ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

憂国の士コミュの「燃えた証拠」

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
米国の詩人ロングフェローの息子チャールズが日本の遊びに来たのは、明治四年六月下旬だったと彼の「日本滞在記」にある。

その彼がデロング米国公使から「ミカドを見にいこう」と誘われる。デロングは実はハワイ王国の全権代表も兼ねていた。というより、このころ米国はとっくにハワイ王国の実権を握っていて、日本との通商条約も米公使が勝手に締結できたということだ。

で、公使がチャールズに与えた役割がハワイ王国外交部書記官。

彼らは調印のために馬車を連ねて皇居を訪れる。明治天皇が武家支配にとどめをさす廃藩置県の詔を出してちょうど一ヵ月という、まさに維新激動のさなかでのことだった。

明治天皇は一行を温かく迎え、随員に偽者が紛れているとも知らず親しくお言葉をかけ、条約の成立を喜ばれた。翌日には晩餐会にも臨まれている。

チャールズは拝謁した明治天皇について「卵型をした、そう利発そうでもない顔立ち」と評し、その身なりは「奇妙な帽子を頭にくくりつけ」「笑いをこらえるのに苦労した」と家族に書き送っている。

礼儀も知性もない若造を外交官に仕立てて日本政府を欺き、宮殿奥深くまで立ち入らせる。白人国家同士では考えられない無礼を働いたこのオランダ系公使は、もう一人の米国人を日本政府に口利きしている。

明治十三年から大正三年まで、実に三十四年間の長きにわたって外交の指南をしたお雇い外国人ヘンリー・デニソンがそれだ。この間にまさにデロングが押し付けた不平等条約の改正があり、日清戦争もあり、その付録で仏独露の三国干渉もあった。

デニソンがいったいどれほどの指南をしたか。例えば小泉八雲とか、JRのホテルチェーンに名を残すエドモンド・モレルとかほどには名前を知られていないところを見ると、長くいた割には大した功績はなかったと思われる。

ただ彼は不思議なところで不思議な行動をしたという記録はある。彼が最も活躍したのは日露戦争を終結させたポーツマス条約の時だ。

この戦争は文句なしに日本の勝ちだった。日本軍は明治三十八年三月の奉天会戦でロシア陸軍を撃破し、同五月には対馬沖でロシア艦隊のすべてを沈めた。

それを受けてニューヨーク・タイムズ紙は「制海権を握った日本は必要なら(サンクトペテルブルグを攻撃できる)バルト海に進出し、ロシアに向かう船を拿捕し、積荷を没収できる。いずれにせよ日本がウラジオストックを落としたときにロシアは降伏する」と書いている。

この記事が出て間もなく米大統領セオドア・ルーズベルトが日露の講和を仲介すると名乗り出た。

この男は日本に対し強い敵意をもっていた。日本が日清戦争の賠償金で英国に二隻の戦艦を発注したとき、海軍次官だった彼がその敵意をアルフレッド・マハンへの書簡で明確に表明している。

「その2隻が英国を離れる前に我々はハワイを併合し、ニカラグア(後のパナマ)運河を完成させ、十二隻の戦艦を造って半分は太平洋に配置すべきだ。私は日本の脅威を現実のものとして感じている」

この四年後に彼は大統領になるが、その思いを一層強めたと思えるのは、就任早々パナマ運河を着工し、ハワイ軍港を整備したことが証明している。

そんな男が日露の仲介の労を取ること自体おかしいが、当時から日本人はお人好しだった。別に忌避もしなかった。そういうとき「彼はヤバイ」と忠告する役がデニソンだが、彼は何も言わなかった。無能だったのか、無能を装ったのか。

ポーツマス会議の結果はルーズベルトの思い通りに、日本は一銭の賠償金も得られなかった。

この交渉の顛末をデニソンが記した資料を、後に外務官僚幣原喜重郎が見つける。幣原は彼にそれが欲しいというと「デニソンは謙遜してそれをストーブで燃やしてしまった」(幣原著「外交五十年」)

かくて日本人官僚がいかに馬鹿だったか、米国の大統領がいかに腹黒かったかを示す証拠が消えてなくなった。

==============================

高山正之著「異見自在」より

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

憂国の士 更新情報

憂国の士のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング