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カズエの夢日記コミュのスクワットハウス生活 1

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第2章 ベルリン生活 アッカーハウス




結局、アムステルダムでトラベラーのように、コーヒーショップとユースホテルで過ごして、誕生日はクラブ『トランスブッダ』でうやった、TUYOSHIさんのトランスパーティーに行ったけど、早朝5時に追い出された。

そして、アムスのスクワットパーティーに連れて行ってもらったものの、あたりはもう秋。人々もどんよりしていて、なかなかフレンドリーな感じでもないので、インドで会ったタブらを練習してきた韓国人の学生共同アパートの一部屋に押しかけて迷惑をかけた。あの時はごめんなさい。

そして、アムスの駅前の公衆電話から、ベルリンのフロリアンのうちに電話をした。

ベルリンにいる時に
「開いてる部屋はないよ。」
と言われたけど、
「でも、みんなに聞いてみるから、みんなが帰ってくる10月の終わり頃に一回電話してみたら?」
という話だったので、アムステルダムからベルリンに戻る3,4日前に電話してみた。

「あの〜、今アムスにいて、明日ベルリンに戻るんだけど、どっか住めそうな所知ってる?」
電話越しのフロリアン、
「うん、たぶんうちの一階、大丈夫だと思うよ。とりあえず、一回あそびに来てみなよ。」
これで、うまくいったというような嬉しさはこみあげてくる感じはなく、気を許すにはあくまでも控えめにいようと努めた。でも、希望も何も無いよりは、とりあえず、ベルリンに帰って、彼らのうちに遊びに行くという目的もできたことだし、ベルリンに帰ることに一つ理由ができてよかったと思った。


アムスから、ベルリンまでバスで来た。
シルベスタの家にはもう泊まれないという話だったけど、荷物が置いてあったので、とりあえず帰った。




「一刻でも早く住む所を確定しないと・・」
という危機感もあって、ベルリンに着くとすぐアッカーハウスに直行した。

ベルリンはもう冬空で寒くなっていたので、アムスのフリーマーケットで買った、フィンランド製のジャケットが役に立った。それに、寒いだろうと、アムスの古道具屋で買った毛糸と編み針でバスの中で帽子も編んでたから、寒さはしのげた。



約束の時間を過ぎてアッカーハウスに着くと、みんなが待っていてくれた。フロリアンが出迎えてくれて、アンディー、クリスタ、バーニー、ミヒャエル、順番に握手して、自分の名前を紹介した。

こんなヨーロッパ式のあいさつは、生まれて始めてだったので、本来なら自分の名前を言わなきゃいけないところが、名乗らないままニコニコしていたら、「で、名前は?」と聞かれたので、名前を言った。が、何回言っても、クエスチョンマークが頭の周りからとれなさそうだった。

「カズエ、あのー、小さくて、丸くて、口にくわえて吹く楽器知ってる?ブーブーブーっていうやつ。『カズー』っていうやつ。それに近いよ。」 外人に私の名前を覚えてもらうのに、いつもいろいろなヒントを用意しているのだが、今回はみんな楽器をやるっていうんで、
「カズーで分かるかな・・、」と思って言ったんだけど、それ以来、みんなから「カ・ズー!(ズにアクセント)」って、いまだに呼ばれてる羽目になった。まあ、いいけど。

アッカーハウスは、前回来た時の、フロリアンと二人きりの、結構余裕があった雰囲気と違い、アパートの中は大きなドイツ人に占領されている感じでまた違った印象だった。
「で、私、ここに住めるのか・な?」
みんなは顔を見合わせて、おのおの呟いた。
「俺はOkだよ。」
「いいんじゃない?」
「そうだね。」

