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憂国の士コミュの米国東亜侵略史 (大川周明著)

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 『米国東亜侵略史』


第一日目(昭和十六年十二月十四日放送)

ペリー来航


(日米戦争真箇の意味)

私は大正十四年、すなわち今から十六年以前に『亜細亜・欧羅巴・日本』と題する著書を公けにしております。この書物は百ページにも満たぬ小冊子でありますが、容量に似合わぬ数々の大なる目的をもって書かれたものであります。

目的の第一は、戦争の世界史的意義を闡名して、当時日本に跋扈していた平和論者の反省を求めるためでありました。目的の第二は、言葉の真箇の意味における世界史とは、東西両洋の対立・抗争・統一の歴史に外ならぬことを示すためにありました。その第三は、世界史を経緯し来たれる東洋並びに西洋の文化的特徴を彷彿させるためでありました。その第四は、このようにして全アジア主義に理論的根拠を与えるためでありました。そして目的の第五は、新しき世界の実現のために東西戦の遂に避けがたき運命なることを明らかにして、これに対する日本の荘厳なる使命を省みるためでありました。私はこの書の最後を次のように結んでおります。

「いま東洋と西洋とは、それぞれの路を往き尽くした。しかり、相離れては両ながら存続し難き点まで進みつくした。世界史は両者が相結ばねばならぬことを明示している。さりながらこの結合は、おそらく平和の間に行われることはあるまい。天国は常に剣影裡にある。東西両強国の生命を賭しての戦が、おそらく従来もそうであるように、新世界出現のために避けがたき運命である。

この論理は果然米国の日本に対する挑戦として現れた。亜細亜における唯一の強国は日本であり、欧羅巴を代表する最強国は米国である。この両国は故意か偶然か、一は太陽をもって、他は衆星をもって、それぞれの国の象徴としているがゆえに、その対立はあたかも白昼と暗夜との対立を意味するが如く見える。この両国は、ギリシャとペルシア、ローマとカルタガが戦わねばらなかったがごとく、相戦わねばならぬ運命にある。日本よ!一年の後か、十年の後か、または三十年の後か、それはただ天のみ知る。いつ何時、天は汝を喚んで戦いを命ずるかも知れぬ。寸時も油断なく用意せよ。

建国三千年、日本はただ外国より一切の文明を摂取したるのみにて、未だかつて世界史に積極的に貢献するところがなかった。この長き準備は、実に今日のためではなかったか。来るべき日米戦争における日本の勝利によって、暗黒の夜は去り、天つ日輝く世界が明けはじめねばならぬ」

私のこの立言は、十六年後の今日、まさしく事実となって現れたのであります。私は日米戦争の真箇の意味について、十六年前と毛頭変わらぬ考えを持っております。この戦争はもとより政府が宣言したように、直接には支那事変のために戦われるものに相違ありません。しかも支那事変の完遂は東亜新秩序実現のため、すなわち、亜細亜復興のためであります。亜細亜再復興は世界新秩序実現のため、すなわち人類のいっそう高き生活の実現のためであります。世界史はこの日米戦争なくしては、そして日米戦争における日本の勝利なくしては、決して新しき段階を上り得ないのであります。

それならば日本とアメリカ合衆国とは、いかにして相戦うに至ったか。太陽と星とは同時に輝くことができないのでありますが、いかにして星は沈み、太陽は昇る運命になってきたか。その経緯を探ることが、とりもなおさず私の講演の目的であります。そしてこの経緯を明らかにすることは、同時に我らの敵の本質を、その善悪両面について併せ知ることに役立つのであります。


(ペリー艦隊来る)

そもそも欧米列強の圧力が、にわかにわが国に加わってきたのは、およそ百五十年前からのことであります。ちょうどこの頃から、世界は白人の世界であるという自負心が昂まり、欧米以外の世界の事物は、要するに白人の利益のために造られているという思想を抱き、いわゆる文明の利器を提げて、欧米は東洋に殺到しはじめたのであります。

