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カズエの夢日記コミュの第一章 ベルリン到着 *** インドーフランクフルト

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1998年8月31日、インドからフランクフルトに到着した。
所持金額5万円弱。
というのも、5月頭に大阪港を発ってから、中国、チベット、ネパール、インドへの旅の途中で
ベルリン出身の人に何人か会って、「仕事あるかもよ〜?」なんて、人事のように言っていたのを、
馬鹿正直にも信じ込んでしまって、お金はほとんど使ってしまっていたから・・・。
インドを旅立つ最後の日に、たまたま博物館で会った日本人のおじさんに、
ネパールから持って来たタブラを50ドルで買ってもらったので、ちょっと旅代の足しにはなったけど。

もしベルリンですぐに仕事が見つからなくても、
いい音の出る太鼓を道で叩けば少しはお金を稼げるかもしれないからと思って、
自分の荷物を入れたバックパックと一緒に、インドのバラナシで買った子供用のタブラを持っていた。

半年後には28歳になる、日本人女子。
一般的な日本人の感覚からしたら年甲斐もない行動だろう。
分かってる、分かってる。
でも、これは人生を賭けた、直感を試す実験なんだ。許してくれ。

お母さんは、「早くいい人を見つけて、結婚しなさい。」と、人事のように言うけど、
私にとって幼い頃からやりたいと思っていたことが実現できてないうちに家庭に入るなんて、
せっかく親からもらった自分の人生を無駄にしてしまうような気がして、いい人を見つけても結婚できない。
28歳なら、まだまだ人生の半分もいっていないし、とりあえず、今までやりたかった事をできるだけ片っ端からやってみよう、というのが最初の目標だった。

そして、この、私の疑がり深い性格。
愛知の田舎から、大学で横浜に出てから、雑誌やテレビで『世界』の様子を見る度に、現実やたらやらせが多いこの世の中に気付いてしまい、
さらに、塾講師のバイト中、小学生に国語の教科書を読んでいた時、
「この内容は、いったい本当なんだろうか。自分の目で確かめるまでは、本当か嘘かわからないでしょう?」
って思ったりもして、
「よ〜し、この目で世界を見に行ってみるかあ。」と、気合いを入れてしまった。
幸い、今は、昔の人が船で何年間かけて渡航した時代の面影もなく、お金さえあれば簡単に世界旅行できる世の中になってきている。
「人生は短い、今ならまだ遅くない、今から間に合う限り、この目で世界を確かめに行ってみよう!」
と勢いにまかせてここまで来てしまったものの・・・。

・・・

現実話、ここは、ドイツ。
目の前に立ちはだかるのは、フランクフルトの空港の周りに立ち並ぶ近代的なビル。
まるで、地元にあった一昔前のボーリング場のような、いわゆる一昔前の“近代的”風とでもいうのだろうか、
都会的な町並みの雰囲気に圧倒されて、
どうも、ずっと節目がちになっていた。
さらに、ベルリンまでの直通電車は、ICEという新幹線のような近代的な電車で、切符だけでも1万円位、
所持金の1/5も使ったことになってしまい、
「お金が減っていく〜。」と、心の中も1/5分超ブルーになった感じがした。

しかも、前の日のインドとは大違い、電車が時間きっかりに来たもんだから、「ここはヨーロッパだ」と自覚して、さらに先行き不安になった。
車内もきれいで近代的、なんだか私には場違いのような気さえしていた。
それに私の服装。
ヨーロッパではインドよりきちんとした服が必要だろうと気張って、気張ってインドのテーラーにオーダーして作ってもらったのだが、
また、その、色や素材そのものが・・・、
まわりに座っているビジネスマンと比べて、かなり浮いていた。
それに、なんといっても、自分の汚らしいバックパックとインド製のタブラバッグに恥ずかしさを覚えずにはいられなかった。

