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北京波の新世紀映画水路コミュの第3回ロケ地探訪ツアー上野・御徒町

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【その3・上野 】

【 日暮里 】〜【 鶯谷 】を通過し、車は【 上野駅 】に到着。駅前の駐車場に入れ、そのまま巨大な歩道橋を渡った。この映画でいくらでも見かけた駅舎は、最近実に上手くリニューアルされていて、レトロ・モダンな21世紀の駅舎として生まれ変わっている。・・・・・

《★3》『 ALWAYS 三丁目の夕日 』を観たとき、声を上げそうになったのは鉄橋を煙を上げて驀進してくる蒸気機関車のカットであった。

その列車は「金の卵」と言われた中学を卒業したばかりの少年少女たちが乗り込んだ集団就職列車であり、もうもうと上げる煙は未来への意気込みを象徴するもののようであった。

その光景は、それを知らなくとも、あの時代の空気を吸って大きくなったボクたちのような昭和少年にはたまらないものだ。

また上野駅構内の緑がかった色調にも唸った。あの行き先別プレートがかかった場所に入場前から並んでいる大衆の姿・・・それはまぎれもなく昭和の人々であった。

この上野駅は東北方面から上京してきたひとたちが初めてじかに踏みしめた首都・東京の玄関口として膨大な人の人生を知っていることだろう。

集団就職の少年少女も決して希望だけの人生でなかったことは多くの映画で描写されている。その例として真っ先に思い出すのが・・・・・

《★4》『 裸の十九歳 』である。

この新藤兼人監督が近代映画協会創立20周年記念作品として撮った映画は連続射殺魔・永山則夫をその生い立ちから極貧の生活など、徹底した取材で彼の人生と、その凶行にと駆り立てた時代を描いた傑作だ。

いまではプライヴァシー問題でこんな映画は出来ないであろう。新藤兼人のいつもの「こうと思い込んだら、向こうが音を上げるまでとことん」関わっていくという三木謙一巡査のような粘りで、史上最悪の連続射殺事件を追い詰めた。

あのなかの永山則夫(映画では山田道夫)は集団就職で東京のフルーツ・パーラーに就職するが、ちょっとした客とのトラブルが原因で辞める。

青森には極貧の生活しかなく、極貧なるが故に姉たちもレイプされたり目を覆うような虐げられた少年期を過ごしていた。その彼にとって首都・東京は優しくはなかった・・・。

高度成長に何にも恩恵を受けずに捨て置かれた人間の、若い魂の叫びが充満した暗い傑作であった。・・・・・

ただし、集団就職でなくとも東京に憧れて家出してきた少年少女を食い物にしたりする輩がいたことは映画を見れば分る。・・・・・

《★5》『 駅前旅館 』は井伏鱒二原作だから文芸作品としての側面を持っている。

『駅前』シリーズは『社長』シリーズと並ぶ東宝の名物シリーズだが、第1作である映画での森繁久弥は上野駅構内の警官に家出してきた少年少女の人買いと間違えられてしょっ引かれる。

彼は今も名残を留める上野旅館街のある旅館の番頭なので、顧客の出迎えにきたのを間違われてしまったのだ。この番頭たちも一種の能力給であるらしく、宿泊客を引っ張ってきてナンボなので、目つきも卑しくなっていても仕様がない。

この旅館に勤めている三井美奈を目当に住み替えを狙っていかがわしい面体の奴らが足しげく通ってくるエピソードにも,当時の社会世相が窺われるではないか。

ボクたちは上野駅構内が時代の雰囲気を残しながらモダンな風貌になっているのに驚きながら、“HARD ROCK CAFÉ”に入り、フレンチ・トーストのモーニングを食べた。

こんな店までが上野で商売になっているのだ、時代ではないか!店を出て上野公園方面西郷口に連なるプロムナードの辺りは、その昔・・・・・

《★6》『 男はつらいよ 』シリーズにおいて旅に出る寅次郎に付き添ってきたさくらが別れのラーメンを食べていた復員食堂みたいな店が並んでいたところである。

寅次郎の財布にしわくちゃの500円札しかないのに気が付いたさくらが伊藤博文の千円札を何枚か入れてやった粗末な店は東京の老舗のグルメばかりが並んだ一角になっていた。

【 上野駅不忍口 】から外に出てみると、30年前に訪れたときと同じ建物で上野東宝や松竹会館があった。

この松竹の複合映画館は壁のレリーフも歴史を感じさせる老舗で、場所もいいことだし新築したらさぞかしいいだろうと思うのだが、聞いてみると劇場の真上が西郷隆盛が建っているため工事が出来ないということだった。

似顔絵描きの作品が並ぶ階段を昇れば、そこには【 西郷像 】が立っていた。この西郷さんほど昭和20年代の映画に登場したモニュメントはないだろう。小津安二郎の・・・・・


