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北京波の新世紀映画水路コミュの『カーテン・コール』が描くもの

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この世には新しい言葉を真っ先に使おうとする人と、反対に頑ななまでに使うまいとする人に分かれている。

外来語を中心に、日本語であっても流行となった言葉があり、多くの著名な辞書には、そういった旬かどうかは分からないが、新しい言葉が収載されるには少なくとも数年から十年以上を要することも珍しいことではない。

ボクが愛してやまない<映画>にも例外なく、<映像>という言語・言葉があるために、常に関わる問題である。

 この映画は現在の日本映画界において、ここ数年絶え間なく作品を発表し続けている幸せな映画監督の1人である佐々部清監督の新作である。
 
伊藤歩はいわゆるF・F戦争とも言われて20世紀末の風俗としても名を残す写真週刊誌のアルバイト記者で、映画の冒頭で彼女は数ヶ月張り込みをして、政治家と女優のスクープをものにして有頂天になる。

編集長の伊原剛志とは恋人らしいが、その女優が自殺未遂を起こしたためにスクープは一瞬にして堕ちた偶像となり正式社員への採用どころか、詰め腹を切らされて閑職に追い込まれてしまう。

そこで伊原は博多のタウン誌を紹介し、黒田福美編集長の下でスクープや脚光を浴びる仕事から離れることになる。

 読者からのはがきを取り上げるコーナーに、伊藤は郷里・下関に古くからある1軒の映画館に昔、映画の休憩時間に出てきてちょっとした芸をする“幕間芸人”がいたことが懐かしいという投書があり、伊藤は何か感じるものがあるのか、その取材をさせて欲しいと申し出て許可を受ける。そのために久しぶりに下関へ帰ってくる。

 その映画館「みなと劇場」はいまや珍しい一戸建てのちいさな映画館で、田舎の映画館が「ブエノスアイレス」「この子を探して」の2本立てをしているくらいだから客が来るはずはない。

現在の支配人は2代目で当時のことはなにも知らないから、売店の永年勤続者である藤村志保を紹介され、藤村は克明に当時のことを証言してくれたのである。

この回想のシーンに高度成長期のプログラム・ピクチャーが続々と画面に登場するのが前半のご馳走である。

下関で、邦画各社の混映番組が成立したのか?それは2本立てになっている番組が同じ頃の映画ではあっても公開時期が微妙にずれていること。それだからこそ、2本立てでなく3本立てでなければ商売にはならなかったんじゃないのか・・・、いろいろなことが思い起こされる。

その幕間の芸人の消息は分からないということで、伊藤は長い間帰らなかった自宅に帰るのである。

 郷里を、自宅を、後にして都会に出て行った人間には、その場所に安住できない理由があるはずで、伊藤が父親の夏八木勲から中学時代の同級生である金田くんという在日韓国人の同級生の話題になったとき「お父さん、それは差別よ」と食ってかかる。このことで、金田君に関して伊藤には何らかの問題があることが分かる。

このシーンは伊藤の未熟さを観客に理解させる重要な意味を持っている。郷里と親を捨てて都会に生きようとした伊藤がやっていることが現代の賤業たる職業であり、どれほど高邁な理由を付けようとしてもどうでもいい仕事であり、差別の本意の全くない父親に食ってかかるなど、どうにもならない苦しさを覚えさせるからだ。

冒頭の編集部における描写の信じられないほどの詰まらなさは、それだけ伊藤の生活が荒みきったということを際立たせる意図的な演出ともとれる。
 
 調べていくうちに幕間芸人の安川(藤井隆)が済州島から渡ってきた韓国人であることがわかり、その彼が妻を亡くしたあと、一人娘を捨てて行方不明になっていることが分かってくる。

前半が高度成長時代に向かって映画が隆盛を極めていた風景を描く楽しさであるとすれば、この後半は民族問題・親子のどうにもならない問題に向かって手探りで進んでいく構成は、とても重たく、どういうことにしても簡単には結論づけなどできない暗黒への挑戦であるといってもいいだろう。

本音を言うならば、ボクは前半のテーマだけでは1本の映画を成就させることは出来ないと考える人間である。

古今東西、映画が撮影所や映画館を描こうとするとき、どうしても余計な力や配慮が見え隠れして、大きく甘いものになることに嫌な感情を抱いているからだ。(数少ない例外はトリュフォーの『アメリカの夜』だけではないのか!)これは等身大の医師や医療を描いた映画がほとんどないことにも通じるもののように思える。

 だが、『カーテン・コール』という映画の魅力は、この後半にあると思うのである。

佐々部清という監督の特長こそは、平明に、ひたすら平明に、愚直なまでの一本気で、娯楽映画の手法でアプローチしようとするところだ。ひたすら平明にという姿勢は、大変に過酷な運命を孕んでいる。

