程度にむらなく教育がゆきわたっている。この国では孔子が学問知識のアルファかオメガであるということになっている。だが、その孔子は、学問のある日本人は一字一句まで暗記しているものなのであり、最も身分の低い庶民でさえ、かなりよく知っているのである。(中略)どんな辺鄙な寒村へ行っても、頼朝、義経、楠正成等々の歴史上の人物を知らなかったり、江戸や都その他のおもだった土地が自分の村の北の方角にあるのか西の方角にあるのか知らないような、それほどの無知な者に出会うことはない。(中略)読み書きができて本を読む人間の数においては、日本はヨーロッパ西部諸国のどの国にもひけをとらない。日本人は文字を習うに真に熱心である」<『ニコライの見た幕末日本』(ニコライ著、講談社学術文庫)より>

トロイアの遺跡発掘で有名なドイツのシュリーマンは、1865(慶応元)年に日本を訪れた時の印象を、著書で次のように記した。「教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。シナをも含めてアジアの他の国では女たちが完全な無知の中に放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる」<『シュリーマン旅行記 清国・日本』(ハインリッヒ・シュリーマン著、講談社学術文庫)より>

1908(明治41)年、日本人781人が初めてブラジルへ移住を始めた。同年6月25日、『コレイオ・パウリスターノ』紙のソブラード記者は、ブラジルにやってきた日本人の様子をまとめたレポートを新聞で紹介した。記事の中で、ソブラード記者は、驚くべき清潔さと規律正しさや、物を盗まないこと等とともに、日本人の識字率の高さについて、「移民781名中、読み書きできる者532名あり、総数の6割8分を示し、249名は無学だと称するが、全く文字を解せぬというのではなく、多少の読書力を持っているので、結局真の文盲者は1割にも達していない」と報じた。<『蒼氓の92年 ブラジル移民の記録』(内山勝男著、東京新聞出版局)より>

日本語の存続を守った圧倒的な識字率の高さ
1945(昭和20)年、大東亜戦争に敗れた日本は、母国語を失いかねない危機に見舞われた。
戦争中、玉砕するまで戦い抜いた日本人を見たアメリカ人は、「日本人は間違った情報を伝えられていて、正しい情報を得ていないに違いない。なぜなら、新聞などがあのように難しい漢字を使って書いてある。あれが民衆に読めるはずはない。事実を知らないから、あんな死に物狂いの戦い方をするのだ。だから、日本に民主主義を行き渡らせるには、情報をきちんと与えなければいけない。そのためには漢字という悪魔の文字を使わせておいてはいけない」と考えた。<『日本語の教室』(大野晋 岩波新書)より>

日本語の改革を初めに提起したのは、GHQの民間情報教育局(CIE)のキング・ホール少佐だった。彼は、「漢字はエリートと大衆の調整弁であり、漢字の持つ特異性によって情報はコントロールされ、民主主義は広がらない」と考えていた。
朝日新聞社などの新聞社も「漢字を廃止してローマ字に」と唱えた。当時の新聞は活版印刷で、かなや漢字の活字をひとつずつ埋め込んでいく作業量が多く、コスト削減のために少ない数で済むアルファベットを採用したかったからだ。また、戦前から存在した日本語をかな文字やローマ字にしようと考える勢力もこの動きに呼応し、日本語は危機を迎えた。「フランス語を日本の公用語にせよ」という暴論まで日本人作家からとびだした。

1946(昭和21)年3月、マッカーサーの要請により、アメリカ教育使節団が来日した。
使節団はアメリカの教育制度の専門家27人だったが、日本の歴史文化に精通していたわけではなかった。25日ほどで日本を視察し、報告書で「日本語は漢字やかなを使わず、ローマ字にせよ」と勧告した。「ローマ字による表記は、識字率を高めるので、民主主義を増進できる」というのが、彼らの考えだった。

1948年8月、CIEは「日本語のローマ字化」を実行するにあたり、日本人がどれくらい漢字の読み書きができるか調査を行なった。調査地点は270ヶ所の全国の市町村で、15歳〜64歳の1万7千百人が調査対象になった。調査対象となれば、炭焼きのお婆さんでもジープで連れ出して日本語のテストをさせたという。
調査の結果、テストの平均点は78.3点で、日本人は97.9%という高い識字率を誇っていることが判明した。テストで満点を取った者は4.4%で、ケアレスミスで間違えたのではないかという者で満点と認めてもよいという者が1.8%いた。合計すると6.2%(約500万人)が満点という好成績だった。

CIEはこの結果に驚き、日本の教育水準の高さに感嘆し、「日本人の識字率の高さが証明された」との判断が大勢を占めた。CIEの教育・宗教課長だったハロルド・ヘンダーソンは日本の禅や詩歌を愛する知日家で、ローマ字化推進論者のホール少佐の意見を抑えた。ホールがヘンダーソンの後継者として課長になると見られていたが、他のポストに移され、日本語のローマ字化の企みは潰えた。「アメリカ教育使節団報告書」は、教育勅語の廃止、六三制義務教育、PTA導入、教員組合の組織の自由などを勧告した。
戦後の日本の教育はこの勧告に基づいて行なわれていったが、唯一、実現されなかったのが「日本語のローマ字化」だった。圧倒的な識字率の高さが母国語の存続を守ったのである。<『国語施策百年史』(文化庁、ぎょうせい)より>



おしまい

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