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生活保護者の集いコミュの排他的な農村の県営住宅で味わった父の暴力と貧困。給食で栄養を摂る私は、習い事ができる友達がうらやましかった

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https://news.biglobe.ne.jp/trend/0107/fjk_220107_0708994623.html

「無いものにされる痛みに想像力を」をモットーに、ライターとして活動をしているヒオカさん(写真提供◎ヒオカさん 以下同)
2020年から続く新型コロナウイルスの影響で、経済的に困窮する人も増えている。そのなかでも見落とされがちなのが「若者の貧困」だという。「若くて働けるのだから自己責任では?」という声もあるが、その構造を私たちは理解できているのだろうか。自らも貧困家庭に生まれ、「無いものにされる痛みに想像力を」をモットーにライターとして活動をしているヒオカさんによる新連載。第2回は「県営住宅の団地で過ごした幼少期の話」です。

* * * * * * *

私の存在は、社会から見えなくなっている

私は透明人間のようだ、と思うことがある。




私の存在は、私の属性は、社会から見えなくなっているのだと。

一昨年、そう感じる出来事があった。

2020年4月に発表された初めてのコロナ対策の給付金の対象は非課税世帯だった。

非課税世帯の基準は、自治体により差があるため、統一された基準が示された。それによると年収が単身で100万円、扶養家族が1人で156万円、2人で205万円、3人で255万円以下の人が対象である。

その際、ネット上で散見されたのは、低所得者バッシングだ。

「納税者に還元されないのはおかしい」

「働いた人が損をする」

といったものが多かった。

中には、

「普通に働いていれば非課税世帯にならない」

「非課税世帯なんて存在するのか」

といったものもあり、低所得者層への偏見や無理解が露呈したかたちだ。

結果的には非課税世帯対象という条件は撤回され、条件を設けずに一律に10万を給付するかたちで落ち着いた。

この一連の出来事を見ながら、非課税世帯は、「存在しないに等しい」と思われているということを知った。

(実際は非課税世帯は2200万人いるとされている)

細分化されたごく一部の世界の縮小体

確かに、ワーキングプアといわれる低所得者層は非課税世帯ではなく、単身世帯だと年収100万円を超えると給付の対象外になる。給付の対象を非課税に絞ることで分断を煽るという批判は至極まっとうなものだと思う。

「普通に」働いていれば非課税世帯にはならない、という意見も、「普通に」フルタイムで働けて、定職に就ける人からすれば、自然な感覚なのかもしない。

付き合う人の階層やバックグラウンドは固定化するものだ。

世の中の縮小体だと思っていた自分の周辺は、実は細分化されたごく一部の世界の縮小体に過ぎなかったりする。

比較というのはたいていその狭い世界の中でするもので、あまりにかけ離れた生活をする人たちは視界にすら入っていない、ということもある。

それを痛いほど感じるようになったのは、上京してからのことだ。

しかし、振り返れば幼いころから、この分断の片鱗に触れていたように思う。

今回は、少しだけ、幼少期を振り返ってみようと思う。

私が生まれ育ったのは、中国地方にある片田舎の小さな農村だ。

関西の大学に進むと同時に離れたが、それまで18年間住んでいた。

市街地から車を30分ほど走らせると、両脇を田んぼだけが流れる地域に入る。

道の延長線上には、まるで水墨画のような、ゴツゴツとした荘厳な山々がそびえ立っている。

土地の良さがわかるのは、外の世界を知るなど比較対象があるからで、旅行をしたこともなく、そこしか知らなかった私には、地元は「檻」のようにしか感じられなかった。 

際限のない貧しさと、絶え間のない暴力を閉じ込める檻だ。

県営住宅の子どもたちは状況がよく似ていた

ぽつぽつある民家以外にあるのは、手つかずの自然だけ。

一面に広がるのは山、川、田んぼ。

自然豊かと言えば聞こえはいいが、山にうち捨てられた錆だらけの車や、土手の向こうの林の先にうっすらと見える鳥居など、『TRICK』に出てくる限界集落のような不気味さがある。

そしてあらゆる噂が筒抜けで、すぐに村中を駆けめぐる。

加えて、この村を包む独特な排他的な雰囲気が、私は苦手だった。

私の家がある県営住宅の団地は、低所得者層が集まっていた。ちなみに県営住宅には所得制限があり、収入に応じて家賃も変動する。

隣の家の人は50代くらいの元ヤクザで、上半身裸で庭にいる姿を頻繁に見かけたが、背中から腕にかけてびっしり模様が入っている。

生まれて初めて目にする入れ墨は、異様な威圧感があった。

顔には火傷のような跡、腕は途中から皮膚の色が違った。

外で出会うと愛想良くあいさつしてくれる優しいおじさんだが、たまに聞こえてくる怒号は、普通の人が怒った時に出す声とは明らかに凄みが違った。

向かいはお子さんが養護学校に通っていて、その隣には老夫婦が住んでおり、たまに窓から顔を出してアイスをくれた。

坂をあがった上の団地には、シングルマザーの家庭が2世帯。どちらも3人兄弟で、私と同じ学年の子がいた。両家庭とも極貧で、学校から防寒着や長靴をもらっていた。 ぺちゃんこにつぶれ、全体が真っ白にはげたランドセルを使っており、学校ではとても浮いていた。