でも、そこは日本人。
「日本の新幹線の方がもっと早いんだぞ。ちゃんと高い切符代を払ったんだから、堂々としてればいいんだよ。」
と、近代的な空間に慣れている振りを決めながら、そう自分に言い聞かせて冷静を保つようにしていたけど・・・。

そうは思っていても、ベルリンに着くまでの約5時間、
疲れていても眠れないし、うつろなのに、頭ははっきりと起きている感じで、頭の中はぐるぐるといろんなことを考えていた。

前日までのインドの旅を、自分の『思い出』の中に置きながら、
「さて次、次! でも、ところで、いったいなんでベルリンなんだっけ???う〜んと・・・えっと・・・」
今、自分がいる場所を、地理的にも意識の中でも位置を確認しようとしてみた・・・

が、それはそんなに簡単ではなかった・・・。

--- 電車の中


ICEという、一番早い高い(だろう)特急電車。
窓側の席に座り、足を組んで、前のテーブルにひじをついて、車窓の景色を眺めていた。
電車はゆっくり走り出していく。

近代的(?)で、巨大なビル。たまに角が丸みを帯びているユニークな形もあるビルの谷間に見とれている時間がしばらく過ぎ、そのうち、景色はいつか見た覚えのあるだだっ広い草原の風景に出た。たまに、近くにも遠くにも見える、100頭くらいの家畜の牛や馬や山羊の群れを眺めてはゆっくりと見過ごしていた。

そして、しばらく経って、電車も速度を上げ、その光景が目に落ち着いてきたところで、やっと窓の外の景色は自分には関係のない物だという意識に目覚めて、ふと自分に戻った時、また頭の中がぐるぐると動き出した。当然のごとく、これからの自分の事を考えた。
「ソモサン!」
「セッパ!」
「で、いったいなんで、ベルリンなんだっけ?」
でも、それは、とんちの答えを出すほど、簡単ではなかった。

「そういえば、私、ベルリンのことあんまり知らないかも・・・。」
そこで、改めて自分の無鉄砲すぎたあほさ加減を実感した。
でも、もう向かってる・・・。

「ベルリンといえば、・・・」
この問いの答えに、“ベルリン天使の歌”、“ベルリンの壁”、“ベルリン映画際”、“ラブパレード”、頭をしぼっても、そのくらいしか出てこない。

「でも、なんで旅の間中ずっと、ベルリンに行くことを目標にしてたんだっけ・・・。」
ベルリンに行って、ハンブルグか、アムステルダムか、ロンドンか、どこかで住めることなら住んでしまいたいと、ぼんやりと思ってはいたけど、結局、具体的なことは、本当に何も決めていなかったことを、その時、身にしみて思い出した。

別に、ベルリンに知り合いもいるわけでもないし、言葉も習ったわけでもない。特に、歴史に興味があるわけでもないし、訪ねたい場所もあるわけでもない。

敢えて理由を付けるとすれば、その未開の地を自分の中で開拓しにいくということ。どうせ行くんなら、とりあえず、昔、一時みんな騒いでいた、ベルリンの壁の事ももっと知りたいということだった。ベルベットアンダーグラウンドにいたルーリードだって『ベルリン』っていうタイトルのアルバム出してるくらいだから、きっとなにかムーブメントがあったんだろう。世界のアーティストが動いたその本物のアンダーグランドシーンも見てみたかったし。そのくらい。

それにしても、ベルリンの地図さえ持ってないし、フランクフルトがどこでベルリンはどこなのかさえも、分かっていないのはやっぱりまずい気もしたけど、とりあえず、今は迷わずにベルリンに向かっていることだけを考えて、他の気持ちは消去することにしたものの・・・。

