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言語学コミュの〜が好きだ。 〜を好きだ。??

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最近、気になったことなんですが、好きだ、嫌いだは形容動詞で その目的助詞として「が」が使われています。

例えば

私はバナナが好きです。

バナナは目的語ですが、その助詞は「を」ではなく「が」になっています。

さき、本を読んでいましたが、こんな文章がありました。

「私が仙台を好きなのも当然といえよう」

この場合は「を」が使われていますが。

確かにその使い分けがあるとなんとなくわかっておりますが。
誰か、このことについて説明してくださいませんか。

コメント(42)

「仙台を好き」で切ると変な感じですが
「仙台を好きなのも」で切ると自然なのでは?
”私”にすでに「が」が付いてますし・・・

素人なので、これ以上つっこなまいで下さい(笑)
素人のたわごとですが・・・
「私が仙台を好きなのも当然といえよう」では、
仙台の後ろに「〜という場所のこと」等の言葉が省略されているために「を」を使ってもあまり不自然に聞こえないような気がします。

とは言っても、私もだいさんのご意見同様、この文章はあまりしっくりこないですね。
 日本語としてしっくりこないのは、「私が」と明確に自分を主張しているにも関わらず、文の終わりでは他人ごとのような視点に移動しているためではないでしょうか。
 芝居がかった言い方である点がしっくりこない原因です。あとは、明らかに、この文章の前になにか文章があって、それを受けての文章がいきなり始まることも、しっくりこない原因だと思います。
 ……と考えてみましたが、いかがでしょうか。
「が=主格」とか「を=目的格」なんて、日本語には元々そんな決まりはなかったのではないでしょうか?

のりさんがおっしゃっているように、「が」格「を」格というのはあるけれど、それは決して「主格」や「目的格」ではありません。
中学校の英語の授業では、授業を進めるための方便としてイコールで結ぶような説明をしてしまいますが、それを真に受けて英語で良い成績が取れても、それに囚われたままでは今度は日本語のほうがわからなくなってしまうと思います。

すみません、前から気になっていた(というより不快で仕方なかった)ので、つい愚痴ってしまいました。

日本語の「が」や「を」の語源的な意味合いやニュアンスは、誰かきちんと定義づけしているのでしょうか?
わたしは素人の感覚的な思いつきでしかないけれど、次のような感じを持っています。

「が」:その前と後の語句に強い結びつきがあることを表す。
→「所有」「逆接」などに使われる時にもこのニュアンスがあるような気がします。
「わ『が』国」「それはそうなのです『が』、……」など

「を」:その前の語句から後の語句に向かっていくニュアンスを感じます。英語で言えば「of」「for」「from」など「fのつく前置詞」に近いニュアンス。

大学受験レベルならば英語の前置詞にはこの程度の「ニュアンス」の解説は当たり前のように出てくるし、それは間違ってはいません。
それなのに、日本語では未だにそれぞれの助詞の持つ「ニュアンス」と、そこからくる意味や用法の広がりを的確に説明した言葉は、ない、もしくはあってもぜんぜん一般には広まっていないのですよね。
なんだか悔しいです。
少し迂回して解答を書き込むことをお許しください。

>そもそも、日本語の国語文法の用語の使い方や概念の構成の仕方そのものが、
>外国文法の借り物であり、体系的に整っているとは言えませんもの。

とありますが、日本語の国語文法を、外国文法と比較せずに体系的に整備することは可能なのでしょうか。非科学的な国語学の領域において、社会言語学が極めて稚拙な日本において、それをすることは不可能ではないでしょうか。

やはり、内的言語学の領域で扱うならば、外国語との比較が有用なはずです。そういうアプローチで考えるならば、トピックの解答に対して、私はフランス語を想起したのですが、以下のように考えます。

「が」を使う場合は目的語に、つまり「好き」な対象に重点が置かれ、「を」を使う場合には主語に、つまり「好き」である主体に重点が置かれるのではないかと考えます。もしかしたら、逆かもしれませんが。
少しのっかります。

