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映画を診る「シネマ特診外来」コミュの特大版・カナダ映画「みなさん、さようなら」

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【 末期がん老人の選択 安楽死で美意識貫く 】

「圭角」と呼ばれる生き方がある。

「円満」の言わば反対語にあたるもので、言動や性格において人と融和しない尖鋭さを言うものだ。

カナダ映画の『みなさん、さようなら。』は、末期がんに余命幾ばくもない状態におかれたひとりの男の死をめぐる映画。

家庭を顧みず、女ぐせが悪く、家族を泣かせた男。その困ったはずの夫であり親父(おやじ)の最期を見届けるために、不仲であった妻や子が集まってくる。こう書けばなにやら感動的なストーリーのようだが一筋縄ではいかない展開となる。

この親父が「圭角」の人であり、思想的な自らの姿勢をまっとうするためにいわゆる家庭人としての平穏な時間を捨てて生きた男で、すなわち本能のままに生きた人間なのである。

映画が進むうちに、倣岸不遜な男と思われたその男が望んだものが見えてくる。

それは我々がよく知っている日本人の美意識と何ら変わりない “見苦しくない死にざま”そのものである。

若いときからの友人たち、不仲であった子供たち、別れた妻。積年の恩讐(おんしゅう)を超えた部分で、彼は自分の人生への姿勢をいささかも抑制させずに死を迎える。

最期の日々だからといって突然悔い改めたりはしない。それは誉められはしないまでも、自分の人生をストレートに正直に生き抜いてきた実感があればこそであっただろう。

この映画の凄いのはラストで「安楽死」のテーマを確信犯的に突き付けてくるところだ。

彼は自分の死に立ち会って欲しかった人々と最期の数日を過ごし、「そろそろ行くよ」と宣言する。

その方法としてそれまでは鎮痛のために吸引していた麻薬を静脈内へ注射する。

呼吸を抑制する作用があるから安楽死としては妥当な選択である。案外に少量で効果は発現するのだが、立ち会った人の数だけ注射器を用意する。

このことは、この死が立ち会ったすべての人の総意であることを表わしている。

過去に我々が知る「安楽死」は痛みに耐えかねて選択されるものであった。

この映画の「安楽死」は自分の美意識が損なわれぬうちにと計画的に果たされたもので、これは世界で初めての描出であったと思う。

原題の「蛮人の侵略」とは好き放題に生きた自分のことを呼ぶアイロニーなのか、常に前を向いて死においても進取の気概を持とうとはしない人種(死を受容して忍耐のうちに死んでいく美学を尊ぶ我々のような人種のこと)を指しているのかは分からないが、見ていて胸は騒いだ。

万人に共通する切実なテーマを描いた『みなさん、さようなら。』は大変に腹の据わった覚悟を感じさせる傑作である。

(2004年5月24日掲載)

【 海外の医療事情 】
この映画ではカナダの医療事情を垣間見ることができます。父親が運ばれた病院は廊下にも点滴患者がひしめいている混雑ぶりで、いわゆる市立病院クラスの施設なのでしょう。

ポジトロンCT検査は半年待ちであったため、彼らは国境を越えてアメリカで検査を受けましたが、それだけで費用は数十万円。日本における健康保険制度は欧米にはなく、それに代わるものは個別の医療保険となりますが、掛け金が高いために払い続けられるひとは中流以上の経済的に限られた人々ばかりです。

大学の教授である父親は共済保険などの制度もあり医療費については負担金は比較的すくないのだろうと思われます。

【 なぜ病室を改装できたのか 】
しかしここで、読者の皆さんは患者が廊下で溢れかえっているのに、父親の病室として使用されたあの部屋と同じ階の病棟がいまは閉鎖されているということを疑問に思いませんでしたか? 

あの病棟は老朽化などで閉鎖されているのではありません。

日本において健康保険は出来高払い現物給付方式で、極論すれば医師が必要と判断すれば治療はいくらでも受けられます。これは裏返せば、やった数だけ診療報酬が受けられることであります。

検査、内服、注射などあらゆるものに同様に支払われるのです。医師や医療機関がきちんとした使命感と正義感がすべてに備わっているのなら問題はありませんが、「念のためにみてみましょう」という言葉のなかにはどのあたりが上限なのかは胸先三寸です。

それでは医療費の縮小は進められないと、大規模医療施設を中心に欧米でやられている方式が日本でも導入され始めました。

ご存知のようにいまや年金・医療・税収の3本柱が国民の未来を暗くさせている時代であり、医療費は由々しき問題です。欧米では健康保険がないかわりに、医療費はあらかじめ予算分配方式となっています。

例えばA市立病院はベッド数○○であるから年間予算★億円でいきなさい。そしてこの予算内で心筋梗塞200例、婦人科手術100例、胃がん手術100例、脳出血手術エトセトラ・エトセトラというように代表的疾患の手術例は何件とノルマが課せられます。

満足な治療という側面を果たしつつ、ノルマを果たしてさらに予算が残れば利益になりますが、そうはうまくいかないような設定になっています。

この映画に登場した公立病院は、このシステムに上手く対応できていなかったと思われます。ノルマを果たしたが、ベッド・コントロールなどで支出を制限できず、大幅に軌道修正の必要が生じた。そこで500床丸々抱えたままでは赤字が拡大するばかりだというので、病棟を部分的に、あるいはワン・フロアーごと休業させるのです。

ベッドがあるから入院をさせ続けるのだという判断です。もちろん人件費を抑える意味もあります。作物が取れすぎて価格が暴落するために生産調整することにどこか似ていますね。

【 意志をまえに無力な医師 】
緩和ケアとは根治治療は無理だが、痛みなどの苦しみは除いてあげようという治療です。

しかるにヘロインとモルヒネの合剤を売人から手に入れて病室で吸引するといった見過ごせない振舞いがあるものの、この病院では点滴をしてはいても積極的な対応はなんにもしていないようです。

なぜ父親は入院していたのでしょうか?これは初めてのターミナル・ケアに患者も患者の家族も慣れておらず、なにか急変したときの不安で入っていたのかもしれません。

日本では現在家庭で看取ることは極めて少数となっています。その理由の最たるものはマン・パワーの不足です。

ひとりの患者を家庭で診ていくためには3人は必要です。ゆえに介護保険が実施されて在宅でのフォロー・アップが急進的に進むかに期待されたのですが、いまや施設でのそれに希望が集中するのは費用的にも肉体的にも結局安いことが分かったからなのです。

日本では24時間以内に診察していなければ死亡診断書は書いてはいけないと法律で定められています。

ゆえにいよいよ危ないということになって、最後は入院しましょうという展開になるわけです。この映画の父親は持続点滴によって脱水などを起こさぬようにケアされていますが、最後の数日を心置けない家族や友人たちと過ごして例の計画を実行するためには退院しなくては叶いません。

この映画では病室回診に訪室した医師たちが患者の名前を間違えるほどにデクノボー扱いですが、いかに延命を図るかを使命とする医師の存在は覚悟を決めた彼らには邪魔者以外の何者でもありません。

【 もし○○だったら? 】
この映画では湯水のようにカネを使える状況と設定されているので成立した展開です。

皮肉屋のボクはいつも考えてしまうのです。『動乱』という映画では高倉健が娼妓であった吉永小百合を自殺から救い、妻に迎えます。旧友のM君が「あれが強烈なブスだったら、同じことしたでしょうかね」と言ったことが強く印象に残って以来、もし○○でなかったら?という設問を考える癖がつきました。

もし湯水のように遣う費用がなかったら?痛みを散らす治療を甘んじて受け容れるしかなく、父親の最期はとてつもなく暗く惨めなものになっていたことでしょう。

それだけでも、この映画がある種のファンタジーであると言われても仕方がない。

しかし、そういう設定を全否定してしまうのは余りに勿体無い。それだけ、きちんとした心情は表現されており、そういう余人とは違った人生を歩んだ男のあわれが出ている作品であったと思うからです。

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