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日本史ミステリー旅行コミュの邪馬台国はいずこ?

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日本史最大の謎ですね〜

ところで…
邪馬台国って、いつの時代だか分かります?
教科書によると、弥生時代です。
弥生時代の前が、縄文時代で、後が古墳時代。

で、奈良時代と続くそうですが…

ちなみに弥生時代初期の後半辺りに、キリストが生まれてます(笑)


これが実に納得出来ない!!

教科書のイメージがね。
縄文時代と言うと何を思い浮かべます?

縄柄の土器、石器…
狩りに、どんぐりが主食。
服は動物の革で…


ヨーロッパではキリストが生まれ、中国では国が争ってる時に?


日本を馬鹿にしすぎていませんか?

コメント(50)

あと…

邪馬台国→大和朝廷
ではないと思います。

簡単な話しだと、卑弥呼が天皇にはならないから。
天皇族が太陽神を拝めてるとは思えないから。

戦時教育では、天皇=神だったから、アマテラスが御先祖様でしたが、
実際、アマテラスに御神託を聞きに行く天皇はいなかったし、
金を注ぎ込み、神社を盛り上げたフシもありません。
実際、昭和天皇も、伊勢に行くこともありませんでした。

いくら卑弥呼が死に、男の王が立とうが、守護神は変わらないはずです。


つまり…
邪馬台国→大和朝廷は難しいのです。

あと、原大和朝廷は近畿だったと思います。
それは間違いないでしょう。
箸墓より始まる、前方後円墳(箸墓は円墳かもですが)は、原大和朝廷のスタンダードだったから。


この原大和朝廷を邪馬台国とし、近畿説の根拠にしてるのかと。


否定ばかりですみません(;^_^A


私は邪馬台国は九州にあったと思います。

来月、吉野ヶ里等、北九州の遺跡、博物館巡りして、
根拠をいっぱい探してきます♪


ちなみに、読んだ感想、非難、お待ちしてます♪
邪馬台国の発音ですが、中国の当時の発音で言いますと「やまだぅ」と発音するに近く、限りなく「やまと」に近いのです。最後の音が、「だ」と「と」の間位なんです。また、「魏志倭人伝」は「魏志」という、中国の統一国家が、国家事業として編纂された記録です。中国ほど「記録」に五月蠅い国家はなく、歴代の王朝は、正確な歴史編纂を、必ずと言っていいほどしていますので、「外国の使節の来朝」を事実誤認することは先ずありません。また、日本(倭国)は海を隔てており、特に「魏」の国威発揚にもってこいの来朝でした。ただ念のため、中国への使節派遣は「漢委奴国王」の、金印を貰った「奴国」が最初で、後漢の初代皇帝「光武帝」に謁見をしています。封柵といって、領土権の証が「金印」なのです。多分「授」と言う首飾りのような物も貰っていますが、亡逸したのでしょう。私の意見は「邪馬台国」は「やまと国」であり、近畿説を採ります。
まず、確認ですが…
漢字の誤植については?
台と言う字は現代語に直してますよね?
あと、使者を出した訳ではなく、魏が調査しにきたと記憶しています。

その後、貢ぎ物を献上し、認められたかと。

あと…
読んでいただけたら分かると思いますが、ヤマト朝廷=ヤマタイコクでは無いと、私は考えてます。
ボスさんが書いてますが、奴国の金印。
まず、奴の国って言う漢字です。
中国ではよくみかけますが、属国にひどい当て字をあてます。
だから、ヤマタイコクも邪の馬の台の国と。(台は壱かもですが)
つまり、当日の中国読みもあてになりません。

日本人が発声した国の名前を、当てた字だからです。

ただ、あくまでも、古大和朝廷は近畿にあったと確信してます。
ヤマタイコクではないと考えているんです
倭人伝の中で、記載があります。卑弥呼は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じ数度にわたって魏に使者を送り、皇帝から親魏倭王に任じられたのです。正始8年(248年)には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されています。魏志倭人伝の記述によれば、朝鮮半島の国々とも使者を交換していたらしいですよ。
また、「台」(本来は旧字)の字が「壱」だというのは、古田武彦さんの主張が有名ですが、誤字だったと私は思います。
『三国志(魏志倭人伝)』の版本には、すべて「邪馬壹國」または「邪馬一國」(日本語読みはともに「やまいちこく」)と書かれている。『三国志』より後の5世紀に書かれた『後漢書』倭伝では「邪馬臺国」(日本語読み「やまたいこく」)、7世紀の『梁書』倭伝では「祁馬臺国」、7世紀の『隋書』倭国伝では「魏志にいう邪馬臺(都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也)」となっているが、どちらが正しいかは不明(日本の漢字制限後の当用漢字、常用漢字、教育漢字では「壹」は壱か一、「臺」は台と書く)。表記のぶれをめぐっては、「壹」を「臺」の誤記とする説のほか、「壹與遣,倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送,政等還。因詣臺,」から混同を避けるために書き分けたとする説、魏の皇帝の居所を指す「臺」の文字を東の蛮人の国名には用いなかったとする説(『三国志』には「臺獄」や、死体を積み上げた塚を「臺」としている例があることから、これを否定する説もある)などがあります。

