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山本哲士コミュの安保法案にかかわる情況への発言

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memo

・吉本隆明なきあと、単独でコンスタントに発言できる政治的社会的文化的構想力を持つ人物はすくない。吉本とまったく同じではないが、山本は基本的な視座では共通している。これはわたしの現在までの直観をおもなものとした総合的な(言語化できない部分をも含む)感想である。

・現実的とは・・・現状追認をすることだ、ヴィジョンがなかろうと現状追認をすることが現実的判断だと・・・いう流れが多数派なのだろう・・・だが・・・、ためらわずに、いわゆる非現実的な判断をしてもいいのではないか・・・それしか、やがていつか現実になる…可能性はないのだから・・・。

コメント(17)

強行採決:日本を方向づけるときの、かわらぬ茶番劇、そのあとは悲劇。
2015.07.16 Thursday 01:23
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ひさびさに、国会茶番劇をみているが、日本の行く先を決定づける大事な法案のときには、かならず混乱する、そのひさびさのかじとり法案のときに、茶番劇がくりかえされる。だが、自民党の法案一括採決の滅茶クチャさ以上に、反対する民主党や維新の党などのみっともなさが、自民党へのいたしかなきシンパを派生させている。
政党総体の腐敗だ。
それは、かつての民主党政権のだらしなさから、はじまっていた反動の力の開花である。

なにが問題なのか、戦争しない自衛などはありえないという単純な事。
永世中立スイスのように、ナチスも攻めてこれなかった、強力な国民軍隊がなければ、自衛等できない。
男子国民全体が徴兵訓練をうけている。
しかも、スイスは、法王護衛の歴史的な戦略を象徴的にもちえている、その幻想力も配備している。
絶対に戦争しかけない軍隊だ。

どんな詭弁をつかおうが、失墜しつつある<帝国>USA追従の戦争容認の法案であるという明白な事実。
仮想敵国は、中国と北朝鮮、そして韓国、さらにアラブ圏のテロ。
貧相な、世界戦略設定。
なのに、軍事論が、安倍首相のいじめっ子のたとえ話で語られるように、軍事論なきままの自衛=戦争の不可避性がおきるという現実が目前にきた。

そして国民が無知のうちに法案通過をやってしまえという、低劣な衆愚政治。
民主主義が全体主義へ円環する不可避の日。その背後にある、社会主義経済の組織体制。
いまの日本のひどさが、すべて露呈した、日本の危機、そこにもはや選択がなくなった、不可避の戦争遂行になるということ。

しかも、軍事力もなく、まったく太平洋戦争の前夜と同じ、いや、もっとひどい。
日清・日露の侍精神に、経済支援が国際的に構成されていた軍事行動が、無知な軍部の財閥依存のウルトラ・ナショナリズム戦争に転化して、侍魂がたんなる精神的突撃に転じられ、近代戦において軍事喪失になっていった太平洋戦争敗北。その総括がなされていないまま、さらに近代戦をこえる超近代戦への軍事方法等はまったくもちえていない。
とくに補給が断たれ、太平洋戦争は不可避に敗北したが、その補給をするということは、前線以上に狙われるという経験をしているのに、あまりに無知濛昧な政府である。
年寄り自民党議員たちが、反対している、かれらはともあれ、のらりくらりと憲法をたてにして戦争(支援)回避してきた。

政治は軍事である、軍事は政治である、それが貧相すぎるのだ。
絶対平和は、自衛の放棄ではない、徹底した軍事編制は一方ではもつ、リアリストである。

だが、貧相な首相の国家意志が作用するという原理が、明白に露出した出来事でもある。
自民党内から、反乱もでてこない全体主義化の露呈でもあるが、戦後世界資本において、他国は戦争につかってしまったが、日本だけが戦争せずに保持されてきた超国家の資本資金が、軍備用に使われようとしている、既存大企業が資本経済しえなかったために不可避にそうなりつつある。
戦争経済へつかわれようとしている、つまり企業自らの自己決定ではない、国家命令だからという、他律無責任からの戦争<社会>経済へのシフトがはじまる。なぜ、自民党はいそぐのか、この資本使用可能期限がせまっているからだ。
無責任体制は、平和オリンピックの新国立競技場に出現しているように、悪しき日本の体質だ。
原発再開が、そこにからむ、核兵器生産はすぐいつでもなしうる。
情報技術やナノ技術は、環境技術経済へむかわずに、戦争技術へと転じられていく。防衛だと偽って。
国民をばかにしくさった政治の腐敗をこえて、資本使用における間違いがくりかえされようとしている。
絶対平和環境経済を世界先導的になしうる智恵と技術がある日本なのに、もうおしまいというところか。
善意の反対行動さえも、無意味になっていく、作用していかない、全体主義化の気配、それが安楽の日常から、戦争しうる日常へと転化された記念日。

若者たちの善意の反対の声に、政治性がまったくない。そこまでの不能化を完成させてきた「社会」イズム。
そして、われわれ、政治敗北世代の脱力感、愚かさをあなどるだけで黙りこくっている。(つづく)

(1)からつづく
わたしは、戦争経済のもっとも対極にある、日本人が着物を着るという動向作用にかけているだけだ。
着物を着てでは、近代戦上にはたてない。その無力という最大力は、心身への文化技術になる。
着物は、絶対平和を志向する。戦争願望・欲望に対峙する、絶対平和欲動=享楽を追求する。そこに、日本人の底力があるのを信じて。
着物をきさせまいとする暗黙の権力作用は、拡張していこう。
着物の資本経済作用を非政治的なたいせつな作用として強調してきたわたしだが、着物がいたしかなく政治作用になってしまう閾にはいってしまった日でもある。
その兆しが、オリンピック、ボランティアの陳腐な洋服衣装制服デザインにもうではじめている。当事者たちの無意識の権力作用だ。「和服にすればいいのに」というもうほとんどぼんやりした、衣装感覚しか国民に残っていない、その風前の灯火にかけるほかない。
女性たちが、化粧をしなくなり、もんぺ姿に変容したとき、着物が邪魔になり、最後方での日常での戦争遂行が浸透していた,誰ひとり喜んでしてなどいなかった。
消費商品では、ここはふせげない、着物<資本>の場所文化技術をはたらかせないと。
日本の真の文化の力を復回させないと・・・・・。
かつて、折口信夫は嘆いていた、源氏物語のいろごのみを日本人が心的に領有しえていたなら、あの愚行の戦争遂行はなかったであろうと。わたしはそこにさらに、「ごろつき」=もののふの武士制文化を布置する。この双方を、江戸近世が堕落させた。儒学と国学の思想言説腐敗である。
小さな1点での、静かな抵抗をなす。
http://webplaceuni.jugem.jp/
[山本哲士のパブリックブログ講義] から



