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映画のトリビア、グーフ探しコミュの映画の面白さを分析する

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トリビアやグーフは、今や僕の“天職”と呼んでも差し支えないのですが、何かそれだけにこだわることもないというか、ほかのアプローチのトピも必要ではないかと思い、大上段に振りかぶってみました。

たとえば先日、リドリー・スコットの「ロビン・フッド」を見たのです。そしてそれなりに面白く見た、というか最近としては手ごたえを感じた作品なわけです。ところが、僕が見ていて“ここんところをもっと見せろ”と叫びだしたくなるようなカットの切り替えが何か所かあった。
具体的にそのひとつは、クライマックスの戦闘シーンで騎馬の軍勢が上陸した歩兵たちに襲い掛かるシーンです。騎馬の一群がダイナミックに走りこみ、それをヘリコプターショットのような動きでカメラが正面から彼らをとらえます。そこでダイナミックな馬の走りをもっと見せてほしいのに、あっさりとカットを切り替えてしまった。

映画というのは、画と音の連続する画面から、我々観客がどのような感情を喚起されるかだと考えています。だから「ロビン・フッド」のあの場面は、もっとわくわくする場面となって、もっとアドレナリンを発散させてくれないと嘘だと思うわけです。

とまあ、そういう発想から映画の面白さというものを解明できたら成功です。はたしてそれが可能かどうか。
ま、よろしくお願いします。

コメント(28)

映画の面白さの分析といいながら、いきなり書物を題材にします。磯田道史という人の書いた「武士の家計簿」です。
この本は森田芳光監督で映画化が決まっており、どうやらこの年末公開らしい。

この本は、幕末の歴史を研究する筆者が、たまたま古本の目録から“猪山家文書”というものを見つけて買い求める所から始まります。その文書は綿密な家計簿で、およそ36年分ある。そして著者は、猪山家の家系を調べ、その家計簿に現れた出入金から猪山家のドラマを組み立てていくわけです。その“復元ドラマ”(再現ドラマじゃないからね!)が実に面白い。

最も面白かったのは、猪山家が借金地獄に陥りかけ、その借金を家財売却などで得た一時資金で乗り切ろうとするところ。妻の実家からの援助や頼母子講からの借金など、武士の金策がいろいろ分かります。さらに、現在ある借金の4割を即金で返すから残りは割賦にして利息も軽減してほしいと商人たちに交渉するあたりがすごい。商人も、もしかして全額失うよりはまず4割確保と動くところがいい。

というような面白さは、数字の並んだ家計簿から著者が読み解いているその面白さなわけで、これをそのままドラマにして果たして面白いか、というのが今回のポイントなのです。つまり映画は、画面に繰り広げられるドラマを我々観客が見るわけで、主人公が頭を下げて借金の繰り延べを願っている様が(もし描かれたとして)面白いはずがないと僕は思います。あるいは妻が、自らの衣服代は一切なしで、しかも実家から銀1000匁という援助を受けてまで、夫の母には衣服代を渡すという“しきたり”の面白さが、今回の映画でどう描かれるのか。たぶん無理でしょう(笑)。

実家からの銀1000匁の支援と書きましたが、これに対しても著者は“米の価格による現代の金額への換算”と“賃金による現代の金額への換算”の二種類を用意しています。これはとても分かりやすい。しかし、こういう数字の裏づけを、どのように映画にするのか。
まだ見ぬ映画に対してあれこれ言うのは“間違い”たどいうそしりを覚悟して、僕は森田監督や現在の日本映画界の動きでは、この書物から“数字を読み解く面白さ”をばっさり切り捨てているはずだと断じておきます。それが間違いだったら、とても喜ばしいけど、そうはいくまい。

映画は、登場人物たちのドラマを(あるいはアクションを、ときには色気を)我々観客に提供してくれるものです。家計簿という事実の一端からそのドラマを組み立てて、当時の時代まで浮き彫りにした「武士の家計簿」は、はたしてどのようなドラマとなるのでしょうか。
“映画の面白さ”といえば、“黙って座れば誰でも分かる”というパターンだと思いがちですが、そうでもないところに面白さがあるから、それこそ面白い。

たとえばテオ・アンゲロプロスの「エレニの旅」を見てください。全部見ると3時間かかりますから、それはヒマなときでいい。最初に、ギリシャの村へロシアからの亡命者が戻ってくるところを見てほしいわけです。
村は、川のすぐそばにあって、交通には船を利用しているようです。
これが中盤に洪水となり村が水に浸かるのですが、それが本当に水没しているからすごい。よくもまあ、映画撮影のためにこんなことをするもんだと、あきれてしまいました。

そもそも、ロシアからの亡命者(引揚者)が村に来るときの画面が、なかなか見ごたえがあります。派手なアクションも、スターたちの魅力というものもありませんが、自然主義の絵画を見ているような魅力がある。これも面白さ、ですね。

たとえばニコラス・ローグの「美しき冒険旅行」を見てください。
十代の姉と小学生らしい弟が、オーストラリアの荒野を歩いて人の住んでいるところまで行くという設定ですが、それがなぜそうなったのか、あんまり説明されません。そういう意味で“分かりにくい”映画かもしれませんが、砂漠の風物をスケッチするような画面が展開し、姉弟のサバイバル生活が板についてくるとなかなか面白い。

こういう“ひねった面白さ”というものは客を選ぶわけですが、ツボにはまるとたまらなく面白いことが多い。
僕は、ツボにはまるほどではないのですが、抽象絵画に対する“抽象映画”というものはアリだと考えています。

もちろんアンゲロプロスは抽象映画ではありません。「エレニの旅」はギリシャ近代史の流れと物語が対応しているので、2つの世界大戦と内戦が描かれ、その激動に翻弄される家族が主役です。そういう意味で、ギリシャ近代史を知らない僕には“説明不足な映画”ともいえるし“観客としての僕の認識不足”ともいえる。そのどちらであるかは、僕自身が冷静に見極めればいいのだと思います。
「グライド・イン・ブルー」という白バイ警官を描いた作品は、かなりの映画ファンでないと知識すら持っていない映画となってしまいました。
しかし、見直してみるとあの時代の雰囲気を正しく伝える映画だったと再確認できます。

とにかくロック音楽と映画が結びついた「イージー・ライダー」以後、“ロックは騒音”と考える映画人たちがロック音楽が使われた映画に対して及び腰になったことは事実。
そしてときにはいやらしいばかりの媚びへつらいを見せて「バニシング・ポイント」みたいな作品を“ロック映画の金字塔”みたいに持ち上げたり、あるいはこの「グライド・イン・ブルー」を見て“ロック映画は終わった”などとのたまったわけです。

もちろんロック映画はその後も続き(というかロックそのものが続くかぎり続きます)、当時の老映画人たちは、とんちんかんな反応のせいで第一線から退かざるを得なくなった。この現象はそれ自体、よかったと僕は思います。←今、そういう形で我々老人どもを押しのけてみろ、といいたい。