でも、やっぱり不安な気持ちは隠せない。
「私、本当に、ただのあほかもな・・・、でも、今頃反省したところで、もう既に時遅い・・・。かといって、これは夢じゃない現実だ。ここであきらめては、どんな面を下げて日本に帰っていいのかもわからないし。とにかく、ここまできたんだから、できるところまでやってみよう。今は、まっすぐまっすぐ行くしかないよ。他の余分な気持ちはなるべく見ないようにしてさ。最悪、お金がなくなったら、あきらめて帰ればいいよ。昔やってみたいと思っていた事を、一つでも二つでも実際に叶えられたら、自分の人生にも少しは満足がいくだろうし・・・。気力とお金が続く限り、いられればいいっか。」
半分、自分に言い聞かせモードでもあった。

ベルリン イコール 私にとって、完全に未知な場所。友達も知り合いもいないし、ドイツ語も話せない、おまけにお金もない。
これは、一見逆境のように聞こえるけど、実は、直感を試す好条件かもしれない、という逆にいさぎよい気持ちもあった。

かと思うと、瞬時にやってくるとまどいの気持ち。そんな自分を盛り上げようと、「いつかマジックが起こるって信じていよう」、
頭の中は“とりあえず行ってみよう→ベルリンへ”と、キャンペーン文句をかかげるコマーシャルを想像してみた。

「マジックね〜。本当に起こるのかなあ?マジックってどんな感覚だったっけ?パーティーで踊っていた時は、マジックがよく起こってたんだよなぁ?」
私が日本にいた頃に、好きでよく通っていたトランスのパーティー。
自然の中やクラブの室内で、大音量のテクノの音に合わせて踊っていたのを思い出す。

私の初めてのパーティーの思い出、大雨で修行のダンスの後は、晴れた富士山を眺めながら、自然とみんなが同化して、なぜか「みんな一つだ」って感じた富士山の“リターンソース(97年)”。
登り坂道に沿った3つのステージに、幻想的な宇宙の映像が森の中に浮かび、川の中には大きなロウソクが何本もぶっささっていて、水の流れの中で流れの音と合わさって幻想的に炎がゆらゆらと揺れていて、今でも忘れられない夢のような光景だった道士村のパーティー(98年)。
規模が大きかったし、最悪の天候に見舞われた富士急のレインボー2000のパーティー(98年)。
日本で行ったことのあるパーティーを一つずつ思い出した。

ダンスフロアで、リズムに合わせて、みんなみんな好き好きに踊って、手を伸ばして空を仰いだり。いろんなところで、狂って踊ってる人もいて。たまに、スピーカーの前あたりでどこか遠くを見て宇宙と交信してるような人もいたりして、踊り方ってほんとに個性が出てるって思った。太陽の下、みんなかっこいいの。音が調子の良い時や日の出やきれいな自然を見て、知らない人とその周りの光景に共感して笑顔を交わしたこと。偶然となりにいた隣の人とりんごを半分子して食べながら「おいしいね。」って共感しあったこと。言葉なく気持ちが通じ合う瞬間。

良い音のパーティーの時は、すれ違う人とも笑顔を交わして、みんながみんな平和そうにニコニコしていた。

そういえば、野外のパーティーで、ゴアパンツのベルボトムの先が泥でぐちゃぐちゃになって、みんな膝下泥だらけになって、それでも狂って踊っていて、その足から下の地面の色が同化して、みんなが地球と繋がっているみたいに見えてさ、「みんな〜、地球からエネルギーを吸い取っている!」って、友達と大笑いした時に、純粋に心の中から湧き上がってくる嬉しい気持ち、いわゆる、「あがった」状態になった瞬間を思い出した。

それで、そんな平和な環境で、無心になって音に操られるように踊っている時って、不思議と、その時思い浮かぶ感が当たることがあった。あっちの方向に行ってみようと、ふと思って、いざそこへ行ってみると、そこに友達がいたり、「のどが渇いたな〜」と思ってると、後ろの人が水をくれたり、失くしてしまったブレスレットをあきらめていたら、友達が知らずに拾ってたり、摩訶不思議なシンクロニシティが起きることがあった。そんなマジックの瞬間の醍醐味は、今でも忘れられない。