私の家庭を含めた県営住宅の子どもたち、は状況がとてもよく似ていた。

村には昔からこの地域に住む人しかいなかったが、私たちが住む県営住宅は村で唯一の賃貸物件で、転居してきた人ばかりなのだ。私の家族も、村の外から引っ越してきた。

地域の集まりで、県営住宅の住人には明らかに冷たい、蔑むような視線が向けられた。

幼心に、大人が発する露骨な空気を感じ取っていた。

同じ村にも、この県営住宅と他の家との間には、見えない線が引かれていた。

周囲との違いを見るたび、心に寂しい風が吹いた

私の家族は極度の貧困状態にあった。父は精神障害があり定職に就けなかったのだ。

アルバイトを転々としており、私が高校生になってからは障害者の作業所でも働いていた。

そして、はたと無職になる。

物心ついた時から父は日常的に母に暴力を振るい、それは日に日に悪化の一途をたどった。

母の脚は殴られ、紫の斑点の隙間がなくなって、もはや紫一色になった。

理由もなく突然人が変わったように激昂する父に、怯えながら暮らす日々だった。

周囲との違いは、生活の折々で明らかになる。

お小遣いやお菓子をもらえなかったり、習い事をさせてもらえなかったり。

周囲は子どもチャレンジや進研ゼミを始めたり、ピアノ教室やミニバス、バレーや野球の少年団に入ったりする。

好奇心旺盛な私は、母にあれをやりたい、これをやりたい、と懇願するのだが、その度に母は悲しい顔をする。

次のピアノの発表会で着るという、普段はちょっと着るのに勇気がいるようなひらひらのドット柄のスカート、リボンの付いたカーディガンの衣装を見せてくる友達。

音楽会でピアノを上手に弾く友達。スイミングスクールのバスがお迎えに来る友達。

それを見る度に、心に寂しい風が吹いた。

私は運動も勉強も大好きだった。

だから、自分以外の同級生が塾や通信教育で授業より先のことを習うのが置いて行かれるようでこわかったし、放課後着替えてスポーツに打ち込む友達が強烈に眩しかった。

この原稿を書きながら、あの悔しさが生々しく蘇ってくる。


当時、友達が強烈に眩しかった。そして悔しかった。(写真提供◎ヒオカさん)

暇つぶしで編み出した「広告で実況ごっこ」

放課後や休日は、恐ろしく暇だった。

家には本もゲームもおやつも何もない。

おまけに家には父がいる。母はパートに出ており、小学校から帰ると父と二人っきりになってしまう。

安心して帰れる家が私にはなかった。

(コロナ禍でSTAY HOMEが叫ばれ、教育のオンライン化が進む度、自分と同じ境遇にある子たちのことを憂いたりする)

だから、よく友達の家に行った。友達の家と言っても、過疎地の広大な校区なので、10キロ近く離れている。 

友達の家には、あらゆるものがあった。漫画に図鑑にWiiにDS。お菓子にジュース。

どの家にも必ず、着物かドレスアップした家族写真もある。

友達の家に行けない時の暇つぶしで編み出したのが、「広告で実況ごっこ」だった。

父が新聞配達をしている時期があり、その時は新聞と広告チラシが家にあった。

チラシを抜き出して、「えー今週のおすすめは、こちらぁっ!!!」と、通販番組風に一人で解説していた。

今思えばシュールでわびしいが、当時本当にやることがなかったのだ。

また、季節の行事にも縁がなかった。みんながサンタを信じているかという話をしているのを聞いて、どうやらみんなはクリスマスプレゼントをもらっているらしいということを知った。

年明けの登校日、みんながもらったお年玉の額を発表しあっていて、お年玉がもらえる世界線に心底驚いたものだ。

というのも、親戚との繋がり、といえるものが私にはなかったのだ。

貧困の連鎖

父方の祖父は、父が小学生の時亡くなり、祖母がシングルマザーで4人の子どもを育て上げた。父以外のきょうだいはみな中卒で、全国に散らばり非正規雇用に従事していると聞く。