近頃のように、さもなにかありそうに見せて何もない、思わせぶり演出が跋扈するなかで、実に多くのものを内在していながら平明さゆえになにもないように見える、

これほど孤高な戦いはない。だが資金的にも時間的にも技術的にも、この戦いを完遂させるための、佐々部清には援護射撃がとにかく薄いとしか思わざるを得ない。

この映画のよいところは、娯楽映画として韓国人問題を描こうとしたところであり、そしてそれは、同時に観客に窮屈な思いをさせている。つまり良くも悪くも、後半の描き方に由来しているところなのである。

今年公開された「もしあなたなら・・・6つの視点」を製作した韓国人権委員会によると差別をひき起こすには次の18項目があるという。「ジェンダー」「宗教」「障害(ハンディキャップ)」「年齢」「社会的地位」「出生地」「出身国」「民族」「外見」「未婚か既婚か」「妊娠と出産」「家族」「人種」「肌の色」「政治的立場」「犯罪暦」「性的指向」「病歴」の以上である。

このなかで、『カーテン・コール』で取り上げた出身国・民族による差別というのは、日本においては<島国根性>というか、地理的な問題もあって見直されることが少なく放置され続けてきた問題である。考えても見るがいい。この世には<くだらない人間>と<普通の人間>がいるだけで、大きく出身国・民族という縛りで括ること自体がどれほど無意味なことかは、少し頭を働かせれば自明の理である。

だが、現実に存在したのである。
何故なのか?

それは日本が貧しかったからである。どんどん豊かになっていったが、本当に豊かさがあまねく浸透してはいかなかったからである。そうすることが都合がいいと考えていた人間がいて、それを黙認していたからである。

この映画では、日本人から、それでは不可ないと描いている。

だが、長い間の歴史があり、戦後民主主義の啓蒙映画のようには性急に作る愚は冒していない。『チルソクの夏』で描いたテーマは、“在日”ではなく、日本と韓国の高校生同士の恋愛の壁であった。しかし、本作品で描かれているのは“在日”の生活であり、悲しみなのである。

記録映画ではこんなぬるま湯のような方法は赦されるはずはない。だが、これは娯楽映画なのである。この映画の伊藤が言う科白「私は告白されて嬉しかったが、在日の人だということが怖くなって断ってしまった」が重たい。彼女はそのことで未熟なまま齢を重ねることになってしまった。

佐々部清は『チルソクの夏』では純粋な魂同士の歩み寄りを目指したが潰えた悲劇を、『カーテン・コール』では未熟な脆弱な魂がそれでもせずにはいられない遅ればせながらの努力を描いている。

カーテン・コールとは正式の舞台を終えた演者に観客が賞賛の意思表示をして初めて実現するものである。そして、カーテン・コールこそは、終えた舞台の次の挑戦への原動力になるものである。

この『カーテン・コール』という映画では、安川と娘、伊藤と父親、伊藤と郷里、などの新たな一歩を踏み出すためのカーテン・コールが描かれるが、なによりも日本と韓国にあった歴史への新たな踏み出す一歩となる祈りは貫かれていると思う。

誰も気付かないかもしれないが、佐々部清はいろいろと考えて撮っている。

例を挙げてみる。伊藤が安川が韓国人ではないかと思い、民団事務所に赴く。そこで金田の名前が出て、事務所にも出入りしていることが分かる。伊藤が久しぶりに金田からの電話を受けるシーン。彼女は画面右から左に向かってなだらかな狭い坂道を下ってくる。そこに電話である。久闊を叙す彼女が立ち止まると、彼女の息を呑む緊張の表情の背景になっているのは「木槿(むくげ)」の垣根である。この韓国を象徴する花をアップにするような荒げないことはしないのである。

済州島から渡ってきた安川が、日本で韓国人なるがゆえにまともな仕事にも就けずに遂には娘を捨てる。挙句に韓国へ帰る。映画の終盤で映し出される済州島の彼の住居の陋屋ぶりはどうだ。済州島を意味する「島」は、韓国では「貧困」を意味するスラングであると聞いたことがある。

安川は韓国でも日本でも、そして帰国した韓国でも常に困窮の生活であったことを、佐々部はさりげなく描いている。

佐々部清という監督は、娯楽映画という方法で愚直なまでにストレートにテーマを描こうとする作家である。

それは頑なに、流行でない、本来ボクたちの生活のなかに息づく言葉をこそ使っていこうという作家である。そしてボクは、そういう姿勢を支持したいと思っている。

そんな作家は、彼のほかにはいないからである。

『カーテン・コール』で描かれた描写はまだまだ甘いかもしれない。だが、今後出来てくる映画は少なくとも『チルソクの夏』や『カーテン・コール』を最低限のハードルとして現れてくるのである。

それはなんという素晴らしい一歩であったことか・・・、時間が証明していくに違いない。
(★★★☆☆)

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