「グライド・イン・ブルー」の面白さは、あの時代の空気感でしょう。コンラッド・ホールがとらえた映像には、あの時代が見ごとにとらえられています。ロバート・ブレイクとビリー・グリーン・ブッシュのセリフのやり取りなど、とりとめがないようにみえて正しくあの時代の空気感を持っている。それは、あの時代に生きた僕たち世代だけではなく、今初めて見る皆さんにも分かると僕は信じています。それが“映画”の持つ面白さの本質なのだ、と。
ロサンゼルスで行われた、第1回“おっぱいと血の国際映画祭”は、“映画の楽しみ方”の基本を思い出させてくれるものでした。

僕は昔も今も、チープな映画が嫌いです。チープな映画を見ると自分が貧しかった幼年時代(だいたい日本全国が貧しかったけど)を思い出すので、その時代にハリウッド映画が描いた電化生活が理想だったという事実と表裏一体となっています。いわばこれはトラウマ。

ところが、あの時代を知らない人たちが、あの時代のチープさを懐かしむ風情がある。それはもしかしたら、子供が兵隊さんにあこがれて戦争ごっこをする感覚に近いものではないかと、今回感じました。
戦争で、華々しく戦って死ぬという構図は、ロマンチックな感覚を刺激します。しかし実際は、戦って死ぬよりも体調を崩し(たとえば猛烈な下痢や伝染病)行軍から置き去りにされて死ぬとか、道なき道を踏み外して死ぬとかが大半だったようです。
それと同様、あの時代を知らない人には、電化製品が揃った生活にはないロマンがあるのだと僕はおもいます。

それはともかく、“おっぱいと血の国際映画祭”で上映した「女切り裂き狂団チェーンソー・クィーン」は、まさしく僕の大嫌いな低予算Z級作品でした。これを観客たちは楽しんでいる。
それと同じ感覚で、池島ゆたか監督作3本、それと「地獄のローパー」も楽しんでいました。とくに「淫乱なる一族」(山口玲子主演バージョン)は、そのコミカルな感覚を日本人同様(いや、それ以上)に楽しんでいたと感じました。

観客の反応というものは、自分の反応と一緒かそれとも違うかが微妙によく分かる。たとえば「淫乱なる一族」の矢崎茜主演バージョンで、夫の尻にバイブを突っ込み血が出るというシーン、このときは観客がいっせいに“ひいた”のが分かりました。「地獄のローパー」では、あのゆるい笑の感覚が途切れることがなく、クレーン宙吊りのシーンでは、館内が一体となって手に汗を握ったという印象です。

この館内の一体感が、僕には久しぶりの体験でした。日本では、どうも笑うタイミングがずれたり、僕が面白くないところで笑うやつがいてムッとしたり、さまざまです。そしてこの一体感は、たとえば初号試写を見せていただいたときの一体感とも違う。見も知らない観客ばかりなのに“おっ、仲間がいた!”という喜びを感じさせる一体感なのです。だからこういう会場では楽屋落ちは笑いを呼ばない。

この感覚は、この場を作った人、つまり映画祭のプロデューサーたちのコーディネートでかもし出したと僕は信じています。すべからくイベントは、こうありたいと思うのでした。
「レモ/第1の挑戦」という映画は、映画にとってテンポが大事だということを再認識させてくれました。
この映画には、とぼけた笑いとアクションとが詰まっているのですが、いかんせんテンポが悪くて乗り切れない。それでいて、唾棄すべき映画というほどには至らず、それなりに好感が持てるからややこしい。

たとえば「パイレーツ・ロック」という海賊放送を扱った作品は、テンポが悪いうえに人間模様に面白みがなく、さらにラストは「タイタニック」のまねごとかい、という展開となり、見ていてうんざりする作品でした。よかったのは流れる音楽だけですが、それだけでは2時間を超す長さを支えきれません。

しかしテンポがゆったりしているからといって、先に述べたテオ・アンゲロプロスの「エレニの旅」のような作品は、そのゆったりさと歴史的背景への空想がうまくマッチしているから退屈しない。つまり観客が映画を見ている間、どのように空想をめぐらせるかということが、映画の出来というものだと感じたしだいです。

つまり「レボリューショナリー・ロード」で1950年代のアメリカという状況を察知できない人には、この映画は夫婦のすれ違い話でしかなく“つまらない”かもしれない。しかし実際は、アメリカ黄金期の政策と経済成長が、実力ある女性を死に追いやったという悲劇な訳です。それを受け止められない観客が悪い、と僕は考えます。

あるいは「グッドナイト&グッドラック」を見て、最初僕は、テレビの報道というもののあり方を確立したエド・マローの偉業に感心するだけだったのですが、「マロー・ボーイズ」という本を読んで、そういう毅然たる報道姿勢を貫いたのは歴史的にマローたちだけだったこと、そのマローたちも多額の収入をその報道活動から得ていたことを知ると、一筋縄ではいかない社会の仕組みというものが鳥瞰できるわけです。

ここではひとつの結論として、映画の出来不出来は映画そのものの客観的な完成度というものだけではなく、観客の主観(鑑賞程度といってもいい)が大きく左右する。だから観客の質が問われるのだということを確認しておきましょう。
このところずっと感じていることですが、映画を見る側の認識不足というものが、映画そのものを貶めてしまう、という事実をどうすればいいのかという問題があります。

たとえば「The Whistleblower」というレイチェル・ワイズ主演の映画で、国連の要請でボスニアに行ったアメリカ・ネブラスカ州の警官が、国連軍兵士や警官をまきこんだ少女売春組織に対して、捜査する権限を持たないという事実を初めて知りました。そこで語られる“We're not investigator, just monitor.(我々は捜査官ではなく監視官だ)”という言葉はとても重い。

映画そのものは解決に至る過程で少しあざとさが感じられ、せっかくの内容が“娯楽”の犠牲になった気がします。それはともかく、僕が知らなかった事実を提示し、僕の認識不足を明らかにしたわけです。

また「I Am Slave」というイギリス映画では、アフリカの難民をロンドンで奴隷として使う人物が登場します。ラストにクレジットが出て、“現在もロンドンには5000人の奴隷が存在する”という。
これは、にわかには信じられない“事実”です。5000という数字が正しいかどうかは別にして、こういう奴隷という実態はあるのだろうということだけは、この映画を見ていれば分かります。それだけのリアリティーがある映画ですから。

しかし、いくら認識不足だからといって、映画の内容をそのまま信じるというわけにはいかない。つまり、我々は、提示された内容に対して無知であっても、提示された内容を自分の経験などから吟味して受け入れる。これが常識ある行為でしょう。

ここで思い出されるのは、「ホテル・ルワンダ」のDVDについていたテリー・ジョーンズ監督の音声解説です。“実際はもっと残酷な内容だったけれど、事実に忠実に映画化すると誰も見てくれないと判断して脚色した”。これを聞いて僕は愕然としました。この映画の内容だけでも、もう目をそらしたいほどなのに。

