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北京波の新世紀映画水路コミュのきみは「天一坊」を観たか?

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まず代表的な「天一坊」映画・東映映画『八百万石に挑む男』についての記述:

実はこの映画、劇場で観るのは初めてである。傑作だろうとは感じていたが、これほどまでのものとは思わなかった。

昔NET−毎日放送テレビ(いまとは系列が違うのだが、いまから30年前には現在と違い、TBS−朝日放送、NET(現テレビ朝日)−毎日放送という系列であり、この新聞社を背景にしたテレビ局のねじれは70年代の中頃だったか、新円切り替えのごとく敢行されたのだった。余談だが・・・。)

その1968年から1970年頃にかけて毎日放送テレビの毎週火曜日19時30分からの90分枠に『火曜映画劇場』という東映時代劇をかけるレギュラー番組があったのだ。

まあこれも、東映とNETが資本提携している系列会社であったからだろう。その頃、映画はまだテレビ放送のなかでは十分に威力を持つ時代であった。東映時代劇にしても中村錦之助が68年に『真田幸村』で、少し遅れて大川橋蔵が『銭形平次』でレギュラー枠を持つまでは、テレビ時代劇は栗塚旭や中村竹弥などのテレビで育ったテレビ・スターが中心であったから、予算も大きい劇場映画は魅力あるソフトであったことは間違いない。

『八百万石に挑む男』はその番組の中で数回放送され、毎回観た。死んだ親父に「今日は『八百万石に挑む男』って新聞に書いてあるよ」と言ったら、「なにぃ、それじゃ徳川幕府に挑むことやな」と返されたのが記憶に残っている。こんな風に、少年は父親との会話の中で常識を育成させていた。

【 天一坊映画あれこれ 】 この映画は有名な天一坊事件を扱っている。八代将軍吉宗が紀州家部屋住であった頃女中に上がっていた澤ノ井という女性に手をつけ、人知れず生まれた子が天一坊である。

山内伊賀亮(やまのうちいがのすけ)が参謀役になり、将軍家に対して親子の名乗りを求めて江戸に向かった事件である。勿論吉宗には覚えがあり、証拠の品も間違いないものであったため一挙に対面は実現しかけるのだが、松平伊豆守は名君に瑕があってはならないと、大岡越前に命じて断固弾劾、偽者として処断する。

つまり天一坊事件は、天一坊を本物として扱うか、偽者として扱うかで真っ二つに二分される。

伊藤大輔監督・阪東妻三郎主演の『素浪人罷り通る』と、この『八百万石に挑む男』は天一坊は本物とする代表的な傑作であり、偽者としたものは、大岡越前や知恵伊豆を主役とするものである。

(天一坊をこよなく愛する千葉の友人O君に教えて貰ったことによると)『八百万石に挑む男』の冒頭シーンは大名行列のシーンで、与太者である天一坊(そのころは町人名)が平伏している町人を嘲るように行列に対して拗ねた視線を送るものだが、加藤剛主演のナショナルテレビシリーズ『大岡越前』の第一シリーズ最終話において、この大名行列のカットがそのまま流用されたとのことだ。

このときの伊賀亮は山形勲、天一坊は太田博之という魅力的な配役だが、当然彼は偽者扱いになっている。このときのシナリオが加藤泰、演出が工藤栄一監督というのだから、見直したいなぁ。

またC.A.L.という会社で製作されたモノクロ・オムニバス時代劇の傑作シリーズ『剣』においても天一坊は取り上げられた。というのも『剣』は劇場映画で良質な時代劇が造られなくなったことを憂いた小国英雄・橋本忍・菊島隆三らの敏腕シナリオ・ライターがタッグを組んでテレビに打って出た番組で、橋本忍は当然手持ちの駒の中から天一坊を出したわけだ。

『剣』第14話『天一坊と伊賀亮』は島田正吾の伊賀亮、津坂匡章(現・秋野太作)の天一坊というそそられるキャストだが、演出が新東宝の土居通芳であったから、本家と比較しても詮無きこと(O君談)であった。

