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北京波の新世紀映画水路コミュのドキュメンタリーのDNA山脈(3)

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素人目にも、この25年間にわたって一人の人生を追いかけていくという手法は、費用を回収していかねばならないドキュメンタリーなどの非営利作品にとって大変に実現しにくいものだと想像がつく。

1995年に製作された『奈緒ちゃん』は500箇所以上で上映会が開かれ、多くの観客を集められた幸福な映画である。しかし映画の上映は終っても、奈緒ちゃんの障害と併存した人生がつづくのと同様に、時間は絶え間なく続いて地球は回り続ける。

観客としては「あぁ良い映画観たなぁ」と満足するだけで一旦は収束するのだが、「映画水路」というミニ・コミながら媒体を持っているボクとしては、心からのサポーターでありたいと思う。昨年の感想を読み、大きく興味を抱いてくださった読者も少ないがいらっしゃったからだ。

ただ、ここで映画ファンとしての感想を述べなくてはならないと思う。本来こういったドキュメンタリーに自己採点をつけるなどという愚挙はもってのほかだとは思うのだが、どうしても、そういう視点があることも否めないのでお赦し願いたい。


< 映画ファンとしての独白 >


『奈緒ちゃん』がボクの心にしんしんと伝わってきたのは、やはり理由がある。最初の撮影の目的が、長くは生きられない奈緒ちゃんの姿を留めた家族アルバムのようなものを作ってあげようと考えた伊勢監督と、古くからの伊勢家の知り合いでベテランの映画キャメラマンであった瀬川順一さんが始めた撮影には、やはりファインダーを通してこめられたエモーションがある。

瀬川順一キャメラマンといえば谷口千吉作品の『銀嶺の果て』『ジャコ万と鉄』五所平之助『挽歌』左幸子の『遠い一本の道』など代表作がいくらでもある。

記録映画としても羽田澄子の『薄墨の桜』『早池峰の賦』などを撮った超ベテランである。またそれだけではなく、瀬川順一氏が高齢ということもあるのだろうが、応援撮影として瀬川浩・瀬川龍さんたちも参加している。

瀬川浩さんはなんといっても勅使河原浩監督のキャメラといえばこの人で、『砂の女』『他人の顔』、深作欣二の『軍旗はためく下に』や唐十郎の骨太ATG作品『任侠外伝・玄界灘』をやった人だ。瀬川龍さんも『富江』シリーズなどを担当している3代続いての映画キャメラマン一族である。

そして伊勢監督と、奈緒ちゃんのお母さんの父君・伊勢長之助さんは日本の記録映画史における編集マンとして巨人であったひとなのだ。

なんと言っても有名なのは1956年の『カラコルム』でこれは学校の体育館で見た。また1957年の『黒部峡谷』は小学生のときに交通博物館の文化映画祭で見た。また、もう何も覚えてはいないが谷口千吉の最後の劇場映画である「日本万国博」も伊勢氏の担当作品である。

こういった親同士が友人で、子供のときから知っている伊勢兄弟の子供(孫のような思い)である奈緒ちゃんをベテラン・キャメラマンである瀬川さんが冷静な記録だけのメソッドで撮影するはずがないと、ボクは思う。

16ミリではあっても、フィルムには、そういう感情をこめられるからだ。だからこそ「奈緒ちゃん」には不滅の魂が吹き込まれていると感じた。しかし、『ぴぐれっと』『ありがとう』では撮影はビデオ機材に移行し、フィルムは使われない時代になっていく。

お父さんやお母さんが確実に年をとり、奈緒ちゃんの自立への迷いや苦しみの度合いが増大することもあるのだろうが、このどうしても現実的な記録するという目的だけが先鋭化してしまうビデオ・カメラは、どうしてもエモーショナルなもののうちリアルな問題は追及できても、祈りを無意識のうちに織り込むようなことには向かないのではないだろうか。

また、そこには、そういった器材の差というだけではなく、この3作品に共通して貫かれた真摯で図太い棒のようなテーマが関係していよう。

「奈緒ちゃん」の疾病としての癲癇のコントロールはついても障害が現実に残っているのだから。25年という年月がすべての人々に年月そのものの変化を当然だが生じている。

『奈緒ちゃん』では、お母さんの発案で自宅のまん前の公園が素晴らしい効果を挙げた。彼女の発作を見て疾病だと認識し、多くの学友や父兄が協力してくれたことが画面から伝わってくる。

地域の小学校の特別学級に通わせながら、ピアノの先生をし、健常の生徒さんを教えながら、同じ家で奈緒ちゃんも育てている。

月謝を払いながらお母さんのピアノ教室に通ってきてくれた生徒さんと父兄に、ボクは心から感謝したい。そのことをいちばん感じていたのは他でもないお母さんだ。

だからこそ自宅を開放したひな祭りのシーンに繋がる。ああいった人々への感謝の示し方にもお母さんの緻密な考えを感じ、親なればこその決断だと胸を熱くする。多くの同級生たちも小学校までは協力してくれるが、中学に入り受験や、それなりの悩みを抱える思春期ともなると自然に付き合いは少なくなっていくことになる。

聡明なお母さんが、その現実を考慮して、「つぼみの会」からの同じ悩みを抱える親同士の結びつきを強めていったのは当然のことであろう。

だが、親だからといって皆が同調してくれるわけではない。障害者だから、とにかく穏やかな生活さえ送れればいいじゃないかと、精神的に疲弊した親御さんが消極的であったとしても誰も批判できないからだ。

『奈緒ちゃん』が観客の胸を打ち清清しい感動を呼ぶのは、伊勢監督や瀬川キャメラマンのエモーションや、フィルム機材だったということだけではないと思う。

それは奈緒ちゃんもお母さんもお父さんも若々しいことに由来していただろう。若いというだけで観客は希望を感じてしまう。祈りたいからこそ、信じてしまうのである。

『奈緒ちゃん』のラストは成人式。彼女のこれからの人生が実り多きものであるように祈らない観客はいない。だが奈緒ちゃんが33歳になったように、すべての人々が年齢を重ねて、観客にいやがうえにも歳月の厳しい現実を思い知らせるのである。

『ぴぐれっと』『ありがとう』が『奈緒ちゃん』のように単純にいい気分にさせてくれないのは、現実の厳しさの重みに他ならない。

この3部作には、定点観測を続ける威力がしっかりと根付き、世界的にみても前人未到の世界である。その原動力は、なんといっても奈緒ちゃんのピュアな人間的な魅力だし、彼女を育んだ家族の努力が、伊勢長之助〜西村信子・伊勢真一に繋がる血脈に呼応して実現したものだ。

そして第1作である『奈緒ちゃん』において瀬川順一〜瀬川浩〜瀬川龍と確実に継承された映画屋としてのDNAが注入されたことがすごく重要であったと思いたいのは、ボクが映画で育ってきた人間であるからだろう。

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