僕は今まで(そしてこれからも)山田洋次の“分かりやすさ”を批判してきました。彼の映画の分かりやすさは観客蔑視である、と。しかしテリー・ジョーンズの分かりやすさは、事実を伝えるための苦肉の策です。それはスティーブン・スピルバーグが「シンドラーのリスト」で用いた手法に似ていて、実は正反対のないようだと考えます。ユダヤ人のホロコーストについては、かなりの事実がすでに流布されているのに、あの映画はそれをオブラートで包んだ。「ホテル・ルワンダ」は、知られざるルワンダの実情を、少しでも多くの人々に知ってもらいたくて、観客に目を背けさせないためにオブラートに包んだ。
この違いを、今後も厳格に見守っていきたいと考えています。
マイミクhideさんが、興味深い問題提起をしてくださったので少し考えてみたいと思います。
hideさんの言葉尻をつかまえるわけではありませんが“商業性も観客も完全に度外視した表現”ということです。
今回“商業性”については置くとして、“観客を完全に度外視した表現”という部分を考えたい。

今まで僕は山田洋次監督作を“観客蔑視”と言い続けてきました。つまり彼は、一人でも多くの観客にわかるようにというコンセプトで、物事を分かりやすく分かりやすく描く。だから、そんなこと言われなくても分かっているという部分まで分かるように描く。それが蛇足になり映画としてつまらないというのが僕の考えです。

その逆の立場として“観客を完全に度外視した表現”を想定できます。
しかし観客がその表現者と対峙できない状況のとき、その作品を否定していいのか、という問題ですね。
僕はそこまで極端ではないけれど、実に興味深い現実を経験しています。それは「2001年宇宙の旅」の公開です。

あの年、「2001年宇宙の旅」をベストワンに推した日本の映画雑誌は映画評論だけでした。キネマ旬報は「俺たちに明日はない」。それが何年後かに映画史上のベストワンをキネマ旬報が選んだら、「2001年宇宙の旅」がトップでした。つまり当時は批評家がついていってなかった。←観客である我々はついていっていたと自負しています(笑)。
こういう事実があるかぎり、僕は作者は観客のことを意図せず自分の道を進むべきだと考えます。それに追いつかない僕が悪いんだ、僕の自己責任だと。
実際、今でも僕の認識不足によって見切れていない作品は多いことでしょう。それを出来るだけ少なくするべく努力しているのですが、なかなか。

それに対して論評する我々はどうすればいいかというと、僕は“自分に限定して語る”につきるのではないかと思います。つまり“こんな映画、誰にも面白くない”とは言わずに“この映画は僕には面白くない”と。“誰にも面白くない”という言い方は、実はせいぜい自分の周りの数人の意見を取り込んだだけなのに拡大解釈していることが多いわけで、表現としては誤っている、というのが言いすぎなら誇張しすぎですね。
僕も実は、3人同意見の人間と出会うと“みんなこう考えている”と言ってしまいがちです。こういうとき“3から上の数字はなくて、たくさんという表現で済ます”というわけです。ま、できるかぎり厳密にいきましょう。
映画は僕にとってタイムマシンであるということが、最近ようやく分かってきました。
たとえば「アメリア 永遠の翼」という映画で僕は、アメリア・エアハートのドラマを見ながら自分の少年時代に戻っていたし、現在の自分の基となったさまざまな出来事に思いをめぐらしました。その二重の楽しみは、僕でなければ分からないし僕でなければ味わえない、まさに唯一無二の貴重な体験です。

ちょっと前に「ウッドストックがやってきた」という映画を試写で見て、このときも自分のウッドストック体験(映画やレコードによる体験です)とこの映画が交錯して、とても不思議な感覚に陥りました。
これはあの時代を同時代として体験した僕だけの思いであり、同世代の人間にもないかもしれない思いです。とくにリッチー・ヘブンスの“フリーダム”で開幕したはずのウッドストック・コンサートなのに、リッチー・ヘブンスの声ではない同じ歌を劇中に使用している。この微妙な配慮が僕にはツボでした。だからエンド・クレジットでリッチー・ヘブンスによる“フリーダム”が流れたときには、もう涙を止められなかった。

この2作についての僕の感想は“極私的”だといえるでしょう。しかし私的でない感想なんて、たいした意味がないのではないかと僕は思ってしまいます。たとえば僕は「バーレスク」を冷静に“評論”したわけですが、そんな冷静さは本当は必要ない。僕は映画の中に飛び込んで、登場人物たちの人生を一緒になって体験したいのですから。僕を冷静な位置に置いたままにする映画を僕は好みません。
ミヒャエル・ハネケ監督の「白いリボン」を見て、あらためてこういう映画もあるんだなという印象を持ちました。つまり観客を選ぶ映画があるということです。

映画というものを考えるとき、映画を見る個人にとっては広義の娯楽だと定義できるでしょう。その娯楽には芸術というものを含んで考えます。それに対して、産業という観点から映画を見たら、客が入るか入らないかという部分に注目が集まる。
かつてマスコミの映画評などは、評論家個人が作品と対峙しての感想文を掲載していましたが、昨今はそういう主観よりも情報が主で、いきおい観客の入りなどについて触れることが多い。しかし個人として映画を見るということと客の入りは関係ありません。

「白いリボン」で監督のミヒャエル・ハネケは、時代背景や場所などを説明することなくドラマを展開します。もちろんドイツやオーストリアの人なら見ただけで時代や場所が特定できるのかもしれない。日本映画でちょんまげの人々が出てきて関西弁をしゃべったら、だいたいの時代と場所が推測できるわけですから。残念ながら僕は無知にして、ドイツの方言を知らないので、映画の字幕と内容からこの映画の舞台がオーストリアだと断定しました。それが誤解だとしても五十歩百歩でしょう。←倍違う(笑)。

この「白いリボン」は、わざと説明せずに物語を進め、結論も明らかにしないまま終わってしまいます。それでもつまらない映画ではない。退屈もしない。そこが僕にはポイントでした。
もちろんこの映画を見てつまらないと感じ、退屈した人もいるでしょう。そういう方には無縁の映画だったということで“残念でしたね”と慰めるしかない。いつもならそこを出発点に映画の見方を論じるのですが、この映画に関してはそっとしておきたいのです。その理由は、お会いしたときにでも話しましょう。

はっきりと言えることは、ある種の映画は見ている観客にある種の行為を強いる、ということです。分かりやすく言えば、分からない人間は考えろということ。考える手立ては自分で用意しろと。これを不親切と感じようが感じまいが、作者はそういう作品を投げかけているんだからしかたがない。嫌な人は金輪際その監督の映画を見ないという選択肢がありますから。

僕は、映画の多様性を無制限に認めようと思います。もちろん見るか見ないかは僕の自由ですけど。
僕は他人の意見に結構左右される方なので、映画を見る場合できるだけ情報を仕入れずに見に行きます。
しかし今回「ヒックとドラゴン」に関しては、学生時代から評論を読んで(勝手に)“師と慕ってきた”石上さんが、“子供向けだと思っていたら、意外にまともで面白かった”とおっしゃった言葉の“面白かった”だけを拡大解釈してしまって見てしまいました。

