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北京波の新世紀映画水路コミュの崔洋一「血と骨」対談

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凸「凄かったね」
凹「ほんとに。こんなに強烈な主張をもった映画って、そうはないなぁ」

凸「だけどビートたけし扮する男はあんまりじゃない?あんな奴いないでしょ」
凹「狂犬のような凶暴性だね。でも、凶暴なばかりではない」
凸「しかし映画史上稀に見るキャラクター」
凹「君なんかは上品な地域のお生まれだからビックリしたろうが、ボクなんかは見ていて実に懐かしい気がしたよ」
凸「と、いうと?」
凹「むかしね、昭和30年代まではちょこちょこ見かけた気がするんだよね。もちろん、あれほど凶暴な人間はいるわけじゃない。世間の物差しに当てはまらない人間がいたなぁ、ということ」

凸「それは、何故そんなことが言えるのかな?」
凹「やっぱり日本が本当に貧しかった時代には、教育ひとつとっても地域格差があった。ボクの記憶でも、昭和39年の東京オリンピックの前と後では、食生活だけでもまったく違った。それが、随分日本人自体の経済水準が底上げされてきたあたり…、昭和40年頃からは皆が自宅に3種の神器として、テレビを持てたじゃない」

凸「そういえば、我が家にテレビが来たのも、その頃だったなぁ」
凹「ボクはね、テレビの普及が、ビートたけしの演じた金俊平みたいな世間の枠には収まりきらない人間を駆逐したのだろうと思うのよ」
凸「ええ〜、それはどういうこと?」
凹「それまで人に人格的な光を与えるのは教育であったわけだよ。だから義務教育が徹底されて学童については徐々に成果が上がった。しかし、もう大人になってしまっている人間には、そういう変貌の機会はなかなかない。つまり、自分がどういった位置にいるのかを簡単に理解させられる機会がないことになる。」
凸「ふむふむ」

凹「豊かになった日本人が、車やテレビを持ち、わざわざ映画館に出向かなくとも電気紙芝居と最初は揶揄されていたテレビで、簡単に娯楽を満喫していくとき、テレビではホーム・ドラマを中心に、理想の家庭、理想の男、理想の妻など、疑似体験〜楽しく学習するようになっていった」
凸「うんっ、何となくわかるよ」

凹「俳優たちが演じているさまざまな家庭生活の描写は、豊かさへの大いなる指標とともに、寛容や、ひいては茶の間における正義というものを教えていったのではないか。これは結局、明治政府以後設定された標準語なるものが、徴用されての軍隊生活と、そのころから広まってきたラジオを中心としたマス・コミによって初めて全国レベルに拡がったことに似てはいませんか」
凸「へぇー、それはそうかもしれないなぁ」

凹「金俊平は大正時代に済州島から夢を抱いて日本に渡った。いわば希望に燃えて海を越えた彼が20年経つと、何故に同胞さえもが怖れる人間に変貌したのか…。映画の核心とも言うべき部分がぽっかり抜けている」
凸「ああ、それはそうだ」

凹「その暴虐ぶりがあまりにも凄いので、軟弱な現代人であるボクなんぞはショックのどん底だったけどね」
凸「それもそうだけど、あまりに生理的にも受け付けない描写のために、場内でも女の人が悲鳴を上げてたよね」
凹「あんな豚を一頭屠(ほふ)ったり、腹を切り裂くシーンや、なんといっても、あの…」
凸凹「うじむし!(笑)」

凸「君は常々韓国映画の直接的に強い表現のことを口にだすよね」
凹「韓国映画がハリウッド映画を絶対に追い越せないだろうと思うのは、事実かもしれないけれども、こういった強い描写を抑制しないところだね。崔洋一は、この朝鮮民族の昭和裏面史を描くにあたって、あえて韓国映画のように強烈な反射を心がけたのだろう」

凸「君はさっき金俊平が凶暴なだけじゃない…って言ったね」
凹「そうね。金俊平は前世紀の遺物のように、自分の欲望に正直でしょ。優しさがないわけではない。でも、その優しさに胡坐をかいたり、当然のように要求してくる鈍感さに対しては徹底的にやる。鈴木京香を突然帰ってきて自分のものにするのもレイプ同然だし、自分の欲望を満たすためには犯罪的な男だよ」

凸「中村優子演じる日本人の妾・清子に対する振舞いを見ても、それは感じるなぁ」
凹「でしょう。彼は自分の才覚ひとつで財をなした。女房の京香だってキライになったわけではないけど、嫁さんでも妊娠中は関係できず、また母親として妻として要求してくることが赦せない。どうやら俊平は、自分の欲望をスポイルする対象には完膚なきまでにやってしまう。自分の反骨精神や原動力は、その欲望がスムーズに運んだときに最高に発揮できると確信している節がある。しかし、清子が脳腫瘍に倒れて後遺症が残ったとき、ただただ耐え忍ぶ清子に対しては労わりのアクションを見せる」
凸「ちょっぴりだけどね。」

凹「やはり俊平は何らかのきっかけがあって、あんな生き方になったのでしょう。恐らくは筆舌に尽くしがたい“辛酸なめ子”だったのだろう。そこには民族や貧困などさまざまな被差別体験があったのだろうとも思う。そこで突き進むことで、刎ね飛ばす生き方を採っていく。そのとき体得した自分だけの哲学があり、それを愚直なまでに徹底することしかできない、憐れがある。後悔はしないだろうけれど、だけども、優しさだけでは彼の原動力は獲得できない。そこに彼ゆえの葛藤が生じる。そこが面白いなぁ」

凸「でもね俺、なんか居心地悪いんだよね。胃の腑の奥にいつまでも食べたものがつかえたようにズシンと重く残っているんだ。
凹「つまり『血と骨』という作品のが突き付けてくるもの…それがテーマなんだろうね。金俊平という業の塊みたいな人間の一生への興味もさることながら、いまは死に絶えた人種。

これは民族的な人種という意味ではなく、己の哲学しか信じなかったという意味なのは言うまでもない。

この作品について、我々が口に出せるのは、つまりは好き嫌いのレベルでしかないのではないかな。

そして、余りにも日本的なものからはかけ離れた表現ゆえに堪(こた)えるのかな。

人間の本質的なものを、怨(はん)と捉えるか、情と捉えるか。朝鮮海峡ひとつあるだけなのに、日韓の、この違いはなんとしたことだろうね!」
(★★★☆☆☆)

★この映画の舞台となっているのは大阪生野区である。鶴橋駅周辺には現在は一大コリアン・タウンがあり、たくさんの飲食店や市場がある。この映画で鈴木京香が子宮疾患で入院するのが上六(上本町六丁目)にある大阪赤十字病院だ。

これは実に正確な設定である。崔洋一はあえて韓流表現を随所に取り入れたが、その代わりに徹底した事実関係をきちんと再現したのだと思う。

在日となった彼らが、どんな扱いを受け、どんな日本名を名乗り、どんな仕事によって生計を立てたのか・・・。こういった実にささやかなことであるが誰もきちんとは記してこなかったことを、初めてメジャーなフィルムに刻み込んでいる。

この映画が強く迫ってくるのは、ボクたちの住む隣の町で、ボクたちの知らない町があったこと。

その町との間には、意識しなかったが、目に見えない壁がさんざん彼らを苛めたのだろうということ。そして、ボクたちは、その壁の存在をうすうすは知っていたが、そんなものなのだろうと顧みなかったこと。

怪物のような金俊平は、こういった状況から生み出されたらしいこと。

いちばん堪えるのが、自分の無知さということである。

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