政治喪失と安保法制強行採決:「政治とは何か?」
2015.07.18 Saturday 13:24




テレビ東京での民主党・枝野の話をきいていて、愕然とした。
政党放棄をしていて、政党を保持し、政権などとりもどせるはずはないのを確信した。
安倍政権と国民との対決だ、その自然発生性をお手伝いするんだとか、政権とりもどしたなら、憲法遵守に戻すのかととわれ、政策進行がへている度合いに応じてだと、寝ぼけぶりの露呈だ。政治意志の現実力より、政策遂行尺度が優先されている。
しかも政治は、社会空間の現実性のあるかぎり、プラスとマイナスの相反性の矛盾・葛藤を規則化において不可避に負う、そのとき、手続き善意だけで政治は遂行されない、そこを国民は民主党にはないもの、自民党は汚い手もつかいながらまだ政治している、と感知しているのだ。
世の中、きれいごとと善意だけで、物事がすすまないなど、いやというほど人々はしっている、にもかかわらずビジョン・理念を曲げることなく遂行していく政治・政党の意志をもとめているのだ。それは、共産党の擬制理念(党利でしかない)等ではない。
国民が、要請している「政治」は明解である、「戦争はいやだ、平和でありたい」が約70%を占める、「戦争は仕方が無いことによって平和が守られる」とするのは20%をみたない、さらにわからないと言う判断停止の判断が、約20%、これが、政治の質である、国民の政治判断である。立憲民主制の政体の次元のもんだいではない、まして国会運営の仕方の問題などではない。
自民党は、その国民政治判断を、詐取して、代表民主制の多数決の「悪しき」政治手法をつかって「後方支援だ」と事態を転化し、戦争経済国家を編制し、政党利権を保持しようとしているにすぎない。
それに対し、維新の党は、政策なしの法案改善対案ですりより、民主党は、社会善意依存の規則手続きで反対し、もう、「戦争放棄の憲法」遵守の政治をふみはずしているから、はぎれがない。
総体が、議員としての給与労働保証を自己保存しているだけで、政治に命などかけていない。決議でのだらけた退場のしかたに、はっきり露呈している、国家の方向が左右される事態を前にしての、そんなだらだらした仕方を誰も信用していない。強行採決と同質である。

かつて、菅直人から話を聞いた時、「政治」と「政治的なもの」との区別ができていないと分かったが、
大震災後の、原発事故対応のひどさにあきれて、民主党にも、政治と政策と法制次元との認識も識別も無い、そんなことではせっかく国民が政治転換を願った政権交代を生産的にすすめることができないと、政治認識を高める研究会を議員会館で何度か開いたのだが、そんな難しいこと民主党の誰もわからん、という、国会議員次元でのていたらくぶりに、こりゃもたんどころか、あきらかに反動が不可避にくる、と見えてしまった。政治意志をこえる国家意志が、共同幻想の転移にとどきえていないのを、わたしは認知してしまったからだ。投票行動の政治的な意味さえ、わかっていないと見抜けてしまった。

政治をめぐる社会諸条件が変化していながらも、しかし、民族国家という構造における政治本質はなにもかわっていない、しかも「政治なるもの」として民族国家の枠をこえる政治ビジョンをもたないかぎり、規制国家内での実際の政治履行等はありえない。政策は、そのもとでの推進であり、法制は正統化の手続きにある。ここを、はきちがえると、民主主義は社会主義と全体主義との円環状態をうみだすだけで、既存構造の再生産を膠着化する、そんなことは20世紀前半の戦争経験および社会主義革命の失敗からはっきりしていたことだ。ヘーゲルからマルクス/ヴェーバーをへて、ブルデュー/ルーマンの水準が現代政治論としてもっとも本質的であり(ここをハーバマスにおいたとたん退化する)、アングロ・サクソン系のプラグマチズム政治論に横滑りしていない質をもっている、そのとき、フーコーの新自由主義批判をふまえておくことだが。暗黙にしのびよるマルクス主義政治論は、もはや無効であるという指針をもったうえでなさねばならない。 (つづく)
(3)からつづく
無知で政治はなされないのではなく、社会善意が全体主義化する政治へ横滑りする、そんな歴史はいやというほど、20世紀の戦争の歴史がかたっている。そこへの若者の無知さに、政治の可能条件等は無い。あっというまに、ネオ・ナチ化する。政治をなめるなであるが、敗北しようとも、政治意志は政治作用するのである。民族国家の枠内にあるかぎり、自然発生的政治行動は、もっとも危ういものになる、正反対へ容易に転じるからだ。見えない権力作用にひきずられるからだ、そこに、無知であることの政治怠慢から政治は行使されないのではなく、悪しき政治に活用されるだけだ(サルトル的政治自覚の次元であるが)。
「反対」と主唱すれば客観的であり、主体的行動として意味あるのだ、というマルクス主義性から一歩もでていないどころか、「善意」の自由幻想に囚われた次元に後退さえしている。無言であれ、戦争はいやだという政治意志は、国民に強固にある、そこを安楽の全体主義へ構成している隠れた権力作用を転じないかぎり、政治が政治にならない。
政治の消費者化に、政治等は無い。政治ではない政治的行動は、政治意志を別ものへと横滑りさせる、可能条件になどはない。身の危険がふりかかったとたん、反動化する。
政治の疎外表出は、存在的に不快である、それを回避して政治にはならない。国家意志に介入したとき個人意志が逆立するからだ、個人意志の直接性は政治にならない、善意の自己満足でしかない。
「〜反対!」などの言表作用が、別の言表に転移されたなら、新しいと評価しうるが。
ネットが作用しているのではない、その根源にある政治意志が作用しているのだ、認知転倒もはなはだしい枝野である。規則遂行しかしえない政治官僚でしかない態度だ、それは政治的態度ではない、官僚的態度である。
政党政治がしっかりしていれば、政権転換が確実におきうる国民政治情況なのに、政党機能していないから、自然発生性に依拠する。完全に政党失格である。真面目さは、全体主義の心的基盤である。

