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憂国の士コミュの「2月11日は、日本建国の日」

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マイミクのほそかわさんの日記からの転載です。

この日がもつ意味について非常に分かりやすくまとめてあります。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1410998737&owner_id=525191

「2月11日は、日本建国の日」

2月11日は現在、建国記念の日という祝日になっています。国民の祝日に関する法律(祝日法)では「建国をしのび、国を愛する心を養う」ことを趣旨としています。しかし、学校教育や新聞、マスコミなどの情報の中で、この日の意義は、ほとんど伝えられていません。
 2月11日は明治時代から昭和23年までは紀元節と呼ばれていました。紀元節が設けられたのは、明治維新の後のことです。幕末の日本は、西欧列強の植民地にされるおそれがあり、その危機感の中で、日本人は、新しい国民結集の政治体制をつくろうとしました。その方向性を決定づけたのが、慶応3年12月に出された「王政復古の大号令」でした。その中には、「諸事神武創業のはじめにもとづき……」という文言があります。初代・神武天皇の建国をモデルにすることが謳われ、新国家建設が進められたのです。

 神武天皇は、建国にあたり「八紘(はっこう)を掩(おお)ひて宇(いえ)と為(せ)む」つまり「天下に住むすべてのものが、一つ屋根の下に大家族のように仲良くくらせるようにする」という理念を掲げました。そして、奈良県の橿原の地で、天皇の御位におつきになったと『日本書紀』に記述されています。それは、「辛酉(かのととり)年春正月」の一日のことだといいます。この日を太陽暦に換算すると2月11日となります。そこで、明治6年に、2月11日が紀元節と定められたのです。「元」とは元始の義であり、また年号のことにも用います。そこで、日本の紀元の始まる日であるとして、紀元節と名づけたものでした。
 アメリカは独立後に独立記念日、フランスは革命後に革命記念日を設けました。これにならい、日本は明治維新後に紀元節が定められたのです。そこには、国の伝統、建国の理念を踏まえつつ、新しい近代国家を建設しようという志が込められています。
 こういう意義ある日ですので、明治憲法を発布する際にも、この日が選ばれました。帝国憲法は明治22年(1889)の2月11日に発布されたのです。国の初めの日に、新しい憲法を発布して、立派な国づくりをしようとしたわけです。

 戦前、紀元節は国民的な祝祭日として祝われ、「雲に聳(そび)ゆる高千穂の……」という『紀元節』の歌が小学校などで歌われました。
 ところが大東亜戦争の敗戦後、GHQはわが国の伝統を破壊しようとしました。占領軍の資料『降伏後における米国の初期対日方針』には、「日本国が再び米国の脅威となり、または、世界の平和および安全の脅威とならざることを確実にする」と、占領の目的が書かれています。すべて、この目的に沿って占領行政が行われました。
 独立国同士の関係にあって、未来永劫に決して脅威とならなくするためには、米国の属国状態に置かない限りあり得ないことです。GHQはまさにそれをめざしました。
 GHQは占領政策の一環として、昭和23年に祝祭日を変える方針を打ち出しました。これによって、紀元節はこの年をもって廃止されました。2月11日という日を否定することで、日本の神話、歴史、天皇と国民のつながりを破壊しようとしたのです。

 昭和26年、日本はサンフランシスコ講和条約を結びました。国の独立回復にあたり、わが国の伝統を保ちたいとする政府は、世論調査を実施しました。その結果、祝日に残したい日の第1位は正月、第2位は4月29日の昭和天皇誕生日でした。この日は当時、天長節と呼ばれていました。今は「みどりの日」と呼ばれています。そして、残してほしい祝日の第3位が2月11日でした。
 当時の吉田茂首相は、「紀元節の復活から手を付けていきたい」と国会で答弁しました。そして、昭和27年の主権回復以降、紀元節復活運動が行われました。法制化の努力が続けられた結果、昭和41年6月の国会で、ついに祝日法(国民の祝日に関する法律)の改正がなりました。この時、紀元節は、「建国記念の日」と名を変えて復活することになりました。昭和42年2月11日には、第1回の「建国記念の日」が祝われました。
 このように、建国記念の日は、敗戦後、日本人の努力で取り戻した日です。国民の努力によって、日本の歴史の原点を取り戻すことができたものです。

 戦後の日本は、6年8ヶ月に及ぶ占領が行われ、この間、日本弱体化政策が強行されました。昭和27年4月28日に主権を回復した後には、二つの動きがあります。一つは、占領軍の意志を引き継ぎ、日本の主権を制限されたままにし、固有の歴史観や国家観を否定しつづけようとする動きです。こちらは、「進歩的文化人」を代表とする近代化主義者や、社会主義者、共産主義者による動きです。これに対し、日本を再び独立自尊の国として立て直そうという動きもありました。その運動の代表的なものが、失われた2月11日を取り戻す努力、紀元節復活運動でした。担い手は、日本の伝統や文化を愛する人たちです。
 昭和42年に、「建国記念の日」が制定されて以降、昭和49年には元号法制化の運動が起こり、昭和53年に法制化がなりました。また、昭和50年には昭和天皇のご即位50年奉祝運動が行われました。昭和60年には同じくご即位60年奉祝運動が行われました。また、「日の丸」「君が代」の法制化運動も行われ、これは平成11年に国旗国歌法が制定に結実しました。このように、日本再建に向けての努力は、戦後ずっと続けられてきたのです。その努力のきっかけとなったのが、紀元節の復活運動であり、2月11日の意義を知ることは、日本の伝統と文化を理解することになるのです。