《★7》『生まれてはみたけれど』の8mmホーム・ムーヴィーで父親(斎藤達雄)の家庭では見せないおどけた姿が映るバックには西郷像があったし、五所平之助監督の心温まる傑作・・・・・

《★8》『煙突の見える場所』のトップ・シーンは西郷像であった。電車でいえば上野駅から大きく山手線がカーヴを描く角度に平行したように歩いていくと、【 上野文化会館・西洋美術館・科学博物館 】が建ち並ぶメイン・ストリートとも言うべきエリアに行き当たる。


また上野といえば彰義隊だが、吉展ちゃんが殺されて埋められていた日光街道に面した円通寺の住職さんたちが発起人となって【 彰義隊の石碑 】が建てられている。

これは上野の山で散りじりになった彼らが逃げて逃げて多くが千住にたどり着いて亡くなっていたという縁があってのことだったらしい。

ちなみに上野・彰義隊の攻める官軍の指揮を執ったのが大村益次郎(司馬遼太郎『花神』の主人公である)。そしてその大村益次郎の銅像が建立されているのが靖国神社の参道のど真ん中である。

上野の西郷さんの銅像から九段の靖国神社まで奇しくも同じルートでの移動が重要なシーンとなっていたのが・・・・・

《★9》『喜劇・あゝ軍歌』である。

松竹喜劇映画の担い手の一人だった前田陽一監督は岡本喜八監督と並ぶ戦中派の真情溢れる映画を多く遺した大好きな監督さんだった。この『喜劇・あゝ軍歌』は1970年9月、現在の吉本興業の繁栄の礎となった3人の人気落語家が主演した『仁鶴・可朝・三枝男三匹やったるでぇ!』を見に行ったボクが、そちらにはあきれ返り、なんの期待もせずに見たこちらで泣き倒すという経験をした映画だ。

このなかで北林谷栄扮する老婆が脱走兵の汚名を着せられて靖国神社に祀られない息子の骨を、それならば自分が祀ってやるわいと♪上野駅から九段まで勝手知らないじれったさ〜『九段の母』の歌に乗せて、上野から神保町経由で九段まで歩いていくシーンが圧倒的な感動を呼ぶのであった。

フランキーも財津も若かった!

《 前田陽一監督の思い出 》

1977年春映画評論家の白井佳夫さんを特別顧問にお願いし、映画好きの若者が自主映画鑑賞サークルを作った。これが“映画村”である。

各地に当地の名前を冠した映画村が出来たが、入谷・青山・銀座の三つの映画村はそれぞれに特長があるものだった。

白井さんの人脈により多くの映画人にゲスト参加してもらい、ヒモつきでない映画ファンのサークルとして約5年間活動が盛んだった。

その多くのゲストのなかでもボクたちが最もお世話にもなり、仲良くお付き合いしていただいたのが松竹の山根成之監督と前田陽一監督であった。

ボクの手元にある「喜劇・あゝ軍歌」と「にっぽんぱらだいす」のポスターにいただいたサインは宝物である。

お酒の好きな前田さんだった。たしか亡くなった年の春、上野谷中の五重塔あとで前田さんが開いたお花見の宴で戴いたサインであったと思う。

まもなく赤井英和主演の「唐獅子株式会社」がクランク・イン。1ヵ月後のGWに撮影中に倒れて病院に搬送されたが亡くなった。

胃がんであったことを聞かされて知っていたスタッフは少数であったという。既に完成していた渾身のシナリオ(名古屋独立国のおはなし)は永久に実現しないことになった。

『喜劇・あゝ軍歌』のことを書いているうちに、前田さんに対する溢れ出るような追慕の念がもはや制御できなくなってしまった。

Fくんも同じ感情があったのだろう、なんとかインサートできないかね?長年の付き合い、同じ心意気を否定はできないよ。映画ファンとして愛するだけじゃなく、人間的な魅力でシロートのボクたちに接してくれた2人の恩人への恋歌なのだから・・・。

【 上野文化会館・西洋美術館・科学博物館 】の辺りは野村芳太郎の・・・・・

《★10》『鬼畜』や、小津安二郎の・・・・・

《★11》『麦秋』において菅井一郎と東山千栄子の老父母が歩きつかれて地面に腰を下ろす。すると「お父さん、あれっ」と空を指差すシーン。そこには風船が空を駆け上がっている。「どこかでなくした子が泣いているよ」と応える名場面が撮影されている。

もう少し歩を進めると、・・・・・
《★12》『東京物語』で笠智衆と東山千栄子の2人が子どもたちの応対に迷い、「とうとう宿無しになった」…と思案するシーンで座り込んでいた場所である。

すごいなぁと思うのは、この上野科学博物館と寛永寺王輪殿の間の道が伸びた先(約15m)にあるのが【 両大師橋 】といって上野駅から鶯谷駅に向かって出て行く十何本もの電車の線路を跨ぐように掛かっている大きな橋だ。