言語学コミュニティではありますが、言語をとりまく学問は言語学、国語学、日本語学、社会学、心理学、哲学など、あげると限がなく、アプローチも様々になるでしょう。

それゆえ、先ほど書き込んでおきながら指摘するのもなんですが、トピ主のredcap2000さんが、どのような領域での説明を求めているのかを具体的に明示しないと、納得がいく解答は導かれることなく、不毛な方法論の議論に終始してしまうのではないでしょうか。
日本語のガ格は,主格としての用法以外に中立叙述とか,対照・総記などの機能があります.
「〜は,・・が好きです」のような場合,ガ格でマークされた名詞句は述語の目的語です.このガ格は対照用法と言えます.
基本的に日本語において,動態述語の目的語はヲ格,状態述語の目的語はガ格でマークされるという法則があります.
「好きです」は「形容詞+copula」ですから(形容動詞ではありません)状態述語であり,本来は「・・が好きです」というのが自然なのでは..と思います.ただし,文章の場合など,修辞的に筆者がヲ格の方が美しいと思えばヲ格を使っても母語話者であればわかるわけですし,それはそれで良いのかとも思います.
そもそも形容詞はヲ格をとらない。
「こと」の名詞修飾句内で「は」がとれないので、「私が仙台が好きなこと」と言おうとしたとき、「が」が重なるのが逸脱のように感じられるから、「を」としたんじゃないかな。
ガ格の用法の問題を持ち出すまでもないのでは。
先程投稿しましたが,説明に不足があると思われましたので,一度削除し,補足修正して再度投稿します.

「形容詞はヲ格をとらない」というのは間違っているとは言えませんが,次ような「飲む」など動態動詞からの派生形容詞を述語とする場合の目的語への格附与については,どう説明されるでしょうか?
「僕はお茶が飲みたい」
「僕はお茶を飲みたい」
両方とも文法的な文ですよね?この例文の述語「飲みたい」の活用形は接尾辞「たい」の部分のみが活用するので「飲みたかろう,飲みたかった,飲みたくない,飲みたい,飲みたければ」 となり,形態的には形容詞ですよね?しかし,目的語にはガ格,ヲ格,双方が可能です.こういう場合を鑑みると「形容詞はヲ格をとらない」というだけでは説明力に欠きます.
この説明には述語の種類により目的語の格マーキングが異なると言う基本的な法則と,ガ格の用法の2点から考えた理由付けが必要になると思います.
また,ガ格の重複は決して逸脱とは言えないと思います.次の例文は逸脱でしょうか?
「このクラスは,ほとんどの学生が英語が得意だ」
いかがですか?
 議論に水を差すようで申し訳ないのですが、先日の書き込みでは、オブラートに包んでいたことを、はっきりと記します。

 kumiさんとPakoさんの議論をみていて、また、それ以前の説明も含め、改めて感じたのですが、日本語学もしくは国語学の説明では十分な説明ができないと断言します。これ以上、議論を続けても、結論を出すことは不可能だということも断言します。

 その根拠は明確です。諸外国語と比べて、極めて日本語学と国語学の理論は稚拙であり、体系だったものとは思えません。私からしてみれば、それらは小学生の観察日記と同等の表面的な記述でしかないからです。そしてまた、メタ言語を十分に駆使した一般的な内的言語学とはあまりに水準が違いすぎ、直前の説明にあらわれるよう、曖昧模糊としており、言語の本質には全く触れることなく、論理的な説明ができないからです。