僕はできるだけ情報を仕入れずに見るといいましたが、それでも風評は届きます。幸い大半の風評は“よかった”か“悪かった”という程度ですから、中身にまで踏み込んでいる場合が少ない。←中身に踏み込んでいるだろうと思われる書き物には近づかないようにしています。

僕の場合、そういう情報の中でポイントとなるのが監督ですね。やはりその監督がどのような作品を作ってきたか調べると、だいたい分かる。
そうやって学生時代から追いかけてきた監督の映画なら(たとえばシドニー・ルメットなど)、まず大きな間違いはありません。たまにある(笑)けど、納得できる部分が多い。

あるいは俳優を見るという方向性だと、映画の出来不出来は度外視できます。「ヒックとドラゴン」なら、アメリカ・フェラーラの声を楽しむとか。←「旅するジーンズ/16歳の夏」以来、自分の娘のように思えて(笑)。だからクリステン・ウィグも参加していたと特典映像で分かると、より作品に親しみがもてます。

しかし映画の基本は、映像と音です。それは決して、カメラワークや技術ではなく、THXかどうかでもありません。画像と音のリズムが映画の魅力。

よく映画を褒めるのに、映画が持つ“メッセージ”を褒める人がいますが、これは間違いですね。メッセージがいいか悪いかではなく、それを納得させた(あるいは納得させない)映画がいい(悪い)わけです。メッセージがいいか悪いかを議論するのは、映画ではなく政治の場でしょう。←しかし僕は時折、作り手の政治姿勢を問いますけど。これは同時に、自分の政治姿勢について問いかけているわけです。

そんなこと関係ない、自分は映画を楽しめばいい、と考える方、それが正解です。しかしその感想を他者に発信する場合、発信した時点で責任が生まれることを自覚してください。発した言葉に責任が必要です。だから、自分の中で納得した言葉だけを使用すること。どこかに書いてあった言葉に自分の感想をこじつけないようにしてください。それが間違いの基ですから。
ハンガリー映画の「人生に乾杯!」を見て、僕はこの映画に共感できませんでした。しかしロジャー・コーマンの「血まみれギャングママ」は、作品として力のある映画だと感じました。この違いについて考えたいと思います。

映画は、たいていある人物を描きます。「人生に乾杯!」は老夫婦が中心で、それを追う若い刑事夫婦も傍役として登場する。「血まみれギャングママ」は、マ・バーカーという実在の犯罪者を主役にして、その息子たちの非道ぶりを描きます。共に犯罪者を主役にすえているという共通点があり、その主役が警察など権力側に追いつめられるという展開も同じです。

違うのは、「人生に乾杯!」が老夫婦に好意的な視点で映画を作っているのに対し、「血まみれギャングママ」が冷淡なまでに突き放して描いている点です。僕にとっては、同じレベルの犯罪者に思えるので、老夫婦には同情してマ・バーカーには冷たくあたるという意識は生まれません。だから、「人生に乾杯!」を見終わった印象は面白くないのに対し、「血まみれギャングママ」は少なくともショッキングな映像だけは印象に残る。←ワインのボトルをロバート・デ・ニーロにぶつけたシーンの迫真性はすごいと思いました。

これは映画を見た人間の倫理観で“裁く”のではなく、映画がすくいあげた人間像に共感できるかどうか、映画のすくいあげかたが適切だと感じるかどうかの問題です。「人生に乾杯!」は前者として僕には失格で、「血まみれギャングママ」は後者として合格なのです。

もっとも僕には「人生に乾杯!」が描かなかった半世紀の生活が想像できませんので、こういう否定的な感想となりました。もしかしたらハンガリー動乱時代を体験したハンガリー人には、格別の意味があるかもしれない。もしそうなら、そういう人のための映画として成立していると思います。僕の映画ではない。

その点、「血まみれギャングママ」は、とにかく映画で稼ごうとするロジャー・コーマン監督作なので、話題作りを狙った残酷描写や、二番煎じを狙った題材など、その商売気がみえみえです。その中で観客が期待するであろう場面作りを展開しているけれど、そういう商魂を超えて、ずしんと手ごたえを感じる部分がありました。これは予定調和をよしとする映画制作からは生まれないものだと思います。
たまたまこのところNHKやWOWOWで「アラビアのロレンス」「史上最大の作戦」「大いなる西部」「グラン・プリ」という、僕が20歳前に見た“大作”を放送してくれました。「グラン・プリ」はまだ見直していませんが、つい序曲からタイトルにかけては見てしまった(笑)。

この中ではとりわけ「大いなる西部」が、“映画の面白さ”を分析するのに適当な気がします。

僕はスターチャンネルのハイビジョンで録画していますが、今回のNHKの放送はアタマの20分を見逃して、そこから最後まで見てしまいました。ただしこちらは、自宅の32インチテレビ。やはり事務所の42インチでアタマの部分を見直すと、ずいぶん感覚が違います。大げさに言うとDVDとブルーレイの違いがある。←今回のNHKがSDで、スターチャンネルはいちおうHDですから。

スターチャンネル版は、冒頭のソウル・バスによるタイトルを左右切らずに見せようとして、左右を詰めていました。だから画面は少し縦長。←駅馬車の車輪が回る場面などは、わざとアナモフィックレンズなしで横長にしているので、この放送だとその効果が薄れています。

「大いなる西部」は、グレゴリー・ペックとウィリアム・ワイラーが、“スケールの大きな西部劇を作ろう”ということで製作した2時間48分の大作です。ペックとヘストンという顔合わせに、チャールズ・ビックフォードとバール・アイブイの対決をからめ、そこへチャック・コナーズなどが“悪役”として加わっています。基本的には、東部から来たアメリカン・ウェイの体現者ジム・マッケイ(ペック)が、自らの手で社会を守ってきたアイブイとビックフォードと対立するという図式。

マッケイが婚約者の父(ビックフォード)の言いなりにならず、アイブスの側に対しても公平な対応をするというところがポイントです。一方、ビックフォードは自分の信念に疑いを持たず、その娘キャロル・ベイカーも同じ。しかし牧童頭のヘストンは疑問を抱きつつ行動を共にする。さらに粗野に見えるアイブスがとてもリベラルで、状況を見抜く目を持っているという設定が見事でした。つまり、観客にだけ分かる全体の人間関係を、ある現象からすべて納得するという、その勘の良さが人物像を大きくする。それだけでなく映画の進行がとてもスムーズなわけです。

こういう人物構成の妙味というものが、最近はなくなった気がします。というか、映画史に残るような作品と最近のトラッシュ・ムービーを比べるほうがいけないのですが。
「牛泥棒」という作品は、日本未公開だったのでその邦題を知りませんでした。しかし原題の“オックスボウ・インシデント”は先輩たちから聞かされています。日本未公開ではありますが、アカデミー作品賞候補となっているだけに、いろいろな形で情報が伝わって来たのでしょう。