いつだったか、延さんが打ったパーティーで、イギリス人のDJが、トランスとはまたタイプの違った音をかけていて、シラフなのに音だけですごく盛り上がり、疲れを知らずに朝まで踊り続けたことがあって、
「ヨーロッパには、いろんなテクノの遊びがあって、こんな遊びがあるんだ!」
って知った。

そういえば、パーティーには、蛍光色で光る服やアクセサリーをつけて、遊び慣れてる感じでクレイジーに踊る、カッコいい外国人の人達がいる。みんな、フレンドリーだし、お楽しみグッズもいろいろ持っているし、きっとこのトランスパーティー文化は世界中にあるんだなって気付いた。
その頃は、ちょうど、パーティーの友達の何人かがガテマラの砂漠のパーティーから帰ってきて、皮製のかっこいい服を着ている人達も増えて、旅とパーティーの話をきいたばかりだったし、世界のパーティーを覗いてみたくなった。

「じゃあ、ヨーロッパへ行こう。」
って、
「普通なら、真っ先に、ゴアだろう?」
とでも、つっこみを入れたくなるところだろうけど、個人的には、インドにはもう2回も行ったし、ぼけぼけするだけで何もしないで何ヶ月も過ごすのは、飽きていたし。
なんせ、前回のインドから帰って、急性肝炎が発病したので、無茶を強いられるインド旅行には、要注意ランプが点滅していたから、もう十分だった。

ある時、ダンス瞑想回想中に、「ヨーロッパで行ったことがある 国を思い浮かべていた。
実は、学生時代に2回、6週間4カ国と8週間6カ国の日本系典型的型旅行で行ったことのある9カ国、イギリス、オランダ、ドイツ、オーストリア、スイス、フランス、スペイン、イタリア、ギリシャにいったことがある。その国々の様子を順番に思い出していた。

「そういえば、人と笑顔をかわすのって、ヨーロッパの旅行中もそうだったよな。そういえば、バスに乗る時に、“お先に失礼します”って感じで、口元をにこっとさせる習慣があったよな。」
って思い出してた。

それで、その時目の前で踊り慣れてる外国人達を見ながら、
「あの人たちはどこの人達だろう?」
って考えてた。

「テクノで有名なところってどこだろう?テクノって、日本のYMOみたいなのもそうでしょ?テクノって言えば、ドイツだっけ?オランダ?イギリス・・?」
「イギリスは物価が高そうだし、オランダか、ドイツかな?」
「でも、ベルリンならラブパレードがあるし、少なくても、住人がそれを許してしまっているんでしょ?ってことは、きっと寛容な人々なんだろう。ゆるそうでいいなあ。」
とも、勝手に推測して・・・。

「じゃあ、今決めなくても、とりあえず、ラブパレードにいってみて、アムステルダム、イギリスを見てみて、チャンスがあったところで住んじゃおっか。」
と、いうことにあくまでも勝手なプランを立てた。

そして、
「インドでタブラを習うのも夢だから、それも途中で叶えて、先生のうちに通おう。しばらく生活してたら、どこかでボン好きなトラベラーにヨーロッパのアングラ情報を聞けるかもしれないし。特に、インドのノリとチャイの味が分かる友達は必要だし。」
と勝手に計画を立ててみては、すぐその後で、それが都合が良すぎるような気分に
「こんなにうまくいくのだろうか」
と、自問モード。で、
「結局、これは直感だろうか、ただの想像なんだろうか」
と、しばらく素に戻る。

でも、そういう時は、
「でも、とりあえず、人生は楽しまないと、やりたい事はやらないと・・・」
と、その頃よく唱えていた言葉を、もう一度繰り返すと、
「自分の旅だから、自分の好きなようにすればいいんだよ。」
と、思い直した。

そんなタイミングで、ヨーロッパを旅して来たという延さんが、
「旅に行くとね、必ず自分を待っててくれる人がいるんだよ。」 
って言ってたから、その言葉を素直に信じることにした。





