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言語学コミュの言語を自然科学の産物と捉える言語科学の妄想

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藤本 幸治 
 「言語科学の今日的課題をめぐって」
https://core.ac.uk/download/pdf/229780828.pdf

に見る生成文法信仰の非科学性を明らかにしておきたい。

 「0:はじめに」で、「人間の言語にはどのような研究対象としての可能性が秘められていて,どのような可能なアプローチが存在するであろうか」と問い、「人間の言語の特徴を明示化することである」と述べている。そして、


 近代言語学,特に理論言語学を中心とする自然言語を自然科学の産物としてとらえ,科学的アプローチによって自然言語の本質を明らかにしようとするプログラムにおいては,他の自然科学と同様,これらの発見された規則体系を生み出す原理原則の説明が要求されている.//

と主張する。しかし、少し考えれば分かる通り、言語は生物である人間が発するもので、自然物を研究対象とする自然科学とは本質的に異なる対象であることは子供にでも理解できる事実である。

 この本質を捉えそこなっては、「人間の言語の特徴を明示化すること」など不可能であるのは火を見るより明らかであろう。この本質的な誤認を理解することなく、論者は

> ノーム・チョムスキーによって提唱された「生成文法理論」もまた,小言語学の中核的課題である第 1 次言語習得に関する問題の解決や,言語生成面における記述的規則体系の完成とその体系を可能にせしめている原理原則の発見に半世紀を注いできた.//

として、「自然言語を自然科学の産物としてとらえ」理論を展開してきた生成文法に疑問を呈することなく、信仰の域に達し、「本稿では,生成文法理論を元に,転移と局所条件,および句構成の観点から自然言語の解析法を見直し,言語研究における説明的妥当性と最適性についての問題を検証するとともに,言語研究の周辺領域も含めた理論言語学における今日的課題と新たな展開の可能性を示していきたい.//

とあらぬ妄想を発展させている。この生成文法の発想の誤りは既に70年代に次のように根本的な批判がなされている。


 〈情報科学〉は、タダモノ論的発想で、機械と人間とをいっしょくたにして論じている。どちらも〈入力情報〉を受けとって、それを変換し、〈出力情報〉として送り出すと説明する。変換機構がまだ明らかでないときには、これを〈暗箱〉(black box)として扱う。

 この発想は、人間のすべての〈情報〉活動に対して適用されるのであるから、子どもの言語能力の習得という事実に対しても、同じ発想が適用されることになり、親その他から子どもが受けとる音声言語が〈入力情報〉で、子どもが創造する音声言語が〈出力情報〉だということになる。機械自体が変換能力を持っているのと同じように、子どもという装置自体も(生れつき)言語習得能力を持っているはずであり、コンピュータに諸データを入れるとアウトプット側からどんな結果が現われるか、両者の関係を検討することで、コンピュータの能力・機構を論じるように、子どもが受けとる言語データと子どもが送り出す言語表現との関係を検討することによって、子どもという装置の能力・機構を調べることができるということになる。

 こういう話を聞かされると、〈情報科学〉をうのみにして信じている学者たちは別として、常識のある人びとは納得できないものを感じるにちがいない。機械と人間とは同じではないのに、その差異を無視しているのではないかというにちがいない。たしかにそうである。コンピュータは受動的で、人間がデータを入れてやったときだけそれを処理するが、人間の子どもは自分から能動的に現実を認識しにかかるのである。親から音声言語を与えられたとしても、それをただポカンとして受動的に耳で受けとっているわけではなく、それがいったいどういうことなのか、音声言語が与えられた条件ないし過程を能動的に理解しようとする。この、絶えず行われている能動的な現実認識と、そのいわば一つの特殊なありかたとしての与えられた言語に対する能動的な対応との存在を無視して、単なる言語データを〈入力情報〉と解釈するところに、〈情報科学〉的発想のふみはずしを見なければならないのである。〈情報科学〉はここでも、デュパンが引用したルソーのことばのように、「あるものを否定し、ないものを説明する」ことになった。人間の子どもの能動的な現実認識の存在を否定する結果として、それに代るべき何ものかを人間の子どもがが生れつき持っているものとして、ないものを説明しなければならなくなった。人間の認識の能動性は、想像というかたちをもとっている。友人を訪問するときに、電話をかけて在宅していることをたしかめれば、この言語データを媒介にして、自分が訪問したときに友人が家にいていっしょに話したり夕食をとったりするという未来のありかたを頭の中に描き、さらには電車やバスで行くときの時間や交通費までも予想して、それにもとづいて準備をととのえ行動にうつるのである。コンピュータに存在しないこの認識の能動的なありかたも、〈情報科学〉は人間という装置自体の生れつきの能力だと、アプリオリズムで解釈しなければならなくなった。