それにもかかわらず当時の日本は、多年にわたる鎖国政策のために、一般国民は日本の外に国あるを知らず、わずかに支那朝鮮の名前を知っているだけで、印度でさえもこれを天竺と呼んで、あたかも天空の上にあるかのように考えていたほど、海外の事情に無関心であったのであります。従って文化年中にロシア人が北海道に来て乱暴を働こうとしたことは、日本にとってまさに青天の霹靂であり、徳川幕府は甚だしく狼狽したのであります。幕府はとにもかくにもあらん限りの力を尽くして防備の方法を講じましたが、その後はしばらく影を見せなかったので、文化・天保年中になりますと、かえってその反動が起こり、海防のために力を注いだ松平楽翁公などを、臆病者と笑うような始末でありました。騒ぐときには血眼になって騒ぐが、止めればまるで忘れ果てて、外国船などは来ないもののように思う、これは今も昔も変わらぬ日本人の性分であります。そのような次第でその後数十年というものは、日本はある時は外国の侵略を恐れ、ある時は全く国難を忘れ去りながら、その日その日を過ごしてきたのであります。

ところが嘉永初年の頃から、長崎のオランダ人がしきりに徳川幕府に向かって、イギリス人・アメリカ人・ロシア人などが、日本に開港を迫ってくるから用心しなさいと注進してきたのであります。この注進によって幕府当路の人々や、一部のオランダ学者には、形勢が次第に切迫してきたことが知られておりましたが、その頃の政治と申せば、総じて何事も人民には知らせず、ただ由らしめるという方針であり、たとえ知らしめようと思ったところで、通信機関不備な時代でありましたから、国民は無論のこと、役人の大部分さえ世界の形勢について無知識であったのであります。

もっとも幕府は、もし外国船が近海に現れた場合は「二念なく打ち払え」という命令を下してはいました。しかしいくら「打ち払え」と言われても、遠方に弾の届く大砲もなく、鎖国以来巨船建造を禁じられて、一隻んも千石積の船さえもない状態であったのであります。

日本国内がこのような状態にありましたとき、かねてからオランダ人が注進していた通り、日本に向かって開国を要求する外国軍艦が、堂々と名乗りを挙げて江戸に間近き浦賀湾に乗り込み、通商開港の条約締結を求めてきたのであります。それは言うまでもなくペリーに率いられたアメリカ艦隊で、時は嘉永六年陰暦六月三日、暑い盛りの真夏のことで、今から数えて九十八年前、西暦一八五三年に当たります。

先程申し上げた通り、この時より五十年前から、外国船がしばしば日本近海に出没しましたけれど、その立ち寄ったのは皆江戸から申せば辺鄙の土地であります。従って若干の先覚者は夙に鬱勃たる憂国の心を抱いておりましたけれど、国民一般は風する馬牛であったのであります。ところがこの度のアメリカ艦隊に至ってはその碇を泊せるところは日本国の玄関であり、その求むる所は、条約の締結でありますから、ロシアの軍艦が蝦夷の片隅に立ち寄ったのとは、その人心に与えた影響は到底同日の談でなかったのであります。

浦賀奉行は、ペリー来朝の趣旨が、アメリカの国書を奉呈し、通商和親を求めるにあるということを聴き、日本の国法を説明して、浦賀では国書を受け取り兼ねるから、直ちに長崎に回航するように申しましたが、ペリーは頑として耳を貸さず、武力に訴えても目的を遂げねば止まぬ意気込みを示しました。その上、アメリカの水兵は、勝手に浦賀湾内を測量し始めたので、日本の法律はそのようなことを断じて許さぬと抗議しましたが、ペリーは、自分はアメリカの国法に従うだけで、日本の国法などは一向に存じ申さぬと空嘯く始末であったのであります。


(江戸幕府周章狼狽)

浦賀奉行の急報に接した江戸幕府の周章狼狽は、まことに目も当てられぬ次第でありました。あくまでも国法を守ろうとすれば、すなわち戦争の火蓋が切られて、江戸湾は封鎖される。そうすれば鉄道も荷馬車もないその頃の日本で、江戸に物資を運ぶたった一つの路であった海上交通が断たれてしまう。江戸十万の市民は日ならずして飢えに迫る。そうすれば既に動揺しかけていた徳川幕府の礎はいよいよ危険になって来る。仮に幕府はどうなってもよいとしても、何ら防戦の準備なくしてアメリカと戦端を開くことは、日本の興廃に関する一大事となることを痛感したので、幕府は遂に久里浜に仮館を建て、六月九日ここでペリーからアメリカの国書を受け取り、返事は明年ということにして、一旦浦賀を引き上げさせたのであります。

おそらく幕府の役人のうちには、アメリカと申せば波濤万里の彼方である、往復にはまず二、三年もかかるであろう、そのうち何とか妙策もあるだろうと考えた者もあったでありましょうが、ペリーは決して浦賀を去って本国に帰ったのではなく、支那の上海に行っただけでありましたから、約束通り、翌嘉永七年正月早々、またもや浦賀に来た。しかも今度は進んで神奈川湾に投錨し、幕府に向かって厳重に確答を求めたので、やむなく幕府は横浜でペリーと談判を行い、遂に日本は長崎の他に下田・函館の二港を開く約束をしたのであります。

わずか百年前のことでありますが、当時の日本と今日の日本とを比べて見ますと、実に感慨無量であります。嘉永六年六月九日、いよいよペリーが久里浜に上陸するというので、アメリカ軍艦は砲門を開いて祝砲を放ちました。その殷々轟々たる響に驚いて、久里浜の漁民はすわ戦争だと仰天し、夜具包や仏壇などを背負い出して、山手の方に逃げ惑っております。

また久里浜の仮館では、ペリー一行に腰掛けさせる椅子が無いのに困り、色々知恵を絞った挙げ句に考えついたのが、葬式の時に坊さんが使う曲彔であります。それがよかろうというので、村役人・町役人に命じて寺々から曲碌を借り集めてみたものの、いずれも古色蒼然たるものばかりで、漆が剥げていたり脚が折れていたりしています。そこで大急ぎで朱塗りの剥げたものには紅殻を塗り、黒塗りの剥げたものには黒を塗り、毀れたところは釘で打ちつけなどしてようやく十脚だけ調えましたが、その中で一番綺麗なのが野比村の最宝寺の朱塗の曲彔でありましたので、浦賀奉行がこれに腰掛けることにしました。

それよりも情けなかったのは、ペリー艦隊が浦賀停泊中の日本側の警備であります。幕府は四人の大名にこの警備を命じたのでありますが、その方法は各大名が魚師から借り集めた漁船をもって、アメリカ軍艦を取り囲み、いわゆる八陣の備えを取っているのであります。八陣の備えと申すのは、三方から軍艦を取り巻き、陣鐘・陣太鼓を鳴らし、法螺貝を高らかに吹き立て、ちょうど鶏が羽を緊める様に、軍艦を羽がいじめにするのであります。それらの船には皆々沢山の旗・差物を立てているのでありますが、風が強く吹きはじめると旗や幟がはためいて、船の動揺が激しくなるので、急ぎこれを旗竿に巻き付け、船舷に横倒しにして縛り付けねばなりません。その上艦長は各藩の家老がこれを勤めましたが、波が荒くなると肝心の艦長がたちまち船に酔い、呻きながら号令をかけるので、何を言うのやら聴き取れぬ始末であります。そしてアメリカ人は軍艦の上からこの有様を望遠鏡で眺めていたのであります。この警備はペリーからの抗議で解くことになりましたが、実際は何の役にも立たなかったのであります。

この時の警備の実状を目撃した一人がこのように申しておりますー「この際にたとえ一片の風なく、十分に八陣の備えを完うしたるにもせよ、いざ戦争という場合においては、先方において仰々しく砲門を開き発砲するに及ばず、ただ軍艦をもって、取り巻きつつある百石積の運搬船または漁船の間を縦横に操縦し暴れ廻るにおいては、あたかも玩弄物の天神様を摺り鉢の中に入れこれを摺るがごとく、一瞬にして粉砕微塵となるや必せり。然るにペリーは十分にこの状態を知りつつ、心を和らげ温心もって応援を遂げしは、実に寛仁大度の器量あるものというべし」

さて、アメリカがいかなる経路を経て、日本に艦隊を派遣するに至ったかを述べる前に、まずペリーの人となりについて申し上げておかねばなりません。


(ペリーはなかなか立派な人物)