「邪馬壹國」と「邪馬臺国」のいずれも、発音の近さから「やまと」の宛字ではないかとする説がある(古代中国語音の研究が進んだことにより、邪馬臺は「jamatö」に近い発音となると考えられている)。しかし、「邪馬壹國」は「やまいこく」であり、「やまと」とは別の国であるとする説も在野に根強く残っているんです。また、古い日本語では同一語根内に母音が連続しないことから、やまい(ya・ma・i)は不自然とする意見もあるのですよ。

えっと…
使者を送ったのは、属国になってからですよね?


壱か台か。
つまり、中国も全てが正しいとは限らないと言いたかったんですよ(^-^)


仮に、ヤマトだとして…
九州の山門だったらどうします?(笑)
福岡県に、山門以外にも奈良県とよく似た、地名があることをご存知ですか?
恐らくですが、北九州にあった政権が、大和に移っていったんだと思います、勿論「征服者」としてです。その記憶が「神武東征」で現れているんじゃないですか?もちろん、フィクションも交えて「古事記」は書かれていますが、時代の前後や、場所の東西はズレがある場合多いです。
使者を送ってきたと書かれており、先に「使者」ありきでしょう。「属国」と言う表現は、当時の感覚と比べて、少し違うと思います。厭くまでも、柵封として近隣との外交に配慮した行動で、貿易的な色合いすらありました。朝貢すれば、送った以上の物が、送られてくるのです。「三角縁神獣鏡」の例がありますが、日本で作れないもの、多数がその頃入ったのだと思いますよ。
日本に記録がないので「魏志倭人伝」を頼るしかないのですから、その記録が完全とは言いません。しかし、魏も使節を送っており、文字についての「瑣末」な事に囚われない方が善いと思います。表音にそのまま、字を当てただけですからね。
あのぉ〜
私が字に捉われない方がいいよって言ってるんですけど(笑)
あと、ボスさんの文章見ると、九州にヤマタイコクがあったって事になりますよ?
賛同して頂けたのなら、嬉しいですが♪
キースさん、大和(邪馬台国)が、近畿にあった事は間違いないです。これは、魏志倭人伝に書かれた頃の事を申し上げています。きっと、朝鮮半島から渡ってきた民族ですので、当初は北九州付近に有ったのではないですか。だとすれば、地名云々は移動した場所で同じ名称を使うのはよく有る事です。そういう意味で申し上げています。
ですから、近畿にあった根拠は?
私の提唱した、魏からの行程で、途中の国がない理由は?
ヤマタイコクだから、大和では、山門でも問題ないですよ?

何度でも言いますが、原大和朝廷は奈良で間違いないですが、
魏志倭人伝に書かれているヤマタイコクは九州だと思います。
キースさんの仰る途中の国については、既に「邪馬台国」領内と考えれば、何の問題もないと思いますが如何ですか?

近畿にあった根拠は、純粋に発掘調査の結果、と言ってしまってもいい位です。
奈良県桜井市三輪山近くの纏向遺跡(まきむくいせき)を邪馬台国の都に比定する説が、下記の理由により有力とされています。

年輪年代学の成果により、画文帯神獣鏡などの記年鏡の年代も一致したことから、邪馬台国の時代にすでに遺跡の築造が始まっていたとみられ、最盛期が弥生時代終末期〜古墳時代であり、邪馬台国の時代と合致すること。
吉備、阿讃(東四国)の勢力の技術によると見られる初期の前方後円墳が大和を中心に分布しており、時代が下るにつれて全国に広がっていること(卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳は、その代表例)。
北九州から南関東にいたる全国各地の土器が出土し、纏向が当時の日本列島の大部分を統括する交流センター的な役割を果たしたことがうかがえること。
卑弥呼の遣使にちなんだと見られる景初三年、正始元年銘のものを含む三角縁神獣鏡が、畿内を中心に分布し、かつこれらがかつては4世紀以降の古墳にのみ見られ時代が合わないとされていたのが、年輪年代学等の結果により、3世紀に繰り上げられ、時代が合致すること(九州説では後世の偽作と見ている)。
弥生時代から古墳時代にかけておよそ4,000枚の鏡が出土するが、そのうち紀年鏡13枚のうち12枚は235年〜244年の間に収まって銘されており、かつ畿内を中心に分布していること。この時期の畿内勢力が中国の年号と接しうる時代であったことを物語る。
『日本書紀』神功紀では、魏志と『後漢書』の倭国の女王を直接神功皇后に結び付けており、中国の史書においても、『晋書』帝紀では邪馬台国を「東倭」と表現し、正しい地理観に基づいている『隋書』倭国伝では、聖徳太子の都する場所ヤマトを「魏志に謂うところの邪馬台なるものなり」と何の疑問もなく同一視していること。現行の「魏志」がすべて宋時代の刊本を元としているのに対し、それ以前の写本の中には、南を東と正しく記載したものがあった可能性もある。(これに対し九州説では、日本書紀に卑弥呼の記事が現れるのは、書紀の編纂に当たった当時の大和朝廷が自らの正統性を高めるため、参照した魏書など中国の史書にある古代国家の記述を自身の歴史に組み入れたにすぎないとする)