政治とは、共同幻想の幻想構造の転移にかかわる国家意志が、政治意志のビジョン・理念において、日常の権力作用に機能していく事にある。いま、おかれているその政治意志は、「軍事」である。「平和保持のための軍事」という、矛盾における政治意志の遂行にある。法制手続きの国会運営の問題などにはないのに、その規則化次元で、ものごとがすすんでいくことを政治布置した自民党の詐取政治を、停止させることにあるのだが、言語表出がかわらないかぎりそれは政治意志として機能しない閾にまできている。「憲法違反だ」などと規則化次元で解釈のべている憲法学者に、政治意志がまったくない、「おまえたちは戦争するのか!許さない!」としたとき、政治意志になる、それを言明回避している態度は、説得力をもたない。政治意志を悪しきものとして行使している自民党だけが政治意志を履行しているから実現していく、完全な政治腐敗情況だ。政治的中立性などは、政治には無い、政治は、明確な判断意志である、解釈お勉強ではない。

いくつもの地方議会が、安保法制破棄を議決している、それは政治意志である。これが、国家意志になるには、国家にもはやまかしておけないという政治意志を発現遂行したときである。ここは、幻想構造の転移になる。一歩手前まできているゆえ、全体主義化の悪しき政治は必死になる。日本の分かれ道と称される根拠なのだが、場所政治が国家政治にかわって機能することでしか、ここは開かれない。国家政党の無能化として、その現実はもはや出現している。
政治は、法制化などの手続き次元にはないのだ。
軍事は、また国の自衛は、自衛隊にまかせておけばいいなどの次元にはない。災害救助自衛隊は国民の側にある、戦争後方支援の自衛隊は国民の側にも対国の民衆の側にもない、手先にされ、自衛隊員とその家族が犠牲になるだけだ。
細かいものごとは、法制上の問題になどにはない、生死の存在の問題にあるのである。国家総動員法なる法制が、国民を大量死させ敵国の民衆を大量死させた。権力作用は、人間の生死に関わっているところに作用している。
無知なままの「反対」では、そこは破れない。愚劣な国家政党に対峙する、自分が暮らす場所政治から、対抗していく政治意志参画へいく若者に覚醒していくのを願う。場所自立自治の、連邦的国家へと再編していくことだ。このままでは、東京オリンピックは、確実にテロ標的になってしまう。



完全に、ネオ全体主義の情況へ入った「日本」
2015.07.24 Friday 02:25





御用学者、北岡伸一の論点をきいていて、もう大学人も、ネオ・ファシストにはいったのを確信。
あの自信気の権力活用しているかのごとき顔はネオ・ファシストの典型顔貌である。仮想敵現実性を現実であると虚言し、現実におきている小競り合い衝突を、一般化拡張して、正当性をはかり、さらには、すでに1950年代に、日本は違憲へ、違憲ならざる安全保障体制へはいっていた、それにくらべれば、今回は小さな事だと詐述する知ったぶり顔。腐りきった学者の典型が、平然と闊歩している。事態が反対なら、まったく逆を言う、御用学者の典型であろう。

思考不在の思考形態の極致である。立教リベラル政治学教室の雰囲気から出現した、北岡に、墓場で高畠さんは嘆いておられるだろう。「真面目さ」と「清潔主義」から全体主義・ファシズムが生起すると明示した栗原彬さんの隣から、北岡ネオ・ファシストがうまれたことに、栗原さんもあきれ嘆かれておられるだろう、五十嵐暁夫さんも。

かつて、立教で、非常勤講師として政治社会学を講義させられたわたしでもある。こんな奴が、同年代として、そこから輩出されたとは、いやはや、あまりに本質的だ、ワイマール体制からナチスがうまれた、小さな相似場をみる。政治思想どころか政治理論がない、凡庸な実証的似非研究をなすと、こういう輩が、〜賞をもらい、いかにも歴史現実をみているかの詐述をはる、吉野作造もあきれているというか、そんな賞でしかないということだ。東大政治学の本性ともいえるが。

大学の不能化実際を感知して、大学には見切りつけた自分であるが、同世代から出現した、こういう似非者には、対決していかねばならぬと決意した。他方、日共的な手法におどらされて、反対声明など出している学者現象も同質の裏返しだ。ぶすぶすとくすぶっていた、全体主義はSociety-ismを媒介にして徐々に蓄積されていることは、何度も指摘しつづけてきたが、もう本格的に「ネオ」全体主義として露出した「日本」である。つまり、国民の半分以上が、なっとくいっていないことが、国民が選んだ自民党議員たちによって決定されてしまう構造が、それをものがたっている。

しかも、違憲だ、いや政策次元のことだ、という「手続き」論でしかかたられず、軍事なき安全保障という軍事構成が政策次元で機能していってしまう、事態そのものである。安倍対国民だ、などとボケまくっている民主党の政治放棄は、それを後押ししている。

安倍の喧嘩や火事や泥棒のたとえ話は、個々人の政治意志の譬喩はなしとしてなされている、しかし安全保障・軍事は「共同意志」の次元の話である。どこかの高校の女学生が、喧嘩と戦争とは違うとあたりまえの指摘をしていたことが、吹き消されていくところに「全体主義」形式が作用しているのだが、個人意志とその共同意志への参画のへだたりが、まったく捨象されてしまうところに、戦争責任が問われえていなかった経緯からうみだされている。

