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憂国の士コミュのチベットを売る

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二千年も前のコロッセオがローマに鎮座する。

古きよきものを大事にしてきたとイタリア人は胸を張り、日本人はそれを見習わなくては、なんてその昔によく言われた。

でもコロッセオもカラカラ帝の大浴場も本当はもっとちゃんとした形で残っていた。それを例えばフランス王がランス寺院を建てる時には大理石の壁を売り払っている。

よさそうなものは取り尽くし、今残っているのはその滓でしかない。つまりイタリア人は自分で言うほど立派ではなかった。

性根も同じ。先の大戦で負けが見えたら、あれほど支持してきたムッソリーニを逆さに吊るして連合国軍に寝返った。

日本が降伏したときはちゃっかり連合国軍側に名を連ねて、日本から戦勝国面して賠償金百二十万ドルを取っていた。

昨日まで枢軸国だったのに。百歩譲って連合軍に与したとして、日本と戦ったわけでもなし。一体何を根拠に賠償請求したのか。京産大教授のロマーノ・ベルビッタ氏に聞いたことがある。

彼はその根拠について明言は避けたが、ただ「ムッソリーニを倒して連合軍と共に日独に対し祖国解放戦争を戦った」という形にはなっているという。戦ったかどうかは問題ではないのだと。

では実際に解放戦争を戦ったドイツからはいくら賠償を取ったのか。

答えは「一銭も取ってはいない」だった。日本からは取ったのに、その対応の差は何か。

イタリア人は言葉を濁すが、平たく言えばイタリアとドイツはお隣同士。付き合いは長く、おまけにドイツはやたら強い。

イタリアがちょっと有利だからと、いい気になれば酷いしっぺ返しを食うことは歴史が教えている。一方の非白人国・日本は何をしようと仕返しはできない。やれば他の白人国家が黙っていない。だから取れるだけは取った、というところだろう。

ここで独伊はお隣と書いたが、正確には間にスイスを挟む。

永世中立国で、戦乱から超然とした存在。映画「サウンド・オブ・ミュージック」ではジュリー・アンドリュースとトラップ一家がナチの魔手を逃れて落ち行く先がここになる。

実はムッソリーニが倒されたとき、ラケーレ夫人と子どもたちも同じようにスイス国境を目指した。

しかし現実のスイスは映画とは違った。ラケーレ夫人らは入国を拒否され、彼女らはらは狂気のパルチザンの手に落ちてしまう。

「スイスは人道を選ばない。スイスは常に勝利者の味方を選ぶ」と、これはイタリア人の評価だ。

スイスも見かけと違ってイタリア以上にえげつない生き方をしている。実際、対日賠償交渉ではイタリアの後ろに並んで戦勝国並みの大層な賠償額を取り立てている。

スイスの銀行は「国際紛争に晒されない」という売りに加え「顧客情報は絶対に漏れない」スイス銀行法もあって、先の大戦ではナチから逃れるユダヤ人が資産を集中的に預けた。

しかし、その多くはホロコーストの犠牲になる。戦後、身内が預けた資産を調べようとするが、ここでスイス銀行法が逆に立ちはだかった。

分かり易く言えばユダヤ人資産の多くはネコババされ放題だった。

さすがにこれは国際批判を呼び、九〇年代、米政府の介入でスイスもやっとユダヤ人資産の調査と返還に応じるようになった。

これはごく例外で、金正日の隠し口座だろうと犯罪組織の汚い金だろうと、各国政府からの開示要求には一切応えていない。

ただスイスが儲かるときはこの限りではない。ヤミ金融の五菱会が五十八億円の上がりをスイス銀行に預けていたことを知るとスイスは「資金洗浄」と決めつけ全額没収した。

日本側がそれは阿漕過ぎると交渉して返してもらったのはやっと半分。スイスはヤミ金の上を行く。

それでもスイスやイタリアはまだ可愛い方で、英国は支那があり余ったドルで経済危機を救ってくれる条件で「支那のチベット領有」を公式に認めた。紳士の国でも貧すれば堂々と鈍して、かつ恥じないところが凄い。

