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北京波の新世紀映画水路コミュの『二人日和』評

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これは不思議な映画である。

演出がまるで存在していないかに感じられる。

この忘我抑制の演出だけで監督が年配であることを確信する。

確かめてみると野村恵一監督、1946年生まれだと分かった。さもありなん。

 京都に生まれ育った老夫婦の物語。京都人らしい皮肉も諧謔も意地も充分に持ち合わせた藤村志保の妻が不治の病にかかっている。

病名は映画の中ではつまびらかにされないが「ALS」である。

先日の『スタンドアップ』という映画のなかでフランシス・マクドーマンドがかかっていた病気と同じ「筋萎縮性側索硬化症」だ。

栗塚旭扮する夫は代々の神祇装束司で寡黙な一徹者。

妻に忍び来る死の瞬間に耐えている。毎日お宮にウォーキングを兼ねて染井の名水を汲みにいく。

仕事前にその水でイノダの珈琲を淹れるのである。

そのことからも判るのは、この2人が京都という土地で四季の移ろいのなかにささやかな2人の生活を育み積み重ねてきた時間の重みである。

魚屋に夕餉の刺身を誂える。そこには「ぐじ」が皿に盛られる。「ぐじ」は「桜鯛」のことで、春先の関西人が特に大切にしている旬の食材である。

どちらかといえばまさに京都の食材というイメージが強いものだ。この季節の到来を告げる献立にも箸が進まない。

入院して錦市場でだし巻玉子を買っていき、一口ずつ運んでやるが、徐々に嚥下障害が出てきているために噎せてしまい食べられない。

遂には嚥下障害と呼吸筋麻痺から右肺の無気肺となり、人工呼吸器の強制換気下におかれる。

この映画は日本ALSの会の協賛による作品だが、病気の詳細を描くものではなく、PRの効果はまったくないだろう。

むしろ、京都と普通の人間と疾病に崩れていく生活をこそ丹念に描く種類の映画である。

であるから、藤村志保の死の描写はなく、葬儀から一人欠けた生活が始まっていく描写に身上がある。

 映画はひたすら二人の俳優に見惚れていればいい。

とくに驚きは栗塚旭の立ち姿、歩く姿のいいことだ。

思えばそれは映画での代表作に恵まれなかった栗塚旭にようやく訪れたものだ。

ただ、この映画全般に言えることだが、リズムはあるがテンポに乏しく、老人の生理に合わせたのか…コクはあってもキレはない。

だからといって旨くないのではない。

ただ演出に鬼気迫るようなこだわりがないためにスコーンと抜けた憾みが残る。あぁいかんいかん。褒めるつもりだったのに…。(★★★☆)

この感想に松戸の友人ラージOさんからメールが来た。

僕も以前、自分の日記に書いたとおり。作品の出来を賞賛するものではありません。好きなのは、今の若い監督の作品が持ち得ない安堵感です。

それと、これが一番ですが…。藤村志保と栗塚旭。二人を観る映画です。 もっと言えば、二人の声を聞く映画です。

昨年『春の雪』と言う、撮影と大楠道代以外に見所のない作品がありました。

が、他にもう一つだけ…。それは、若尾文子。そして、彼女の声です。冒頭のシーン、ロングで姿が判然としないのに、声だけで若尾文子だと判るのです。

『二人日和』の藤村志保、栗塚旭の二人も正にそれ。声だけで見事に、二人の役者の存在証明をしています。

残念ながら、声に艶のなくなった最近の高倉健。晩年の渥美清からは、威勢のいい啖呵バイは消え、勝新太郎は、声が出なくなるのでガンの手術を拒みました。

若尾、藤村、栗塚、三人の声の健在を確認し、改めて、役者の“声”もスターとしての一部なのだと再認識しました。



本当にその通りだと思う。正直言うと、映画のはしばしに藤村志保が田中絹代とだぶって仕方がなかった。ちょうどそんな年齢にさしかかったということであろう。しかし栗塚はあくまで栗塚旭なのであった。

あの声…いささかも衰えておらず、見事な額の照りと艶にはなんともいえない若さが感じられ、映画での無精髭はあまりの若々しさを隠す手立てではなかっただろうか。

声と言えば『県庁の星』の井川比佐志…健さんのように皺くちゃですが、「ヒンヒンヒン」という『チキチキマシン』のケンケンみたいな愛想笑いを見事にやってのける。摂生を感じさせるものだ。

それにしても藤村志保の足の指のきれいなこと。外反母趾はありましたが…。栗塚旭は失礼だが爪白癬ですね。これは内服できれいに治ります。

ラストの「ここにおったんか!」あのセリフがあの透明感で成立させられたのは良かった!

あと、蛇足だが、この映画では主役に絡む重要な役で大学院で遺伝子を研究する賀集利樹扮する手品をやる青年が出てくる。

タイトルでも『二人日和』というメイン・タイトルの横に「原題:TURN OVER 天使は自転車に乗って」と小さく併記される。

これは実に珍しい。それほど、この映画では手品に対する思い入れが強いのであろう。

この映画の中で、藤村志保に対して最初にカード・マジックを見せるシーンで「ターン・オーバー」の説明がなされる。

ここでカードを裏返すのを「TURN OVER」と言うんですというセリフがある。あの直前に賀集はカードの混ぜ方に触れ、ヒンドゥー・シャッフルを見せておいて「これはみんながよくやるやつ」と言ったあとで、変わったやり方のシャッフルを見せる。

「リフル・シャッフルといいます」、そしてダブル・リフトにより一番上のカードをTURN OVERさせるのである。

この映画のようにカード・マジックそのものが重要な役割を示す映画は殆どない。

『多羅尾伴内』シリーズにおける「あるときは手品好きのきざな紳士」のシーンででるだけである。

たとえばヒンドゥー・シャッフルも普通の人にさせると左手に持ったカードの山に右手で引き抜いたカードをぺったんぺったん重ねるはずである。

これは映画のように右手でかかえたカードの山から左手で上から静かに引き抜き重ねていくのが正解。

この賀集、相当な訓練でこれらのネタではないテクニックを体得している。

だから、マジックをしている人間から言えば、カード・マジックとコイン・マジックぐらいは両方する人がいるだろうが、映画に出てきたようなステージ・マジックまでをやっているアマチュアは稀少である。

だからこそ、マジック指導に4人もの人が名を連ねているのだろう。

余談だが『スティング』の列車内のポーカーの場面で、ポール・ニューマンがロバート・ショーをやっつけるとき、ポール・ニューマンの手許のアップになる手は当時アメリカ一と言われたマジシャンのジョン・スカーネである。

映画の中の藤村志保と栗塚旭は賀集の見せたTURN OVER に心を奪われた。

そこにはダブル・リフトというテクニックによって一番上のカードが置き換わったからである。

彼らの厳しい現実問題がするりとTURN OVERすることはできないだろうか・・・という願いが背景にあることは恐らくまちがいはないだろう。
(ボクは学生時代にカード・マジックをやっていたから気がついた) 

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