もう、これは国家意志の次元ではとめられない閾へと構成されてしまった、60日ルールで、自然過程手続きで決まってしまう、遂行者自身の規則依存の無責任放棄としても出現している。決定なき決定から戦争は、不可避に勃発する。全体主義日常は、もう規範社会のパワー関係において構成されてしまっているからだが、政策正統化がなされていけば、かまわないという不決定、思考不在の場が、作用していくということになる。国家機能が実は停止してしまって、USA追従でしか決定されていかないということだ。

そんな政治意志を、国民の共同意志は選択していないのに、政策の共同意志で決まっていってしまう。それはSociety-ismがもう構造化されてしまっているために可能になっている。経済危機が日本におとづれたとき、この安楽のネオ全体主義は、一挙にネオ・ファシズム化する。イデオロギーなきネオ・ファシズムである、それは胎児と母との分離における傷害観念から心的に無意識に構造化されており、すでにネットであちこちに噴出している。心的母が、ジェンダー文化から離床してしまった「社会化」された家庭から不可避に産みだされていたものだ。政治的自律性の自己技術の不在化として身体化されてしまっている、その知的典型が北岡である。

抗しうるのは、唯一、場所政治決定の政治意志のみである。個人意志とその共同意志とが、直接参画において統治されている政治状態のみでしか対抗はしえない。どう考えてもそれしかない。場所意志による政治であり経済の実行である。国家・対・多元場所の多元均衡がなされないかぎり、日本は崩壊する。
memo


・NHKクローズアップ現代「検証 “安保法案” いま何を問うべきか」2015年7月23日(木)放送に北岡伸一氏は出演していた。もしかしたら、この番組の録画をみてすぐ書かれたのだろうか・・・怒りのようなものが感じられる。

>あの自信気の権力活用しているかのごとき顔はネオ・ファシストの典型顔貌である。仮想敵現実性を現実であると虚言し、現実におきている小競り合い衝突を、一般化拡張して、正当性をはかり、さらには、すでに1950年代に、日本は違憲へ、違憲ならざる安全保障体制へはいっていた、それにくらべれば、今回は小さな事だと詐述する知ったぶり顔。腐りきった学者の典型が、平然と闊歩している。事態が反対なら、まったく逆を言う、御用学者の典型であろう。

・安保法案は単に政策レベルの法案ではないようだ。いま進行している日本が当面する総体(構造的な問題)を象徴するものとして現れているのだろう・・・だから、これに総体(構造的)に抵抗する自己技術をわたしたちはもたなければならないということになるのだろう。そういう時代に入ってきたということなのだろう。


(4)のmemo

>無知で政治はなされないのではなく、社会善意が全体主義化する政治へ横滑りする、そんな歴史はいやというほど、20世紀の戦争の歴史がかたっている。そこへの若者の無知さに、政治の可能条件等は無い。あっというまに、ネオ・ナチ化する。政治をなめるなであるが、敗北しようとも、政治意志は政治作用するのである。民族国家の枠内にあるかぎり、自然発生的政治行動は、もっとも危ういものになる、正反対へ容易に転じるからだ。見えない権力作用にひきずられるからだ、そこに、無知であることの政治怠慢から政治は行使されないのではなく、悪しき政治に活用されるだけだ(サルトル的政治自覚の次元であるが)。
「反対」と主唱すれば客観的であり、主体的行動として意味あるのだ、というマルクス主義性から一歩もでていないどころか、「善意」の自由幻想に囚われた次元に後退さえしている。無言であれ、戦争はいやだという政治意志は、国民に強固にある、そこを安楽の全体主義へ構成している隠れた権力作用を転じないかぎり、政治が政治にならない。
政治の消費者化に、政治等は無い。政治ではない政治的行動は、政治意志を別ものへと横滑りさせる、可能条件になどはない。身の危険がふりかかったとたん、反動化する。
政治の疎外表出は、存在的に不快である、それを回避して政治にはならない。国家意志に介入したとき個人意志が逆立するからだ、個人意志の直接性は政治にならない、善意の自己満足でしかない。
「〜反対!」などの言表作用が、別の言表に転移されたなら、新しいと評価しうるが。

・ここは山本の知的、政治的経験なのだろう・・・吉本・フーコー・(ラカン)はひとことでいえば、マルクス主義ではない新しい世界を切り拓くための思想の格闘の成果だということ。未だ、わたしにはむずかしすぎるが、なんとかこの言説の意味するところはわかる・・・というところである・・・。
絶対平和と兵器そのものの絶対悪:絶対無のビジョンへ
2015.08.06 Thursday 13:49web place university[山本哲士のパブリックブログ講義]から

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核兵器だけが絶対悪なのではない、兵器そのものが絶対悪である。人を殺すことで、精密化・高度化していく科学技術に、不可避の自然過程などはない、「分離」の意図的政治技術に従属した科学技術があるだけだ。そこに、原発もふくまれる、

人為がとどきえないものを人為がなす愚行、窮極の「分離」技術でしかない。科学技術の開発において「使う」という閾を喪失してはならないのだ。

「日本刀」が、武術の非分離技術をはずされて、軍国主義の単なる武器になったとき、罪もない人を殺傷する分離道具に転じられる。

絶対平和が絶対的にありえないゆえ、絶対平和のビジョンを喪失してはならない。

わたしの自覚的な政治感覚は、原民喜の「原爆小景」にはじまった。それは、仰々しい、告発ものではない、「水ヲ下サイ、アア水ヲ」とたんたんと原爆の情景を描く。

不毛な息苦しい受験勉強の浪人時代、することがなくて、ただ「原民喜論」を書いて、自分と世界をつなぐ回路を自覚した。Z会の懸賞論文の最優秀賞になった、はじめて活字化されたものだ。その賞金で、図書館で読んでいた民喜全集を買い入れたよろこびの情感は、いまだにわすれがたい。最初で最後の賞である、自分の手で民喜全集を買えた喜びのみだ、賞等まったく関心ない自分である。

「崩れ堕つ 天地の真中 一輪の花の幻」、原爆ドームがみえる位置に、小さくぽつんと民喜の石碑がたっている。
これが、わたしの鎮かなる政治感覚にある軸だ。


大江健三郎の「ヒロシマ・ノート」を同時に読んで、なにか当時、自覚しえない違和を覚える。政治意識・認識が、原爆にとどきえないことを感知しえたのも、民喜を領有していたからだ。
もちろん、当時の文学青年として、大江文学にはまりこむ自分ではあったが、それも「洪水はわが魂におよびて」までだ。