そして、フロリアンが代表して、
「あのさ、一階の部屋、実は訳ありで、借金作って去年夜逃げした人の部屋なんだよね。もしそこで良かったら、住めそうじゃない?ねえ、みんな?」
「でも、あぶないよ〜。もし、偶然、関係者が来たら、『金払え』って言われるかもよ。」
「でも、荷物あんまりないんでしょ?だったら、ばれないんじゃない?」
「うん、そうだね」と、フロリアンが私の方に向きかえって、「家具置かないで、住んでる風に見えなかったら、たぶん大丈夫だよ。そんなに電気も使わないんでしょ?」
と言った。
クリスタも、
「私も今の部屋が開くまで住んでたけど、大丈夫だったし。」
と言うので、
「じゃあ、これからよろしくお願いします。」
と言って、住むことにした。
というか、私はとりあえず、どこでも決まれば十分だという気持ちでいっぱいだったし。
「じゃあ、今日、早速、来て良い?近所だから、1,2時間後には荷物を持って来れるから。」
ということで、ひとまず安心した。
「君はタブラを叩くんだろ?今日は、俺これから出かけなきゃいけないから、夜はみんなで一緒にセッションしよう。」
ってアンディが言った。

早速、鍵をもらって、シルベスタのうちに戻って、1回目の荷物を運び出した。といっても歩いて10分ほどの近道も教えてもらって、2往復すれば運べる荷物量だったから、大きなバックを両手に持って歩いていると、自転車に乗った人が通りがかって、
「この辺で日本人の作品をやってるギャラリーを探しているんだけど、知らないか?」
と聞いてきた。
地元の人に見られたみたいで、こみ上げてくる嬉しさもちょっとあったけど、知らないものは知らない。
はっきり
「知りません。」
と答えた。でも、自転車の後ろに荷物を乗せてくれるっていうんで、お言葉に甘えて、私の引越し荷物を乗せてもらって、アッカーハウスに向かった。
「ベルリンの人ってやさしいな〜」
と思った。

そして、もう一度シルベスタの家に戻った時には、もう夕方も薄暗くなっていて、シルベスタもうちに帰ってきていた。

「住む所が決まったから、今から引っ越してるんだよ。」
と言ったら、
「それじゃあ、いらないマットレスあげるよ。ついでもソファーもいる?机も持っていっていいよ。じゃあ、車で運んであげるよ。」
と、速攻話は決まり、その15分後に、荷物を車に積んだ。フォルクスワーゲンのかわいいヒッピーバス。そのバスも、私にはとてもかわいく見えて、すごく胸がキュンとした。

車に乗り込んでから、
「住所はどこ?」
「アッカーシュトラーセ 10番?」
「それって、友達が住んでるところだよ。」
またシンクロが起こった。ベルリンって不思議なところだな・・・と反面、これは、私がここに呼ばれていたって証拠かもな・・・。と、勝手解釈をした。荷物を運んでくれたシルベスタとライザは、週末にポーランドの田舎で結婚式をするということだった。
「いいないいな。こんなバスに乗ってポーランドに行くんだ・・・。私もいつか行ってみたいな・・・」
って言った。そして、その翌年、本当にポーランドに行く事になった。そのバスではなかったけど。

それはおいといて、家に着いて荷物を部屋の中に運び入れていた時、うっかり鍵を中に入れたままドアを閉めてしまった。
こっちの入り口は、中からは鍵なしで開くが、外からは毎回鍵が必要というシステム。
「やっばい。せっかくソファー持ってきてもらったのに・・・。」
と私が動揺してると、シルベスタが、窓によじ登って、ドライバーで窓を開け出した。

「昔、泥棒だったの?」
と聞くと、
「いやいや、スクワットする空き家を探してた事があったから、開けられそうな窓は分かるんだ。これは、こっちの鍵を閉めてなかったでしょ?だから大丈夫だったんだよ。」
と真面目に答えた。さすが・・・。この人は本物のスクワッターだったんだ。
確かに窓には縦と横、それぞれに開ける用に、鍵が2箇所ついていて、私は片方の鍵を閉めていなかった。
で、男手が二人、ソファーを運び込んだところに、フロリアンはやってきて、
「荷物ないっていってたじゃなかったっけ?」
と言ったけど、
「うん、でも、今もらったの・・・。」
と、その時は無邪気に答えたものの、後で考えると、心配性のフロリアン、私が部屋に住んでいる事を見つからないように心配していたんだな・・・と思った。
私の内心は、
「やったー!念願のソファー!」
と、実は、昔、密かに、ソファーのある生活を夢見ていたため、その夢が叶ったことが嬉しかったため、フロリアンの心配そうな顔は見えなかった。今考えると、本当に何もなくすむことができて、ラッキーだったな・・・。でも、あの時は心配かけてごめんなさい。