父は学年で2、3人しかいない、「つぎはぎの服を着た子ども」だったという。

貧困の連鎖とは恐ろしいものだ。

母方の実家は九州の離島にある。母方の祖父は母が中学生の時に脳梗塞で倒れ、それが原因で母もまた貧困生活を余儀なくされたという。

私が生まれた直後に、父方の祖母と母方の祖父がなくなったため、私にはおじいちゃんおばあちゃんの記憶がまったくないのである。

叔母が癌で亡くなった、一型糖尿病を患っていたいとこが、11年間の植物状態を終え亡くなった、そういう訃報で、親戚がいたらしいということを知るのだった。

唯一1、2度会った記憶が薄っすらあった母方の祖母が亡くなったときも、離島まで行く交通費がなく、葬式には行けなかった。

日々の生活で、空腹との戦いも、常に悩みの種だった。

学校からの帰り道では、いつも花の蜜を吸った。つつじはもちろん、名前は分からない赤い花を摘んで、根元を吸うと、甘みが口の中に広がった。

猫じゃらしの茎を噛むと、麦茶の味がした。

他にもふきやつくしなどは煮付けやお吸い物になる。

秋は、空腹を満たしてくれる食材が豊富だった。

シイの実が道にたくさんおちていて、よくフライパンで煎って食べると、淡泊ながらも香ばしく味わいがある。

裏山には栗やあけびがなっており、おやつの定番だった。

あけびは形は那須のようだが、中に白くみずみずしい果肉がつまっており、素朴な甘みがあった。

父の失業、繰り返す入院と車による事故

給食は最高のご馳走だった。好き嫌いする友達が信じられなかった。こんなにおいしくて豪華なものはない。あまりものの争奪じゃんけんには男子に混ざって必ず名乗りをあげ、絶対におかわりをした。

5つ上の姉の同級生に「嫌いなものを食べて」と呼ばれ、残飯処理班として出動することも多かった。食欲旺盛な子、くらいに思われていただろうが、私からすれば必死に栄養を確保する機会なのだから利害は一致していたのだ。

父の失業中は、本当にお金がなかった。

食べるものもなく、家にずっといてしょぼくれている父を、私が家中の小銭を集めて、駄菓子を買いに連れていったことを、今でも覚えている。 

加えて父は、しょっちゅう入院した。

もともと胃腸が弱いのだが、嘔吐しだすと大体そのまま腸閉塞で入院する。

年末年始は毎年のように腸閉塞になるので、もはや風物詩と化していた。

しかし、医者が止めても、「働かないと!」と言って、嘔吐がやっと治まってふらふらの身体で無理やり退院して働きに出るのだ。

そしてまたある時は自家用車で単独事故を起こし、血だらけで意識を失っているところを偶然通りかかった通行人が見つけ、九死に一生を得た。

運転が荒いせいか、何度事故を起こしたかわからない。ちなみに本人はなぜか「わし、いままで手術8回もしたんよ!」と自慢している。

中古で5万円くらいの車を譲ってもらい、しょっちゅう買い替えていた。

母も姉も、そんな父を見ながら、どこか諦めていたように思う。

私も、生まれたときから極貧、トラブルの絶えない人生を、無意識に受容していたように思う。

受容、といっても、困難が大きいからと耐性が付いたり、感受性が鈍くなったりするかというと、そんなことはない。毎回痛い。ちゃんと痛い。

何よりも父の日常的な暴力を見るのは耐えがたい苦痛で、毎日父が母に何もしないよう、必死に祈っていた。

ヒーローが救ってくれる妄想をしたことも

次は何が起きるんだろう。

またガス代が払えないと父が母に激昂している。

明日という日を越せるだろうか。

そんな、明日の見えない不安、胸がつぶれるような痛み、焦燥感、恐怖感に、いつも心は支配されていた。

逃げようにも逃げられない。逃げる手段も、お金もない。だって、ここは檻だから。

ドラマや映画なら、窮地の時、ヒーローが現れる。私の好きなドラマ『Nのために』では、毒親に翻弄される主人公に、成瀬くんというヒーローが現れ、つらい時も励ましあいながら乗り越えていくのだ。困難もそんな存在がいればなんかエモい物語になる。

頭の中で、母を殴ろうと振り上げた父のこぶしを、後ろからパシっと掴んで止めてくれる人が現れないか、妄想してみたこともある。

ところがどっこい、夜は街灯もなく真っ暗で、人っ子一人いないようなガチの過疎地。ヒーローも出没対象外地域である。

父が駐車場で車を出そうとする母の胸倉を掴み、車体ごと大きく揺らすようなこともあったが、周囲は見て見ぬふりをするのだった。

よく生活保護をなぜ受けなかったのかと聞かれるが、正直子どもだった私にはわからない。

大人になってからさりげなく母に聞くと、どうやら田舎で生活するにおいて必要不可欠な車が差し押さえられるのはないかといった不安などがあったらしい。(生活保護受給者は基本的には車の所有は認められないが、必要不可欠な場合認められる場合もある)もちろん、それ以外にも、きっといろいろな要素があったのだろうが、その全容は見えないままだ。

ここまで書いておいて、にわかに信じがたいと思われるかもしれないが、「自分の家がどうやらガチめの貧困家庭だったらしい」と気付いたのは、社会人になってからのこと。

もちろん常に生活は苦しかったが、大学進学の際の奨学金の書類を書くまで、世帯年収は知らなかったし、子持ち世帯の平均年収がいくらとか、生活保護受給水準がどれくらいだとか、考えたこともなかったのである。

というかそんな状態から何故大学にいけたんだ、と思った方もいらっしゃることだろう。

その話はまた次の機会に。

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