メキシコで、大江の講義に何度かでて、直接会話する機会をもったときも、文学者大江ではなく、政治思想的な軽薄さを語る大江であった。その純朴な人柄に共感はするものの、認識にはとても軽薄すぎて同意できない。

横浜で、イリイチを呼んでの国際会議があり、主宰の坂本義和氏から来るようによばれ、控えで大江氏に再会したが、あいかわらず純朴ぶり、そのとき県知事になっていた長洲一二氏が人々がたくさんいるなかで、大声で「いやあ山本君にはたいへんいじめられたからなあ」には(わたしの学生時代、かれは学長であった)、さすが政治家、反吐がでるほど不快に感じた。わたしはこういう方たちとは、いっしょにならないと再確認したときでもあった。

平和や闘いは、そういう次元には無いという確信である。認められる社交などより、孤絶の本質の道をいく、と決心していた。有名になる道を遮断した。そのころ、吉本さんとお会いしていく、本物は吉本さんしかいない、と実感して。自分の自分への自己技術、そこをいっさいぶらさないことだ。


きせずして、戦後70年に、吉本さんとの対話、「思想の機軸とわが軌跡」「思想を読む 世界を読む」をあらためてまとめあげ、墓前へおとどけした。これが、本質の地盤であり機軸である。吉本多子さんの手料理に舌鼓うちながら、吉本隆明全集刊行に格闘されている晶文社の太田さんや松木さんたちと談笑する1宵を、吉本宅で過ごした。「吉本さんが喜んで笑っているよ」と遺影の写真をさして、愉しく酔っぱらっている松木さん。

その本質から、歴史・世界へむかうとき、「絶対無」(西田幾多郎)を出現させる事、西田が大東亜に協力したなどという軽薄な政治意識をもたないこと、平和のための戦争にだまされないこと、自分への自己技術の自律性にのみ立つ事、などなど。

「一輪の花の幻」が、もっともたいせつであるということ。
ものごとの「非連続」にひそむ非分離の場所を飛翔していく理論を構築することだが、いままさに峠を越えんとしている最途上だ。

http://webplaceuni.jugem.jp/



青空文庫から:原民喜『夏の花』読了。創作からくる衝撃はまた映像から来るものとは違う。こういう作品を読まないというのは・・・駄目だ・・・とおもった。8月20日

http://www.aozora.gr.jp/cards/000293/files/1821_6672.html
永世中立国と絶対平和国:被爆国として「絶対平和国」宣言への可能意志:ヒロシマ、ナガサキ、フクシマを経験した日本の道2015.08.09 Sunday 21:51
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スイスが永世中立国を維持しつづけてきた。
日本は、のらりくらりではあったが、冷戦時の緊迫のなかでも、「非核3原則」をもって、「核廃絶」の平和路線をキープしえてきた。唯一の被爆国として、世界へ示威できる、重要な役目をはたしてきた。
核の緊張の国際的な愚行のなかで、原爆がその後投下されることなく、ここまできたことに、大 きな役割をはたしてきたことはまちがいない。


「戦争放棄」を、核を実際に使った占領軍でさえ、理念として、日本へもたせたのだ。それはおしつけ憲法であろうと、日本の軍国主義を封じ込めるものであろうと、理念・ビジョンとして普遍であり、崇高なものである。

いまや、日本が自ら日本であろうとするなら、「戦争放棄」を「絶対平和国」として、世界へ宣言しうる日本となるべきであるのに、うろちょろとことにしだいでは核の護衛に廻るかもしれぬ、というなさけない安保法案体制をつくらんとしている、安倍の金魚の糞外交には、70年の遅々とした軍縮提起そのものが、一挙に崩れさられようとしている。国民への説明不足なのではない、「戦争は絶対にノーだ」と国民は言っているのだ。

長崎市長・市議会も長崎被爆者代表も、安保法案への批判を毅然と静かに示した。
そこでの、安倍の非核三原則言明や核軍縮提示は、しらじらしく感じられるものでしかないのは、反対方向を向いてしまっているからだ。
安全保障法案ではない、「絶対平和」法案を軍事を内在させて作成することなのだ。


永世中立国スイスが、強固な軍隊をもち、徴兵制を徹底させている。自分たちで自分の国=生活を生存場を保とうとしている。わたしのスイス人の青年の知り合いは、軍隊徴兵で鉄砲を撃つばかばかしさを拒否して、社会奉仕徴兵で、軍徴兵ではない道を選んでいたが、そうした選択自由も保障された徴兵制である。ナチスも手をだせない、世界をスイスはつくってきた。

日本は、スイスと協働して、それと異なる「絶対平和国」を宣言し、そのもとで、手出しさせない強固な軍を軍事戦略として保有するというのなら、理解は可能になる。そして,戦争しないことへ、技術・経済協力していく国になることができる。そうした「成熟国」になっていくことであって、「戦争するかもしれない」など低次元の仮想戦闘局面を描いて、ここまでなら関与できるなど、まったく幼稚、無責任の愚行・低能の極致でしかない。

海域でのこぜりあい衝突は公開されずに、実際にすでにおきている、だから軍備せよなどは、愚かさ・無能の軍備である。「絶対平和」としての軍備をもつリアルさへととりくむことだ。権力に尾をふるうすのろファシスト学者・北岡伸一の傲慢無知な知性などを、絶対に許容しえない理性をわたしたちはまだもちえている。「永遠のファシズム」に対峙しつづけていく「絶対平和」である。


絶対平和を守る事に命をかけていくという矛盾を起こす世界への対峙である。絶対平和は、闘いの放棄ではない、戦闘しないことへの国民ひとりひとりの闘いであり武装である。銃を人へむけて発射しない闘いである。それは、理念・観念の確固とした、逆弁証法の確立だ。画一統治ではなく、場所の多元性が成熟・自律に形成されないと、それはありえない。依存ではすまされないからだ。