荷物を運び終わって、シルベスタ達も帰って、上の階のキッチンにあがり、ご飯の用意。
みんな揃ってご飯を食べた後は、ミヒャエルがジョイント部を差し出して、さっそくおいしいボンボレ!
アンディーが部屋からバイオリンを持ってきて、バーニーはギター、ミヒャエルは・・・、フロリアンはリジュリデュ、私はタブラ、クリスタは歌を歌いだした。

その夜からアッカーハウスの生活が始まった。





スクワットハウスでの共同生活。その頃は、持ち主が現れていて、毎月500マルク位の家賃を払っていたにもかかわらず、家の中も生活も独特な生活だった。心地よい共同生活だった。

みんなお金がないので、お金はかからない生活。仕事に時間がとられない生活はとてもシンプルで、時間がたっぷりある。たいていの時間はみんなで何かやっていたり、各々好きなことをしていたりした。

壊れたりいらなくなったりして誰かが道に捨てた家具や機材を拾って来ては修理したり好き好きに改造したりして自分の居住空間を作って住んでいた。その他のものはフリーマーケットでやすく手に入れられる。

食べ物は、スーパーで買ってくるか、どこかでおすそ分けしてもらってきて、それをみんなで料理して食べる。とにかく野菜は安かった。


スパゲティイ1袋や芋は5キロ、トマトや玉葱は1キロで1マルク(50円)位、そんなものをよく買って食べていた。ワインも3,99マルク(200円位)で、毎日夕飯にはろうそくをつけて楽しく食事をした。外食するお金はなくても、ちょっとした食事のための優雅な時間をおくることができた。そして、夜まで遊んで、そのまま寝て、翌朝、山済みになっている洗い物はほとんど私が担当した。みんなは洗い物が好きではないらしく、その隙間をぬって、私にもできることがあることが嬉しかった。


朝は、だいたい近所の友達が朝食を食べにやって来ていて、来る途中でみんなの分のパンを買って来てくれる。誰も来ない時は、だいたい早起きした人から近所のパン屋さんまで行って、1個20セント(10円)位の丸いパンを人数分調達してくる。そのついでに4人用のアルミのカプチーノ器に思い切りコーヒーを沸かして、片手鍋にミルクを温めて飲み始めると、だんだんみんな、それぞれ髪の毛が逆立ったままの寝ぼけ顔でキッチンに来て、朝ごはんタイムが始まるのはだいたい午前9時ごろ。

冷蔵庫からバターやチーズやハムやクオーク(生クリームとチーズのあいのこのような、白くて味のあまりしないやわらかいチーズ)を出してテーブルに置き、トマトやきゅうりやアボガドのような野菜が小さなまな板の上にあり、それに、適当に一つかみして持ってくる皿やナイフが無造作に置かれている。もちろん適当なので、足りない時は当然自分で持ってくることになる。

毎日決まって食べる朝食は、その丸パンをナイフで半分に切って分けて、半分きれずつ、表面にバター、それからハムやチーズやクオークの塗り、さらに、小さいまな板の上に乗っかった『そのままの姿』のトマトやきゅうりをその場で好きな厚さに輪切りにして乗っけて、好みで塩やハーブを一つまみふりかける。たまに、それぞれ食べたくなって買ってきたような食材をみんなで試してみたり。コーヒーで頭が冴えてくると、世界や政治や自分のやっている仕事やプロジェクトなどの進み具合や今日あった出来事やニュースについてみんなで話してみたり、おなかがいっぱいになってくると、残っている食べ物のカスで皿に形を作ったりして遊び始め、しばらく遊んだ後に「食べ物で遊んじゃいけませんってお母さんに言われなかったの?」と誰かがつっこんで終わる事もしばしばあった。