 日本語の文法のみの議論に終始することに固執して、本質的な解答を導こうとすることは、所詮、戯言にしか思えません。

 私の解答は記号論的な話と評されました。とはいえ、これでもチョムスキーやソシュールを批判したブルデューからは不十分だと指摘されることでしょう。

 トピックの解答を導くことに、国語学的説明も日本語学的説明は、言語の主体を無視したものであり、全く無意味であるとしか感じられません。トピ主がそれらの領域の解答で満足するのであれば話は別ですが。
ピエールさんのおっしゃるように考えてしまっては,このコミュニティの意味がなくなってしまいませんか?
トピックに対して純粋に答える,自分の意見を述べるというのが一番大切であり,またそれ以外には必要ないと思います.
このトピックのページにこのような書き込みをすること自体私としては本意ではありませんが,私が純粋に日本語学的な立場からの文法説明を試みたことと,ピエールさんの考え方と,どちらがこのトピックのページへの書き込みとして妥当であるか皆さんにも考えていただきたいと思います.
 私の書き込みは、Pakoさんの直前の書き込みを素直に実践しているのではないでしょうか。一番大切と仰られたように、自分の意見を述べたまでです。

 ですから、トピックとしての妥当性は十分に確保できるものです。私の書き込みの妥当性を否定するのであれば、それは、自分の意見を述べるということを否定する、すなわち、Pakoさんの一番大切だとしたことを否定することになります。

 私はいかに説得力のある説明が可能であるかを模索することに意義があると考えております。
ちょっと久しぶりです。
Pakoさん、本好きさんにだいたい賛成です。
(わたしの場合「だいたい」というのは、別の考えがあるというよりは判断できるほどの知識がないからなんですが……)

「〜は……を○○する」
「〜は……が△△だ」
というような構文が成り立つ、ということになる、という考え方はダメ?

英語構文を覚えたのはわたしにとっては結構役に立ったのですが、日本語の場合も「こういうことを言いたいときにはこういう構文が使えます」みたいなのをまとめて普及させれば、いろんなことがすっきりするような気が。
そういう本、どなたか出版されているでしょうか?
>じゃっきーさん
くろしお出版から『日本語文型辞典』という本が出ています。
大きな書店でしたら置いてあるかと思いますので、一度ご覧に
なってみてください。「読める」辞典ですので、面白いですよ。
>本好きさん

 では、「もしかしたら」以降の解釈では、どうなるかという見解を提示していただきたいと思います。

 私は記号論的と評されたコメントをしたのは、あくまでアプローチの提示であり、自身で詳細な検討を加えておりませんが、上記の文章を解釈することも行ってみるのとどうなるのか、見解を知りたいところではあります。

 もっとも、それ以前に、トピックで例示された文章ではなく、誤りとして導かれた「食べる」という言葉を用いた例文に置き換えることが解答を導くために妥当なものかということを詳細に検討しなくてはなりませんが。

 本質的なことやメタレベルのことを分析に加える必要が国語学や日本語学には求められるでしょう。そうでなければ、いずれも科学ではありません。
「私は山田花子が好きだ」
「私は山田花子を好きになる」
>しあたさん

ご紹介ありがとうございます。
以前角田太作という人が同じ「くろしお出版」から出している本を読んだらものすごく面白くてハマったことがありました。
その本は図書館で借りたものだったのですがけっこう高価で、文中で紹介されていたもっと安い本を探してみたら絶版でした……
何か縁のある「くろしお出版」です。

それにしても、構文主義が全てと思ってはいけないだろうけれど、日本語の「文型」についてもっと研究されたり普及したりしていけばいいのに、という気がします。

あ、これ以上あれこれ言うとトピックから限りなく逸れていくような気がするのでやめます。

書店で立ち読みしてみます。改めてありがとう>しあたさん
ちょっと錯綜しているようなので、深く立ち入るのはやめにしますが、
じゃっきーさんがおっしゃっていた「が」の格助詞から接続助詞への
移り変わりについては、石垣謙二という人が詳細に検討しています。

「が」が対象を表すっていうのもいろんな人が議論していますが
時枝誠記あたりで充分基本的な説明はできているように思います。
細かい事例をどこまで追うかは、それぞれの立場によるのでしょうね。。
>miu_novさん
お返事遅くなりました。
教えてくださってありがとうございます!