(週刊新潮 2009年1月22日号 「変見自在」 高山正之著)

コメント(6)

【必読日記】

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1589702463&owner_id=16182364&comment_count=56<日本がチベットにならないという確証を教えてください。>
【日本がチベットにならないという確証を教えてください】

中国は日本に謝罪と賠償要求
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1353084&media_id=2

戦争になるよりマシと大人の対応を歓迎している人達へ。

大人の対応をした結果どうなったか胸に刻み近い将来、自分がこの結果を招いてしまった事を悔やんで欲しい。

その時もまだお花畑に「私の知ってる中国人はいい人ばかりだから大丈夫」と言うのだろうか。

中華人民共和国

1949年 東トルキスタン侵略、占領(ウイグル大虐殺)、民族浄化継続中
・「計画生育」と言う名目で850万人の赤ちゃんを強制中絶
・中国共産党の50回の核実験によって75万人が放射能中毒で死亡
・「政治犯」として50万人が処刑
1950年 大躍進、文化大革命3000万人大虐殺開始
1950年 朝鮮戦争参戦
1951年 チベット侵略、占領(チベット大虐殺)、民族浄化継続中 チベットの人口の5分の1、120万人が犠牲
1959年 インド侵略(中印戦争)アクサイチン地方を占領
1969年 珍宝島領有権問題でソ連と武力衝突
1973年 中国軍艦が佐渡島に接近、ミサイル試射
1974年 ベトナム、パラセル諸島(西沙諸島)を軍事侵略、占領
1976年 カンボジア、クメール・ルージュによる大虐殺(120万人〜170万人)と推計を強力支援
1979年 ベトナム侵略(中越戦争)、中国が懲罰戦争と表明
1988年 スプラトリー諸島(南沙諸島)を軍事侵略、占領
1989年 天安門事件 数百人という説から2千人、4千人という説の犠牲者
1992年 南沙諸島と西沙諸島の全てが中国領土と宣言
1995年 フィリピンのミスチーフ環礁を軍事侵略、占領
1996年 台湾総統選挙恫喝、台湾沖にミサイル攻撃
1997年 フィリピンのスカーボロ環礁の領有を宣言
1997年 日本の尖閣諸島の領有を宣言
2003年 スーダンのダルフール大虐殺を強力支援 虐殺で約20万の非アラブ系民族が犠牲250万人が難民
2005年 日本EEZ内のガス資源を盗掘

現在 尖閣諸島、沖縄は中国の領土と主張

今回の政府の対応が戦争を招いてしまう行為という事を、肝に銘じて下さい。

ここに中国海軍の3隻のミサイルフリゲート艦によって非武装のベトナム兵士が一方的に虐殺される動画があります。

中国海軍の犯罪の証拠 : チュオンサ諸島における惨殺


http://www.youtube.com/watch?v=Gz_mo9lhe0E
(虐殺は5分58秒から始まります)

37mmの対空機関銃と、100mmの艦砲射撃で一方的な攻撃を受けております。この攻撃で64名の兵士が亡くなられたそうです。

中国のほか、フィリピン、ベトナムなどが領有権を主張する南シナ海の南沙諸島(スプラトリー)で、こうして中国の実効支配が進んでいます。
2の続き)

それでも大人の対応を歓迎している人達へ。
日本がチベットにならないという確証を教えて下さい。

「彼らは銃殺されたばかりでなく、死ぬまで鞭打たれたり、はりつけにされたり、生きながら焼かれた。溺死させられたり、生きたまま解剖されたり、餓死されたものもあった。絞め殺されたり、首をつって殺されたり、熱湯によるやけどで殺された。また、あるものは生き埋めにされたり、はらわたを取り除かれたり、首をきられたりして殺された。こうした殺人行為はいずれも公衆の面前でなされた。村人たちはそれを見物するように強制された。自分の家族のものが強制されて見ているその目の前で、ゆっくりと殺されていったのである。さらに小さな子供たちは、その両親を射殺するように強制された」