平和は、もはや「依存」においてでは存立しえなくなっているから、こうした緊張自体への安全対応がおきているのだが、安全と平和とはちがう、平和は絶対平和として理念である、人の尊厳である、安全はそのためになされる社会・軍事技術だ、その理念が曖昧にされ、戦争支援へと向いていて、隠されているから、多くの国民は、ノーだと言っているのだ。

だが、政治の進行は、もうどこかで歯止めがかけられた状態をつきぬけて、すすんでしまう、それは政治意志ではなく、隠れたファシズムの規範・ルール遂行として、責任主体がないままに、ずるずると負の天皇制無意識の構図で、憲法規範ルールとして60日で自然成立してしまう。 (つづく)
(10)から
それを可能にしてきたものは、憲法や平和や政治の意志の次元ではない、可能な提示を批判だとしてはねのける、受動も能動も失ったオートマティックな言動態度に日常化しているネオ・ファシストたちの動きがささえてしまっているものなのだ。(たとえば、「渋谷へ行こう」という可能提示を、「新宿にはいかない」「池袋にはいかない」という否定になっているとして非難し、どこへいくかを協議しようと協議手続きの話し合いにあけくれ、どこへもいかないままになるか、あるいは集団的なオートマチックになる方へいく集団=全体主義的な状態。「平和へ行こう」という可能意志にはならないのだ。)

場所を衰退させ「社会空間」を均質化し、主語のない日本語に主語があるとして言語思考形態をゆがめてきた述語制への無自覚感覚であり、商品再生産・売り上げが経済であるとして「資本」の動きを見失ってきた経済の、総体の地盤から、それはなされている。
日本を日本である事から失っている日本の転倒であるが、「戦争はいやだ」というかすかに残滓する、そこに希望のかすかな光がある。不可能さへの可能の意志を、うしなわないことである。


安保法案反対、戦争反対の「反対」ではない、
ヒロシマ、ナガサキ、そしてフクシマをふまえ、
「絶対平和」を自らで宣することだ。可能意志をもって、不可能へ立ち向かうことである。

web place university[山本哲士のパブリックブログ講義]から
http://webplaceuni.jugem.jp/




遅ればせながら、「思想を読む 世界を読む」、昨日、入手しました!
まず、山本さんの「吉本思想を引き継いで理論地平を開く」から始め、冒頭に戻って順番に読み進め出したところです。


(最近、時間に追われてよろず思うに任せません。)


がまん顔



世界ですすむ、社会主義化=ファシズム化:空虚への防衛、非真理への満足
web place university[山本哲士のパブリックブログ講義] 2015.09.01 Tuesday13:56から




昨日、スイスの関係者に会った。
もはや、プライベート機能は、金融では皆無、数年後には世界的に、プライベートさは、国家間法規で徹底監視される。名目は資産隠しをさせないということだが、資本主義の余裕のなさが限界へいたり、国家が監視しあうということだ。

防衛は、幻影や空虚、妄想への対処であって、真の生の中の実在する重要性にたいしてではない(ラカン)という世界情況である。

安保法案も、その類いだが、世界経済・金融の資本主義システムが社会主義システムへとファシズム化している。つまり、逆にいえば、実体が崩壊しているため、必死に空虚を防衛しているということだ。

資本主義において<資本>自体が機能停止していくという反転が、深刻に進行している。
社会主義などで、そこは脱出しえない。


そうした金融の対極にある、キモノ。
いくつかのキモノ関係のムーブメントにかかわってきたが、キモノそのものが衰退しているというより、着物への商品関係・賃労働関係が浸透して、文化資本経済がまったくいとなまれえていかない、当事者がそこをまったくわからなくなっているということが、うきだしている。

わたし自身は、キモノを日本から排除・一掃してしまった、巨大な力に対抗しえない不能さを実感している。

それは、キモノの染織技術に集約されている、歴史・文化、生態環境、動態・静態構造、経済、すべてを、ねこそぎひっくり返してしまった150年の作用である。点のようにがんばっている人たちがいるにはいるが、それを取り巻く諸関係が転倒して行く。

実体は、商品製造業の再生産にあるのではない、場所環境=地球環境にしかない。

金融、キモノ、道具、などの場所資本のホスピタリティ・マネジメントにしかないのだが・・・・・

こちらの言説がまだ弱いということだろう。



だが、「人間は、人間存在という位置そのものにおいて、人間が決してそのためには造られていないものにたいして、いかにして依存するようになるのか」(ラカン)が、まだまだ明らかではないのだ。人間は、非ー真理においても満足してしまうのだ。

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注)けん。
・山本の社会主義化・・・はどちらかといえば、吉本隆明のロシアマルクス主義に近いニュアンスで使っている。もちろん違うのだが・・・。

・巨大な力→欧米を中心とするグローバル経済遂行勢力とこの場合イメージしておくか・・・。欧米近代の植民地主義など、もっと時空の深いものではあるとおもうが・・・。




自衛隊を戦争にいかせてはならない、自衛隊を守るのは国民である:災害救助に献身する自衛隊
2015.09.11 Friday 22:32




3.11のときもそうであったが、今回の大雨災害における自衛隊の救助技術には、救われた人は、ほんとに感謝しているであろう。

自衛隊が災害救助で、存在の自己正当化をはかっているなどといううがった見方は不遜である。事実、命にかかわるぎりぎりを、彼らは訓練された技術でもって、国民をすくっている、それは「軍事」という技術から不可避に訓練されるものだ。戦争はノーである、であればこそ「軍事」は戦争遂行者たちよりもしっかりしていなければならない。

自衛隊隊員を戦争へいかせてはならない、それを守るのが国民のつとめだ。いつ自分へ災害がおとずれるかわからない、今回の大雨も、そこに降雨が停滞的に構造化されてしまったからだ、自分の場所ではなくてよかったとほっとした人たちはたくさんいたであろう、それは他人事ではないこととして、3.11同様に感知された。地震も津波も噴火も大雨も、天災を人為ではどうすることもできないが、防災や救助は人為がなすことだ、自衛隊がいることでいかほど国民が助かっているか、そこは否定できない。