キッチンを共有している住人が5人と、朝ごはんを食べに誰かの知り合いのわきあいあいの朝ごはんタイム。用事がある人は、途中で抜けて出かけたり、時間がある人は最後まで残ってだべっていたり、昼までやっているので、時には午前中だけ用事ででかけていた住人が帰ってきて合流してたり。そして、誰かが「もう11時半か・・・」と言い出して、そこで時間を意識して、そろそろ片付けだして、「今日は何をしようかな?」と背伸びをしながら去っていく人もい、だらだらと残る人もいた。私はやることもとりわけなかったので、ほとんどの日はその時やってきてたお客さんや発明家のバーニーや下の階に住んでいるがだいたいこのキッチンにいる暇なアルバイトローゼ(失業者)のミヒャエルに聞かれるまま日本の話をしてたり、テーマが「どうやってお金を稼ごうか」から始まって、そのうちファンタジーで話題が膨れ上がってしまうそれこそドリフの『もしものコーナー』のような話をして昼1時2時頃まで過ごす。それから、天気のいい日は外にみんなで散歩に行って、今までの旅行の話とか、ドイツの話、ベルリンの昔話などをたくさん聞いたり、、散歩の途中で目に付いた草花や木や建物などにまつわる話をしたりした。みんな勉強家で物知りで教えたがり。しかも、教養のある話が多くて、ドイツ人の友達はいろいろ勉強になるからいいなあ」と思った。

こんな、一見、『暇なたらたら人間』の生活のようだけど、今思えば、その一瞬ごとに意味があった。その散歩の途中の話も、いちいち「日本と比べてどうかな〜?」と考える事が多かったし、もちろんみんなから日本についての質問に答えていると、「自分は日本人以外の何者でもないんだな〜」とあらためて日本を意識することになった。

日本を離れて半年目。なかなか思い出せないことも多かったけど、私のほとんどの答えの結論は「日本の生活は仕事ばっかりで余裕がないし、部屋もl小さいし、人目を気にする文化の中にいると窮屈だから、ベルリンの方が全然いい。」という答えになってしまう。
特に政治の話を聞かれると、「構造が難しくてあんまり興味がない。」としか答えられない自分に、「日本ってそうなんだよな〜?」と考えてしまうことがあった。でも、日本人に生まれてしまった性、そればかりは変えられることのできない運命だし、なんといっても、お父さんとお母さんは日本で幸せそうに住んでいる。

実は、お母さんは、ここ5,6年前に生まれて初めて飛行機にのって北海道旅行に行ったくらいで、外国なんて行った事がない。国内を旅行することも最近しだして、1ヶ月に1回くらい、郵便局の日帰り団体旅行で、飛騨高山に行くようにはなったが、生活のベースは、実家のあるその田舎にある。私とは正反対な人生を送っていて、尚且ついつも幸せそうなお母さんの姿は、日本が嫌で飛び出して来た私にとって、日本から離れられないカテだった。

後々出会ったイスラエル人の友達のロンが話してくれた事で忘れられないのが、ロンの家族はロンがドイツ人と結婚してドイツにいることを喜んでいるそうだ。それは、イスラエルは戦地が近くにあって、いつ火花が飛んでくるかわからない危険な故郷に住むよりは、ドイツにいた方が安全だし、ということだった。それを思えば、日本という平和で安全な国。働けばお金も稼げ、実家にいれば働かなくても食べ物は捨てるほどあり、車だって、旅行だって、少し働けば叶う。服も安くてたくさんあってよりどりみどり。

夜24時間いつでも入れるお風呂。特に実家にいる時は、うちのスーパー世話好きお母さんのおかげで、服を脱衣所で脱げば、次の日の夜にはアイロンがかかってたたんで部屋に置かれている。一人暮らしの生活でも、洗濯物は全自動洗濯機が手伝ってくれるし、電子レンジで何でも気軽に料理できる。暑い時には冷房、寒い時には暖房がスイッチ一つでつき、車や電車を乗り継げば、歩かなくても移動も楽々でき、デパートの買い物は、最寄り駅から地下通路でつながっていたりして、雨が降っていても、傘いらずで買い物ができる。コンビニも24時間開いていて、買い物には全く困らない日本。仕事から家に戻れば、テレビが一晩中やっていて、部屋に寝転がってだらだらする。

そんな恵まれた生活を敢えて抜け出して、コンピューターもテレビもない原始的な生活が新鮮だった。

食品を売る店は夜の8時まで、それ以外の店はだいたい6時で閉まるので、それまでに食品を調達しなければいけない。ビニール袋は有料なので、自分の買い物袋を持っていく。スーパーは、直に並べられた野菜の中から自分で欲しいのを選んで、秤に乗せて その野菜の絵のボタンを押すと値段が印刷されて出てくる仕組み。出口にはレジがあって、レジの前のベルトコンベアに自分の買い物かごの中の食料を並べ、レジ係が順番にバーコードを通した後、順番に流れて来る商品を自分で袋につめる。