また、九州説の弱点として上げられるのは次の点である。

奴国2万余戸、投馬国5万余戸、邪馬台国7万余戸、更に狗奴国といった規模の集落が九州内に記述通りの順番に収まるとは考えにくいこと(ただしこれらの戸数等をそのまま信用してよいのかにはもちろん疑問がある)。
中国地方や近畿地方に、九州をはるかに上回る規模の古墳や集落が存在していること。
古墳時代の開始時期を、4世紀以降とする旧説に拠っているが、年輪年代学、放射性炭素年代測定などの結果がでるにつれ、ほとんどの考古学者の支持を得られなくなっていること。
魏から女王たちに贈られた品々や位が、西の大月氏国に匹敵する最恵国への待遇であり、小領主へ贈られたものとは考えにくいこと(九州説では呉に圧力をかけるための厚遇であったとする)。
3世紀の紀年鏡をいかに考えるべきかという点。はやくから薮田嘉一郎や森浩一は、古墳時代は4世紀から始まるとする当時の一般的な理解にしたがって、「三角縁神獣鏡は古墳ばかりから出土しており、邪馬台国の時代である弥生時代の墳墓からは1枚も出土しない。よって、三角縁神獣鏡は邪馬台国の時代のものではなく、後のヤマト王権が邪馬台国との関係を顕示するために偽作したのものだ」とする見解を表明し、その後の九州論者はほとんどこのような説明に追随している。しかし、このような説には以下のような点が問題として挙げられる。
現在の知見からは邪馬台国時代にすでに古墳築造が始まっていると見るべきであり、偽作と考えるべき前提が成り立たない。
紀年鏡には三角縁神獣鏡以外のものも含まれる。
魏の年号である「青龍3年」、呉の年号である「赤烏元年」「赤烏7年」などの紀年鏡も見つかっており、単に邪馬台国にちなんだ偽作というのでは説明がつかないなどの疑問があり、学界では受け入れるところとなっていない。
また三角縁神獣鏡を、呉の鏡または呉の工人の作であり、呉の地が西晋に征服された280年以降のものとする説もあるが、様式論からはかならずしも呉の作であるといいきれるものでない。少なくとも銘文にある徐州を呉の領域であるなどとはいえない(一般的には概ね魏の領域と考えられている)。これらを280年以降の製造と考えると、紀年鏡に記される年号が何ゆえに三国時代の235年から244年に集中しているのか、整合的な理解が難しい。これらにより、いまだ学界の大多数を説得できていない。
また、九州説論者の見解では、いわゆる「卑弥呼の鏡」は後漢鏡であるとするが、弥生時代の北九州遺跡から集中して出土する後漢鏡は、中国での文字資料を伴う発掘状況により、主として1世紀に編年され、卑弥呼の時代には届かないのも難点のひとつである。2世紀のものは量も少ない上、畿内でもかなり出土しており、北九州の優位性は伺えない。一般的に弥生時代の遺跡では、2世紀にはいると北九州の優位性は失われるため、多くの考古学者が九州説に与し得ない理由の一つとなっている。
旅程記事について、通常の連続読みでは九州内に収まりきらないので、放射線式の読み方に従うにしても、次のような難点がある。
放射線式読み方が正当化されるには、「到」「至」の使い分けがされているときは、そのように読むべきであるという当時の中国語の決まりがなければならないが、魏志倭人伝の内容をほぼ引き写している梁書では、そのような使い分けはされておらず、使い分けに特別な意味があったとは思えない。
仮に放射線式の読み方を受け入れると、邪馬台国は伊都国の南水行十日陸行一月の行程にあるが、これを九州を大回りして水行し南下する意味に捉えたとしても、邪馬台国の位置は中南部九州内陸に求めることとなり、後の熊襲の地に邪馬台国があることになる。そしてさらにその南に狗奴国が存在することになる。したがって比較的支持者の多い北九州内には到底収めることはできない。
かつて、九州説の根拠とされていたが、今は重要視されていないものは以下のものである。