チベットへの侵略と虐殺
http://dadao.kt.fc2.com/fanzui03.htm

■有史以来一貫して独立国であったチベット
 
チベットには約2100年の歴史がある。とはいえ始めの数百年は神話と史実の境界が曖昧なので、チベットの歴史はソンツェン・ガンポが仏教に基礎をおく王国を築いた7世紀から語られることが一般的である。中国では唐王朝が栄えた時代だ。

あろうことか中国では唐代よりチベットは中国の一部分であったという、それこそチベットの全歴史を否定するような歪曲を行っているが、西暦763年にチベットは唐の首都長安を占領し、一時的に唐はチベットの朝貢国になったこともある。
 
今日まで続くダライラマ制度は17世紀に始まったもので、それ以来ダライラマは転生を繰り返して現在では14世に至っている。一般的な歴史観ではチベットは1727年に清朝の支配下に入ったとされる。しかし実際にはラサに駐蔵大臣2人を置いていただけで、現代で言う大使館を開設していたに過ぎない。

チベットは英領インドと国境条約を結ぶなど一貫して独立国家として主権を行使してきた。20世紀前半当時、チベットは日本、中国、タイと並んで欧米の植民地化を免れたアジアでも数少ない独立国家のひとつであった。

■中国共産党のチベット侵略戦争
 
1950年10月7日、中共軍がチベット東部へと侵略戦争を開始した。チベット国境警備隊と現地の義勇軍が抵抗したものの、武器・人員ともに圧倒的な中共軍を相手に退却を余儀なくされた。
 
そもそも中共軍は100万の軍勢を有している一方で、チベット軍は8500人に過ぎない。始めから軍事力による勝敗は見えていた。1951年5月、北京でチベットと中国との交渉が行われた。

チベットから北京に派遣された代表2人は交渉に赴いただけで、チベット政府から条約を締結する権利を与えられていなかった。だが中共の脅迫により強引に署名させられてしまった。こうして1951年5月23日、チベットの平和解放に関する十七か条協定が締結された。
3の続き)

■チベットが中華人民共和国の支配下に入ると早速チベット人と中国人の摩擦が激化した。当時人口7万人のラサに2万人以上の人民解放軍が進駐し、ラサ市民は住宅と食料の提供を強制され、瞬く間に食糧難と猛烈なインフレがラサを直撃した。

チベットと中国を結ぶ道路建設には大量のチベット人が無報酬で強制労働をさせられ、数千人の命が奪われた。また、中国共産党はチベットの青少年に、チベットの宗教、文化、習慣を侮辱し、共産党を賛美する教育を強制した。
 
チベット人の不満が日増しに高まる中、ダライラマ法王は1954年、北京を訪問し、毛沢東、周恩来、劉少奇、朱徳らと会談した。このときダライラマ法王は一筋の希望を見出し、中国との協調も本気で考えるようになったという。だがその後にチベットでは、人類がかつて経験したことがないような悲劇に直面するようになる。

■チベットへの弾圧強化

中国共産党の悪政、度重なる条約違反にチベット人の怒りは頂点に達していた。1958年以降、東チベットではカンパ族を中心に反乱が続発、これに対し中共軍は見せしめのため、何千という寺院や町を砲撃や爆撃で破壊、寺院の仏像や経典を容赦なく略奪した。東チベットのいたるところで中共軍による虐殺が行われた。以下に『中国はいかにチベットを侵略したか』から引用しよう。

「妻、娘、尼僧たちは繰り返し強姦されまくった。特に尊敬されている僧たちは狙いうちにされ、尼僧と性交を強いられたりもした。ある僧院は馬小屋にされ、僧たちはそこに連行されてきた売春婦との性交を強いられた。拒否した僧のあるものは腕を叩き切られ、「仏陀に腕を返してもらえ」と嘲笑された。

大勢のチベット人は、手足を切断され、首を切り落とされ、焼かれ、熱湯を浴びせられ、馬や車で引きずり殺されていった。アムドでは高僧たちが散々殴打されて穴に放り込まれ、村人はそのうえに小便をかけるように命じられた。

さらに高僧たちは「霊力で穴から飛び上がって見せろ」と中共兵に嘲られ、挙句に全員射殺された。おびえる子供たちの目の前で両親は頭をぶち抜かれ、大勢の少年少女が家から追われて中共の学校や孤児院に強制収容されていった。
 
貴重な仏像は冒涜され、その場で叩き壊されたり、中国本土へ持ち去られていったりした。経典類はトイレットペーパーにされた。僧院は馬や豚小屋にされるか、リタン僧院のように跡形もなく破壊されてしまった。リタン省長は村人の見守る中で拷問され、射殺された。

何千人もの村民は強制労働に駆り出されそのまま行方不明になっていった。僧院長たちは自分の糞便をむりやり食わされ、「仏陀はどうしたんだ?」と中共兵に嘲られた」
4の続き)

■ラサ動乱とダライラマ法王の亡命

1959年2月、中共はダライラマ法王を、3月10日に開催される観劇に招待した。その際、警備をつけないようにという注文をつけた。法王が拉致されるのではないかという不安が瞬く間にラサ市民の間に広がった。

1959年3月10日、3万人のラサ市民が市の中心部にあるノルブリンガ宮殿に集結、人々は口々に「チベットに独立を、中国人は帰れ」とシュプレヒコールを叫んだ。法王は観劇への出席を取りやめることにしたが、大群衆はノルブリンガを去らなかった。

これに対し中国共産党は軍を増強し、事態は一層緊迫の度を増した。3月16日、ダライラマ法王はついに決意して、一般庶民に変装してノルブリンガを脱出し、インドへ亡命した。

3月19日、ついに悲劇は起きた。中共軍はノルブリンガ宮殿に一斉に砲撃を開始。集中砲火は41時間継続し、宮殿は蜂の巣のように破壊され、何万人という民衆が虐殺されたのであった。

3月28日にはチベット政府が完全に解散させられ、チベット自治区準備委員会に統治されることとなったのである。(チベット自治区は1965年に発足した)

その後も中国共産党による残虐行為は絶え間なく続いた。1959年4月には「民主改革」運動が行われ、ありとあらゆるチベット人が摘発の対象となった。多くのチベット人が出頭を命ぜられ、投獄、殺害された。比較的軽いものでも数ヶ月間の洗脳教育を受けさせられた。以下はダライラマ法王が難民からの報告をもとにまとめたものである。

「彼らは銃殺されたばかりでなく、死ぬまで鞭打たれたり、はりつけにされたり、生きながら焼かれた。溺死させられたり、生きたまま解剖されたり、餓死されたものもあった。絞め殺されたり、首をつって殺されたり、熱湯によるやけどで殺された。また、あるものは生き埋めにされたり、はらわたを取り除かれたり、首をきられたりして殺された。こうした殺人行為はいずれも公衆の面前でなされた。村人たちはそれを見物するように強制された。自分の家族のものが強制されて見ているその目の前で、ゆっくりと殺されていったのである。さらに小さな子供たちは、その両親を射殺するように強制された」


■文化大革命

1966年5月にはチベットにも文化大革命の嵐が吹き荒れた。8月には紅衛兵の数は1万人に達し、最盛時には十数万に達した。紅衛兵は「四旧」を打破し、「四新」を建設しようというスローガンの名のもとに、数少なくなったチベットの寺院、文化施設を徹底的に破壊し、通りの名称を変更し、個人の家に入り込んで祭壇や民俗家具などをかたっぱしから壊しまわった。