西部劇BBSという、先輩から教えてもらったページがあるのですが、そこでも「牛泥棒」についていろいろ書き込まれています。その中で興味深かったのは、テレビの1時間物でこの内容と同じものを見たという書き込みでした。
ウィリアム・ウェルマンの「牛泥棒」は1943年作。テレビものは、1955年で映画の脚本を脚色したようです。
その書き込みを参考にキャストを比較すると次のとおり。

Henry Fonda ... Robert Wagner ... Gil Carter
Dana Andrews ... Cameron Mitchell ... Donald Martin
Anthony Quinn ... Rodolfo Hoyos Jr. ... Juan Martínez(Gonzales - the Mexican)
Harry Morgan ... Eddie Firestone ... Art Croft (as Henry Morgan)
Jane Darwell ... Hope Emerson ... Jenny Grier
Matt Briggs ... Taylor Holmes ... Judge Daniel Tyler
Harry Davenport ... E.G. Marshall ... Arthur Davies
Frank Conroy ... Raymond Burr ... Maj. Tetley
Marc Lawrence ... Michael Ansara ... Jeff Farnley
Paul Hurst ... Wallace Ford ... Monty Smith
Victor Kilian ... Willis Bouchey ... Darby the bartender
Stanley Andrews ... Ray Teal ... Bartlett (uncredited)
Forrest Dillon ... Robert Adler ... Mark (uncredited)
George Lloyd ... Walter Sande ... Moore (uncredited)
Dick Rich ... James Westerfield ... Deputy Butch Mapes (uncredited)
Leigh Whipper ... Jay Brooks ... Sparks

ロバート・ワグナーやレイモンド・バー、そしてキャメロン・ミッチェルの役どころは、西部劇BBSへの書き込みを参考にしました。

さらにクリント・イーストウッドがこの映画が大好きで、ウイリアム・ウェルマン監督の未公開作「壮烈!外人部隊」に出演したとき、「牛泥棒」の話をいろいろ聞いたそうです。そして西部劇BBSでは「奴らを高く吊るせ」との関連、あるいは「ダーティ・ハリー」との設定の対照に言及しています。

詳しくは
http://widewestweb.com/
をどうぞ。
「ウィンターズ・ボーン」という未公開映画をアメリカ版ブルーレイで見ました。それで気づいたのは、手持ちカメラの撮影方法に関すること。

日記にも書きましたが、僕は最近の「ブレアウィッチ・プロジェクト」以後の手持ちカメラによる撮影が嫌いです。しかしそれは、手持ちカメラによる撮影をすべて否定するものではありません。
そもそも僕が大好きな「イージー・ライダー」や「ブラック・サンデー」なども手持ちカメラを多用しています。一時流行って、最近ではもう常識化したステディカムも、基本的には手持ちカメラです。

では僕は手持ちカメラの何が嫌いなのか。
「ブレアウィッチ・プロジェクト」という作品は、インターネットを利用したその宣伝方法以外に何も見るべき部分のない作品(とも呼べないと僕は考えています)です。
素人がビデオカメラを回したものを見ているという設定だから、当然全編手持ちカメラになるというその“方法論”自体がナンセンスなのですが、それをとりあえず置くとしても、画像をきちんと正視できないという不快感が、そもそも映画という範疇を越えていると言えるでしょう。

ところが、それが“手法”と誤解されて、その手法が低予算という作り手の事情に大きく貢献するものだから、世界的な流行となったわけです。最近の観客は、カメラをぶん回す=迫力だと考えているフシすらある。同じアクションを撮影しても、迫力満点に捉えるかそまの迫力を疎外したつまらない画面にするか、それは作り手の技量なのですが、作り手の技量というものは作品の総合力と共に観客に迫るだけに、なかなか素人には判断ができません。

ところが、半可通の映画ファンは、そういう小手先の変化だけは見えるもので、そういう分かりやすい部分だけを論じることになる。たとえば「息もできない」という韓国映画においては、暴力の本質を見据える視点や、主人公たちの人生を見通す視点が必要なのに、ガタガタと忙しい画面を“迫力ある”と述べ、殴ることが暴力で、子供を思いやることが優しさだと簡単に割り切り、ドラマのリアリティについては細かく検討せずに褒めまくっている論評を見かけます。

ま、こういう“方法だけを論じる者”は退廃していくしかないので、いちいち相手にする必要もないのですが、低予算という奥の手をモノにした作り手たちは、飽きもせずに手持ちカメラで画面を揺らすわけです。

ぜひ映像を心がける人は「ウィンターズ・ボーン」のフルショットの威力を味わってほしいものです。撮影監督は「ボーリング・フォー・コロンバイン」のマイケル・マクドノーという人で、寒々とした冬景色の中を彷徨する主人公リーを、見事に捉えています。もっとも、結末のつけ方など、映画としては手放しで褒める作品ではありませんが。
映画というものは画面と音声から直接的に受ける刺激を楽しむ楽しみ方と、そのような刺激から自分の個人的な情念の世界へ入り込んで楽しむという楽しみ方の二つがあると思います。最近は前者の、“直接的な刺激”が多くなり、いささか物足りなく思っていました。

予告編を見た時点で「エンジェル・ウォーズ」も直接的な刺激を楽しむ映画だと思っていたのですが、これが意外にも後者でした。もちろん前者だと決めつけて見ている人も多いでしょうし、それが“間違い”だなどと誰にも言えません。二十歳が最も青春の輝いている時期だなどと誰にも言えないのと同じ(笑)。

「エンジェル・ウォーズ」は、母親が死に、その哀しみのさなか義父が妹を犯し自分にも迫ってきたため銃で反撃した娘が、逆に犯人扱いされて施設に入れられるという物語です。そのレノックス病院では、娘たちが“客”に対してセクシーな踊りを披露するということになっている。そして娘は、その踊りの最中に自分の妄想の世界へと旅立ち、敵どもを木っ端微塵に殲滅する(という夢を見る)。

実はセクシーな踊りというのも妄想で、実際は“サッカー・パンチ”という題名のサッカーのほうだと僕は思いました。つまり媚びておしゃぶりすることでつかの間の安楽を得るのだと。だから妄想であるセクシーな踊りは画面に登場するはずがない。もちろんサッカー部分を映像化したらRどころかX指定になってしまうから、それもしない。

とはいえ僕のような観客は、ワイヤーワークで派手な立ち回りを演じる少女たち(といっても二十歳過ぎだけどね)の姿を見つめながら、彼女たちがサックしている“事実”を認識するわけです。これが面白かった。僕はそういう楽しみ方を無理やり行ったのではなく、映画を見ている成り行きで自然と行ったわけです。こちとらの想像力では、AVの具体性なんかものの数ではない(笑)。