ボクは観ていないので詳しくは分らないのだが、松竹で製作された『旗本退屈男』の一編に早乙女主水介が天一坊(みたいな)高田浩吉をやっつける映画があったそうである。

おなじく題名すら知らないものだが、松竹で先代の松本幸四郎が越前、森美樹の伊賀亮という興味深い作品もあったという。

 またNHKの連続ドラマで浜畑賢吉を一挙に全国に認知させることになった『男は度胸』では浜畑は吉宗。天一坊は志垣太郎が演じた。このことで分かるが、この天一坊事件は名君・吉宗とすればまさに青天の霹靂。それだけにいろいろなバリエーションを生んだ。

小池一夫原作の劇画からテレビ・舞台と幾度も取り上げられた田村正和主演の『乾いて候』は吉宗の子でお毒見役である腕主丞(かいなげもんど)が主人公であるものだが、田村はスペシャルとミニ・シリーズにおいて2度天一坊を取り上げた。

このとき伊賀亮は江原真二郎と梅宮辰夫がやった。そして、この吉宗のご落胤という設定の劇作で最大のものは川口松太郎原作の『新吾十番勝負』であろう。

初映画化である東映では、葵新吾を大川橋蔵、吉宗を大友柳太朗が演じた。この父を恋う美男の若者というスタイルは橋蔵の泣きのキャラとしてブレイク。『二十番勝負』『番外勝負』という続編まで製作された。

テレビでは鼻の穴ばかりが目立つ若き日の田村正和。70年代後半からの時代劇スペシャルブームのなかで国広富之が演じたが、映画では橋蔵だけであった。

【 右太衛門の押し出し 】
『八百万石に挑む男』は新東宝のエースだった中川信夫監督が東映で撮った映画だが、東映映画の中にあって黒澤作品で知られる橋本忍脚本を得てひときわユニークな印象を与えている。

もちろん進駐軍の占領下においてチャンバラ禁止のなかで製作された伊藤大輔監督の『素浪人罷り通る』という傑作があればこそ誕生したことは否めないであろう。

(この『素浪人罷り通る』という映画で助監督を務めたのが泰道と名乗っていた頃の加藤泰。)

 『素浪人―』と『八百万石―』とにおける大きな違いはない。なぜなら天一坊が本当のご落胤であるという設定が同じであるからで、前者では天一坊は伊賀亮と大岡越前の計らいで鷹狩りに向かって馬を駆る吉宗を道端で平伏しながらでも見ることができ、しかも人知れず生きることで命も助けられる。

これには伊豆守(大友柳太朗)の命を受けた大岡越前(明男の父である小堀誠)と伊賀亮(バンツマ)との一騎打ちがあって「ここに親がいて子がいる。対面以外を望むものではない」と薄幸の天一坊を彼らが何とか助けてやろうと画策する。

天一坊は逃がしてやったぞという同心阿部九州男の目配せを確認して、伊賀亮が縛につく。この御用提灯の波のなかを伊賀亮が風格だけでのしていく快感!チャンバラはないが、誰もが満足する傑作になっていた。

 『素浪人―』が『釈迦』などで名を残す名脚本家・八尋不二の傑作シナリオによるものであれば、『八百万石―』は黒澤の諸作品や『砂の器』など戦後映画界の最高の脚本家の一人である橋本忍の手によるものである。

『素浪人―』との決定的な違いは天一坊は処断されてしまうこと。そして伊豆守、越前と2段階の対決があることだろう。

とくに山村聰扮する伊豆守との間の息詰まる対決は、ご落胤を名乗る伊賀亮らのご落胤としての礼装や礼儀、作法について伊豆守が詰問する。このとき不備があれば直ちに成敗しようとしているわけで、このときの右太衛門の見事な応酬には胸がすく。

右太衛門という、後にも先にも『旗本退屈男』しかないと考えられたスターの、俳優としての押し出しの立派さに、心の中で無条件降伏することになった。

東京の友人侘助さんの労作メール・マガジン「2004年映画の旅〜堤氏の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて映画を愛するようになったか〜」2004年8月上旬号において、彼は小林正樹監督の『切腹』について、同じ橋本忍脚本ということに着目して、こう書かれている。