ペリーは一八五八(原文ママ)年に使命を果たして帰国してから、直ちに詳細なる報告を政府に提出しております。この報告は後に印刷に付せられ『一八五二・一八五三・一八五四年に行はれたる支那海及び日本へのアメリカ艦隊遠征顛末』という長い表題の本となっておりますが、実に四六倍版六百項の大冊で、遠征中にこれだけのものを書き上げるだけでも並々の仕事ではありません。それから報告中に現われたる彼の知識、彼の識見、注意の周到などによって判断すれば、疑いもなく彼は当時のアメリカ第一等の人物であります。子細にこの報告を読みますれば、我々は当時のアメリカの是非善悪を最も良く掴み得るように思われます。

ペリーは一八五二年十一月二十四日、ノーフォークを出発し、大西洋を横断して、十二月十一日、すなわち十八日目にマディラ島に達し、そこで越年して一八五三年一月十日、セント・ヘレナ島に寄港、一月二十四日、ケープタウンに到着し、二月三日にここを出帆して十八日にインド洋上のモーリシャス島に着いて十日間滞在、ついで三月十日にセイロン島、三月二十五日にシンガポール、四月七日に香港、五月八日に上海、五月二十六日那覇に着き、それから浦賀に参ったので、出帆してから約八ヶ月を費しております。これが当時、アメリカから東洋に参る普通の順路であったのであります。

ペリーはこの航海の途上において、欧羅巴諸国の数々の植民地に寄港したのでありますが、丹念にその植民政策を研究し、その非人道的なる点を指摘して、手酷き攻撃を加えております。とりわけ著しく目につくことは、イギリスに対する激しき反感であります。

セント・ヘレナに寄港中には、ナポレオンが幽閉されていた見すぼらしき家を訪ね、たとえ敵とは言え、古今の英雄にかくのごとき待遇をするとは何事ぞと義憤を洩らしております。当時イギリスは、ナポレオンが五年間も起臥していた家を、家賃を取って一人の百姓に貸し、その百姓はナポレオンの使用していた部屋の一つを厩(うまや)にしていたのであります。またイギリス植民地統合の残酷に対しても忌憚なく弾劾を加えております。

これを今日の英米関係に対比して見ますと、真に今昔の感に堪えないのでありますが、当時はアメリカがフランスの助力によって独立してから六十、七十年、イギリスと戦ってから三十、四十年経ったばかりで、今日とは事変わり、アメリカは大なる敵意と反戦とをイギリスに対して抱いていたのであります。ただし彼は、外国とりわけイギリスの侵略主義を非難すると同時に、正直に自国の非をも認め、我々もメキシコその他に対して道徳に背くようなことをやったが、これは国家の必要上止むを得ぬことであったと申しております。彼はそのメキシコ戦争においても、艦隊司令官として戦ったのであります。

ペリーは日本に参る前に、実に丹念に日本及び支那の事情を研究しております。従って日本に対しても相当に正しき認識をもっておりました。彼は日本人が高尚なる国民であること、これに対するにはあくまでも礼儀を守り、対等の国民として交渉せねばならぬことを知っていたのであります。

すなわち日本に対しては、オランダのごとき卑屈な態度を取ってはならぬし、またイギリスやロシアのごとき乱暴な態度を取ってもならぬ。どこまでも礼儀を尽くして交渉し、止むを得ぬ場合にのみ武力を行使するという覚悟で参ったのであります。ただし、日本を相手に戦争を開く意図はなく、従って果たして開港の目的を遂げ得るや否やを疑問としております。このことは一八五二年十二月十四日付けで、マディラ島から海軍長官に宛てた手紙の中に明記しております。ただしその場合は、日本の南方に横たわる島、すなわち小笠原島か琉球を占領すべしと建策しております。

このような次第で、ぺりーはなかなか立派な人物であり、こうした人物が艦隊司令官として日本に参ったことは、日米両国のために幸福であったと申さねばなりません。その上、アメリカ合衆国も当時は決して今日のように堕落した国家ではなかったのであります。アメリカ建国の理想は、なお未だ地を払わず、ワシントンの精神が国民の指導階級を支配していた時であります。もし今日の米国大統領ルーズベルト及び海軍長官ノックスがペリーのような魂をもっていたならば、もし彼らが道理と精神とを尚ぶことを知っているならば、もしアメリカがただ黄金と物質とを尚ぶ国に堕落していなかったならば、日本に対してこの度のような暴慢無礼の態度に出て、遂にかえって自ら墓穴を掘るような愚をあえてしなかったろうと存じます。

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