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言語学コミュの言語はどんな矛盾を含んでいるか :  【4】 概念の持つ矛盾

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先に【1】〜【3】を提示しましたが本 Topi は、

三浦つとむ(『レーニンから疑え』芳賀書店,1964)の「4.概念の持つ矛盾」を話体にし適宜表記を改めたものです。原論文は同書を参照下さい。

言語は社会生活の必要に応じて人間のつくり出したものであり、人間以外のところから与えられたものではありません。しかもこの自然発生的な言語は極めて合理的な構造を持っています。対象の論理的な構造にしっかりと足を踏まえて、その上に立体的に組み立てられています。

人間を例にとると良くわかるように、個々の事物はそれぞれ特殊性を持っているし、あるものはその特殊性が絶えず変化しているにも関わらず、それと共にそこには普遍的・一般的なものがあることも否定できない事実です。特殊性が変化するのに対して、普遍性は一応固定的です。私たちの頭脳は、この一面を分離して取り上げます。個別的なものから特殊性を捨象して、普遍的・一般的な面を抽象します。特殊性は感性的な認識として捉えられるのですが、抽象によってそれを乗り越えた超感性的な認識が成立します。こうして概念と呼ばれる、謂わば【透明な認識】が形成されます。

事物が個別的でありかつ普遍的であるという理解のしかたは、何も目新しいものではありません。既にヘーゲルがこのことを説き、レーニンは『弁証法の諸問題によせて』で繰り返し、毛沢東の『矛盾論』も取り上げています。時枝誠記も、「普遍性と特殊性とは、両々相対立した形に於いて存在しているのではなく、一切の特殊的現象は、その中に同時に普遍相を持つということは、国語に於いてばかりでなく、一切の事物について云い得ることである。」と、日本語が特殊であって言語としての普遍性を完全にそなえていないとする小林英夫に反駁しています。これは矛盾論のいわば常識なのです。だが、問題はそれから先にあります。また、概念が抽象の産物であり、超感性的な認識であるという指摘にしても、何も目新しいものではありません。これも又、認識論のいわば常識なのです。ここまでは、ソ連の哲学の教科書にも、ソ連の心理学の教科書にも、チャンと記してあります。だが、問題はそれから先にあります。

個々の人間が人間という種類に属しているということ、即ち類的な存在であるということは、生きている限り変わることはありません。個別的であると同時に一般的でもあるという、この人間の持つ矛盾は、生きている限り止揚されることはありません。もしこの矛盾を消滅させようとして、個々の人間を破壊するならば、同時に一般的な側面も消え失せてしまいます。このような、個別と一般の矛盾とか、有限と無限との矛盾とかいう、客観的な矛盾の両側面は不可分であって、その一つの側面だけを現実に切り離すことは出来ません。矛盾論の教科書で説いている矛盾の解決というのは、絶えず闘争している矛盾の両側面があって、ついに一つの側面が他の側面を圧倒して矛盾を消滅さえ、かくして矛盾の解決がもたらされるというものです。例えばブルジョアジーとプロレタリアートとの闘争は、ブルジョアジーの敗北とプロレタリアートの勝利において、ブルジョアジーの消滅によって解決するのだというようなものです。しかし、個別と一般の矛盾は、現実に常に相伴っていて、この矛盾が実現していることそのことが解決なのです。教科書のそれとは異質なものだと言わなければなりません。この矛盾の違いは、いわゆる敵対的矛盾と非敵対的矛盾の違いです。毛沢東は、敵対ということを矛盾の闘争の一つの形態だと説明しましたが、これはレーニンが矛盾に於ける闘争は絶対的だと言った誤りを引き継いで、二つの矛盾の本質的な違いを見ようとせずに、その違いを単に闘争の形態として解釈したものです。これでは、ブルジョアジーとプロレタリアートが、労使協調ということでにこやかに手を握り合っている場合、その矛盾は敵対的矛盾ではなく非敵対的矛盾だということになってしまいます。

それでは、個別と一般の不可分な統一というこの矛盾を人間の頭の中で観念的に切り離して、一般性だけを概念として捉えた場合、そこにはもはや矛盾は存在しないのだろうか?
決してそうではありません。例を挙げましょう。上と下という事物の両側面は、家庭で使われている一枚の畳に於いても存在しています。これもまた不可分関係にあって、その一つの側面だけを現実に切り離すことは出来ません。畳の上側だけとか下側だけとかいうものは現実には存在しません。ただ私たちの頭の中で、畳の上側だけを観念的に切り離し、上側が綺麗だとか汚いとか問題に出来るだけです。ところがこの観念的に切り離した畳の上側は、それ自体同時に天井の下側に在るわけであって、上側が下側でもあるという直接の統一に私たちはぶつかることになります。天井からゴミが落ちて下の畳が汚くなったというように問題にしているのです。個別と一般という事物の両側面も、それが不可分関係にあるばかりでなく、その一般的な側面を抽象した場合にも、それ自体が同時に一つの個別的な存在でもあるという直接の統一に、即ちヘーゲルやマルクスが「同一性」と名付けている矛盾に、私たちはぶつかることになります。これは論理的に説明すると呑み込みにくいかも知れませんが、具体的にいうと、人間ばかりでなく猫も犬も鳥も木も花も山も川も、全てが類的な存在なのであるから、それぞれの一般的な側面を概念として捉えた場合に、それらの概念はいずれも個別的な存在として次々に成立していくということです。

【対象の一般的な側面を反映しながら、概念そのものの在り方は全て個別的なのであり、これが概念そのものの持つ一つの矛盾なのです】。

コメント(5)

現在の生成文法や認知言語学他にはこの矛盾の理解が根本的に欠落しています。■
そもそも概念とは何かという、ここで展開された内容が理解されていないのが現状です。■

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