風呂場には、お湯をでんきで沸かすタンクが取り付けられていて、電気でお湯が沸く。使い切ると次のお湯が沸くまでに15分くらい時間がかかった。

暖房はは、大きな石炭ストーブをくべる。小さい釜の扉を開けて、うまく石炭を積んで、下の方に木を置き、その下に紙を敷き、燃やしていく。石炭がうまく燃えるためには、小窓をあけたままにしておいて空気を送る。石炭や木片や紙の微妙な積み方の違いで、上手くいけば30分後にめらめらと燃える炎、できなかったら、もう一度最初からやり直す羽目になる。私にはなかなかうまくいかず、結構難しかった。

夕方になるとみんな戻ってきて、みんなで食事を作って食べ、食事の後はみんなで団欒。テレビはないので、みんなで楽器を持ち寄って、自由にセッションしたり、レコードを聴いたり、ゲームをしたりして過ごした。

ポーデストと言う、部屋に作りつけたちょっと高い舞台のうえに座って、バーニーの彼女のフローランスとアンディーの二重バイオリン、バーニーのギター、フロリアンのリジュリデュ、私の太鼓、たまには、下に住むミヒャエルやシタール弾きのアキ君、歌の上手で女優のキオステンや、私を路上で見つけてくれたクリシャンも太鼓で参加する時もあった。

まず、弦楽器が音あわせをした後にコードを決め、軽く音ならしをした後に、フローランスが元気よくメロディーを弾き出すと、アンディーのバイオリンとバーニーのギターが、リズム伴奏をとり始めると、フロリアンもリジュリデュをビヨヨヨ〜ンと吹き始め、私もリズムをとって、インドで習った練習曲をみんなに合わせて叩いてみる。インドのリズムとあまりにも展開が違うので、白熱してくると、頭に思い浮かぶリズムのように叩いてみようとがんばった。

弦楽器は順番にリードを取り、その間、他の弦楽器は和音のリズムを弾いた。
メロディーを聴きながら叩いていると、私も強く叩いてみたくなる。タブラの太鼓の音は、ギターとセッションするには音が小さすぎてあんまり聞こえないので、自然と大きくなっていった。

音楽好きで、ロック、ポップ、クラシック、民俗音楽、ジャンルに関わらず、いろんな音楽を聴いてきた彼らは、時にはアッパー調やメランコリック調、時には5拍子のリズムになってみたり、7拍子になってみたり、3と5拍子の変形リズムに変わることもあった。


自由に流れていくリズム。
ダンサーのクリスタは、よく、音に合わせてストレッチ体操をしていた。
みんな途中で楽器を変えて、バンジョーや木琴も登場したり、テーブルの上に散らかっているビール瓶を叩いてみたり、時には、キッチンに楽器になりそうなものを探しに行ったりして、本当に気ままなセッションだった。

1時間くらいして、そのうち集中力も落ちてくると、
『一、抜けた』人も現れて、タバコを吸い出して、
「おれも・・・」の人も現れて、静かになっていく時もある。
それでも、まだ演奏している音を聞きながら、リズムをとってみたりもしている。

時にはそれで静かになっていくと、
「ジャジャジャン!」でしめて、みんなで拍手する。

気分よく終わった日は、
「良かったね〜」
って、抱き合ったりもした。

そんな夜が毎週のようにあった


ゲームの言いだしっぺは、だいたい、フロリアンかアンディー。彼らは、既成のゲームを真似して、自分達で、紙を切り抜いたりして駒を作るのが得意だった。でも、日本にはないゲームばっかりで、しかも、ルールも複雑で、深刻状態を理解するのが大変。一人だけよくわかってないうちに、終わっていることが多かったような気がする。

一番面白かったのは、じゃがいもゴルフ。
テーブルにチョークで丸を描いて、端っこに、自分で選んだ小さめのジャガイモを置いて、フォークでゴルフをするゲーム。ジャガイモは、まっすぐには転ばず、思いも寄らない方向へ転がって、チョークの丸の中に入った時には、大喜び。自然と両手を上げて、ガッツポーズをしてしまうほど、嬉しい。

本当に、毎日毎日ネタがつきない。
そんな『生活じみた毎日』が楽しかった。
『食』と『住まい』という生きていくためと、友達との『団欒』にと時間を過ごすシンプルで楽しい生活。そこには当然のように、毎日同じ、仲間思いでユーモアのあるメンバーがいる。これがずっと続くのかという疑問すら考える暇がないくらい、毎日毎日生活に『トランス』していた。



でも、現実問題、食べていくお金が必要・・・。
『どうやってお金を稼ごうか』は、切実なテーマだった。

それでも、このスクワットハウスの周りの人達と話していると、なにかヒントになる事が多くて、いろいろやってみようとした。
「これからの自分がどうしたいのか」と、人に話すことで、いろんな意見が聞けて、脳裏に見えてくる事はたくさんあった。それがお金的に、体力的に、技術的に可能かどうか、みんなでシュミレーションしながら話したりした。

現実問題、日が当たらない1階の一室と3階のキッチンを使わせてもらっている分、家賃はかからないにしろ、光熱費の補助で、月に100マルク(5,000円位)。それでも、その金額は私にとって大変なことだった。


10月の終わりのベルリンはもう寒かった。駅ではとうてい演奏できない寒さで、街頭演奏ができない。幸い、共同のキッチンも使わせてもらえるし、アジアンショップには、あぶらあげやのりが売っていたので、すしを作って道売りをしようと考えた。その当時、この当たりの旧東側ミッテ地区にはベトナム人がやっているすし屋がローゼンターラーシュトラーセに一軒あっただけだったので、「日本の寿司という食べ物を広めるにも貢献しなければ・・・」という、変な愛国意識も少し手伝っていたけど、なにせ材料が高いので、お金のない状態で、さらに知名度がない寿司が売れなければ生活にならない。かなりの賭けの状態でもあったが、ドイツ語もできないし、ドイツの知識もない私には他の事は、とりあえず思い浮かばなかったので、ちょっと試すことにした。そういえば、旅の途中にあった人も、こうやって食べ物を作って、外国で生活費を稼いでいたと言っていたのを聞いたことがあるし。

アジアンショップで買える日本のお米は1キロで約5マルク(250円くらい)と高すぎて、ドイツのスーパーに売っている500g1マルク(50円くらい)ミルクライスを水で炊いたところ、ねばねばして以外と日本のお米みたいだったので、それを使うことにした。

今でもそうなんだけど、私は寿司を作る度に、いつもうちのおじいちゃんの事を思い出す。
じいちゃんは戦前横浜ですし屋をしていて、空襲で店を焼かれ、じいちゃんの兄弟が住むこの愛知の田舎に疎開した。空襲の日、家族は先に疎開していたので、じいちゃんは最後まで、店の近所の防空壕に残り、店が焼けてしまうのか見守っていたらしい。

私が覚えているじいちゃんは、もう80歳を過ぎていて『じいさんじいさんした爺さん』で、いつもあぐらをかいてテレビの前に座って、よく水戸黄門を見ていた。私はおじいちゃんの横に座っていろいろ聞くのが好きだった。

じいちゃんは、職人肌の無口な人で、いつも一言二言の返事しかないけれど、「おじいちゃん横浜でお寿司屋さんやってたんでしょ?」とそんな話をすると、じいちゃんは「全部焼けちゃったなぁ・・・」と、決まって1、2回腕で目の辺りをぬぐい、鼻をかむ事が今でも忘れられない。その光景を思い出すと、「じいちゃんはあの時悲しかったんだろうな〜」と、私は今でもいつでもつられ泣きしたくなる。そして、うちの先祖が、家や家財道具をなくし、田舎で土台から生活を築き上げていった風景を想像して、それと比べると、『お子ちゃま』かもしれないけど、住む場所を変えて一から生活を作り上げていこうとしている今の自分の姿と重ねてみたりした。じいちゃんはそれをやってのけたんだ。

じいちゃんは一生懸命働き、土地を借り、家を立てて、米屋を開いた。その当時は機械がないので、農家から米を買い、蓆の上に広げて棒で叩いて脱穀したお米を袋に詰めるて売る、という商売。脱穀の機械を買ったのは、私が生まれてかららしい。私は子供心の記憶で、じいちゃんがお米30キロを3袋、自転車の荷台に乗せて走っている姿を覚えている。

その米屋はじいちゃんが亡くなった今でも、あまり姿を変えることなくお父さんが継いでいて、家も改築して立派ではないけど大きくなり、決して豊かではないけれど、ほそぼそと地域のお店屋さんになっている。

3人姉妹の長女の私は、幼少の頃から『米屋の後継ぎ娘』と言われて育ってきた。それを思うと、口がつむんでしまう。

じいちゃんは90歳を過ぎてから、もう手が震えるから魚はさばけないとあきらめるまで、うちの魚はほとんどさばいていた程、気の張った人だった。お祭りになると、お母さんの知り合いの近所のおばさん達が集まり、お寿司を作った。大きなウスの中で、たくさん寿司飯を炊き、じいちゃんが味付けをした寿司酢を振り掛けて、そのまわりにいる白い割烹着をきたおばさん達がうちわで一斉に扇いでいた。

そんな光景を思い出しながら、私も寿司メシをあおいでいた。

できあがると、味付けしたしいたけと卵、きゅうりをはさんで、巻き寿司にして、いなりの袋にご飯を詰めてコンビに売っている寿司弁当のように並べてみた。でも、当時はプラスティックのいわゆるビニール袋が売っていなかったので、菓子パンを入れてくれるような紙の袋に並べて入れて、お盆に載せて売り歩いた。
「寿司―。スシー!」

ハケッシャーホフの映画館の前には、サンドイッチ売りの男の人が陣取っていて、入っていったら、「ちょっと、ここで何してるんだ。あっちへ行け!」と言われ、聞かない振りをしてその場を通り過ぎた。

でも、人通りはこの辺りだけ。「なんとかがんばらなければ。」と、歩いてみたけど、
「こんな夜中に魚なんて食えないよ。」
と、酔っ払いにやじを飛ばされて、落ちた。
が、その後、始めてのお客さん。一つはその場で食べて、「おいしい、おいしい」を連発して、持ち帰りにもう一つ買ってくれた。
結局その日はそれだけ。赤字丸出し。

やっぱり、お盆に乗せただけの寿司は、見かけが今ひとつ。白い紙袋の中では得体が知れない。しかも、そのもののわるい紙袋には、すぐにいなりの汁がしみこんでしまう。

2回目は、余分な労力と経費がかからないように、いなりずしだけにした。夜売りに行くので、飲んだ後に食べたくなるなら、きっといなりずしのほうがおいしいと思ったこともあった。それから、入れ物を工夫してみることにした。マクドナルドが食欲をそそる『赤』を使って成功したように、紙ナフキンも赤にしてみたら、いなりの茶色と合って見かけも良い。それに今度は3つずつ、見本をいなりのパックに入れて、他のは弁当パックにいれて売り歩いた。

次の週は、フロリアンがタハレスで日本人のイベントがあると教えてくれたので、少し大目に用意して出かけた。

ハックシャーマーケットで再チャレンジ。
例のサンドイッチ売りに、
「ちょっと、ちょっと・・・」
と声をかけられたけど、その場はまた気づかない振りをして通り過ぎた。

時間的には終わった時間で、みんなぞろぞろと降りて来た。その中に、日本人の男の人が、日本語で話しかけてきて、寿司を買ってくれた。そのアキ君という男の人は、シタールを弾く人で、私がいた、インドのバラナシにいたことがあり、話も合ったので住所交換をした。

今度は、ミヒャエルが週末はテクノのパーティーがあって、寿司を売れるかもしれないというので、行くことにした。
パーティーに行くと、そこは工場の跡地。入り口の前には、『ケーキはこっち→』と文字が書かれていた。「ヘンゼルとグレーテルのお菓子の家に行くみたいだな」と思いながら、誘われるように向かっていくと、そこは工場の跡地。入り口を入っていくと、ダンスフロア。その脇の階段を上っていくと、チャイショップがあった。
ミヒャエルに紹介してもらって、1人ずつ握手をして自己紹介した。みんなインドに旅行したことがあるというフレンドリーな人達。ベルリンに来てからアムスに行く間には、なかなか会えなかったので、「ここにいたか〜」という安心感もあった。
ミヒャエルの交渉で、チャイショップに寿司を置かせてもらって、ちょっと下の音を見てくると行ったまま、その夜は踊り明かしてしまい、明け方になって、チャイショップに戻ったら、チャイショップの場所は片付いていて、誰もいない。そのかわりに私が寿司を載せてきたお盆とその上にお金を置いておいてくれた。全部売れて初めての黒字!40マルク(2000円)すごく嬉しかった。