近畿地方から東海地方にかけて広まっていた、銅鐸による祭祀を行っていた銅鐸文明を、「魏志倭人伝」に記載された道具であり、『日本書紀』にも著される矛(剣)、鏡、勾玉の、いわゆる三種の神器を祭祀に用いる「銅矛文明」が滅ぼしたとされる説。
しかし、発掘される遺跡の増加に伴い、「銅鐸文化圏」の地域で銅矛や銅剣が、吉野ヶ里遺跡のような「銅矛文化圏」内で銅鐸や銅鐸の鋳型が出土するといったことが増えたことから、今では否定的に見られている。
また、「倭人伝」の記載は、祭祀について触れられたものではないこと、6世紀以前は3種ではなく、多種多様な祭器が土地それぞれで使用されていたことも九州説では重要視されない理由として挙げられる。
携帯からなんで、ありがたいです♪
全てにお答えできなくて、申し訳ないですが(;^_^A

三輪山に付きましては、最近行ってきましたので、後日見てください♪


現在の中国地方から、近畿まで、ヤマタイコクと言うのは(;^_^A
乱暴じゃないですか?
魏志倭人伝の行程にそぐわなくなりますし…


確認なんですが、ヤマタイコクは何を拝めていたんでしょう?
いやはや…
Wikipediaの丸々コピペなんですね(;^_^A
全て目を通してますから、次からはいらないですよ♪
しかも、畿内説の否定をコピペせず、九州説の肯定をコピペせずでは、
意味がないですよ(^-^)


何度でも言います。
ヤマタイコクは大和朝廷ではないと考えます。
九州説についての反論が纏まっており、最も新しいデーだがそおって降りましたので、提示いたしました。先ず九州説についての根拠となる、物証が希薄。更に行程が放射説を採られ様と、里程は合いません。何より、40年前私がこの問題を知った時と比べ、九州でも調査は進んでいるものの、「邪馬台国」に想定すべき人口が、あったと考えられる「結果」は、何一つ発見されておりません。前記にも有りましたように、「状況証拠」としての発掘物、この点で大きく差がついております。嘗て私も「九州説」ではないか、と考えていた時期もありましたが、現状において、「九州」こそ、と思えるキースさんの、理由が判りません。歴史の、事実が大切であり、信じる事が大切ではないと、思うのですが如何でしょうか。あくまで、私は畿内に有った方を信じる、のではないです。それ相応の物証があり、福岡南部あたりに大集落が点在していた。充分なロケーションが有ったとなるなら、振り出しに戻るかもしれません。

>現在の中国地方から、近畿まで、ヤマタイコクと言うのは(;^_^A
乱暴じゃないですか?

と仰っていますが、使者は当然「邪馬台国」の都に行ったでしょうし、それだけの勢力があったので、「大月氏国」と同じ待遇にされたのではないでしょうか。
直轄であったかどうかは、判りませんが領地内であれば、「国名」がないのは当然ですね。乱暴といわれますが、「一大国」と言うような「国」まで記載されていますから、記載なしは、そう取るのが極めて自然だと思います。
なるほど・・・
私が信じている事を、疑わない人物だと思われているのですね?(笑)

そんな人間が、片道七時間も掛けて島根まで行きませんよ♪
先月は島根に・・・今月は奈良に行きました(笑)

はっきり答えを言わないのは、いきなり答えを言っても信じて貰えないからです。

>直轄であったかどうかは、判りませんが領地内であれば、「国名」がないのは当然ですね。

吉備、出雲、阿波、壱岐・・・
この地域が、邪馬台国の領地内では絶対にありません。

どう捕らえられるかは、個人差がありますが・・・
とりあえず、「奈良旅行、出雲を求めて」で、纏向遺跡をアップしているので、
見ていただけると幸いです♪


九州説の物証に関しては、しばらくお待ちください♪
月末に吉野ヶ里遺跡、九州国立博物館に行って来ますので♪

目でみて、足で確認しないと自信が持てない人間なのですが・・・
吉野ヶ里遺跡は、多くの人が住んでいた物証にはならないんですかね?

まったく旅行記を上げる暇がない(笑)

とりあえず、吉野ヶ里遺跡の感想です。


立派な国で、北を上位とした配置…
巫女がいたと思われる、催事殿。
その南側の議事堂。
更に南には、役人街、交易市場、町民街…

さすが国営博物館です(笑)

めちゃくちゃ広い!!