実は
>「が」の格助詞から接続助詞への移り変わり
とか
>「が」が対象を表す
とかって、英文法で言うのと同じ感覚?かどうかよくわからず、しかも週末は忙しいのでまだ調べてみてもいないのでした。
これから調べてみます☆
割り込みかつ長文で失礼します。

>「僕はお茶が飲みたい」
>「僕はお茶を飲みたい」
このいずれも非文でないことを認めるとして、これは同じ意味ですか?同じ会話の場面で使えますか?
これらが生成される状況(文脈)の違いを考えれば、文法的な構造の違いが自ずと見えると思うのですが。

それから、日本語の名詞句を言語学的に考えるときには、格
Nominative-Accusative-Dative-...
だけで考えることは危険で、談話としての
Theme-Focus
とか、動詞の相と
Speaker-Actor-Object-Listener
との関係とかを抜きに考えることは避けて通れないと思うのです。

日本語を西欧言語とまったく同じように扱うことはできませんが、それは西欧言語が堅固な構造を持っていて日本語がそうでないからではありません。日本語が決して特殊ではないということは、言語類型論(プロトタイプ論)の関係書籍を見ればすぐに判ります。試しに英語の他動詞と自動詞(前置詞+目的語をとるものを含む)の「指示内容」の違いを説明しようとしても、誰にも明晰なことわけはできないでしょう。上の動態動詞と状態動詞の話に充分似ていますよ。

国学由来の国語学が学校国文法教育を汚染し、西欧言語学の敷衍、咀嚼を阻んでいることは否定できないにせよ、GB理論時代(前期か?)のチョムスキーでさえ日本語を想定していなかったとか日本語に生成文法は適さないと言ったとか巷間噂されたのも、結局のところ日本語が主述の関係を神聖視しない(=必須でない)フラットな構造を持ち、その要素間の相対的な関係で助詞(≒格)を決定していくシステムを持っているからでしょう(敬語や可能表現、授与動詞文などに顕著ですが、他にも例えば、複文を入れ子構造にしていくと、中に行くほど動作主に「は」や「が」が使いにくくなる現象、国文法では単に「同じ助詞を繰り返し使うことは好ましくない」と説明されますが、もっと機能的な説明は可能です)。

結論も述べずにぐだぐだと語ってしまいました。お邪魔しました。
>しあたさん

とっても遅くなりましたが、昨日ようやく『日本語文型辞典』を書店で立ち読みしてきました。
面白いですね!
でも、どちらかというとイディオム的なものが中心に扱われていて、もっと基礎的な「〜は…が_だ」とか「〜を…へ_する」とかいうのには触れられていませんでした。
述語の種類(動詞・形容詞など品詞や動態・状態その他意味の種類)と、その前にどういう助詞を配置するかということの間に、割としっかりした関係ああるような気がするのです。

たまたまアマゾンで見つけた『日本語文法ハンドブック』(「初級を教える人のための」と「中上級を〜」の2分冊になっています)がわたしには興味深かったです。
外国人に日本語を教えるために、というより、自分自身がわからなくなってしまった時のヘルプに、という感じ。

あと、トピックからはだいぶズレズレになってしまいますが、Besucherさんのご意見には気づかされるところが大きいです。
せっかく英語と同じように「構文」を定めようと思っても、「例外」がどんどんあふれてきて収拾つかなくなってしまうのかも。

どうやらわたしには、「日本語は、外国人に教えられる時には(ある程度)正しく教えられるのに、日本人の子どもに『国語』として教えられる時にはかなり偏向したかたちで教えられる」という事実に対する強いルサンチマンがあるようです。
>じゃっきーさん
深夜(というより早朝)の読みにくい書き込みにコメントありがとうございます。