 チョムスキーの子どもの文法体系習得論も、〈構造科学〉の発想と本質的に同じである。子どもの受けとる言語データはきわめて少く、しかも断片的でしかないのに、それを数年間受けとっているうちに、きわめて高度に体系化された文法の表現を行うようになるという事実は、〈構造科学〉的発想からすれば、子どもという装置自体の生れつき持っている内部の機構がきわめて複雑多岐であって、はじめはわずかしか作動しなかったのがやがてフルに作動するようになるのだと、すべて内部構造のしからしむるところに理由づけなければならない。チョムスキーは、言語データから得られたあまり数多くない規則を脳中に貯えており、そしてそこから無限に多くの文を生成するという言語能力を人間の頭の中に想定した。この生成・変形の過程的構造を説明するために、頭の中に〈表題構造〉と〈深層構造〉とを区別し、この結合関係を規定する〈成分構造規則〉と〈変形規則〉を論じる。すべて文法のありかたを人間という装置の内部構造で説明しようというわけである。

 いま一度デュパンのいいかたを借りると、「物ごとをあまり近くに持ってくるために視覚を損じた」ということがある。ことわざにも「おか目八目」といわれている。言語の文法にしても、あまり小さな部分の変形を目の前に持ってこないで、遠くから大きなありかたを眺めたり、他の表現の文法的なものと比較したりするほうが、その本質をつかむのに有利だと考えなければならない。人間は言語表現だけを行っているわけではなく、演劇や長編漫画や映画なども創作している。これらの諸表現にも文法的なものが存在するが、それらも人間という装置の内部構造から説明するのかどうか、演劇の脚本や映画シナリオは言語表現であるから当然文法を持っているが、これらの創作の場合の〈深層構造〉と〈表層構造〉の関係はいったいどうなっているのか、チョムスキーをかついでいる人びとは答えなければならないはずである。

 この発想は、人間のすべての〈情報〉活動に対して適用されるのであるから、子どもの言語能力の習得という事実に対しても、同じ発想が適用されることになり、親その他から子どもが受けとる音声言語が〈入力情報〉で、子どもが創造する音声言語が〈出力情報〉だということになる。機械自体が変換能力を持っているのと同じように、子どもという装置自体も(生れつき)言語習得能力を持っているはずであり、コンピュータに諸データを入れるとアウトプット側からどんな結果が現われるか、両者の関係を検討することで、コンピュータの能力・機構を論じるように、子どもが受けとる言語データと子どもが送り出す言語表現との関係を検討することによって、子どもという装置の能力・機構を調べることができるということになる。

 こういう話を聞かされると、〈情報科学〉をうのみにして信じている学者たちは別として、常識のある人びとは納得できないものを感じるにちがいない。機械と人間とは同じではないのに、その差異を無視しているのではないかというにちがいない。たしかにそうである。コンピュータは受動的で、人間がデータを入れてやったときだけそれを処理するが、人間の子どもは自分から能動的に現実を認識しにかかるのである。親から音声言語を与えられたとしても、それをただポカンとして受動的に耳で受けとっているわけではなく、それがいったいどういうことなのか、音声言語が与えられた条件ないし過程を能動的に理解しようとする。この、絶えず行われている能動的な現実認識と、そのいわば一つの特殊なありかたとしての与えられた言語に対する能動的な対応との存在を無視して、単なる言語データを〈入力情報〉と解釈するところに、〈情報科学〉的発想のふみはずしを見なければならないのである。〈情報科学〉はここでも、デュパンが引用したルソーのことばのように、「あるものを否定し、ないものを説明する」ことになった。人間の子どもの能動的な現実認識の存在を否定する結果として、それに代るべき何ものかを人間の子どもがが生れつき持っているものとして、ないものを説明しなければならなくなった。人間の認識の能動性は、想像というかたちをもとっている。友人を訪問するときに、電話をかけて在宅していることをたしかめれば、この言語データを媒介にして、自分が訪問したときに友人が家にいていっしょに話したり夕食をとったりするという未来のありかたを頭の中に描き、さらには電車やバスで行くときの時間や交通費までも予想して、それにもとづいて準備をととのえ行動にうつるのである。コンピュータに存在しないこの認識の能動的なありかたも、〈情報科学〉は人間という装置自体の生れつきの能力だと、アプリオリズムで解釈しなければならなくなった。