この「エンジェル・ウォーズ」を、美少女軍団の活劇として直接的に見た方は残念でしたね。僕は同じ監督の「300」を直接的に見てしまい、暑苦しくむさくるしいだけの印象でした。少なくとも今回は、画面の大半を女優さんたちが占めていたから、それだけでも大違い。この監督の作品は素材によって見ることにします。←ところで、ブロンディーがなぜブルネットなの?
昨日(6月6日、でも6時ではない)、都内某所で「イージー・ライダー」を鑑賞しました。ブルーレイをスクリーンに投影するという形式ですが、HDMI端子を使うからDVDを見るのとはわけがちがいます。少なくとも字幕のキレが抜群。

個人的には40年前に学生だったころ、この映画を上映する映画館でアルバイトしており、劇場前に“ゴリラシアター”を再現してヒッピーの芝居もどきを行い注目を集めたり、大阪シネクラブ研究会にDMして勧誘したりしました。その思い出とともに映画を鑑賞するのですから、僕の心象時計は40年前と今を行き来します。久しぶりにスクリーンで見た面白さたるや、とても42インチや32インチの液晶画面とは比べることはできない。←しかし草の色や洗濯物の色の感触がいまいちベタっとしているのは、やはりこういうシステムの限界なのでしょう。

そして40年前に画期的な作品だと感じた手ごたえは、現在でも同じでした。もっともこれは、40年前の印象を長年にわたって自分の中で継承しているからでもあります。この「イージー・ライダー」などが拓いた新しい映画の流れを、紆余曲折しつつ継承している現在の映画しか知らない人間がどう感じるか。それはまた別の話でしょう。歴史を継承できる人間だけが、歴史を継承すればいい。「大列車作戦」のポール・スコフィールドのセリフのように、“芸術はそれが分かる者だけのためにある”のです。

では分からない人間はどうすればいいか。簡単です。その作品と無関係に生きればよい。だから“分からない”とは言わず、“好きではない”とか“つまらない”と発言しましょう。それが建設的な意見です。
「獲物の分け前」という1966年のフランス映画を見直して、僕はラストの5秒間の、あのシーンが見たかったのだと気づきました。公開当時に僕はこの映画を、その年の自分のベストワンに推し、当然のごとく周囲から冷ややかな視線を浴びせられたものです。

服のままプールに飛び込んで、とりあえず這いあがったジェーン・フォンダ扮するルネは、離婚したばかりの自分の元夫に助け上げられ、ジムの椅子に座って待っていろと命じられます。元夫の息子との新生活をもくろんだルネは、それがかなわなかったことを知ったばかり。プールに飛び込んだのが自殺するためかどうか、それは分かりません。しかし絶望的な状況のルネの心を表わすのに、あの5秒間のショットほど見事なものはなかった。

ルネを捉えたカメラはトラック移動すると同時にレンズがズームする。するとルネはそのままで、後ろの壁がすーっと後ずさりしていく感じとなります。
この映画は、この1カットを見せたいがために90分近い物語を作ったのではないかと思うほど、この移動とズームの組み合わせは鮮烈でした。

ある一場面にその映画の本質が凝縮されているといえば、蔵原惟繕の「執炎」があります。夫が戦死し悲しみにくれた妻が雪の中、唐傘を手に餘部の陸橋を渡ります。そこへ汽車が来て、その風で傘は吹き飛ばされる。ひらひら舞いながら落ちていく唐傘。これも名シーンでした。僕は「ライアンの娘」の冒頭は、この「執炎」のパクりだと思っています。

もちろん「獲物の分け前」も「執炎」も、それ以外の場面がつまらないわけではありません。それどころかどちらもきちんと一級品の出来栄えです。それでいてなお、強烈なワンシーンがあれば、その映画は“一生もの”になるのだということです。
何が一生ものになるか、それは各人各様ということですが。
ウィリアム・ワイラーの「大いなる西部」を午前十時の映画祭で再見し、プリント状態や字幕に不満はあったものの、やはりあの映画の世界観というものを存分に楽しみました。

グレゴリー・ペック扮する東部の船長ジム・マッケイは、父親が決闘で死んでいることから、たとえ名誉のためであろうと死ぬことはないと考えています。そして名誉とは他人に誇示するものではなく自分が納得すればいいのだと。

しかし西部の大地主テリル少佐(チャールズ・ビックフォード)や、少佐と対立するヘネシー一家の長ルーファス(バール・アイブス)の考え方は違います。西部では、自分の正しさを常に他人に対して証明しないといけないと考えている。

マッケイも、実は戦うべき時があることを知っている。つまり基本的には西部の男たちと同じ考え方です。しかしマッケイは、法律が届かない地域でも自分が法律だと主張する少佐や、それに対立するヘネシーとは考え方が異なる。そういうマッケイでも、バック・ヘネシーとの決闘には臨む。このあたりがワイラーの真骨頂だと思いました。

バックとの決闘は、ルーファスの管理下で略式的に行います。略式とはいえ本質は外していない。しかしバックはそのルールを守りません。ルールを守らない人間は殺されてもしかたがないというのが西部の掟。もちろんの掟は、ルールを守らない人間が明確に悪の場合だけですけど。

つまり決闘という実際的な物事の解決法は、そもそも白黒を社会に納得させられない場合の、便宜的な解決方法だったわけです。それがしだいに“名誉のために命をかける”と美化されて、まるで正しい解決法のように受け継がれた。ジム・マッケイはその非合理性を主張しながらも、非合理な解決法に身を委ねたわけです。

「大いなる西部」は19世紀後半の西部を舞台にして、堂々たる人間ドラマを見せてくれました。テリル少佐の偏狭な考え方、それを受け継ぐ娘パット、対立するルーファス・ヘネシーのこれまた同様な西部魂。あるいは少佐に息子同然の扱いを受けている牧童頭スティーブ・リーチのカウボーイ魂。それらすべてに対してジム・マッケイの考え方が正しいかのような結末を見せる。もちろん歴史の流れはマッケイの考え方に近い連邦政府の発展で現在へとつながっています。だからこの映画もそう描いただけ。白人=善、先住民=悪と簡単な図式にしていた西部劇とは違い、ワイラーの大作は当時のアメリカ社会の思想的根拠にまで踏み込んでいるのでした。
テレンス・マリックの「ツリー・オブ・ライフ」が面白くないと僕は日記に書きました。映画の面白さというものは、あくまでもその映画そのものと観客との個人的な関係です。あの映画が生涯のベストワンだというほど感動したという人がいても僕は構いません。ただ、そういう人は、何がどう感動したのかを語ってほしいと思うだけです。あの映画をつまらないという僕の判断が、僕の認識不足ならそれを具体的に指摘していただくだけでもいい。

「ツリー・オブ・ライフ」のモノローグは、僕の気持ちを萎えさせました。こういうスタイルでモノローグをつづるのなら、見る気が起きないというたぐいのものです。僕の考えでは、映画は音と絵の組み合わせで観客に何かの感情を起こさせるものです。しかし「ツリー・オブ・ライフ」のあのモノローグは、登場人物のありきたりな心情の説明ということ以外の何物も感じさせず、だからそこから先の映画への興味を打ち切ろうという気にさせるものでした。