「日本語は、外国人に教えられる時には(ある程度)正しく教えられるのに、日本人の子どもに『国語』として教えられる時にはかなり偏向したかたちで教えられる」

いやぁ、でもこれは実際そうですよね。いろいろな視点で理論化されているものは外国人向けの日本語教育にのみ活用されて、日本の義務教育は三上章、清瀬義三郎どころか時枝文法にすら到達しないという不思議。きっと「日本人に適した教育法」とか勝手に決め付けている黒幕がいますよ(笑)

ちなみに角田先生の講義受けたことあります。議論好きのおもしろいおじさんでした。
すみません、今週忙しくてなかなか書き込めないので。

では、試しにgoogleで「お茶が飲みたい」「お茶を飲みたい」を検索してみてください。日によって違うでしょうが、けっこう件数に開きがあるのに驚くのではないでしょうか。もし2つの文が同じ意味だというのなら、ネット上でこれらが使われる数がこうも違う理由は何でしょうか。好みでしょうか?ネット上でよく使われている方の表現はお二方の「こっちが普通」と思っている表現と同じだったでしょうか?

ぼくが「意味」と書いたのは、この一文(二文ですが)で指し示す内容が全く異なるというような状況を意図してではありません。ある場面では一方が使えない、ある場面では内容に差が生じる、そういったものを文法的な意味の違いだと考えています。
☆Besucherさん

>ある場面では一方が使えない、ある場面では内容に差が生じる、そういったものを文法的な意味の違いだと考えています。

同感です。
わたしたちは知らず知らずのうちにその使い分けを行っているし、それは実はかなり厳密なものなのだろうと思います。
でも、それが「文法的な意味の違い」とは、あまり考えられてはいないようですね。
(「違い」と認識していないということ自体が発話そのものにも影響を与え、会話の中で誤解を生んでしまうことも実は少なくないような気がします)
もしかしたら、このことは学問上のトピックとしてはまだ目新しいのかも?

わたしもあまり知らないので専門用語をやたらと振り回すようなことはしたくないのですが、もしかしたらそれは「モダリティ」と関係あるでしょうか?
似たようなトピックを大学の講義で扱ってたので、このトピックに関しても研究室で話し合ってみました。
私は文法関係が苦手なのでうまく言えませんが、
「が」:文の焦点を明らかにする場合
「を」:文の動作性が強い場合
ではいかがでしょうか?
Pakoさんの説をピエールさんの説のようにアレンジするとこうなるのではないかと(違ってたらごめんなさい…)。

「〜たい」の文に関しては、
[お茶が[飲みたい]]…焦点は「お茶」。??[[お茶が飲み]たい]??
[[お茶を飲み]たい]…「飲む」という動作性が強い。
と分析すると、前者では「が」が対象を表すことが、後者では「を」が「飲む」の目的語を表すことが明示されます。言語学的にはかなり危うい分析ですが…。ただ、こうすると最初にあげた「が」「を」の説明がわかりやすいのではないかと思います。

「〜が/を好きだ」も同様に考えます。私も「〜を好きだ」「〜を欲しい」などの文に違和感を覚えますが、非文とまでは言えません。規範的には「が」ですが、実際には「を」を用いることもかなりあるのではないかと思います(例:彼は彼女を好きだ)。
また、「私が仙台を好きなのも〜」のように、述部以外の位置に現れても、上のように分析すれば説明がしやすいと思います。
説明がしやすい=正確な分析、ではないんですけどね…。

Pakoさんの説明は統語の側面から、ということになるんでしょうか?私の場合は統語ではなく意味の側面から、かな?ひとつのトピックに関していろんな見方ができて面白いですね。私がやってる音声の面から見ると、また違った分析ができると思います(^^)
ただ、みんなそれぞれ持っている知識や立場、観点が違うと思うので、その辺を注意しないと誤解や食い違いが増えるのではないかと…最近見てて思いました。

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