民族衣装を着ることもペットを飼うことも屋上で香をたくことも、伝統の模様を描くことも全て禁止された。宗教文献、写本、彫像などはあとかたもなく破壊された。チベット語も弾圧の対象となり、会話以外ではありとあらゆるチベット語の書物、教科書、が廃棄された。チベット語で印刷されたものといえば毛沢東語録と共産党の宣伝文書ぐらいになってしまった。

全ての僧侶は「反動分子」として扱われ、罪名を書いた板を首かけられ、市内を引き回された。チベットのありとあらゆるものが破壊された大混乱の10年間であった。

■総括

1978年から始まった改革開放政策によって、中国共産党のチベットによる残虐行為は大幅に緩和された。しかし28年間にわたる中国共産党の支配は、2000年かけてチベット人が築き上げたものを根本から徹底的に破壊しつくしてしまった。

6000箇所以上あった寺院はことごとく破壊され、完全な破壊を免れたのは8箇所であった(それとて全く被害がなかったわけではない)。虐殺、戦闘、飢餓によって120万人のチベット人が命を失った。チベットの人口の5分の1に相当する。(中共侵略前のチベットは貧しくはあったが、その歴史において飢餓を経験したことがなかった)。
5の続き)

■今でも続く弾圧、文化破壊

改革開放以来、大規模な殺戮はなくなったし、仏教を信仰することも可能になったし、破壊された寺院の再建や修復も進んでいる。それでもチベット人に対する弾圧は依然として続いている。

1989年にはラサでチベット人による大規模なデモが行われ、これに対し中共軍が数百人のチベット人を虐殺している(そのときのチベット自治区の共産党書記は胡錦濤である)。

現在でも数千人が政治犯として収容されていると言われている。ダライラマの写真やチベットの国旗を所持しているだけですぐさま摘発の対象となるほど自由は制限されている。

ほかにも子供たちにダライラマ法王の写真を踏み絵さたり、中国共産党のイデオロギー教育を行うなど前近代的な植民地支配が継続されている。2006年10月にヒマラヤ山脈を越えてインドに亡命しようとしていたチベット人を人民解放軍が射殺した映像が世界に流れたのは記憶に新しい。

1995年には即位したばかりのパンチェンラマ11世を拉致監禁し、別のパンチェンラマをたてるという暴挙に出た。拉致されたゲンドゥン・チューキ・ニマ少年は当時6歳で、世界最年少の政治犯となった。ダライラマ法王は亡命から48年間、一度も祖国への帰還を果たしていない。

中国共産党は半世紀以上にわたる残虐行為を認めないどころか、「かつてのチベットは5%の僧侶及び貴族、地主が、95%の奴隷を搾取していたが、中国共産党がチベットを平和解放し、チベットに幸福を繁栄をもたらした」などというまるで幼児向けのアニメみたいなストーリーを「歴史」として宣伝しているのだから開いた口が塞がらない。当然ダライラマ14世のことは分裂主義者、仏教秩序の破壊者として悪者扱いである(ダライラマ14世は1989年にノーベル平和賞を受賞している)

近年特に深刻なのは大量の中国人がチベットに入植していることである。もともとチベットの一部分であった青海省は今や中国人が多数派となっている。チベット自治区では今でもチベット人が多数派であるが、2006年7月の鉄道開通によって今後は自治区内にも大量の中国人が入植することが予想される。

大規模な虐殺や破壊はなくなったが、今でも中国共産党によるチベット文化の破壊は着々と進んでいる。50年代から70年代にかけてチベット文化は徹底的に破壊されたが、さらに80年代にかけてチベットの中国化が強化されている。ラサ市街は今や社会主義国らしい地味な5階建てのコンクリート建築が並び、チベットらしさが失われてしまった。道路には北京路、福建路、解放路などの中国的な名称がつけられている。

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