息子が死んだという手紙を受け取る母親。普通なら息子の死の現場にいるはずの母親が、手紙でことを知るという特殊な事態なのですが、その特殊な状況になぜ陥ったのかを映画は描きません。描かないで“ああ、神様”とモノローグに入る。これで子を思う母親の心情を汲み取り感情移入できる方を僕はうらやましく思う。僕の映画読解力においては、そういう踏み込んだ(映画に同情的な)行為をしないもので。

そしてこの「ツリー・オブ・ライフ」では、家族それぞれの名前についても描写しないし、時代設定や場所設定についても、説明するという手法を放棄しています。さらに時制の行き来についても、観客は全く置き去りにされてしまう。そういう手法は作り手が決めることですから、どうぞご自由にと思います。しかしそういう常識破りの手法を使って、何を得たのかと問いたい。僕の見る気をそいだことはともかく、それを上回る何かがあればそれでいい。しかし何もないわけです。だからつまらない映画だと僕は断じました。

映画の評価というものはそういうものであり、観客の程度と密接な関係があります。だから僕は、この映画を本気で褒める人に、その本心を伺いたいと切に思うわけです。
僕は日記などで映画を評するとき、クリシェとかステロタイプという言葉をよく用います。クリシェというのはフランス語から転じて英語としても使われている“決まり文句”とか“陳腐な言葉”ですね。ステロタイプは紋切型態度というもともと社会学用語で、フランスではステロタイプのことをクリシェというそうです。

映画は、俳優が演じる姿を映像に定着するわけですから、喜怒哀楽のいろんな感情全てに千差万別の表現があるのですが、陳腐な表現とか、またかと思わせるクリシェをよく目にします。
例えば、悲しいから泣く、あるいはおかしいから笑うというのは“正しい”行動ですが、その映像としての定着の仕方でクリシェにもなり、名場面にもなる。あるいは“人の命は地球よりも重い”という言葉が、効果的に響けば感動を呼ぶでしょうが、陳腐に使われたら意味がない。

だからクリシェにならないような映画を作るということは、作り手の本質が問われているということだと思います。
例えば「赤い河」でジョン・ウェインがジョーン・ドルーが腕にしている腕輪を見つける。これは常套手段のひとつですがクリシェではなくて小道具が生きている。しかし「ワイルド・スピード MEGA MAX」でヴィン・ディーゼルがクロスを落とすシーンは、まさに常套手段としてのクリシェだと感じました。でも「ワイルド・スピード MEGA MAX」は、人物描写がクリシェでもいいと割り切った作品です。誰もこの映画から人生を考えようなどと思わない。そういうクリシェも存在するのですが、僕が人生を考えたいテーマに対してクリシェを繰り返す監督には、やはり“地獄に落ちろ”というしかありません。
ここ数年、僕は映画に限らず作品というものは、作られた当時の空気を感じながら鑑賞するべきだと考えています。
そしたら音楽番組でこんな記述が。

BS−TBSで放送している「SongToSoul」という番組は、ポップスの名曲誕生秘話をいろいろ紹介してくれます。その「青い影」編で、プロコルハルムのアルバムにこんな記述がありました。

“To be listened to in the spirit in which it was made.”(作られたときのスピリットで聴いてください)

1970年ごろの、それもロックのアルバムに、こんな記述があるということに驚きました。そのアルバムは曲が作られて1年もしないうちに発売しているわけですから。
これはしばらく“座右の銘”にしようかな、と。
ジョン・フォードの70ミリ大作「シャイアン」を見ていて、いろいろ感じるところがありはするものの、なんか映画としての出来栄えがよくないと感じました。途中に出てくるジェームズ・スチュワート演じるワイアット・アープの逸話が唐突に感じられ、流れががらりと変わってしまうからです。それまでの先住民の悲劇に対し、とってつけたような白人たちのユーモラスなドラマが浮いている。

これを知ってか知らずか、ロバート・ロドリゲスとクェンティン・タランティーノが作った「フロム・ダスク・ティル・ドーン」という映画は、前半がクライム・サスペンスで後半がゾンビ映画でした。そして真ん中に“ハーフタイム・ショー”としてサルマ・ハエックの踊りが挟まっていました。こちらは、その大胆な構成を楽しみましたけど。やはり「シャイアン」は、扱っているテーマが重過ぎて、幕間劇程度ではその重さを払拭できなかったということでしょう。そしてその幕間劇が、白人たちの先住民に対する横暴を描いているというわけでもなかったところが“浮いた”原因だと思います。

孫のダン・フォードが書いた伝記には、ジョン・フォードが製作途中に情熱を失うさまが記載されています。そして年齢と共にそれが早まったことも。ジョン・フォードは唯我独尊の映画監督だったようで、そうではない撮影現場では仕事への熱意をなくすようです。って、これは誰でも少なからず感じることですけど。「ミスタア・ロバーツ」では、ヘンリー・フォンダが自分の生涯最大の当たり役というスタンスを取り続けたし、頼まれ仕事の「モガンボ」ではクラーク・ゲイブルというスターさんと折り合いが悪かった。自らのアーゴシー・プロで金に苦労するのはもうごめんだと、メジャーの仕事へと転換したら、自らのプロでの自由を謳歌した演出スタイルを封印されてしまったわけですね。

ことほどさように、映画製作はさまざまな要素が映画の出来に影を落とします。しかし我々観客は、作り手の苦労など画面から読み取ったりしません。お金を払って映画を見て、その上映時間だけ楽しめたかどうかが問題。観客が最も唯我独尊なのでした。
【シヤイアン】における、フオードの情熱のなさは、ファンにとっては、残念でした。【ミスター・ロバーツ】見直しましたが、面白かったですが、それほどのインパクト感じられませんでした。フイリップ・ケリーが、映画に進むに連れて、目立たなくなってましたな。
ペットさん、どうも。
「ミスタア・ロバーツ」も、フォードにとってはいろいろありましたので。そもそもマーヴィン・ルロイとの共同監督作で、ポスターのビリングも小さい。やはりヘンリー・フォンダとジョシュア・ローガンの作品なのでしょう。
僕は、“普通に面白い”という言い方が嫌いで使いませんでした。しかし最近、吉田戦車のエッセイを読んで、彼と同じ感覚で使うのなら“あり”だと思うようになりました。

僕は“普通に面白い”という言葉に、“普通ならこの程度の面白さは面白いと認めないけど、あんまりこんなことで波風立てるのもなんだからとりあえず認めてやろう”という上から目線を感じるから嫌いでした。
しかし吉田戦車が屋久島に行くとき飛行機の後ろに座っていた若い女性の言葉として、屋久島の飛行場に着陸する際、海面にぶつかるような着陸の仕方に対して“普通に怖いですね”と若い女性たちが“固い口調で”ささやきあったという描写を読むと、上から目線はともかく“この程度のものに面白がってしまった自分”というニュアンスが読み取れたわけです。それ以来僕は、“普通に面白い”という言葉を時々使用しています。