この両大師橋から下の線路を見下ろすと、真下に列車が走っている。これこそ田坂具隆監督の大傑作・・・・・

《★12》『女中っ子』で田舎に帰る左幸子を見送る少年たちに向かって「坊ちゃ〜ん」とハンカチに見せかけて風呂敷みたいな巨大な白い布を振っているのを撮ったところだ。友人のビッグ・Oくんによれば橋幸夫主演・・・・・


《★13》『雨の中の二人』には、この両大師橋そのものが出てきているという。

この橋を渡れば、旧上車坂・下車坂に分かれる。戦後から今日まで、中古オートバイの店が建ち並ぶ土地である。

この車坂に沿って上野駅まで歩けば、【 上野駅公園口 】からヤツメウナギのビルの裏あたりは、1970年初の山田洋次監督のベスト・ワン作品となった・・・・・

《★14》『家族』で彼らが東京で選んだ旅館があった場所である。

この九州から北海道へ一家挙げて引っ越そうとする旅は福山で弟と束の間の別れを果し、繁栄の真っ只中・大阪万国博を見物し、疲れきって新幹線車中からの富士山にも目が覚めずたどり着いた首都であった。

ここで彼らは乳飲み子の長女を病気で失うのであるが、高度成長のピークであった1970年に、あれほどの骨太の企画が松竹で通ったことに今更ながら吃驚する。

またこのあたりは渥美清の生まれ育った辺りでもあり、偶然であろうが興味深い。また戦後すぐのストーリーなので実際のロケは行われてはいないのだが、和田誠監督の・・・・・

《★15》『麻雀放浪記』の舞台となったバラックがならんでいたのは、この辺りということである。

程近い下谷万年町なども古くからあった東京の貧民窟として名高いが、貧しい一角であることは間違いない。

これからボクたちは車に戻り、車中から文字通り極私的芸能ツアーを繰り広げていく。

まず車坂の近くには【 都立岩倉高校 】がある。ここは一度だけだが甲子園の高校野球大会で優勝したことがある。岩倉具視縁の高校だということだが、出身者に“山のあなあな〜”で有名な三遊亭歌奴(現・円歌)がいる。

その近くには【 上野学園 】、出身者にはいしだあゆみ・太田裕美がいる。

駅裏のくすんだような路地はと聞けば【 こまどり姉妹の家 】だという。

裏通りを進んできたら、黒くアスファルト舗装された猫の額のような更地・・・、Fくんが言う
「ここ分る?昔稲荷町って言ったんだけど?」
「えっ、稲荷町!それじゃあ稲荷町の師匠かい」・・・

【 先代林家正蔵・林家彦六 の長屋跡 】なのである。

先々代の林家正蔵は昭和の爆笑王林家三平の父親である。

大名跡であったが、息子の三平はご存知の通り違う雰囲気でブレイクした。そこでその名を継いだ先代の正蔵はいつかその名跡を直系の人間に戻そうと考え、戦前のPCL映画『彦六大いに笑ふ』から自分で名前を取った。

三平の長男・こぶ平が先日正蔵を継いだのはご案内のとおりである。

車は大きく右にカーブ、上野駅と御徒町駅をむすぶアメ屋横丁(アメ横)に平行して走っていく。

ここがね【 御徒町中学 】、出身者には中原ひとみ、伊東四朗、萩本欽一、ロイ・ジェームズがいるんだとさ。こんなガイド、東京に一人しかいないよぅ。

車は【 御徒町駅 】へとやって来た。

この駅のそばのなんということもない木造2階建ての小さなとんかつ屋「蓬莱屋」は小津安二郎の贔屓の店として有名だ。遺作となった・・・・・

≪★16≫『秋刀魚の味』の1シーン。

妹・岩下志麻の相手にどうかと佐田啓二が後輩の吉田輝雄をとんかつ屋に誘うのであるが、吉田は結婚が決まったという。

しかしドライな吉田は悪びれた様子もなく「美味いな、とんかつ。もう一枚いいですか」と追加を注文する。

川島雄三の『喜劇・とんかつ一代』は森繁久弥がとんかつ屋のおやじとして出る映画だが、フランキー堺を相手に「ヒレカツを最初に始めたのは蓬莱屋さん」という台詞まであるし、小津の映画には『秋刀魚の味』以外にもう一本、『秋日和』では「上野松坂屋の裏のとんかつ屋、昔は屋台だったんだ。」という台詞を中村伸郎に喋らせているくらいだし、『秋刀魚の味』に出てくるシーンで使われた食器は蓬莱屋で実際に使われているものだったというのは有名なエピソードなのだ。

小津安二郎がらみの場所を通過して、ボクたちはこれから秋葉原〜築地〜佃と、小津ゆかりの場所を巡っていく。次回最終章をご期待ください。

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