それから、どこかにパーティーがあると聞く度に寿司を持っていっては、小銭を稼いだ。あんまり儲かりはしなかったけど、他に全く仕事がないので、しないよりはした方がましだった。



それで初めて私の好物をおすそわけしてもらいに、友達の家にいったとき、光って見えた人がいた。
白く光って見えた。

私がばきばきだったからか、彼がやさしい瞳をなげかけるのが実は上手な人だったのかわからない。ちょうど逆行だったのかもしれないけど、もやがかかって見えたのだ。

そのまま、彼にひかれ、一気に生活が楽しくなったのは良いが、どこか手放しで喜べない不安な風もそよいでいた。それは、なんだったんだろう。何となく置かれている距離というのか、一線を引かれている感じというのか、何せ外国人を好きになるのが初めての経験だったというのもあるし、しかも旅の途中で仲良くなった人はいたけど、そんな感じではなく、いわゆる本腰で、面と向かって『付き合おう』としたのは、26歳の頃のボーイフレンドと別れてから本当に久しぶりだったせいもあるし、こんなものかと思うには、何の疑問もなかった。それより生計を立てなくちゃ、ということの方が先決だった。

ある日、遊んだ帰り道、寝袋じゃあ寒いだろうといって、布団と枕をもらった。
私は、そのあたたかい布団に入って、毎日彼のことを考えた。

そして、恋をした1週間目、彼の事を思って絵を描いた。
大きな絵。真中に太陽、その中に彼の名前。いつも歩いて通う道。
いつかやってみたかった事の一つ、大きな絵を描きたいという夢が一つ叶ったことも嬉しかった。

こんなに優しくしてくれるなんて、きっと私の事を大切に思っていてくれているんだわ♪
そう自分に言い聞かせて、本当にこんなに幸せでいいんだろうかと、ほっぺをつねる日々だった。
しかし、そんな幸せな日々も長く続かなかった。

パーティーで出会った時、彼の友達に、「彼のガールフレンドの1人になりたいな。」と言った事から始まった関係。私にとって、それは「俺はそんな事はしないよ。」という言葉を期待していたのかも知れない。

それなのに早く、こんなに足をすくわれる羽目になるとは思いも寄らなかった。

付き合い始めて1ヶ月。忘れもしないあの日。彼の家でいつものようにだらだらしていると、彼に女の子から電話があって、「今から女の子が来るから、今日は帰ってくれ。」と言われた。その後登場したのは、頭をそったパンクの格好をした女の子。なんだか二人じゃれあって、「あれ?私ってなんだったの?」とクエスチョンマークが頭を飛び回った。その日は結局相当頭の中がぐるぐるしながら、家に帰って、次の日、再び問いただしに言った。
彼が言った言葉は、「おれは特定の彼女はいらないんだ。お前、ガールフレンドの1人になりたいって言ったじゃないか。」
そんなこと言われても・・・何も言い返せなかった。
「そこまで言うならそうだよね?そうなんだよな?きっと」
心の中で思ったけど、言葉にならなかった。

それから、どうしようか考えた。
ここは、社会の価値観にこだわっていない。
自分がいいかどうか決めなきゃいけないんだ。

彼は今の私にとって必要な人。
私のやり方にいつも良い意見をずばりと言ってくれる人。
おいしいご飯も作って食べさせてくれる。
それに、盆ノリを信じていた私にとって、「盆好きな人に悪い人はいない。」という思想もあったし。

でも、ガールフレンドの1人なんて、他の女の子に大きな焼くやきもちは、どこへどうしたらいいのかわからない。
それでも彼が良いと思って一緒にいるか、あきらめるべきか、
これは、その後、彼と一緒にいた5年間ずっと持ち続けてきたテーマとなった。
幸い、アッカーハウスでの生活も楽しかったので、その思いは片隅に置いたまま、楽しく過ごすことができたけど・・・

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