それはさておき…

北を上位…
夏至、冬至を意識した催事殿。
催事殿より、下位の議事堂…


深い堀、そびえる塀…


奈良にはない物が、ここにはあります。

何度でも、言います。



ヤマタイコクは九州にありました。
逆に…
邪馬台国にない、大和朝廷の前身が奈良にはあるんですがね…

しかし、大和朝廷に繋がらない飛鳥文化もある…

謎だらけです(笑)
久しぶりに読み返して見ると・・・
たった一年前の書き込みなのに、
かなり考え方が変わってるな(笑)

2008年は「宗教観」を主観に置いて、
色々回りましたが・・・
邪馬台国=九州地方
のイメージは拭えません。
近畿地方の「山」を代表する信仰・・・
自然信仰と、
九州地方の太陽信仰。

同じ自然信仰で括るのは、如何な物か?

街の形式、構成・・・まったく似ても似つかない。


そして出雲の特色性。

さらに、関東の戦闘国家。

中部地区のどこか、なごみ系な遺跡(笑)
青銅の数々・・・

現代人の感覚だから、理解出来ないのかも・・・

愛知県から、奈良まで車で三時間。
東京まで四時間。
四国まで六時間。
島根まで八時間。
福岡まで十二時間。

車で・・・

馬が使えたとしても、統治できますかね・・・^^;
統治出来たとしても、その国民すべてに情報がいきわたりますかね?

「日本」が出来るまでの間に必要なパーツが、
何か足らない気がします。

3月21日
邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、3世紀前半の建物跡(柱穴)や凸字形の柵(さく)が見つかり、市教育委員会が20日発表した。


 過去に見つかった建物跡とあわせ、3棟が東西に整然と並ぶことも確認。当時、方位に合わせて計画的に建てられた例は極めて珍しい。

 女王・卑弥呼が活躍した時期とほぼ一致しており、卑弥呼がまつりごとを行った宮殿の一角との見方が浮上、邪馬台国畿内説に弾みをつけそうだ。

 調査は、約100メートル四方の高台のうち、西端約400平方メートルで実施。新たな建物跡は一辺が6メートル以上あり、昭和53年に見つかった建物跡(一辺5メートル)の東側で見つかった。その西側で以前、見つかっていた柱穴は同様の建物跡と分かった。

 3棟が高台の西端に位置することから、さらに東へ発掘を進めれば、神殿のような中心的な建物が見つかる可能性がある。

 柵は、全体の長さが約40メートル。53年発見の建物跡を凸字で囲むように南北へ伸び、東に折れ曲がっている。

 3棟は、西端の一棟がある「外郭(がいかく)」と、凸字形の柵に囲まれた2棟がある「内郭(ないかく)」に分かれた宮殿構造だった可能性もある。市教委は「建物群が特別な施設であることは間違いない」としている。



ヤフーの記事を転用しました〜

さて、邪馬台国=近畿説の根拠だと騒いでますが…
東西、同じラインに建物、柵が並んでる跡が見付かっただけですよ?
他に例をみないって…
結構あるがなぁ(;^_^A

ちなみに、単体の建物じゃ意味ないって言いたいみたいです(笑)
吉野ヶ里を含み、方角を意識した建物は、そこらじゅうにあります
浜松にさえある(笑)

前から言ってますが、近畿説の根拠たる、
纒向遺跡の最大の弱点は、柵しか出ない事。
邪馬台国には柵と壕があったとされる。
つまり吉野ヶ里方式なんだよね…

いいかげん、邪馬台国に捉われなくていいって気が付けばいいのに…
所詮、中国に泣き付いた国ってだけだよ?
ヤマト朝廷と繋がってなかったら、意味ないやろ…
纒向遺跡がヤマト朝廷に繋がるのは間違いないかもだけど…


いいかげん、中国に負けない国が日本列島にもあったんだと気が付いたらいいのに…
先日、ワイドショーでもやってましたね〜

箸墓は卑弥呼の墓か!

やはりテレビだと分かりやすい♪
矛盾点もね(笑)

今回の炭素検査は、壷型土器に付着したスス…
つまり、
燃えかすを採取し、その木に含まれてる炭素からそれがいつ頃の木か判定する物。
それが240年〜260年だとする結果。

ふむ。

それが何故に卑弥呼の墓に?

マスコミを使い、公言してるには、その時代に、あんなでかい箸墓をつくれるのは、
ヤマタイコクしかないから。

だそうな(笑)

根拠薄くないですかねぇ…

ヤマタイコクを語る上で、絶対に外せない、魏志倭人伝。

そこに書かれた墓の大きさと、箸墓はかなり違います。

倭人伝には百余歩と書かれてる卑弥呼の墓。
百余歩とはだいたい直径で言えば、150mから160mくらい。
箸墓の後円部くらいです。
だから、箸墓だと言いますが、掘跡も見つかり、
最初から前方後円墳だったとされています。
(実際、今回の調査で使われた土器も掘跡から発掘された物)

つまりまず卑弥呼の墓と言うには大き過ぎます。

さらに言えば、ヤマタイコクは戦争をしており、あんな巨大な箸墓を造る時間も、
財力も時間もあったのでしょうか?