 チョムスキーの子どもの文法体系習得論も、〈構造科学〉の発想と本質的に同じである。子どもの受けとる言語データはきわめて少く、しかも断片的でしかないのに、それを数年間受けとっているうちに、きわめて高度に体系化された文法の表現を行うようになるという事実は、〈構造科学〉的発想からすれば、子どもという装置自体の生れつき持っている内部の機構がきわめて複雑多岐であって、はじめはわずかしか作動しなかったのがやがてフルに作動するようになるのだと、すべて内部構造のしからしむるところに理由づけなければならない。チョムスキーは、言語データから得られたあまり数多くない規則を脳中に貯えており、そしてそこから無限に多くの文を生成するという言語能力を人間の頭の中に想定した。この生成・変形の過程的構造を説明するために、頭の中に〈表題構造〉と〈深層構造〉とを区別し、この結合関係を規定する〈成分構造規則〉と〈変形規則〉を論じる。すべて文法のありかたを人間という装置の内部構造で説明しようというわけである。

 いま一度デュパンのいいかたを借りると、「物ごとをあまり近くに持ってくるために視覚を損じた」ということがある。ことわざにも「おか目八目」といわれている。言語の文法にしても、あまり小さな部分の変形を目の前に持ってこないで、遠くから大きなありかたを眺めたり、他の表現の文法的なものと比較したりするほうが、その本質をつかむのに有利だと考えなければならない。人間は言語表現だけを行っているわけではなく、演劇や長編漫画や映画なども創作している。これらの諸表現にも文法的なものが存在するが、それらも人間という装置の内部構造から説明するのかどうか、演劇の脚本や映画シナリオは言語表現であるから当然文法を持っているが、これらの創作の場合の〈深層構造〉と〈表層構造〉の関係はいったいどうなっているのか、チョムスキーをかついでいる人びとは答えなければならないはずである。//
(三浦つとむ 「チョムスキー文法論の逆立ち的性格」『現実・弁証法・言語』 勁草書房・1972年7月25日)
http://okrchicagob.moto-chika.com/DME/work/GJBHGG3.html#GJBHGG33

生成文法はこれらの批判を受け、「5:おわりに」で論者も明らかにしているように、次のような反省はしてきた。


 生成文法もまたその科学性を主張するが故に見逃してきた問題があった.それが,理論の検証である.もちろん,これまでも全くの検証がなかったわけで
はなかった.〜つまり,単に言語理論内でしか適用可能でない単純な技術的解決を一切認めないとう姿勢を打ち出したのである.その犠牲として,当然の前提として見なされていた深層構造,表層構造,あるいは X バー理論などの道具立てが消失した.//

 しかしながら、その大前提である、「自然言語を自然科学の産物としてとらえ,科学的アプローチによって自然言語の本質を明らかにしようとするプログラム」という根本的な誤りが反省されることがないまま、


 しかし,同時に,最新の枠組みであるミニマリスト・アプローチは,言語理論の正当性を検証する第三者的(客観的)尺度としてのより重要な価値を比較認知科学,生物学,あるいは脳科学に与えることにより,より深遠で綿密な人間研究が可能になる.//

という生成文法への信仰に基づき本論文は展開されている。

「機械と人間とは同じではないのに、その差異を無視しているのではないかというにちがいない。」という素朴な批判を無視し、


 言語学は正にその人間研究のネットワークを結びつける中核的媒体としての存在意義を強めたといっても良いであろう.故に,その研究成果は,言語内理論だけではなく,人間研究に携わる全ての基礎科学に応用し,貢献する期待が尚一層高まるものである.//

というのは一片の真夏の夜の夢と化す他はないであろう。ノーム・チョムスキーも既に90代で、彼の妄想も止む他なく、教祖を失くした信仰の落ち行く先は科学的にも自明であろう。■

コメント(2)

「言語科学の今日的課題をめぐって」

https://ompu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=40&item_no=1&page_id=13&block_id=21

です。■
上山あゆみ (九州大学)

「経験科学としての生成文法―文法性と容認可能性―」

https://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~linguist/kupl/doc/kupl25_26-ueyama.pdf

も未だ、「チョムスキーが生成文法を自然科学の一つ、すなわち、経験科学として位置づけたということは、よく知られている。」と自然科学であることを疑わず、

生成文法の追究の対象となっているのは、「文法」という、その言語の話者が共有しているシステムである。

とブラックボックスの夢想、幻想を抱き続けている。■

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