ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

北京波の新世紀映画水路コミュの第3回「ロケ地探訪ツアー」吉原スペシャル(2)

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
このツアーは映画のロケに使われた場所を巡る目的なのだが、吉原は遊郭として多くの映画に登場するのだが、当然であるがいわゆるロケはなくセットが中心である。



溝口健二の『赤線地帯』はその中でも売春防止法施行直前の吉原を舞台にしている珍しい作品。
この映画では主人夫婦の進藤英太郎と沢村貞子が「アメリカが来たときにゃ素人の娘さんの防波堤になってくれよと言ってたくせに」とR・A・A設立当時と思われる発言をしている。



タイトルに吉原の文字が入っている作品で、ボク的に最も重要なものは1960年に内田吐夢監督で製作された『妖刀物語・花の吉原百人斬り』である。

これは歌舞伎の十八番『籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)』に材をとり、溝口健二作品で高名な依田義賢が脚本を執筆、したもので吉原の廓を舞台にした悲劇であった。

主人公の武州佐野の次郎左衛門は真面目な商人だったが、生れながらに顔に痣があった。この痣が彼の人生を狂わせる。

幾度目かの見合いの帰り、さそいにのって次郎左衛門は吉原の門をくぐり、遊女玉鶴の情けを受けた。

「心の中まで、痣があるわけはないでしょ」この言葉に次郎左衛門は彼女に溺れていく。玉鶴はいやしい遊女で、やくざの情夫があり、太夫の位に憧れを抱いていたために次郎左衛門をたぶらかせる。

玉鶴に太夫の位をねだられて、夫婦約束の上承知した。折から、信州一円に雹が降り、桑の木が潰滅、下請け業者の生死にかかわる事態となり、武州に帰った次郎左衛門は、思案のあげく、捨て児時代の守り刀を手離すことに決めた。

これが妖刀・村正。その金で玉鶴を妻に迎え、故郷に帰って仕事に精を出すつもりだったが、兵庫屋に駈けつけてみると、すでに二代目八つ橋太夫の襲名が内定しており、彼女の本性を知る。

次郎左衛門は一旦武州に帰り、家屋、身代を一切整理して再び吉原に。兵庫屋の表は黒山の人だかり、出世披露目の花魁道中で、次郎左衛門が行列の群に飛びこんでいく。

その右手には村正が握られていた・・・。この佐野次郎左衛門を演じたのが片岡千恵蔵、玉鶴は若き日の水谷良重(現・八重子)が演じた。ボクは7歳であったが、この世にはどうにもできない悲しいことがあるものだと深く感じ入り、長い間水谷良重を憎くも感じ、この映画によって映画を見つづけていこうと決心したのである。



早熟を画に描いたような子どもだが、邦画をこの映画、洋画をジャック・ヴェッケルの『穴』で果たしたのが、同じ1960年のことであった。

ボクがいい映画は小学校に入ったら見せよと力説するのも、こういう実体験があるからで、絶対に理解できるものだ。

余談だが、この映画の花魁道中のシーンはそっくりそのまま後年、劇画ブームのなか『下刈り半次郎・マル秘観音を探せ』という映画に流用された。

この映画も遊郭のおんなたちの恥毛で男性自身が毛切れをおこさないように処理していく、恥毛専門の髪結い(?)職人を主人公にした小池一夫原作の劇画を原作にしていたものだが、天国の内田吐夢監督もさぞかしビックラコンであったと思う。



次いで吉原の名がタイトルにあるものでは五社英雄監督の『吉原炎上』であろう。

これは『津軽じょんがら節』などのポスターのイラストで有名な斉藤真一の『吉原炎上』『明治吉原細見記』を原作にしているから、ちょっぴりだが毛色が違う。

それには脚本は中島卓夫、監督が五社英雄、撮影もヴェテラン森田富士郎が担当。また脚色構成として笠原和夫も参加していて、「今は幻、吉原のものがたり」の作家近藤富枝が監修しているという分厚さのためかもしれない。

だが、やはり女優の裸を売り物にした旧来の郭ものとそう変っているわけでもなく、印象は薄いものであった。



新吉原がクローズ・アップされた時代劇がある。

東映集団抗争時代劇の工藤栄一3部作の一本『大殺陣』である。

「十三人の刺客」の池上金男がシナリオを執筆、工藤栄一が監督した。撮影は「関の弥太ッぺ(1963)」の古谷伸だった。 

四代将軍家綱が危篤に陥入り、大老酒井忠清は将軍継嗣に弟・甲府宰相綱重を立てようとする、粗暴な政治が行われていた延宝六年のことだ。

その横暴を許すまじと立ち上がった一党の首謀は軍学者山鹿素行。すさんだ政道を正すために決起したのだった。目的遂行の日は、水戸中納言光圀公が国表に帰国でにぎわうのを利用して甲府宰相鋼重の行列を吉原の方へ導き入れるのである。