実際、倭人伝には卑弥呼が死んだ後、また戦乱が起きて、
収める為にまた女王を立てたと書かれています。
(墓を作ったから、逆に攻められてとも考えられますが…)


結局…
今回の調査でハッキリしたのは、
240年〜260年くらいの日本には、
あれだけの建造物を造れる技術と人がいたってことです♪

それはそれで素晴らしい発見だとは思いませんか?

三国志の時代に、
少なくとも日本にだって負けない技術や人はいたんですよ♪

ちなみに…
纏向遺跡がヤマタイコクとされ、それで箸墓が卑弥呼の墓だとなるわけですが、
纏向遺跡から各地の特色を持つ土器が発掘されるから、連合国だ→
連合国と言えば当時はヤマタイコクやろ♪→
だから、ヤマタイコクの遺跡だ!

と、言う人が沢山います。
その根拠たる土器ですが、確かに各地の土器が出てます。
しかし、九州地方の土器は後半からでしかも数が少ない。

魏志倭人伝に書かれてる、ヤマタイコクまでの国々で、認定されてる国は、
北九州にしかありません。
つまりヤマタイコクの玄関口は北九州で間違いないんです。
なのに…
九州の土器が少ないのはおかしくないですか?


近畿説の根拠には矢印論法が多過ぎです(笑)
整理

私的仮説

紀元前200〜紀元200
古代出雲国が、九州から、関東、東北、四国を納めていた。

紀元200
まず、アマテル(アマテラス)が出雲を離れ、
九州を統一

さらに吉備が裏切り、奈良のヤマト、紀州、尾張と連合国を作る

アマテル九州国が中国との交易を計り、鉄の流入を支配する。

鉄不足に陥った吉備・ヤマト連合国は朝鮮半島との交易を持つ、
出雲を攻め、国を譲らせる。
この時、北陸から関東に逃げた出雲勢力が関東を支配。


出雲、吉備、ヤマト、尾張を押さえた連合国が、
九州を攻め、アマテル九州国を合併する。

飛鳥朝廷を作りあげ、蘇我氏が主導権を握り、天皇制度を作り上げ、
国の安定を計る。

しかし、クーデターにより蘇我氏滅亡し、
飛鳥朝廷は崩壊。
その勢いで、朝鮮半島の主導権を握ろうとするが失敗。
飛鳥朝廷の復活を狙っていた勢力に、弱体化したところを狙われ、
天智朝廷の滅亡。
天武により、蘇我氏の目指した天皇制度整備を整え、
ついに、日本となる。


どかな(^-^)

ヤマタイコクをアマテル九州国とし、
纏向連合国を、吉備・ヤマトとしました。

国という単位をどうとるかですが、
少なくとも、出雲、纏向連合国、飛鳥、天智、天武と、
五回は国が変わってと思う。

ヤマタイコクはただの地方国。
これは変わらない思いです。

天武になるまで、天皇制度はしっかり整備されていなかった。

だから、古事記、日本書紀が必要だったのでは。


異議、意見、お待ちしていますわーい(嬉しい顔)
はじめまして!

キースさんの仮説を読ませて頂きましたが…小説のようでやっぱり無理があるのでは…推測を積み重ねているだけですよねあせあせ(飛び散る汗)あせあせ(飛び散る汗)
文献史料の無い時代は考古学の出土遺物や遺跡を重視すべきだと思います。また中国の歴史に較べ日本の歴史が遅れている事を恥じる事は全くありませんよ!日本にも凄い古代があったはずだと歴史を飛躍させたりするのはダメだと思います。キースさんの仮説を読んで感じました。
> たら坊さん
コメントありがとです♪

推測としか取れないですか…
言葉足らずですんませんあせあせ

日本列島が中国より遅れてると、戦後のアメリカに対する願望に近い感情をいだく必要はないかと。


世界最古の土器は日本かもですし、土偶はセラミック技術と同じ技術を使っています。
銅鐸は今の技術でも、あの薄さには出来ないそうです。

教科書や学校で教えてもらう歴史は今だ正しくないですから…
> たら坊さん
コメントありがとです♪

推測としか取れないですか…
言葉足らずですんませんあせあせ

日本列島が中国より遅れてると、戦後のアメリカに対する願望に近い感情をいだく必要はないかと。


世界最古の土器は日本かもですし、土偶はセラミック技術と同じ技術を使っています。
銅鐸は今の技術でも、あの薄さには出来ないそうです。

教科書や学校で教えてもらう歴史は今だ正しくないですから…
かなり古くから日本列島に人は住んでいたようですが古代の日本は今の東京と地方の関係のようで中国の大都会に対して田舎の日本という感じですよねあせあせ(飛び散る汗)

土偶にしてもそのセラミック技術が発展していませんねふらふら土偶だけで終わってしまっている。はたして縄文人は意識的だったのでしょうか?偶然の産物だったのかもしれません。

銅鐸の薄さも方法さえわかれば再現可能だと思いますよexclamation ×2なにしろ同じ人類なんですしねるんるんピラミッドと一緒です。銅鐸にしてもその技術が他にいかされてませんし形も図柄も稚拙な所がありますよねあせあせ(飛び散る汗)

中国古代の青銅器は見た目もかなり複雑だし正直素晴らしいですね。だからといって日本は駄目とかではなく人が多く集まる所は知恵や工夫もより多く集まるし富も力も集まるんだと思います。あとやっぱり文字ですよね。弥生時代は文字もなく国と言う程の体制も無かったのでは…
あまり過大に評価しては本当の姿が見えてこなくなる気がします。
> たら坊さん

なかなか写真では分かりずらいかもですが、
博物館等で実物を見ると、感動しますよわーい(嬉しい顔)

日本には悲しい出来事があり、神話を持て囃したり、
おとしめたり…
神の手事件があったり。

何が正しいか、解らなくなってきた。

まぁ、逆にやっと正しい日本の歴史を考えられる時代になってきたんですがね♪

一つお聞きしますが、
何を持って、日本が中国の属国の様な田舎だと、
お考えですか?わーい(嬉しい顔)
う〜ん。文化的に田舎と言ったので属国とは言ってませんよあせあせ

例えば弥生時代の日本の遺物や遺跡と同じ時代の中国の遺跡や遺物を見比べて見てください。

国の誇り、ナショナリズムなど関係なく純粋な気持ちで見比べるとわかると思いますよるんるん
> たら坊さん
弥生時代の遺跡ですか…
どちらの遺跡をさされているのかな?

日本は木材を多用する建築物ですから、
後に残らないものですが…

木材を使うから、遅れてると言いたい訳ではないですよね?
吉野ヶ里遺跡なんか良いと思いますよ〜指でOK

勿論、中国も木造ですよね。
木を使うから遅れているなんて思いません。

ただ礎石は重要かなと思います。ただ国内だけでなく海外との比較をすることで考えも広がりそうですよね。
> たら坊さん

吉野ヶ里というと、紀元前から、150年位の遺跡ですが、
それと何処を比較したのかな?


まぁ九州が当時一番進んでいたとは考えていませんが。


まぁ何をもって、進んでいたかを考えるかですが。

中国と戦争して勝てるかどうかを考えている訳ではありません。

全てを中国から学び、中国からの輸入に頼っていた訳ではないと考えているのですよ?


具体的に言えば、はっきり記録があるのはもう少し後になりますが、
朝鮮半島の国々が、中国だけでなく、日本にも、朝貢をしていた事情を知っていますか?
>キースさん
そうですね、吉野ヶ里よりちょっと昔の秦の時代の遺跡はどうでしょう。
その頃の徐福の伝説なんかも日本の古代を考える時面白いですねわーい(嬉しい顔)

確かに半島南部からは前方後円墳も見付かってますし日本側の勢力があったのでしょうね。

ただ残念ながら同時代の確実な文字史料がありませんね。日本も朝鮮半島も歴史書ができるのは後の時代ですもんね。広開土王碑のような石碑や金文なんかの文字史料が出てくるといいのですが…

かなり時代が違いますが朝貢といっても勃海国や足利義満の例もありますし実情はなかなかわかりませんよねあせあせ(飛び散る汗)
たら坊さん>
徐福伝説はさておき、確かに中国からの亡命者といいますか、
大陸での戦争からの避難者が日本に大量に入ったとは思います。
日本列島ですべての文化、技術が開花したとは思っていません。
しかし、一般で言う様に、中国朝鮮半島影響化での日本を考えるのではなく、
日本独自の技術とか、人とかクニ(現在の国ではない)を考え、
日本の歴史をもっと尊重すべきだと私は考えているのです。
文字史料は色々当時の権力者の意向が反映される物であり、全てが真実とは言えない物もあります。
やはり、遺跡、遺物から考察するしかないのも現実です。
そうしたとき、日本の遺跡・遺物のオリジナルを中国や朝鮮半島に全て求めるのもいかがなのでしょうか?