その当時は、過酷なバイト生活の毎日。
大学を卒業してから、ずっとバイトしてお金を貯めては旅行をして、またお金が尽きる頃に日本に帰って、またバイトをして働いて、というサイクルを繰り返していた。

昼間はインド料理屋のランチシフトのウェートレス、夜、週2回、塾の講師、金、土は結婚式場の配膳ウェートレス、土曜日の夜はパーティー、後に早朝ベッドメイキングの仕事もしたりして、かなりハードに働きすぎて腰の筋を違えて、布団から起き上がれないくらい腰が痛くて歩けなくなったこともあった。
旅行に行くために働くのはいい、でも、日本に戻ることを気にしだす旅行の最終日は、いつも「ずっとこのまま旅ができたら・・・」と、願ってしまう。できることなら、時間のリミットなく思う存分旅行してみたかった。それに、そんな生活ももうすでに5年もたって、なんといっても、旅行から戻ってきて、またそんな生活に戻るのに、もう飽き飽きしていた。

その頃、都内、新宿や渋谷でパーティーがあった時は、そのままみんなとだらだらと代々木公園に流れて、日曜日の家族連れの戯れる公園の噴水の横の大きな木の下で毎週チルアウトしていた。パーティーのブラックライトの中で一緒に踊っていた蛍光に光っていた笑顔の人達は、大きな木の下ではカラフルな集団になって、パーティーの感想とか出来事とか、心を開放していろんな話をしてみんなで笑ったり、楽器を楽演奏したり、ジャグリングやフリスビーをしたり、本当に本当に楽しかった。いつかビデオで見たことのあるウッドストックを髣髴とさせる雰囲気。「あの(ウッドストックの)世界はやらせじゃない。本当にこの世の中に存在したんだ・・・。」
と思うと、嬉しくて嬉しくて仕方なくて、日常の過酷なバイトの生活も苦じゃなくなっていた。

そして、私にも外国人の友達ができた。イスラエル人のザシャ(だったっけ?)、オーストリア人のスージー、アメリカ人のミリアム。スージーとミリアムと私は、偶然にも同じ誕生日つながりで、その年の誕生日は日曜日だったこともあり、パーティー明けの代々木公園で、お祝いをした。生憎、スージーオーストリアにある恒例のパーティーに旅立った後だったので、マサさんが私とミリアムにクリスタルのシバの笛でお祝いをしてくれた。

彼らは道で物を売って生活していた。
それで、言葉のできない外国でもお金を稼いで生活することができることを知り、海外でお金を儲けることを考え始めた。日本は、私のような特に経験がないくせに「右へ習え!」ができないような奴には厳しい社会だし、そう考える事は一旦国外に出ていくには調度良いきっかけなのかもしれない、とも考えた。

「物売りね・・・?」
実は、インド雑貨屋でもバイトをしていた3年間のうち、工場視察の出張から帰ってきた先輩従業員からインドの噂を聞いてコツを知り、2回目にインドに行った時に、スカーフやワンピースを作ってきて、それをフリーマーケットで売ってみたら、結構売れゆきがよく、お小遣いも稼げたこともあった。インドから何かをヨーロッパに持っていくのもいいかとも考えたけど、結局、それは、荷物になるから、移動がスムーズじゃなくなることも考えた。

「自分自身を試す旅だから、大道芸人・・・?」
その、何といっても、大部分の社会の常識や空気から浮いていて、自由な土俵で、自分の力量で儲けが決まるという、「挑戦」という二文字しかない職種がいいなと、良い角度から眺めたりもしていた。
「稼ぎはそれなりに少ないだろうけど、いつか大道芸人やってみたいとも、思ってたことだし、やってみたいことはやってみなきゃ意味ないしな・・・。」
と、前向きに検討してみたりして。

「でも、大道芸人、やるんだったら、何がいいかな?う〜ん、それにしても・・・気持ちいい音〜、音は心をつなぐ・・・。」
「大道芸人するのに、何しようかな?楽器がいいな。タブラはどうかな?」、。
と気負ってみたけど、本当はそんなに自身があるわけでもないし、その時は、まだ夢の中の一部に過ぎなかった。