このとき、甲府宰相の主従が浅草の田圃に逃げ惑い、凄まじい斬りあいがつづくのである。ついに彼らは本懐をとげる。

行列の遅いのに不審を持った酒井は、徒目付の知らせで事の次第を聞くと、行列を日本堤に廻すよう命令した。宰相を討たれて、発狂する酒井の姿をみつめながら、素行は、勝利感に酔えない自分を感じていた・・・。

この東映撮影所から裃がすべてなくなったとも言われる『大殺陣』は、未見の方には是非にも見てもらいたい傑作である。



ボクは夜の酒場には友人と行くことはあっても、バーやキャバレー、クラブ、キャバクラなどにも言ったことが無い。

しかし、仕事上、そういう仕事をしている人や顧客である患者さんはいくらでも知っている。吉原も同じ事で、こういうものが世の中にあることも、どういう場所かも知っている。

興味があるのは、時代が変わり、価値観が変わろうとも、その場所で生計を立てる人々がいると、そこには人生がある。

したがって、興味が湧く。

映画、あらゆる映画は人生を描いたものであるから、そういう興味が切れることが無い。その意味で吉原を通ってツアーが始まったのは大変に興味深いものだった。



車は【 見返り柳 】を通過する。

いまでこそガソリン・スタンドの横でしょぼくれているが、この柳は吉原で遊んだ客が名残を惜しんで振り返ったと言われているものだ。

入谷方面に抜ける仲之町通りに入ると【 吉原大門 】がある。

吉原という色里は幕府公認の風俗営業ながら曲輪(現・廓)と呼ぶように忍び返しのついた板塀と堀状の溝(お歯黒どぶ)に囲まれた隔離地域だった。

その区域は非常用の木戸と跳ね橋を除けば大門という一方口による出入りだけだった。ボクたちが走り始めた仲之町通りは、昔の吉原でも大通りであった。

門を入った両側に番所と会所があったという。左側には奉行所から出張った与力・同心がいる、客の出入りを監視し、警戒にあたった門番所であった。

右の会所には廓内の自治組織で遊女たちの脱走などを取り締まった。恐らく小池一夫の「子連れ狼」や「忘八武士道」に登場する忘八連はこの左会所にいたということだろう。

この大門は夜四つ(22:00)に閉め、翌明け六つ(06:00)まで閉められたという。

桂文楽の十八番『明烏(あけがらす)』は堅物・おぼこの若旦那を父親に頼まれて吉原に連れ出して筆おろしさせる大工の棟梁たちの噺だが、怖くなって帰ろうとする若旦那に「大門番所で止められて怪しいヤツと牢屋にいれられます」と脅かすのは、この大門なのである。



吉原は記録によれば総面積二万七百坪。堀であるお歯黒どぶは田圃の水を引き入れて幅9メートルの大どぶであった。いずれにしても明治以降の命名であったということである。

樋口一葉の『たけくらべ』にも「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、おはぐろ溝に灯火うつる三階の騒ぎも手に取るごとく」とあるが、歓楽街の暗部を象徴するかの悪臭に満ちていたということだ。



五所平之助監督の『たけくらべ』は今井正監督の『にごりえ』と並ぶ一葉の映画化作品だが、不思議なことにこの2作品きりしか映画化されていない。

美空ひばりの姉・岸恵子も吉原の遊女であったが、映画の最後にはひばりもまた遊女になるためにお歯黒どぶにかかる跳ね橋を渡るところで終わる。そういう暗い時代を描くのは流行らないのだろうか。



夜の喧騒は予想もできない朝のトルコいやソープ・ランド街を突っ切って、ボクタチは入谷方向に向かった。そこは、戦後最大の誘拐事件で有名な町であった。

(以下、次回に続く)

今回はプロローグとしては異例の堅い内容ですが、次回からは弾けまっせ!

3月に次回はトピック立てる予定です。

コメント(6)

痛み入ります。書いてみた甲斐があったというものです。ありがとうございます。

今回のロケ地ツアーはいつもとちがいたった二分通過しただけの吉原ですが、いちどきちんとまとめてみたかったので、ここぞとばかりにやってしまいました。
学者ではなく、ど素人なりのアプローチです。吉原はこれでお終いです。
次回は入谷から上野、江東・小津ゆかりのエピソードに進んでいきますのでアップの際にはご一読をお願いしま〜す。
北京波さんの吉原学入門を読んだ直後、マックス・オフュルスが戦前にフランスで作った「ヨシワラ」という映画をNFCで観ました。

欧米人のジャポネスク趣味の典型みたいな映画で、我々からすると、国辱的な映画でした。
CJさん、こちらこそよろしくお願いします。

「州崎パラダイス・赤信号」はボクも大好きです。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

北京波の新世紀映画水路 更新情報

北京波の新世紀映画水路のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング