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久米貴コミュのBiography

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他トピックにて貴重な昔話がこぼれ出しているので、久米史はこちらにお書き頂き、まとめて閲覧できるようにしたいと思います。

幼少のみぎりから青春時代、現在に至るまでを惜しみなく語って頂きます師匠ペン必ずしも編年体でなくとも構いません。

久米史を知ることで、歌への理解度を上げつつファンの欲求も満たされるというものでしょう。

コメント(86)

リアルタイムでわかる時代になりました!
この当時、「Gaou私設応援団2号」を自称名乗っておりましたので、ステージで演奏する久米師はよく拝見してました。
それは寡黙で、軽軽しく喋れる存在ではなかったのを覚えています。畏怖の存在でした。
あと、何故かステージ衣装がハッピ姿であったのを覚えております。。。。はい。
つるさん
そうですね。あの頃はライブの日も本番直前まで近くの公園とか高速道路の下とかで練習してたりして。今では信じられませんよ。
話は変わりますがもしまだこのバイオグラフィーをお読みの方がいらっしゃいましたら、何卒赤茄子短歌会の題詠、選歌だけでもをお願いできないでしょうか?
『コラージュサックス』
サックスを真面目に吹いてた頃は〈フレーズ〉と〈サウンド〉の追求で頭がいっぱいだった。歌を作る理由もなく、歌もできなかった。
その頃、関わったアーティストのほとんどが私に〈好きなように吹け〉と言ってくれた。だから私は手渡された楽曲をポップスとして許される範囲でできる限り遠いところへ飛ばしたいと思った。高校の頃聴いて衝撃を受けたホルガーチューカイの「Persian Love」の方法論で(どういう方法論か説明できないが)サックスを吹いた。
ホルガーチューカイは短波放送で流れてきたイランの古典歌謡を録音し、自分で作ったバックトラックにそれを切り貼りしていった。男女の歌声が交互に、偶然かつ必然的に?絶妙のタイミングで挿入され、その声の複雑で高度な節回しは非西欧世界に芳醇な音楽体系の存在を予感させてくれた。
〈そのコブシの主を知ろうと久米はインドからアラブ、ヨーロッパ一帯の音盤を聴きまくり、数年後にそれがイランのゴルパガイニ、ハエーデという歌手であることを確認。よく考えればペルシアンラブなんだからイランだろうに。この遠回りのおかげで彼はすっかり世界のコブシ通になってしまった〉(大山倍達.余談)
〈コラージュサックス〉といってももちろん私のやることだから、「なんちゃって」の域を出るものではない。
例えば変な指使いをするとCとC♯の間の音が出る。その音はどこの音だろう、すごく遠い国の音のような気がしてどこかへ飛んでいく気分になる。鍵盤の隙間に存在する無限の音世界。自分と同じようにに聴く人も遠いところへ飛ばせられたら…。
当時、そんな想いを抱いていたが、どこへ飛んでいくかわからない長距離ロケットに乗りたがる人はよっぽどの変わり者で、大衆に1枚でも多くCDを売りたいレコード会社の人間に嫌われるのも仕方ないことだった。
『翁ワン』
沖縄民謡に初めて触れたのは中2の春。現衆議院議員、井脇ノブ子さん主宰の「少年の船」に乗せられ、沖縄に行った時にに覚えた。
〈久米はこの乗船の際、井脇団長に気に入られ、高校時代「少年の船友の会」の会長となり、その全国大会の折は明治神宮ナントカ殿で日の丸をバックに開会の挨拶などを行った。また井脇師のスイミングスクールのコーチも任され、多大な期待をよせられていたが、高校卒業を機に師の下から逃亡。最近、出世した師の姿をTVで目にするにつけ(ついてゆけば今ごろ第二秘書くらいのポストにいて、板橋の立飲み屋ではなく三ツ星料亭で、会談が終わって先生たちが去った後の残り物に舌鼓を打てただろうに…)と後悔しているらしい〉(大山倍達,余談)
大山先生に話の腰を折られてしまったが、戦前生まれと戦後生まれの唄う沖縄民謡は全然違う。嘉手苅林昌や大城美佐子の唄は膨大な音情報を内包しているのに、きちんとした西洋音楽教育を受けた人ほど鍵盤で表せる以外の音を認識できない。ドミファソシドが〈沖縄音階〉と言われるが、実はドとミの間、ソとシの間には自在に遊べる無数の軌道が横たわっていて、そこをどう上り下りするかが沖縄民謡の醍醐味ではないだろうか。シタールもフレットが抜けているポジションがあって奏者はそこで思いきり遊んでいる。と思ったけど(勘違いかも)。
うの花解散後、橋本君が三線の修行に沖縄へ行き、帰ってきてその成果を披露するライブをやったのだが、西洋的解釈以前の本来の沖縄音楽を吸収してきたようで、ああ、さすがだなと感心していると、これからのソロ活動を手伝ってくれないか、と彼が私に言ってきた。
『ペルソナ』
その頃はとにかく託された楽曲をカッコよくしたかった。
秋谷さんの結婚式で神父が「ペルソナとは貫く音のことで…」とか言った。結婚式だから何か夫婦円満のための説法の中の喩え話だったのだろうが、〈貫く音〉というのだけ残ってしまった。楽曲を貫く唯一のフレーズがあるはずだ、と思った。
ウォークマンで練習の時に録音したテープを聴いていると、商店街のBGMや電車の発車音とか、外のノイズが絡まってきて、ギョッとすることがあり、そこからフレーズのアイデアが生まれることもよくあった。
休日の土手でテープを聴きながらひとしきりサックスを吹き、なんか疲れたなと思う頃、遊覧船や散歩中のポメラニアンが通り過ぎてドババババと何曲分もフレーズが出てくることもあった。カセットテープ時代ゆえ、そんな時は思いついた時点でRecボタンを押したから、ライブや録音前にはすごい虫喰い状態の音源テープが残った。

コルトレーンを悪く言う気はないが〈調性〉って何だろう。私たちが聴く音楽は常にミクスチャーである。リビングでベートーベンを聴いている時、携帯が鳴り、別れ話が始まれば「ベートーベンDE別れうた」と名付けてよい。
喩えが的を外したような気がするが、聴く側が(あるある)と納得さえしてしてしまえば、全然キーの違う焼きいも屋が曲中を通り過ぎても、調性の範疇にある、と言える。と思う。
『倍音』
93年の冬頃から上村美保子さん(コーラス、鳴り物)と二人で橋本君のソロ活動を手伝いだしたと思う。
その頃〈フラジオ奏法〉に凝っていた。alto saxだと普通の指使いで出せる最高音はAだが、倍音を利用するとさらに1オクターブ以上出せた。音は基音と数個の倍音で構成されているが、この倍音を強調させることができる。ちなみにホーミーは基音を動かさず倍音だけを動かすので同時に2声以上聞こえる仕組みだ。
ある日橋本君がジャンベというアフリカの太鼓で「乳飲みほせ」という曲を作ってきて、好きに吹いてくれと言う。ジャンベと歌メロだけの曲にどう絡めばよいのか最初のうちは困惑した。が、ジャンベをよく聴くとすごい倍音が出ていて、倍音をつないででゆけばもうすでにメロディーがあることに気づいた。
聴く側の想像力次第では打楽器のみで無数のメロディーを聴いてとれ、ヘタなメロディー楽器など不要なのだ。打楽器恐るべし、と思った。
バンド(特にアコースティック)で複数の楽器が鳴っている場合は、耳を澄ますと、公倍音とでも言うべき強烈な倍音が聞こえる。その音を取り入れながら、やんちゃなフレーズづくりをすれば聞き手に強い印象を与えることができるのでは、と思うようになった。

『』
94年の春頃だったか、橋本君の「HOOOI!」というソロアルバムに参加し、築地本願寺のブディストホールで発売記念ライブをやった。
その後、「えびす温泉」というバンド勝ち抜きTV番組に出るために、バンド形態をとることになり、平嶋さんDr.、今福君B.、Mitch(橋本姉)Cho.が加わり「HASIKEN+A」というバンド名になった。突然、元パノラママンボボーイズというすごいボトムが来てビビってしまったが、今想えばその前に充分ハシケンにビビっておくべきだった。
その頃私は、私以外の社員はマレーシア人という、小さな土木・解体屋で働きだし、社長が「給料上げるからトラック運転できるようになれ」と言うので、教習所に通い始めていた。
ところがえびす温泉で審査員のOTOが〈橋本君〉を絶賛、バンドが恐れをなしHASIKEN+Aに挑戦しなくなり、(チャンピオンバンドが3組いていずれかに挑む仕組みだった)不戦勝が重なり、5勝でいいところを10勝してしまったのでバンドは強制卒業で即CDデビューを約束されてしまった。
いきなり予期せぬ世界に突入してしまい、運転免許どころではなくなった。
それまでもよく練習していたと思うけど(サックスを)早急に(当然うまい)と思われるレベルに引き上げなければならないと焦り、「縦列駐車」の段階で教習所をあきらめた。
『セッション』
ビクターはハシケンとのソロ契約を望んだが、彼はバンドでの契約を掛け合った。私は身の程を知っていたので「俺はいいよ」と言ったが彼に「いや、やっぱアルトはたーちん(私)に吹いてほしいし」と言われ、とても嬉しかった。
結局ビクターは渋々バンド契約に応じ、95年の夏頃「HASIKEN」のレコーディングが始まった。サザンが使っているという、ビクター青山スタジオの最上階のいちばんデカい部屋で。その時そこしか空いてなかったらしく。
プロデュースは概ねハシケン本人に委されていたが一応、世話役的な名ばかりのプロデューサーが付けられた。彼やマネージャーから「久米さん(乳飲みほせ以外は)変なフレーズ吹かないで、歌メロなぞったりしてください(後で消せるから)」と言われ、変なフレーズしかなかったから音無しくしていようと思った。
シングルカットされる「グランドライフ」「セッション」のみ渡辺等という、わりと売れっ子のプロデューサーがついた。ベーシストとしても引っ張りだこの人らしかった。
「セッション」の録音が始まった。この曲には上幸一郎さんというバリトンサックスも助っ人で参加。「島唄」以前のロック時代のTHE BOOMのほぼレギュラーメンバーだったと聞き、私は家出して上井草の交番に保護されたコリーのようにシンとしていたら、渡辺さんが思いついたように「あの久米さん、思いきりめちゃめちゃ吹いてみてください」と言い、そのように吹くと、はいオッケーです、と言われた。
メジャー史上もっともヘタクソだと自負するサックスソロを巷に流すことになった。
『晴れたら海へ』
渡辺さんが変な人だったおかげで、恐る恐る吹いた「グランドライフ」の、たぶん自分だけモンゴルの大地に遊んでいるフレーズも、うるさいくらいに採用されてしまった。
夜中メインの録音作業を2、3日経て、およその骨格部分を録り終え、細部の各パートの録音作業をしていた夜更け、世の中で徹夜がいちばん苦手な私は「晴れたら海へファーファーファーファー」という曲の後奏(アウトロ)の録音中に力尽きて寝てしまった。アルバムプロデューサーも悪い人ではなかったので「今度にしましょう」と言ってくれ、次回、最後の録音日に持ち越された。
記憶がおぼろだが、翌日から2、3日、ビッグネームがその部屋を使用するので、録音日が伸びたので、気晴らしに中川と海に行った。
ひとしきり海に浸かって、海の家で昼寝して、いい時間になったので「そろそろ帰るかい?」と促すと「もったいないからもういっかい入ってくる」と走ってゆき、海の中で波にひとりでぴょんぴょん跳ねているのを海の家から見ていて、何か、すごく、かなしくなり、それがそのままフレーズになった。

CDを聴くと今にも寝そうなだらけた間奏に比べ、ほんのり消えてゆくべきアウトロがえらくはつらつとしていて、すごくアンバランスである。
『手動ミニマル』
95年の暮れにシングル、96年初旬にアルバムが発売されたと思う。ライブのハコもO-EASTとかリキッドルームとかバカデカくなり、空間を漂う音をキャッチしながらとか悠長なことを言っていられなくなった。不自然な音響の中でやるべきことをちゃんとやること。観客に製品を提供すること。

その頃〈サーキュレーション(循環呼吸法)〉を覚えた。私は元々クラフトワーク、ウルトラヴォックスなど初期テクノ?やスティーブライヒやフィリップグラスといったミニマル音楽も好きだった。無機質な音の反復は例えばモロッコのジャジュカやラオス奥地の民族音楽と共通する恍惚感を与えてくれる。〈非人間的≒脱人間的〉ということか?
そんなわけでライブ中に、幾何学的もしくは原始的なフレーズを延々と反復させた。顔を真っ赤にして心臓をバクバクさせてミニマル音楽をやることに意義があるような気がした。ビクターの人たちは苦虫をすり潰していたが、イケてる人たちからは評判がよかった。例えば渡辺等さんや彼がバックをつとめるcobaさんなどが客として来て「おもしろい、今度遊びましょう!」と言ってくれた。「是非お願いします!」と喜んだものの、仕事じゃ使えないってことだったのよね…。cobaのドラマーだったヨシエさんにはとくに、私のフレーズは彼女のツボにハマるようで、大爆笑された。ヨシエさんはコーネリアスでも叩いていたから、もっと仲良くなっていれば小山田君を紹介してもらい、小山田君のことだ、きっと私を気に入りコーネリアスに入れてくれただろうに残念!?
『ビフォアザレイン』
96年頃だと思うがライコから出されていたバルカン半島のCDを何枚か聴き、ドギモを抜かれてしまった。それらはロマ(ジプシー)によるブラスバンドもしくはサックスやクラリネットなどの木管を主体としたバンドだった。その頃「Underground」「Before the rain」などバルカン半島を舞台にした映画も観て、是が非でもバルカンへ行き、ジプシーと会い、「Before…」に象徴的に出てくる湖畔の教会まで行ってみようと思った。とはいえ当時の旧ユーゴ諸国は分裂独立後の混乱の中にあり、ボスニア戦争の終結からまだ日も浅く、ガイドブックどころか大使館で情報を得るのも困難だった。
わりと決死の覚悟で97年1月にバルカン半島を旅した。中川もドキュメンタリーのネタ探しも兼ねて同行したが、彼女は私より度胸があるので呑気なものだった。
とりあえずギリシャに入国し、ユーゴ、マケドニア、ブルガリアを周り、イスタンブールに脱ける旅。アエロフロートだからモスクワ経由。ロマとの出会いも含め、旅のエピソードをいろいろ語りたいところだが、長くなるので、いつか機会があれば思い出せるうちに書きたいと思います。
(ちなみに中川は帰国後ドキュメンタリーの企画書を作成したが、当時まだNHKではジプシー物はタブーだったらしく却下されるも、その後のジプシーへの認知度の高まりにより、昨年ようやく「旅する楽団」という作品を企画制作、放映。今春おこなわれた劇場版上映会には久米コミュの方々にもご来場いただき、ありがとうございました)
さて本題だが
サックス吹きとしてたとえば梅津和時氏などの巨匠と交えても一太刀くらいは入れられる自負のある私だったが、イボパパゾフやフェイルーズムスタフォフを聴いて、彼等ロマミュージシャンの〈光速メランコリー〉には最早立ち向かう術なし、と思ってしまった。
『晩夏光』
97年の9月頃だったと思う。
朝起きてTVをつけたら音声が割れてて、TVが壊れたと思った。それを観ながら耳掃除を始めると、左右で聞こえ方が違っていた。音叉をあてると半音ズレてしまっていて、パニックになった。
町医者も都立病院でも原因がわからなかったが、病院の待合室の雑誌に、有名人の「私は中国医療でこんな病気を克服した」という記事があり、鈴木慶一氏が私と全く同じような症状を鍼灸で治したと書いてあるので、藁をもすがる思いで下北沢にあるその〈心身一体療法治療院〉をたずねた。
医師の問診を受け、原因を尋ねると「年です」と
「今までのような無理がもうきかない歳なのです。」
それを聞いて自分が浦島太郎のように一気に老けた気がした。そういえばその年の夏に初めてぎっくり腰になった。 この数年間ほとんど毎晩、現場が終わるとサックスを吹いていた。きっと私は疲れたのだろう。
7回ほど通院(高かった)して、針も痛く感じだしたし、治療を止めることにした。東洋医療に終わりはない。自分がもういいと思えば治癒なのだろう。医師は「プロでやっていくならもうちょっと通ったほうが…」と言った。私は「いえ、もういいんです」と言った。

アルトを銃剣がわりに突進するのはやめ、以降は碁会所で碁を打つ隠居のような音楽活動となる。
折しもその頃ビクターとの契約も切れバンドとしてのハシケンも消滅した。私には何もなくなった。
でも、その頃は中川が土手でフリスビーとかして遊んでくれていたので、さほどさびしくはなかった。

〈この時の牛との格闘で足の親指を骨折し、100m11秒フラットだった私の走力は永遠に失われたのだった(大山倍達.談)〉
大山先生、とうとう自分のことを語りだしたぞ…
『98年?』
酒量も増えたせいかこのあたりからの記憶があやふやです。
98年の夏に赤羽から王子に引っ越した、と思う。土手が遠くなり、ひとりでサックスを吹く回数も減った。
そんな頃、昔からの音楽仲間、千成さんから声がかかり、彼女の「パラボラ」というユニットに参加することになった。室内楽的なサウンドとコードに依存した楽曲にはあまり興味を持てなかったが、そこでクリアーな音のマーチンでクリアーなフレーズを弾いているギタリストに惹かれた。どんな難曲にも明快なフレーズを見つけだす彼こそパラボラのリーダーかと思いきや、私同様、お手伝いさんとのこと。それが吉田ぽんた君。現在、KOOMOONの相方として私がもっとも信頼をよせるミュージシャン。
同じ頃「パライソ・ラセングス」というバンドにも声をかけられ、サックスを吹いた。そこでパワフルに歌っていたフィリピン人、スティーブロペスとはその後ヌーブラザー(包み隠さず話す兄弟)の契りを結び、お笑いコンビ「プラとニック」として某劇団の芝居に欠かせぬ存在となった。
『99年?』
「革命うさぎさん教室」は横市大の劇研OBを中心とした劇団で、みんな堅気の仕事に就きながらも年に2本位芝居を打っているのをとても逞しく思い、陰ながら応援していたが、その年あたり、活動を休止して公演を行わなくなった。劇団のような大所帯なら尚更、一旦腰を下ろしたらもう上がらないのでは、と不安になった。ヘビのような目でうさぎの解体、吸収を目論む某人気小劇団の主宰者の存在も気になった。
そこで「アリバニーズ」という芝居バンドを結成し、うさぎを活性化できればと思った。
うさぎさんの宮川君と西田さんに出演を打診した。超慎重派の宮川君は初対面の時プレゼンする私をジィーッと睨んで、真意をはかろうとしていて怖がったが、一旦それが伝わると、とりとめのない私の妄想をきちんとした活字の台本に仕上げてくれ「こんな感じでしょうか?」と言ってくれた。
演奏は元アリバイズが担当。八鍬里美が「浅川マキみたいなのが歌ってみたい」と言うので「薬和のブルース」を書いた。〈海のもくず〉と〈海のもずく〉どっちがよいか尋ねると「モズクで」と言うのでそうしたが、本番でその箇所の歌詞を忘れ適当に歌って、照れ隠しの笑みを浮かべていた。
その他にも「変な人」「変な気持ち」など久しぶりに歌ができた。(「変な気持ち」はその後、自分を含む数人に歌われたが、透明感のある八鍬バージョンが一番良かった。改めて故人の冥福を祈ります。)
芝居の内容にふれる余裕がないが、これを契機に宮川君は演劇魂を再燃させ、うさぎは活動を再開した。
(勢いあまって彼は子供まで作ってしまった、大山余談)
『00年?』
宮川君のできちゃった婚を祝うCDを大槻さんたちが中心となって作ることになり、真黒毛ぼっくすの代表曲「歓びのダンス」にちなみ「よろこびのタンス」という曲を作った。解体屋を長くやって分裂気味になったせいか、手が無意志にリフを刻めるようになっていた。録音のため初めてポータブルMDを買い、その音質の良さにびっくり。弾き語りの一発録りならこれで十分CDになると思い、「ぎたるたんか」の録音を始めた。曲によって録音場所を変え、空間の自然のエフェクトにバリエーションをもたせた。ピクニックは彼岸花の散った川原で録った。
夏頃、うさぎさんの「海に似た色」に出演した。Tsumazuki no ishiの時と同様、演出家から演技せずに素でやるように指示された。家出した少年と少女に慕われるが、少女のオッパイを揉もうとして少年に刺されケチャップまみれになり(胸に常備している携帯ケチャップを刺された)、少年達を追いかけてきた少年B(佐相君)と抱きしめて踊るヒッピーの役。はまり役と評判だったが、脚本家は、世間は私をそんな風に見ているのか‥。
秋にぎたるたんかが完成。歌人、穂村弘さんに半ば強引に帯文を書いてもらった。カタカタと穂村さんからのFAXが上がってきた時は震えあがったな。
〈かすれ、ねじれ、うらがえって、こんなにもまっすぐ届く〉だったか?
大槻さんの青空レコードで通販してもらったが売れなかった。大口注文があったが母親だった。
マスタリングをしてくれた鶴見君へのお礼に、彼が土居恵子さんと始めた「29」というユニットのために「ちぎり」「ウィッキーさんインザスカイwithダイナマイツ」「三十路」を書いたが、歌詞も譜面も書かず音源だけ渡すという不親切さゆえ、鶴見君も取り上げようがなかった。
私の名前がついに出てきてしまいました・・・・。
怖いわげっそり

芝居バンド「アリバニーズ」の幻の練習テープを何故か持ってます。
本番前日、吉祥寺かどっかで練習した時のものだと思います。
なんで私がもってるかは、よくわかんないですが。。。。

「ウィッキーさんインザスカイwithダイナマイツ」
今なら、小西ヤスハル氏のようなミックスができるかもしれないっす。
『01年?』
パラボラの神谷さんが「ぎたるたんか」を見て、こんなに簡単にCDは作れるのかと思ったらしく、アタシも、と「太陽のしっぽ」というCDを作った。千成さんはそれを見て、ならアタシたちも、とパラボラで「ポララミン」というCDを作った。神谷さんが詞がつかないと放り投げた2曲に「ネクター」「トロンボーン」という詞をつけた。
パラボラのライブには穂村さん、東直子さんなど短歌誌「かばん」の先鋭歌人たちがよく足を運んでいた。短歌なんて簡単じゃん、と高をくくっていた私も穂村さんの
〔終バスにふたりは眠る紫の〈降りますランプ〉に取り囲まれて〕
という歌に衝撃を受け、短歌の世界にのめり込んでいった。短歌はもっともピュアな音楽だと思えた。私達の体には五七調のリズムが染みついていて、それをラップのバックトラックのように鳴らしながら詠む、または読むのだろう。言葉を磨いて磨いて、人の心を震わす最短の呪文を作る。短歌は自分の流れついた最後の音楽だと思った。
その年の初めに東直子さん主催の「ぷらむ短歌会」に入会。日溜まりの中でお茶を飲みながらのんびり短歌を鑑賞する穏やかな会であったが、やがて〈元祖暴れん坊ママ〉ことひろたえみさんがぶっとび短歌を携えて入会。堰を切ったようにムンライさんなど変な歌詠みが続々入会し、穏健派、革新派入り乱れた会となった。
ぷらむは楽しかったが、やはり定期的に作品を提出できる場が欲しかった。かばんに憧れていたが
〈荒野のどどど真ん中に引き戻されしフンコロガシの目のいのせんと 無頭鷹〉
〈「なぜ」よりも「なぜいけないの」と問いたまえ少女よ船乗り志願であれば 佐藤弓生〉
こんな歌群たちと歌を並べる自信がなかった。
『のうがき』
〈うたう〉の語源は〈うつたう〉つまり訴える。57577の77には(お願い、信じて!)(ホンマ頼むわー)といった詠嘆が込められる。この詠嘆を嫌って77部をカットしたのが俳句。AB型のクールなプレゼンのように「さて、このような調査結果が出ましたが‥(結論は言うまでもないですよね)」といった感じか。
俳句はきわめて写真的である。短歌は音楽的。詠嘆が好きなA型が短歌人口に占める割合は実に4割に達する!?
私はAB型だが女々しいからこの詠嘆なしではツラい。また俳句は字数が少ない分、言葉の共通認識、季語から呼び起こされる過去の作品を網羅しておく必要がある。俳句は頭のよい者にのみ許された文芸といえる。ゆえ私は俳句を全く詠めない。
万葉集以来、和歌は衝動の結実であった。求愛、ことほぎ、弔い、呪い。強い衝動のおこった時のみ詠めばよいものであった。中世以降、有閑階級の慰みモノと化した和歌にばっさり喝をいれるべく俳句が登場したといってもよいかもしれない。
さて現代に目を向けると、若きパンクロッカーの初期衝動のように歌を詠みだしても、その衝動が収束した後もさらに詠み続けるためには〈(最小の)文芸〉として短歌を愛してゆかなければならない。
現代短歌は音楽的要素こそあれ、やはり文学の領域なのである。残念ながら私には文芸として短歌を詠む素養はなかった。

〈久米はたしかO型のはずである(大山倍達)〉
『かばん』
01年の夏にパラボラも消滅し、いよいよサックスを吹くこともなくなった。
その秋、勇気をだしてかばんに入会した。短歌を知りたい、学びたいのだから恥をかくくらいの荒治療も必要だと思った。
かばんには01年の11月号から04年の9月号まで約3年間在籍した。
増尾ラブリーはいいペンネームだと思ったが、自己紹介する度にえらく恥ずかしい思いをした。
かばんは月刊の同人誌で選者はおらず、毎月1人8首まで提出しただけ掲載される。他の結社は選者がいて、提出した歌の選に通った歌のみ歌誌に載る。かばんは当然、玉石混交となるが、厳しい批評眼と、すごい名歌と隣り合わせになったりするうちに自ずから学んでゆくことになる。
01年11月の同窓生に小島左さんがいる。当時まだ金沢の大学生だったが
〈その孤独を愛した人に影を踏まれ夕焼けはさみしさの免疫〉
〈見ていればいつか見られていたらしい語彙少なくてそれでよい秋〉
など、デビュー作からすでに詩的な飛翔力に溢れていた。
一方、私は自己紹介に〈子供を作らないなら「たかいのうた」を蘇らせて死ね、と先祖からお告げがあったことにしておいてもらえますか〉と書いた。(宇宙人のモニターの分際で)古事記に出てくる好戦的で呪術的な舞を得意とした久米一族の末裔、という大義を掲げようとした。
(いわゆる「久米歌」には〈みつみつし〉という枕言葉さえある。久米一族は卑弥呼率いる大和朝廷と戦い、敗れ、その後は朝廷のための舞(久米舞)を踊る集団となった。マス・オーマラ.談)
にもかかわらず作品は(バンドを始める時は好きな曲をかっこよくカバーすることが肝心)という意固地な考え方で、最初の数回は本歌取りに徹してみたのだが、例えば東さんの名作
〈廃村を告げる活字に桃の皮ふれれば滲みゆくばかり 来て〉(新聞紙を敷いて桃を剥いていて好きな人への衝動が湧き上がる光景)を
〈バイソンの怒れる角に桃の皮ふれれば滲みゆく ばか来てよ〉
と桃の皮を桃尻パンツにしてしまう冒涜ミックスをしたため、初っぱなから良識派の反感を買ってしまった。後に師匠と仰ぐ久保明氏からは
「わざわざそんなことしなくても原作に十分そのエロティシズムが含まれていてそれがいいんだ」と諭された。
『02年?』
かばんに在籍した3年間は一日中短歌のことばかり考えていた。厳しい批評も針治療と思い謙虚に受けとめた。中には感情的な批判もあったが、 何か伝えようとしてくれるだけ無視されるよりありがたいものだ。
短歌で同人誌を発行することは(購読者なんてたかが知れているので)大変なことだと知り、かばんでは教わることばかりだったので発送係になり、毎月製本屋から送られてくるかばんを封づめして会員や購読者に送った。宛名シールをいかに素早く、曲がらずに貼れるかとか追求していると発送作業も楽しいものだ。
〈ぼろぼろになって患者を慰める待合室の少年ジャンプ〉
〈燃え尽きて灰になっても人生は続いてるので果実酒に凝る〉
〈落とされて優しいひとに拾われてガードレールの上のスカーフ〉
その頃の私の作品はモチーフの発見に終始してしまっていた。立て板に水のようにストンと読んでそれで終わり。呪文のように後を引くわけでもなく、繰り返し鑑賞したくなる調べもなかった。かばんのVIPたちが囁く〈シニフィエとシニフィアン〉という言語の対立項?を何とか知りたかった。言葉をただ意味を伝える道具として使うか、あるいは…「シニキレ」と「シニキラン」??
酒で軟化した頭には結局解りきれなかった。
ただ、VIPがその批評システムを作動させる前に笑っちゃうほどのバカ歌、例えば
〈飛ばそうとしても指から離れないこの鼻クソのガッツが惜しい〉
〈間違えて相田みつをで泣く会のドアを開けたらみんないるじゃん〉
〈吐いている俺をかくまうロボットの滑り台なぞ京都にあるか〉
などはバカうけした。
いつか忘れたが浅草吟行歌会があった。浅草をそれぞれぶらついて歌を作り無記名で提出し、選歌する。私の提出歌は
〈ゴジラです 仁丹塔を破壊してデカいウンコをして逃げました〉
4点獲得。(4点は大変立派な得票数)
でもその時、18点という最高得点を獲得したのが小島左
〈お前もだ、お前も行けと空一面赤えんぴつで塗る男たち〉(たぶんちょっと違うと思う)
場外馬券場の周囲の雰囲気をまるで外国人が遭遇した風景のように「正直に」言語化しているではないか。

ちなみにこの年の1月、ちょっとだけ死ぬつもりで東欧を廻った。
一生懸命 昔の「かばん」を引っ張り出したらありました。
「2003年10月26日」ですね。
正確には

お前もだお前もいけと空一面赤えんぴつでぬる男たち 小島左

です。
今思うと、鉛筆も塗るも漢字のほうがいいですね。

師匠の歴史、すごい。
左さん
ありがとう。いつか忘れたと書きましたが03年の暮れ近くであろうと思ってました。翌年公演予定の芝居に出ないかと誘っていたから。作品のたとえ話の流れであそこに吟行の話を出すのがよいと思いました。
『恋人に芽がはえた』
03年の春頃?宮川君から電話があり、芝居の舞台でピアノを弾いてもらえないかと言われた。「ピアノは無理」と言うと「とりあえずマイムマイムだけ弾ければいいのです、あとピンポンというチャイムの音」と言うので「練習すればマイムマイムぐらいなら弾けるかも」と言うと「では練習して下さい」と言われた。
うさぎさん教室は02年頃から再び休止状態となっていた。脚本家、荒木と演出の宮川両氏が子煩悩になってしまい、稽古より子供の顔を見ていたいとのことだった。
業を煮やした女優、土居さんと美術担当のけいらんこと高橋圭子さんが2人だけでも芝居をやろうと決め、02年から準備を始めていた。そのうちパパたちの赤子熱も治まってきたのを見て、補脚本と演出を頼んだか、彼らの申し出をすっと受け入れたようだ。私なら(誰がアンタたちなんかに頼むもんですか!)と意固地になるところだ。女性のこういうしたたかさ、否しなやかさを学ばないといけない。
(結局残るうさぎメンバー鶴見君も駆りだされ、彼は公演中電話ボックスより狭い楽屋に押し込められ、牛乳パックを渡す、着替えを渡す、どんどんドアを叩く、などの仕事を押しつけられた。マス・オーラマ.談)
彼女たちが見つけた築地の「兎小屋」という貸ホールにはステージの3分の1を占めるグランドピアノがあり、時価1000万円のスタインウェイゆえ、どかすとしても梱包して後方に立て掛けるのみで3万もかかるので、誰かにBGMを弾かせようという話になったらしい。
(charlie、藤原君などのテクニシャンも候補にあがる中、私に声がかけられたのは単に〈扱いやすい、おだてにのりやすい〉からだと後に知り久米はショックをうける。オーラマ談)
サンダルを脱いで素足でペダルを踏んでいたから公演は夏頃だったと思う。マイムマイムはガクガクしながらなんとか弾けた。ただ他のシーンでインストものを弾く自信がなかったので、暗転中などに弾き語りをした。ひさしぶりに曲がぽろぽろできたので、公演後サントラ盤を制作した。
そして再び芝居モードが開いた荒木、宮川を逃すまいと説得、翌春のうさぎさんの本公演が決まった。
『梅雨明け砂漠1』
04年に入り、うさぎ公演のキャスティングも決まり、脚本も上がってきて役者陣がぼちぼち稽古を始めようかという2月末日、父が倒れたと聞きぼーっとしていて、自分が壊した壁の下敷きになった。右手首が変な方向に向いていたので社長のトラックで大久保の悪名高い外科病院に駆け込んだ。ギブスをされ家に帰された。
2、3日後にかばん3月号が製本所から送られてきて、左手と足と口で封づめして発送した。
骨折してから芝居のことは完全にどこかへとんでしまい、ワンカップを三角布に挟んで桜の蕾が膨らむのを観察したりしていると、心配性の宮川君が泣きそうな声で「そろそろなんとか(音楽)お願いしますよ〜」とtelしてきたので「わかったよ」と。
それからは桜並木を行ったり来たりしながら、短歌の方法論で、頭の中でモチーフを膨らませながら鼻歌で作曲をした。「ツユトキエテ」「砂漠の恋の物語」2曲出来て、聞かせて宮川もひと安心したようだった。でも、もっとドラマチックなメインソングがほしいと思い、音楽室にゆき恐る恐るギブスの先の人差し指と小指でピアノを押していると「梅雨明け砂漠」という曲ができた。
『恋人に芽がはえた』でマス・オーラマ師が話している内容で補足です。
この時誘われたのは、「小さくて、気が利いて、音響効果ができて、出演者が気兼ねしない人」という条件にマッチしてしまったたためです。数ある「うさぎさん関連公演」で、唯一「音声のみ」しか知らない舞台となりました。
つるつる邸を大掃除のための大掃除している際、『恋人に芽がはえた』のCD(未開封)が出てきました。
あと、久米師が時価1000万円のスタインウェイを弾く写真(デジカメ画像)が2葉保存してありました。
『つゆあけ2』
4月の末、ようやくギブスを外し全開で芝居に臨めると思ったら、手が曲がってくっついてしまっていた。「曲がっちゃったね」だと!?明らかに医療ミスだろ!?と叫ぶ気力もなかった。骨を切って広げ空いた部分に腰の骨を移植する手術をするというが、本番に間に合っても稽古にかなり穴を開けてしまうので、公演が終わるまで延ばしてもらうことにした。今回の芝居は単なる客演ではなく、発起人であり音楽監督だ。脚本、演出家と同等であり、芝居を成功させる責任があった。
それからはさらに元気に真剣に芝居に取り組んだ。後々後遺症が残ってしまっても、後悔せずに済むような芝居にしなければならなかった。
公演は5月の週末2週に渡って8回行われた。私達はアマチュアゆえ8公演もあればどうしても中だるみを起こしがちだが、自分にはそれは絶対に許されないのだと肝に銘じて臨んだ。
最終回の本番中、暗幕の裏に控えていて、ずっとこの暗がりの中で暮らせたらと思い涙がでた。横では少年役も泣いていた。
打ち上げをやって山下公園で朝を迎え、翌日入院して手術した。
ちなみに入院中、鶴見君が病室に現れ、点滴の針の刺さったままの私を立ち飲み屋に引きずっていったのには参った。
『ツユアケデモ』
生まれてから2回手術したが右手首の全く同じ場所なのは何か因縁があるのだろうか。一度目は幼稚園の時、みなしごはっちのTVと一緒に踊っててガラス窓に突っ込んだ。包帯した手をを三角布で吊って誇らしげに幼稚園に行ったら、保母さんたちに取り囲まれ「見せて見せて」とするする包帯を取られて患部を見られたときは悲しかったな。
結局骨折から4ヶ月仕事ができず、運動により精神の安定を保っている私は?すっかり情緒不安定になってしまった。7月から現場に復帰したものの体が動かず、役立たずとなじられ、自分に自信をなくしていった。
その秋かばんは20周年を迎え、私は記念イベントの実行委員であった。ギブスした手で会場の抽選会を回り、左手で必死に申込み書を書いたものだ。企画スタッフとのやりとりの中で普通なら笑い飛ばせることがそうできなくなっしまった。速やかにここを立ち去らねば深い鬱の闇に落ちてゆくと感じた私はかばんを去った。
私はもっともっといい歌を詠めるはずだった。シニフィエとシニフィアンの謎を解明できそうだった。
終の住みかと決めていた歌壇からも追いだされ、なにもなくなってしまった。本当に無念だった。
梅雨明け砂漠の折に宮川君と約束していたバンド芝居が夏の終わりに控えていたが、もはや自分を奮い立たすことができなかった。ピアノに向かい「モロミス」「メリーゴーランドラン」を作った。〈あなた〉は彼方=神であり、もうそこに向かって歌うしかなかった。

「かっこいいことを言っているが久米はこの時『十国峠』という超おちゃらけた詞も書いているのだ!(マス・オーラマ談)」

オーラマ、俺のいちばんのヤマ場を壊してくれたな…
『04年(後)』
もういちど音楽にすがるしかなかった。
バンドのフィジカルなやりとりを通じて心神を立てなおせないかと思った。
昔の仲間たちに(たいして吹けないけど)サックスを吹かせてくれないかと声をかけてまわったところ、真黒毛ぼっくすとYASKIが迎え入れてくれた。
真黒毛では初めてのホーンセクションとしてキメフレーズを吹けばよいので楽しかった。飲兵衛ばかりなのでリハや本番後に必ず酒宴があるのがまた嬉しかった。
その年の大晦日、浅草ロック座で内田裕也主催のニューイヤーロックフェスティバルに出演。
終演後、早朝の浅草寺脇の露天飲み屋で泥酔し、オレのコドモを産め、とsatomiさんにのしかかったり、ダンサーのnacoの手を握りしめ元旦の朝日をあびながら「こんな光の中でずっと生きていられたら、なぁ」と叫び、わけがわからん、と呆れられた。
『05年』
私が関わったアーティストたちは大抵メジャーになる。ハシケン、gaou、YASKI‥寺十吾、矢口史晴‥Dondokodon?‥ペナルティ?‥長嶋有??‥けいらん??‥宮川朋久???
(自分はメジャー請負人だ)と勝手に思い込んでいた私は、真黒毛ぼっくすのメジャー化計画をたてた。が、主宰の大槻さんはその様なビジョンをもって音を構築していくことを厭い、刹那に生きるタイプだったので、その年の暮れのワンマンライブのお膳立てをして、寄せてもらったことへの義理を果たしたとしてグループから外れることにした。

前後するが、初夏の頃?宮川から電話があり、秋のうさぎさんの芝居に参加してくれないか、との打診があった。梅雨明け砂漠前後のトラウマから、もう芝居に係わるのをやめようと思っていたにもかかわらず「よろこんで」と言ってしまった。宮川や荒木との信頼関係がここ数年間の自分を支えてくれていたと言えるし。
荒木の脚本は脚色というか細部のツメに甘さがあるのかもしれないが、モチーフのオリジナリティが高いのでインスピレーションがわきやすい。彼の言わんとして言えてないことを汲みとれば即、曲になる。
今回はフィリピンが舞台と聞き、脚本があがる前に「バニラマニラ」という曲を書いた。ト書きの〈ズルい男にだまされる悲しい女の歌〉を〈悲しい男にだまされるズルい女の歌〉と意図的に読み違え「オシロイ花」を書いたが、ボツとなり「十国峠」に差し替えられた。
公演は11月初旬に7回行われた。真黒毛とYASKI、2つのバンド活動と並行してやっていたので芝居への打ち込み方が足りなかったのか、公演終了後にたびたび、これから本番という夢を見た。
公演後に芝居の挿入歌や梅雨明け以降の拾遺集「キャラメルマキなんたら」を録音。その年の暮、ハシケンのデビュー10周年記念ライブにゲスト出演した折、メンバーたちにCDを配ったところ、ベースの今福君がいたく気に入ってくれ、周囲のミュージシャンたちに聴かせて回ってくれたおかげで、翌年、ライブへの出演以来がぽつぽつ来て、自らボーカルをとるKOOMOONを立ち上げるきっかけとなった。
日本有数のドラマー、つの犬さんも拙作を聴き絶賛していると聞いて、大いに励みになった。
『YASKI』
現在はヤスキvo.、チエちゃんacc.、マリちゃんp.のトリオをYASKIと呼ぶようだ。
ヤスキたちと出会ったのは96年頃。NHK教育の「熱中ホビー百科」という、高校生がスポーツや趣味事など4週かけて学ぶ番組があった。その「バンドやろうぜ」編でハシケンが講師となり、生徒役にヤスキたちがいた。私もアドリブ講師として駆り出され、お題を頂き即興でフレーズを弾く講義を受け持たされたが、後に担当ディレクター(中川)はNHKから「彼はウチで放送できるギリギリですね」とやんわりと叱られたそうだ。
(その10年後に久米は「趣味悠々・かっこよく弾く簡単ピアノレッスン」に生徒役で出演。NHK教育史上初の〈講師から生徒に転落した男〉となる。マス・オーラマ談)
ヤスキの才能と天使のような優しさに魅せられた私はエセ講師の分を捨て「いつか売れたら俺をつかってね」とつばをつけた。
そんなYASKIを私より先に知る男がいた。偶然寺である。
彼の勤務するY社の青田買い的企画、高校生バンドコンテストの横浜スタジアムでの決勝にYASKIは2年連続で出場。1度目は20分の制限時間を40分演奏し失格。2度目は制限時間を守り、最優秀ボーカリストに選ばれた。
番組収録から数年後、YASKIは音楽事務所と契約し、プロとしてCDデビューすることになり、その録音に約束どおり私を呼んでくれた。
『06年』
KOOMOONという名でユニット活動を始める。大学時代に名乗ったはずかしい名(当時中川が私をそう呼んでいた)をあえて掲げた。
2月末、ひろたえみさんとの合同企画〈ノミド音楽会〉を開始。ノミドは古語で喉のこと。アンチ・ベルカント唱法、つまり東洋からコーカサス、東欧へと繋がる喉歌の復権、という意味を込めたのだが、ひろたさんはベルカント唱法で朗々と歌っているので、その趣旨は諦め、せめてアウトサイダーたちの砦たらんことを願って現在も続けている。

一方、くされ縁の偶然寺(藤原)と藤原家の犬猫たちとコツコツ録りためていた音源を彼の水泳のコーチングを条件にCD化することにしたが、偶然寺の悪癖とも言える〈なんでもリンク癖〉により「ビジョン水泳部」のコーチに祭り上げられてしまう。
12月、CD「GOOMOAN」完成。元々音痴な私が楽器を持たずボーカルを後録りし、また録音中はジョン(犬)が(なんか食わせろ)と足元を掻き、クー(猫)は落ち着きなくボーカルブースを出入りする状況ゆえ、ボーカルは精彩を欠き、その評価も芳しくなく、偶然寺のアレンジセンスのみが光る作品となった。
12月にCD発売記念ライブを敢行。私がその日のCD売上金を着服し、航空券を買い、翌1月にタイ、マレーシアを旅行したことは既に拙日記に記した。
『図書館日和』
うさぎさん教室の役者陣は皆、歌がうまいのでミュージカルをやってほしくて、宮川を誘って劇団四季を観に行ったが、四季の財力に圧倒され帰った。
ともあれ、9月に公演が決まり、初夏から稽古が始まった。大倉山記念館のギャラリーの回廊を舞台にしようという意欲的な作品だが、ミュージカルではなかった。そこで私はト書きで指定されてない箇所や普通の台詞にも曲をつけ極力ミュージカルにしてしまおうと考え、曲を量産、ボツも含め16曲くらい書き下ろした。
ただ、仕事の後に横浜まで稽古にゆくのが肉体的にキツくなってきて、年を感じずにはいられなかった。
公演は楽しかった。が残念なことがひとつあった。
大入袋である。
うさぎにとって最も大切なセレモニーである大入袋は公演終了後の打ち上げ時に、役者、スタッフへ貢献度の低い順に配られてゆく。そこで評価が下されるわけだ。最後に受け取るのは荒木、その前が宮川。これは不動のものらしい。
梅雨明け砂漠の時は主役たちをおさえて、ラスト3に選ばれた。うさぎ外の人間としてはおそらく初の快挙だった。今回もあの時並みにいやそれ以上に頑張った。
がなんと客演の鹿又君より前に大入袋が回ってきた。そうか、君たちの考えはわかった、さらばうさぎよ。
私は2次会への参加を拒み、マン喫(マンガ喫茶)へ行ってさっさと寝た。
『07年』
43になった。
後厄も終わり明るい楽しい生活が戻るかと思ったが、テレビをつけるたびに、そんなの関係ねえと言われた。
夏にひろたさんから、横須賀のONIYANMAという劇団が男優を急いで探しているので誰かうさぎさん関係でやってくれそうな人いないかしら、と打診された。ひろたさんには梅雨明け砂漠の時に夏木さんを紹介してもらっているし。
横須賀と聞き真っ先にスカ君が頭に浮かんだが彼はメアドがコロコロ変わるし、だいいち私とマイミクになろうとしないフトドキ者ゆえ却下。宮川か鹿又君ならその劇団も喜ぶだろう、と聞いてみたが2人とも忙しくて無理とのこと。
久米さんでも構わないというので、やってみることにした。オレもうさぎ離れをしなければ、と。
だが、やってみてつくづく、うさぎさんで私は荒木や宮川に守られたVIPもしくはお豆さん的存在だったのだと気づいた。制作のことも動員も何も気にせずに曲を作り、久米君役で舞台に立てばよかった。結局芝居のことを何も知らずに偉そうなことばかり言っていたようだ。たかだか4、50分、出ずっぱりでシリアスな芝居をすることのなんと大変なことか。
大入袋は照明のササキケンジ君の前くらいに貰うのが妥当であった。

ONIYANMAの「『軍』港のヨーコ」はそんな苦労も報われぬほどかなしい客数であった。
ただどうしても打ち上げだけはハッピーになってしまう。演劇歴30年?の看板女優、五月女さん(AB型)は役者を口説く手管は心得たもので、酔って崩壊間近の私に次回公演の出演を承諾させていた。
後日、その話を聞いたひろたさんが心配して?私がやんわりと断ってあげましょうか、と言ってくれたが、武士に二言はないと突っぱねた。
『08年』
元旦の朝。何年かぶりに中川を連れ実家へ。おせちを食う。母は相変わらずネットで調べた情報を細かに私たちに話す。瞳さんはうさぎ忘年会に行ったんだね、とか、矢口のポンコツ寺は、とか。
午後。荒木家へお年始に。情操教育にとキーボードをおみやげに持ってゆく。光晴がそれを気に入り弾きまくり、鍵盤に座ったりする。音量を下げても、上げる方法をいち早く認識していてMAXにする。キース・エマーソンのようだ。
日が暮れてみんなで近くの氷川神社に初詣に。光晴は私を気遣って手をつないでくれようとする。芽衣は光晴は乱暴するのでくめっちのこどもにしていいと言う。
2日。ベトナムへ。
証拠写真を撮ろうと携帯で自分を写してびっくり。俺はこんな顔なのか。ゴッホかムンクか晩年のイギー・ポップか。これでは変な人に見られてしまう。
12日。帰国。寒い。
14日。現場に出ようとしたが下痢がひどく翌日からにしてもらう。
15日。後楽園ゆうえんちのお化け屋敷の解体を命ぜられる。迷路状になっていて壊しても壊しても全貌が見えず気が遠くなる。
16日夜。18日からハワイに出稼ぎに行く岩本が部屋を整理したいのでギターをもらってくれと家に来る。
17日夜。中川が担当したドキュメンタリー、浜松ピアノコンクールの入賞者、鈴木弘尚君のリサイタルを見る。前半のシューベルト、ショパン、リストは寝てしまった。後半のラフマニノフはがんばって見た。隣の男性は私が酒臭かったのか後半消えていた。帰宅後、岩本が服ももらってくれと再び家を訪れた。
18日昼夜、19夜と後楽園で仕事。搬出は深夜のみゆえ。夜の電飾のきれいなこと。
20日昼。ZAIMでライブ。全く声が出ない。KOOMOONの男性ボーカルを探そうと思う。夜、カレー屋で酔っ払って隣りの氷見に絡もうとしてワイングラスを割る。
割れたワイングラスは師の逆サイドにいた私も撮影に参加しましたがまん顔

2008年1月20日の師を象徴するかのような、そんな一葉です〜。
ライブお疲れ様でした。。。


当日のライブ映像は、後日別トピでお送りします!
(MANGO師ファミリーと杏仁豆腐様ファミリーが多く撮影されているので、検閲後とさせていただきます。)
『解題/マス・オーラマ』

哀れである。
いろんなコミュニティーに顔を突っ込んでは煙たがれる。違う土俵に上がっては投げ飛ばされる。海外に行っては全速力で移動する。
久米が見聞きすることは彼のフィルターを通さず、睡眠中に正確に宇宙に送信されている。無自覚に行われているモニタリング作業で疲弊し、搾りカスのようになった久米が観る白日夢のごとき妄想こそ彼に許された真実とも言えよう。
「去りゆく一切は比喩である」Aシュペングラー

読者諸氏においては、この主観だらけのバイオグラフィーをどうか許してやって頂きたい。目が霞み、耳が遠くなり、モニターとしての役割を果たせなくなりつつある今日、宇宙に消去される前にと久米が遺書のつもりでせっせと書き綴ったこれらの記述も、今春、管理人である瞳さんの卒業を機にコミュ閉鎖となれば消えてゆくのだ。
それでよいのだ。
書き終えようと人生は続いてしまうのだから。
>今春、管理人である瞳さんの卒業を機にコミュ閉鎖となれば消えてゆくのだ。

新管理人を仰せつかりましたexclamation ×2
いやいや、ところがどすこい、このコミュは続きます獅子座。。。
近々についに「(キム・ウラさん私家版)WILD萌生'Sの日常」がネット上に登場する(ハズ)ですよ富士山

お楽しみに!


『誤植訂正』
南果穂×→南果歩○
ジョン×→ジュン○
ササキケンジ×→ササキシンジ○

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