救助活動は、ひとつひとつの命を大事にしている、戦争は、一つの命をないがしろにする、まったく対立する行動である。

自衛隊を、安倍・自民党の粗雑な政治の犠牲にしてはならない。
自衛隊に助けてもらう、命を守ってもらう、その自衛隊を危険な戦争へいかせてはならない、彼らを守れるのは国民である。

河川氾濫が、かくも津波のごとくおそろしいものだとしらしめられた報道を観ていて、素直に自衛隊員をまもらねばならないと感じた。自衛隊は、そこまで成長したのだ。
転向ではない。

彼らは、ソーシャルな活動をしているのではない、ひとりの命の存在をたいせつにしているパブリックな活動をしている。

戦争へいかせるのは、ソーシャルな防衛の虚妄からなされる転倒である。ありもしない社会を防衛するのではない、人ひとりの命をたいせつにすることは、社会規範論理ではなされえない。ここが、混同されているから、転倒がおきる。

国民の抵抗は、さらにましていくであろう、それは市民社会の成熟化ではない、パブリックな原理の行使としてである。

社会の原理とパブリックな原理とはまったく相反する。それが、ますます顕著になっていくのを願う。

web place university[山本哲士のパブリックブログ講義]
http://webplaceuni.jugem.jp/?day=20150911

memo
>救助活動は、ひとつひとつの命を大事にしている、戦争は、一つの命をないがしろにする、まったく対立する行動である。
>
彼らは、ソーシャルな活動をしているのではない、ひとりの命の存在をたいせつにしているパブリックな活動をしている。

・ここがポイントかな・・山本理論の・・・・。


安倍ネオ・ファシズム国家の始まり:過程なき手続き論の横暴:茶番は悲劇へいたる
2015.09.18 Friday 13:42
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雰囲気が、みなに、おかしい情況になってきたと感じとられている。

民主主義の崩壊だ、憲法違反だ、議会制民主主義の破滅だ、国民無視の独裁だ、などなど。
だが、基軸は、日本は戦後70年、なんだかんだと政府が批判、非難され、また国内での闘争が多々あったにせよ、国際世界でのらりくらりであれ、戦争せずに、戦争で人を殺すということをなしてこなかった、その平和主義の歴史が政治的に断たれようとしている徴候が、すきまにかいまみられる、ということにある。

安保法案は、両義的に解釈されえてしまう。軍事戦略がまったくないからだ。


安倍首相の強迫症的国家意志は、軍事なき戦争補完が国民安全だという、奇妙な転倒にあるが、国家と国民とを混同させる、国民騙しの最たる愚行政治として露呈した。だが、そこからなされる、国民が気づかないうちにやってしまえ、というこざかしい術策はたいしたものである。多数党の政策処理が、憲法の上限をこえる暴挙をなす、一種のネオ・ファシズムの体を成してきた露呈であるが、誰もとめられない合法規範処置の出現である。

過程が、手続き正統性で、省略捨象される、もう多数党をとれば、なんでもできるという形態が政治画定されてしまった。レギュレーションの域が、選挙で勝てばすべての横暴さの正統性へとうめられてしまったのだ。岸をしのぐ悪だ、血はたいしたものである。

選挙で勝てば、なんでもなしうる、すべては選挙が政治だと、賛成も反対も、画一化されてしまった。

野党は、なすすべがない。茶番の戦術でも負けている。
だから、反対派は、今度の選挙では法案賛成議員は落としてやる、と同質へ転倒して行く。
そこへ政治が構造化されてしまった、反動の固定化である。

選挙全体主義である、たとえば橋下の言動がその典型である、政党をつくり「やってみろ」,選挙で勝て、に集約される、正当化は、俺はやった、と。だが、選挙主義は、大阪都構想のように、政治ビジョンで敗北するだけだ。


政治は、選挙でも、政治制度の形成でも、政策提言でもない、個々人の、自らの自らへの決定である自己技術の自律性である。

政治物象化に橋下は転倒しているだけのはなしだ。


本質問題は、自民党内からは、反旗をひるがえす者がひとりもでてこない。歴史上ありえなかったことだ。政治意見は、もはや「党」意見でしかなくなった、政治的態度が政党態度へ合致されてしまったのだ。多様さがあった自民党が終焉した日、自民党はネオ・ファシズム党として確立された。

もはや保守政党ではない。ファシズムの定義があいまいだというシニフィエ(意味されたもの)がいかんのことではない、ネオ・ファシズムが安倍政権と自民党の癒着に構造化されている、そこに実体そのものの意味するものがあるということだ。総裁選の対抗馬さえ出現できない、つぶされている。

なぜそうなるか? 自分のこと=利益を守っているだけだからだ、安倍も自分のしたいことをしているだけで、国のことも自民党のことをどうしようかなども考えていない、答弁がくるくるかわるのは、国のレベルがどう運営されようがどうでもいい、法案さえとおせばいいからだ(岸=大文字の父の名への強迫症)。国家や党の傘のなかで、自分意志=利益を守る、それは小選挙区で当選したい議員が自分を守るということと同質であるから、安倍にしたがう、政治見解がちがっても黙ってしまう。

それは、賃労働社長・役員の大企業でも同じ、世界や日本のことはもちろん会社のことさえ考えていない、自分の間に不祥事だけ起こさぬように自分を守る、企業スターリニズムがそこからうまれる、組織運営だけうまくやれれば自分を守れる、利益をだすことさえ忘却する。

ある組織機構のなかで「自分利益を守る」こととして、どこでも全体主義化されている、それがネオ・ファシズムを派生させる。手続きで間違わない、とちらないことをしていれば、身が守れる。

自由行為は、自分利益を守るというところでしか作用しなくなっている。自らが自らずれていく本来の自由は、自分が自分へ対してゆるされなくなっていく、それがネオ・ファシズムの心的行動態度である。

(つづく)
(15から)

そして、おそまきながら国家対市民社会という構図が社会形成表出されてきたことによって、逆に市民社会の声を無視する愚民政治がはじまっていく。ここへの抵抗は、市民からこぼれだす「住民」存在を、残滓から核=コアへと転移させることしかない。だが、そうさせないよう、市民社会化は浸食して来る。自らの主体化=疎外化において、市民主体化が自らの住民感覚を麻痺させていくのだ。