映画は、双方の“理”をぶつけ合いながら展開するディスカッション・ドラマの様相を呈してくるのですが、これを眺めていて思い出すのは、同じ橋本忍が脚本を手がけた中川信夫監督作品「八百万石に挑む男」(1961年、東映京都)における、将軍のご落胤として天一坊を担ぐ伊賀之亮(市川右太衛門)と天一坊を偽者として成敗しようとする松平伊豆之守(山村聰)との間で繰り広げられた丁々発止のやり取りです。

「八百万石〜」は、チャンバラ場面のない時代劇として有名な映画ですが、この「切腹」も、ラストの大立ち回りまでは一切殺陣が出てこない映画であり、橋本が「八百万石〜」の延長線上で書いた脚本のように思えたのです(製作年度も1年しか違わないし…)。小林正樹は、中川信夫がそうであったように、橋本脚本のディスカッション・ドラマとしての結構を活かすため、三国と仲代のカットバックを多用しながら、物語を追ってゆきます。(後略)


 多くの旧作に接している者であれば、感想は常に進行形である。

未見の作品は常に新作であり、その自分にとっての新作旧作から、現在の新作新作の物足りなさに胸を痛めることになる。

これは幸福を味わうと同時に悲哀を感じることであり、新作しか見ていない大半の観客では、こういった皮肉な体験は生じないから、酔狂といえば酔狂な話である。

 『八百万石―』では伊豆守との対決のあと河原崎長十郎扮する越前との対決が待っている。この長十郎のにじみ出る人間的な豊かさとしか例えようのない温かさに観客は魅了されるのだ。

山村聰との対決は鋭利な刃物のように触れなば切れんという知と知の闘いであり、長十郎との対決は静寂・静謐のなかに展開する情と情の闘いなのである。

伊賀亮も前者の戦いについては迷いは微塵もないのだが、後者の戦いについては深く心をうたれる。そして天一坊の真偽はもはや問題ではなく、名君・吉宗の威光を守るため、武家の体面を固持するために処断されねばならないことを理解する。

右太衛門の素晴らしいシーンがラストに用意されている。いまから越前の屋敷に向かう天一坊(中村賀津雄)を呼び寄せて言う。「よいか、お前は必ず捕らえられる。越前に頭を下げて頼むのだ。遠くからでよい。ただ将軍の姿を陰ながら拝したいと、頭をさげて頼むのだぞ。越前はきっとお前の願いを聞き入れてくれるに違いないぞ。」と。

このときの二人はもう親子の情愛に満ちているように思う。

『素浪人―』では片山明彦扮する天一坊は最後に伊賀亮に対して「お師匠さま」と頭を下げる。つまり幼いときから幸薄く育った天一坊がめぐり合った人生の師との別れであるが、橋本忍脚本はついに果たせなかった天一坊の憐れをきちんと父子の情愛を通わせてやる。

右太衛門の押し出しの魔力とも言うべき魅力。中川信夫の『東海道四谷怪談』に勝るとも劣らない傑作であると感服した。(★★★★)

色々と感じるものの多い作品だ。まず橋本忍脚本は黒澤映画によく言われるように、本作においても天一坊に親の政略で差し出された桜町弘子の描写などは上手くない。

『素浪人―』においては初恋ともいうべき設定の娘が登場し、後半生を彼女と送ることを観客に予想させ、これは救いでもあった。しかし、この桜町の描写は親の愛に恵まれなかった天一坊が、その無念を関係のない桜町にあえて味わわせることとなり、なんとも印象はうまくない。

またどういうわけか、本作品において吉宗と伊豆守の謁見する場面、また上野寛永寺での対決シーンのいずれもが畳がでこぼこで膨れている。こういうことが事実であったのか、単に予算が少なかったのかは分からないのだが、こんな印象を持った経験ははじめてであった。

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