タブラは、`94年に最初にインドに行った時にバラナシの久美子ハウスで初めてシタールとタブラのコンサートを聞いてすごく好きになって、2回目に行った‘96年のインド旅行でタブラを買って帰ってきて、その後、しばらく日本で活躍している逆瀬川健二さんに音の出し方を習っていた。

「でも、タブラは元々神様に捧げる宗教音楽から生まれた楽器。ヨーロッパ滞在のお金儲けのための手段として考えるのは、神様に悪いのかなあ。」
と、ブルーになった。
でも、結局、
「じゃあ、この音を聞いたみんながハッピーになりますように・・・と、私なりの信仰をするので、許してください。」
と、心の中で、また自分解釈をしたりした。

「音で気持ちが通じることもあるんだから、きっと自分の感情を伝えるように叩いたら、どこかに音に共感してくれる人が来るかもしれない。」

と、ちょうどそれを思った時は、リキッドルームも最高潮な空気と熱気だったの事を覚えている。かなり気分よく踊りながら、
「音楽は言葉を超えて通じ合うし、音で会話もできるはず〜!」

と、アがっていた瞬間を1人で思い出して、今から行く夢実現の旅にワクワクして、一瞬、内心鼓動が激しくなっていたところに・・・・・・



現実はが訪れた。



そして、乗務員のおじさんが切符を確認しにやってきて、思考回路が現実に戻った。

「もしかして、あの時の私、ちょっといきすぎちゃってたんだろうか・・・?」
と、弱気になって、自問モードになってみたりして。
「でも、来てしまったんだから・・・」
と、自問を諦めたりもして。

それにしても、汚らしいバックパック・・・、
「旅の最初はバッグパックすら持ってなくて、インド製の布かばん一つだったな・・・。」

5月に大阪港から中国へ渡る船に乗り込んだ時、持ち物は、2、3年着込んだ普段着を何着かと履きなれたドクターマーチンのブーツ、石鹸、歯磨きセットなどの身支度品、カメラ1台、メモ帳1冊で、後は現地で調達すればいいやと思っていた。

「荷物は少ない方が心配の数も減るし、物を持ってなければ物への意識が一つ減って、自分の内側の感覚を磨けるかも」
とも、ふと思ったから、というのもある。自分の内側の感覚というのは、直感を磨くこと。自分の直感を試してみたかった。思いついた通りに行動するには、荷物が軽い方が動きやすいと思った。

日本の生活は、物とお金が天下からぐるぐる回りすぎて、目もくるくる回っちゃう。この際、自分には何が必要なのか確認したいから、あんまり荷物は持っていたくなかった。「だって、インドのサドゥは、杖と身支度の包みだけで旅してるじゃない。同じ人間なら、きっとそうやってできるはず。カルシウム不足で育った文明人は、歯磨きセットが必要だけど・・・。」
と、勝手な自分論も立ててみたりしていた。

特に、服への執着心は、本当に嫌だった。雑誌で作られるモード、それが無意識に良いとされる常識、時にはお出かけの最中に「やっぱりこの服、気に入らない」と、外出中不機嫌だったり、そんな服に感情を左右されることがうっとうしくなっていた。だから、旅立つ時は、服は体を守るもの、気温差に打ち勝てる服をと、着慣れた服を5,6着しか持っていなかった。

「昔から『衣食住』っていうくらいだから、基本的には衣類は『生活』に必要なはずだから・・・。」
というのも、今回の旅は『昔の人の知恵に習え』というのが、キャッチフレーズだった。なんせ、第一の目的地はチベット。下手したら電気はないかもしれなくて、かろうじて水と食べ物があるような場所だから、そんな状態でも暮らしていた先祖の知恵に習って、旅の荷造りには生活に必要な物だけを選択していた。

(続く)

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