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北京波の新世紀映画水路コミュの『あおげば尊し』評

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ボクは全く予備知識を入れずに映画を観たいと思い、可能な限り実践している。

だから重松清の原作があることもエンドクレジットで知ったほどだ。

小学校教師のテリー伊藤は末期ガンの父親・加藤武を自宅で看取ることを決意し在宅医療とする。

それをするためにはマン・パワーとして三人は必要だが母・麻生美代子、妻・薬子丸ひろ子と自分…。

映画は在宅の描写ばかりでなくリアリティは貫かれているが、それよりも一般の人間がそういう状況にはからずも立ち至ったときの心情をこそ大切にしている。

 自分の受け持ちの児童のなかの死体について執着を示す流れに対して、父のターミナルの日常を児童たちに見せることで命の大切さを伝えようとする。

だがその難しさは現在の教育環境の複雑さに似て簡単にはいかない。教師が「生きる道」を単純に説くだけで済むような無邪気な時代ではないからである。

いみじくも加藤武扮する教師といえば、ボクには『キューポラのある街』だが、あの教師は真面目に努力していけば報われるということをひたすら説いた。

貧しくとも努力と恪勤によって人生は拓けると誰もが信じていた時代にはそれでよかったのである。

 成熟した社会を獲得できないまま、表面的には貧しさ(物質的な貧しさ)は駆逐された。

その代償として我々はもう満たされることのない(精神的な貧しさの)空隙を内包したまま生きていくのである。

人倫の道を指し示す役割を背負わされた職業には言い様のない空しさが取り囲むが、社会はそれでも、まだそういった絶望的な変化の生じなかった時代のモラルを求めてくる。

それは職員会議で児童への指導にクレームが出た女教師の「冷たいというより厳しいと言われたい。生徒を愛するというのと甘やかすのとは違うはずです」というセリフに象徴される。

このセリフには大いに頷くものだが、「大人でもない未完成な人間に対して(配慮は)必要じゃない」という言葉には彼女の内なる修羅が垣間見える。

薬子丸ひろ子が自分の父親の葬儀・告別式において、義理で参列した若い男に緊張感の欠如から笑顔が浮かんでいたことに悔しさからいう「本当に悲しみを知っている人しか死と向き合っちゃいけないのよ」という セリフ がこの真摯な作品を象徴している。

久々に慟哭した。

(ここから以後には、映画の核心に触れた部分があります。ご覧になる予定の方はご遠慮ください。)

この疾病によって死を間近にしているシチュエーションはすでに『病院で死ぬということ』で描いた市川準監督がなぜ同じようなテーマを取り上げたのだろうか。

この二作品には互いに大きなスタンスの違いがある。

『病院で死ぬということ』も好きな映画だが、どこか頭で考えた図式的な部分がないではなかった。

死というものが観客にとっては、やはり対岸の火事であるという印象が払拭されていない憾みがあった…。

その原因は一言で言うなら「文学的なアブローチ」だと理解している。

ボクもそうだが、文学的素養のある人がテーマに対して積極理解して作品を高めている。そんなところがあるように思う。


今度の映画では文学的素養など関係なし。知性のみが必要なだけである。これは作品としては好き嫌いを除けば、ボクにとっては市川準の成熟だと感じた。

なにしろ、この映画のラストには、従来の市川準作品からみれば驚異的なシーンがある。

加藤武は在職中に学校では生活指導のような生徒から煙たがられる任にあった。

そのことが、プライヴェートでは結婚式へ招待されたこともなく、孤独な忘れ去られた存在であると、病に倒れてからは、家族までがみんなそう感じていた。

それをはっきりと口に出したのは加藤の孫にあたるテリーの息子だが、テリーそのものがそれを否定できないのである。

同僚に父親のことを「ほら,テレビの学園ドラマで、憎まれ役の教頭がいるじゃない。そんな役どころだったんだよ」などと、息子でありながらも紋切り型の言葉しかでてこないところに窺われる。

また児童の指導に行き詰まったテリ-が「あの指導しやすかった6年○組はどこへいっちゃったんだろう」と信じられない弱音を吐くところには、テリーもまた、真の苦悩や煩悶に身を灼く思いをいまだかつてせずにすんでいた教師であることがわかる。

加藤武の手を児童が握る。

妻が言う「お父さんの最後の授業なのよ」という言葉は、自分の夫や父親の死を自分たちだけの大切な人間としてパーソナルな死をまっとうさせてやろうという悲しい決断がある。

それだけに告別式の喪主の挨拶のあと、出棺する加藤の骸へ「先生!」「先生!」と参列者の幾人もから声がかかり、誰が始めたともなく『仰げば尊し』の涙の合唱が起こったとき、加藤の死はパーソナルなものから社会的な死へと変貌した。

それは、加藤のみならず、夫、父親、祖父の死に堪えたテリー一家への、実人生では滅多に訪れない「人が報われる瞬間」である。

そりゃあ、それは全体の流れから言えば一種の破綻であるだろう。

だが、これをやらないなら、この原作を選んだ必要がないだろう。

もはや人生の復路を走っている人間には、これは嬉しいことだ。

テーマ至上主義から厳しい展開を選んだほうが完成度としては高まっただろう。

しかし、このラストで市川準はてぐすね引いたに違いない。

市川準がいい映画から嬉しい映画を作ってくれたことに体が温もった一日だった。
(★★★☆☆☆)

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