第二次世界大戦の敗戦を経験し、ここまで成長した現在の日本人の感覚で考えてしまうと、
日本人は改良、改善が得意な人種と考えてしまい、
古代も中国の技術を盗んで成長したと考えれば、楽かもしれません。

ですが、それでは説明できない物が多すぎます。
銅鐸しかり、前方後円墳の形しかり・・・
出雲大社しかり。

今までの考え方を捨て、今までの考え方を改めることで、見える世界もあると思いますよ(^^)

私は、日本は捨てたもんじゃないって信じてますから♪

余談ですが、土偶は
縄文時代になります。
火炎土器なんかもそう。
縄文時代を今一度お勉強されると、また新しい考え方がでてくるかもですよ。
三内丸山遺跡だけではなくね♪
縄文文化は今の日本全国探しても、見つからないと、
おっしゃった人達がいましたが…

http://www.daily-tohoku.co.jp/kikaku/tyouki_kikaku/jomon/jomon_menu.htm


まぁ、あくまでも一例に過ぎないかもですが♪

縄文時代を考えずして、日本の歴史は考察出来ないと私は思っています。
>キースさん
勿論土偶が縄文時代と言うのも知ってます指でOK
火炎式土器確か岡本太郎でしたか絶賛してましたね!
日本列島はお隣りが大陸で海から島伝いに何千年もの間に沢山の人達が渡ってくるのは地理的に有り得る事だしいろんな物も入りこんできたでしょう。

宗教も埋葬施設も青銅もそうですよね。これは絶対日本オリジナルだexclamation ×2と決めつけてしまうよりいろんな要素が日本列島で融合して独自なものに発展していった事を誇りに思いますよるんるん
たら坊さん>

>宗教も埋葬施設も青銅もそうですよね。これは絶対日本オリジナルだと決めつけてしまうよりいろんな要素が日本列島で融合して独自なものに発展していった

日本のオリジナルだっと決めつけているのではありませんよ?
むしろ、日本列島で融合して独自のものに発展していったと、教科書に書かれている事を信じるのはどうかな?
って思っているのですよ。

なにを誇りに思うかは個人の自由ですがね♪

上記の縄文の新聞HPはみて頂けたのかな?
特に何も思わなかったのかな?
ご無沙汰です。
論戦盛り上がってますね。

自国の歴史に対する誇りは、大切だと私も思います。
特に社会の先生は左巻きが多いせいか、自虐的日本史を
教え込まれましたからねww

最近少しづつ、見直そうと言う機運はあるようですが、
まだまだって感じですね。

以前にも少し書かせていただきましたが、日本神話は
南太平洋あたりの神話に、よく似ているそうです。
縄文人は、(私は、出雲人、加茂人などが縄文人だと思っています)
南太平洋、東南アジアあたりからの民族ではないかと思います。

何天皇だったかな・・・うんんん、忘れましたが、
背丈が低くくガッチリした体格の、竪穴式住居に住む人たちの事を
土ぐも、と言ってますよね。
この辺に、大陸系の弥生人?と南方系の縄文人の間にせめぎ合いが有ったのでは?

邪馬台国は、どちらの民族なんでしょうね、それともMIXかなww
市蔵さん〉
カキコミありがとうございます♪

上に一例を上げましたが、縄文時代ってのは、
実に面白い♪

日本の考古学の悪い所ですが…
縄文時代って、ものすごく長い!
土器が使われる様になってから、
本格的な水田…
稲作が始まるまでを縄文時代とするそうですが、
めっちゃ長い(笑)

ですから、本来は西暦できちっと表示や明記して欲しいんですよねあせあせ
博物館や書籍では。

ま、とにかく今後さらに驚く発見があると期待している時代ですね♪
邪馬台国はいずこって事で、他のコミュでは色々議論しておりますが、
実際問題として、邪馬台国以前をどう捉えるかによって違うのではないではないでしょうか?

実際、皆さんも地元の博物館や民俗資料館に足を運ばれてはいかがですか?

博物館も最近では、発掘された数々の品が、どういう意味なのか、理解出来ないみたいで・・・
いや、教科書に書かれている内容とあまりにも違うのに、戸惑っている様子が伺えます(笑)

またそのうちアップしますが、地元のたいしたことないと思っていた博物館にも、色々眠ってますよ♪
もしくは博物館があるのを知らないだけかも知れませんよ?

是非、探して足を運んでみてくださいな♪

いかに、日本が変わった地域か・・・
中国とは違う宗教感で歩んできたか・・・

少しでも感じて貰えると思います。


少しでも感じて貰えたら、邪馬台国が近畿にある必要もなくなりますし、
邪馬台国→大和朝廷→日本国って流れに疑問が持てるはずです。

まずは知識より、見て感じることですよ♪

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