たとえば先日、マイミクさんたちとしゃべっていて「ミッション・インポッシブル ゴーストプロトコル」を“普通に面白い”と言いました。この映画なんか、この言葉にぴったりだと思います。つまり“別に無理して見なくてもいいよ。もしヒマとカネがあれば見てもいいんじゃないかな。だからって責任は持たないけど”という意味です。

これに対して吉田戦車はちゃんと、“きちんと面白い”という言葉を用意していました。こうでなくては。
やはり岩手県が生んだ宮沢賢治に次ぐ逸材は、言葉の用い方がうまいものだ。
プレイク・エドワーズの「グレートレース」を見て、2時間40分は長いよと思いつつ、いろいろと細かい部分に気づきました。
日記にも書きましたが僕はローレル&ハーディの喜劇映画をあんまり見ていません。「天国二人道中」という65分の作品程度。あとはテレビで見た短編ですね。だから「グレートレース」については古い喜劇映画へのオマージュ部分より、公開当時のブレイク・エドワーズや出演者たちの細かな関連性が面白かった。

まずタイトルのビリングではジャック・レモンが先です。冒頭のタイトルではトニー・カーティスが最初でそれを消す格好でジャック・レモンが出てきます。しかしラストの名前の順序はジャック・レモンが上。これは「お熱いのがお好き」を意識していますね。さらにトニー・カーティスがナタリー・ウッドに迫るのに対し、ジャック・レモンとピーター・フォークは徹底的にナタリー・ウッドを追い出しにかかる。そのピーター・フォークがラストにナタリー・ウッドからブーケを受け取る(そしてジャック・レモンに何か言おうとする)のは、まさに「お熱いのがお好き」を意識していると思います。

そしてジャック・レモンが二役を演じる皇太子は、何かというと“ブランデー”と酒を要求する。これはブレイク・エドワーズとジャック・レモンの「酒とバラの日々」を意識していないわけがない。パイを投げられてペロリと味わい、“ラムか。初めて味わう”というセリフがあるのですが、初めてでラムと分かるの?というギャグですね。

あるいはテキサスのボラーチョという町では、保安官役でデンバー・パイルが顔を見せます。彼はこの後「俺たちに明日はない」でボニーとクライドに捕まり記念撮影される保安官を演じていました。でも本来は悪役が多い。
そしてショーを眺めるカウボーイたちのなかに、ケン・カーティスに似た男がいました。その隣にはハロルド・マ・ストーンみたいな男も。でもmdbに記述がないから他人の空似でしょう。なにしろ僕はラリー・ストーチの顔さえ覚えていないんだから。

映画の出来という観点から見ると、やはり冗長というしかない作品ですが、自分の映画体験と照らし合わせて考えると、そう簡単にうっちゃっておくことはできない映画なのでした。
映画の“面白さ”というものを分析する前に、とても興味深い発見がありました。もっとも“発見”したのは僕だけで、みなさんは先刻ご承知かも。

NHKのEテレ(以前教育テレビと呼んでいた地上波です)で、2355という5分間の番組があり、さらにその中に“1ミニッツ・ギャラリー”というコーナーがあります。ジョン・ウッドとポール・ハリソンという2人組のアーチストの映像が主で(リンゴはどうした? でもジョン・スターキーじゃあんまりですな)、最近日本人のアーチストも加わりました。
その田中なんたら言う人の作品を見たのですが、アイデアとしてはジョンとポールに似ているのですが、見た印象はまるで違う。それは“芸術になっていない”ということだと僕は思います。

田中なんとかさんの“作品”は、たとえば紙コップ(プラスチックだなどと無駄な突っ込みはやめてね)を投げて、きちんと立つ映像を5回とか繰り返します。そのアイデアはジョンとポールにそっくりですが、なんのひねりも昇華もない。アイデアで終わっています。ジョンとポールは、アイデア一発のように見えて、実は撮影方法や観客の感じ方など綿密に計算していることが、田中さんの作品を見て分かりました。

つまり映画というものの面白さも、これと同じなわけです。着想や表現したい内容が同じでも、表現の仕方や作品の作り方でがらりと違う。
そしてやはり僕は、作品として余計な部分はそぎ落として提供してもらいたいと思うわけです。アイデアだけを放り出されても、それがどうしたと蹴飛ばして返すしかありません。
映画は、見て楽しめばいい、これが基本です。しかし時々、娯楽以外の内容を提供する映画もあります。
そんなとき問題になるのは、その“内容”を見ていて理解できるかどうかということ。

よく映画の感想として、“分からなかった”という言い方があります。これは“理解できなかった”という部分と、“面白くなかった”という部分を持っています。
“分からなかった”けど“面白かった”作品の例として、僕には「2001年宇宙の旅」があります。これには多数の人が同意すると思うな。あの映画を“面白くない”ときちんと言える人は少ないでしょう。

もうひとつの例として“分からなかった”から“つまらなかった”作品を。それはアンジェイ・ワイダの「灰とダイヤモンド」です。
この映画は、当時のポーランド情勢の関係から、内容をかなり変えられたらしい。だからキーワードとして“ワルシャワ蜂起”ということが語られ、共産党の県書記長を殺害するというテロが描かれるわけですが、テロリストであるマチェクの心の動きが僕にはよく分かりませんでした。だから、今風(ちょっと手垢にまみれすぎたけど)に言うとスタイリッシュな映像で興味をひっぱるけれど、「地下水道」に比べると格段につまらないと僕は思います。

という前置きをして「裏切りのサーカス」です。
僕はこの映画、分からないといえば分からないけど(つまり、事細かに筋を説明できないということ)、面白かったな。登場人物が多すぎて、それぞれ名前と愛称と交錯するから分かりにくいという意見があります。そうかもしれないけど、コリン・ファースやシアラン・ハインズという分かりやすい顔を並べてくれたから混乱はしなかったと思っています。テレンス・マリックの「シン・レッド・ライン」みたいに、知らない顔の若い俳優がヘルメットをかぶって出てきた上に回想シーンもあるという展開とは全く違います。

ということで「裏切りのサーカス」は“見せる”ことに主眼を置いた映画でした。説明的な語りはできるだけ排除し、映画だから見せようとしている。この姿勢僕は好きです。でもその手法で置いていかれた観客がいたようで、それについてはどうするのかということになります。それは簡単に言うとあきらめるしかない。そこで悔しいから分かろうとして原作本に手を出すのは、はっきりと“間違い”だと断じておきましょう。原作と映画は別物だから。

だから僕は「シン・レッド・ライン」については“つまらない”と断じ、それ以上深追いしませんでした。同じ監督の「ツリー・オブ・ライフ」も同じ。
では「2001年宇宙の旅」はなぜ深追いしたのか。それはあの映画に、それだけ魅力を感じたということです。当時は僕も、ノベライズした原作本を読んだり、いろいろな評論を読みました。しかし結局、分からない部分は分からないままでいい、という結論に達したのです。分からなくても作品から感動を受けることはあるし、それこそ映像を主体にした映画という芸術の本分だから。

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