他方、社会主義大企業が全体主義的国家に同調していく、経済も経団連労働組合による市場統制経済へと硬化していくであろう。資本家は、どこにもいられなくなる――労働技能・文化資本力能を領有している小さな資本者から、10兆円以上の資本を動かすビジネスまでふくめての資本ー。資本は国家統制で分配されて行く、そこが安倍の本来の狙いなのだ、

だから軍事なき防衛のあなぼこだらけが、別にどうでもいいことになっている、法解釈でどうととでもやれと放置されている、軍事後方支援を担保にして、米国から容認される「資本」使用によって、アベノミクスを資本統制分割できれば、間接的戦争経済が経済興隆として可能になればいいのだ。

根源は、実質、国家機能が意味なくなっていく技術発展のため、国家が防衛しはじめたということにある。

左翼などは、もはや存在していない、賛成も反対も、同質基盤の上に画一化されて、過程が消され、手続き正統性だけが、多数決定で一義的になされていく、社会主義=ファシズムの総構造が、実定化されていく道しかなくなった、ということだ。日常を守るための反対、つまり社会実定秩序を肯定し、同質地盤を守っているにすぎない。

それを象徴するように、警察車両に両側を封鎖されたなかでの、おとなしい、「反対」連呼の若者、いままでにない形態だと称揚されるが、そうはみえない、従順に飼育された「反対」表明だけの、旧左翼的な仕方でしかない。行動スタイルに幾分の変様がみられただけで、政治思考や政治的態度は、後退さえしている。

学生リーダーは歴史上、一番勉強もしていない、無知なリーダー出現になっている。わたしたちの学生の頃は、大学教師よりも勉強していた。反知性・非知性は、すべてに蔓延している。情緒で善人として良いことをなせばいい、と思い込まれているようにしか見えない。


すべての動きが、規範の手続き遂行の正しさだけの競り合いになっている。規範を守るという仕方で規範やぶりをしている者、つまり自民党が大手をふるって歩ける地盤になってしまっているのだ。ファシズムは、合法性のなかからしか出現しない。その出現は、法・掟をかえてしまう独裁的手法に走る。結果、合法性がまったく反転してしまう。「平和を守る」が、「国民の安全を守る」と転移され、「戦争する」になるのだ。

多様さが交通し合う「過程」の構造が喪失され、手続きに線的順序でものごとが決定されなされていく、野党の反対見解が話されきく場はもうけた(内容などはどうでもいいから聞く耳もたない、安倍は聞く意志などまったくない、賛成同調であれば意見をもりこむ、そんな修正案提示に政治主体などはない)、野党の合法的茶番劇にもつきあった、なにひとつ規則手続きをおかしていない、妨害へのやむなき強行判決だ、手続きに不備はない、どこが悪いと――政治ではない官僚的処置だ、そうした貧困さへ集約されたのだ。

さて、どうしたものか。
良心的憲法学者たちを中心に、最高裁への違憲提訴がなされるであろう、それがもっともまっとうな対処である。

選挙で落としてやろう、などは同じネオ・ファシストの仕方だ。野党がしっかりして政権交替がなされ、法制の新たな展開がなされていくことであるが、デモ隊に「ありがとうございます」と勘違いして言って「お前のためにやってるんじゃない」と野次られるような、あまりになさけない野党に期待はもてないが。

軍事戦略・国際戦略の画定、これは日本はあまりに幼稚すぎる、なしえまい。絶対平和主義経済戦略を国際世界へ向けてなすほかないのだが。
だが、ネオ・ファシズムは、共同幻想と法とのあいだの規範化において、個人化=集団化において、日常ですすんでいく。 (つづく)
(16)からつづく

さて、わたしはどうしたものか。

国家ビジョンがない、政治ビジョンがない、経済ビジョンがない,場所ビジョンがない、文化ビジョンがない。共同幻想の構造が膠着化しているからなのだが、共同幻想をうちやぶる新たな共同幻想をつくりだすしかないのかな、と感じている。

だが、応神から現代までの時間よりも長い時間において、それ以前に形成されてきた過程が、本質的な共同幻想の起源である、百余国の古事記までのその多元性の現在的出現になる。それを、わずか数国統治の日本書記空間が断ち切った、その窮極が安倍政権の国家意志である。

死にゆく前に、われわれ世代で、智者の100人フォーラムを構成して、総合ビジョンを策定し、計画や行動規準の参照になるものを残すことしか道がないようにおもわれてきた。

だが、大学人の言説では機能しない、新たな言説回路を同時に創造しなければならない。
敗北を知る微力者が、一番強いのだ、と見せうることだ。一者の100の知性の働きだ。
夢想で終わってしまうかもしれない、崩壊を寝て待つ方がまっとうなのかも知れないとも感ずる。

世界の趨勢が、「資本」経済の闊達さを封じている、国際官僚国家支配形態に社会主義化=全体主義化している、それは瓦解への防衛政治でしかない、難民対応にもう顕著にでているし、資本金融体制の機能停止に現実化している。

身近なところでも同じことが起きている瓦解を、着物関係で痛感する。

http://webplaceuni.jugem.jp/?day=20150918
web place university[山本哲士のパブリックブログ講義]



注)
・段落はこまぎれにわたしがかってにしてしまっている。原文はブログを参照してください。

・もはや保守政党ではない。ファシズムの定義があいまいだというシニフィエ(意味されたもの)
がいかんのことではない→

 いかんのことではない→どうということではない。

memo

>政治は、選挙でも、政治制度の形成でも、政策提言でもない、個々人の、自らの自らへの決定である自己技術の自律性である。

・安保法案が19日未明の参院本会議で可決された。我が国は、長年憲法で禁じられていた集団的自衛権行使に世界情勢の変化という理由で、なし崩し的に踏み出してしまった・・・。

・何度も読み返しているが、ひとりの人間でも、ここまで考えていかなければならないということ。そしてここの閾で判断をしていくということ。そして表現していくということはこういうことか。厳しいものだ。



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