コメント(1)

http://sankei.jp.msn.com/life/education/080208/edc0802080317000-n1.htm


【正論】「建国の精神」に立ち返ろう 高崎経済大学教授・八木秀次 (1/3ページ)
2008.2.8 03:17

日本本来の高貴さ取り戻すために

 ≪7世紀末に「国のかたち」≫

 今、行われているアメリカ大統領選の予備選挙において、候補者たちが演説でワシントンやリンカーンなど「建国の父たち」に言及しているのを耳にすることがある。アメリカ人にとって「建国の精神」を確認するのが4年に1度の大統領選ということらしいが、国を挙げて「建国の精神」に立ち返る姿はうらやましくもある。

 どこの国もそうだが、「建国の精神」は何よりも重視されるものだ。自分たちの父祖はこのような理想の下に国を作り上げたのだ、ということを折に触れて確認し、また、そこに立ち返り、「建国の精神」の発展・延長の上に今日があるのだと納得するという具合だ。

 間もなく今年も2月11日の「建国記念の日」を迎えるが、わが国の場合の「建国の精神」とは何だろうか。『古事記』『日本書紀』の伝えるところによれば、神武天皇が橿原宮で即位されたことをもってわが国の建国とするが、独立宣言によってアメリカの「国のかたち」が確立したということができないのと同じように、日本の場合も神武天皇のご即位で完全に「国のかたち」が固まったとは言い難い。

 最近の研究によれば、対外的な危機を経て国家としての自立を示すために生み出された「日本」という国号や「天皇」という君主号が固まった天武天皇・持統天皇の時代、すなわち7世紀の終わり辺りに日本の「国のかたち」がようやく固まったと見るようだ。


 ≪「公共の精神」という概念≫

 では、そこで固まった「国のかたち」、言い換えれば「建国の精神」とは何だろうか。

 本居宣長が発見し、明治の帝国憲法を起草した井上毅が再発見した『古事記』の「出雲の国の国譲り」の神話に示される、天皇統治は個人や一族の利益のために行われるものではなく優れて公共性を帯びたものであることを明らかにした「しらす」という統治理念。

世界を家族的情愛でもって統治しようという神武天皇の「八紘一宇」の理想。豪族の私的支配を戒め、天皇を中心に国がまとまることを示した聖徳太子の十七条憲法。豪族のみならず皇族の土地まで没収した大化の改新から始まる「公地公民」。またそこにおける「天皇」という無私の地位…。

 これらから浮かび上がってくるのは「公共の精神」という概念である。

 私は最近、他を思いやり、自己犠牲をもいとわないわが国の国民性は、この建国の時代に固まった「国のかたち」のなし得るものであるという感を強くしている。

 武士が自らの特権を放棄して行った明治維新はまさに彼らの自己犠牲、「公共の精神」を重んずる姿勢によってこそなし得たものであったし、「版籍奉還」「廃藩置県」は明治版の「公地公民」と考えれば分かりやすい。

 沖縄のみならず大東亜戦争の末期に各地で起こった集団自決という悲劇もその精神の一つの表れであったろう。例えば映画『氷雪の門』が描いた樺太・真岡の電話交換手の女性9人がソ連軍の侵攻に際して集団自決した事件も、彼女たちが内地に引き揚げろとの軍の命令を拒否してまで職務を最後までまっとうしようという強い責任感の持ち主であったがゆえの悲劇だった。特攻隊の若者たちの気持ちも同じところにあっただろう。


 ≪自己犠牲をいとわない姿≫

 名越眞之氏の近著『品格ある日本人』(PHP研究所)に紹介されているものだが、昭和21年、食料が尽き、栄養失調になりながらもはうようにして屋久島永田岬の灯台の火を灯し続けた高橋義守さんという灯台守や、1992年、スペイン・バルセロナオリンピックのマラソンレースで後続のランナーがつまずかないようにと補給ドリンクの容器をわざわざ道からそれて脇に捨て、結果、8秒差で惜しくも銀メダルとなった有森裕子選手などなど、戦後においても他を思いやり、自己犠牲をいとわない日本人の姿はあちこちに見いだされる。

私たちが普段、意識せず行っている思考や行動、ここに私たちの国の建国以来の「国のかたち」が投影されているとは意外なことかもしれない。しかし、わが国の歴史を振り返ってみたとき、一貫して「公共の精神」を重んずる日本人の姿が浮かび上がってくるのだ。

 私たちは知らず知らずのうちに「公共の精神」を重んずるという「建国の精神」を今も生きている。そのことを「建国記念の日」に当たって自覚することは「溶け行く日本」を再生させ、本来の「高貴な日本」に戻るためにも必要なことだと思われるのだ。(やぎ ひでつぐ)

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