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生活保護者の集いコミュの団地住民への差別、生活保護への偏見も…当事者女性が語る“地方の貧困家庭”のリアル「『誰も味方じゃない』と思っていた」

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https://bunshun.jp/articles/-/60048

 地方の貧困家庭で育った、ノンフィクションライターのヒオカさん(27)。さらに、幼い頃から父親の暴力を受けて生活を送ってきた。

 2022年9月には自身の壮絶な人生を綴った著書『死にそうだけど生きてます』(CCCメディアハウス)を上梓し、反響を呼んでいる。そんなヒオカさんに、長年貧困問題を取材し、自身も貧困・虐待家庭で育った吉川ばんび氏が話を聞いた。(全2回の1回目/2回目に続く)

ノンフィクションライターのヒオカさん コピーライト釜谷洋史/文藝春秋
ノンフィクションライターのヒオカさん コピーライト釜谷洋史/文藝春秋
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◆◆◆


物心つく頃にはすでにDVがあった家庭環境
――ご自身が育った環境について、教えてください。

ヒオカさん(以下、ヒオカ) 生まれ育ったのは中国地方の、超が付くほどの田舎です。私が小学校に上がる前くらいに父と母、姉と一緒に県営住宅へ引っ越して、家族4人で暮らしていました。

 いわゆる団地なんですが、その団地には「最貧困層」が集っていて。隣人の刺青と火傷の痕がすごかったのを覚えています。うち以外のファミリー層は、基本的にひとり親家庭で、どこも問題を抱えているようでした。

 うちでも物心つく頃にはすでに、父が母を殴ったり怒鳴ったりしていて。私や姉が見ていてもお構いなしで、母が目の前で殴られる光景を見続けるのがとにかく辛かった。いまだに男性の怒鳴り声がすると、体がすくんでしまうくらいトラウマになっています。

「虐待されていた」なんて言っちゃいけないと思っていた
――お父さんは、お母さんをどういった理由で殴るのでしょう。

ヒオカ きっかけは小さなことでした。「仕事のために早く寝たかったのに、夕食を出すのが遅い」とか。いつもの時間よりたった5分遅くなるだけでも怒鳴ったり殴ったりするんです。

――今でこそ、子供の目の前でのDVが「虐待」だと認知され始めていますが、その頃は世間でもそういった認識は薄かったので、周囲の理解も得られにくいですよね。

ヒオカ そうなんです。私自身が殴られているわけではなかったので、数年前まで自分でも「家庭に虐待があった」という認識は持っていなくて。もっとひどいことをされている子ってたくさんいるじゃないですか。熱湯をかけられたり、アザができるほど殴られたり。

 だから心のどこかで「自分はまだマシなほうだから、『虐待されていた』なんて言っちゃいけない、書いちゃいけない」と思っていました。

「団地の家族」と「団地以外の家族」での見えない線引き
――イメージされやすい「虐待」はだいたい身体的な暴力に限られますからね。

ヒオカ 中学生のときには、学校でいじめにあって不登校になったんです。それでも勉強をしたかったから、図書館に行って自分で勉強して、夕方になったら母が車で迎えにきてくれるのが日課になっていました。でも父は事あるごとに「学校に行かないなら部屋から出るな」と怒鳴るんです。

――当時、周りに相談できる大人はいませんでしたか?


ヒオカ まったくいませんでした。小学生のとき、担任の先生が「団地の子供たち」だけを明らかに目の敵にしていて。多分、ちょっと差別意識があったんだと思います。



――具体的には、どういう風に目の敵に?

ヒオカ 同じ団地に住んでいる男の子はよく先生に叩かれたり、首根っこを掴んで引き摺り回されたりしていました。

 もともとは、PTAや保護者会の中で「団地の家族」と「団地以外の家族」みたいな見えない線引きがあって。団地の子供たちの母親が学校行事などで固まって行動していると、団地以外の母親たちがそれを見て耳打ちをしたり、ヒソヒソ話をするのが子供ながらにもわかりました。

 それが発端になったのか、先生も加担するようになったんです。私は叩かれはしなかったけれど、いつもみんなの前でネチネチと嫌味を言われたり。

 中学生のときには、私がいじめられていても先生は見て見ぬ振りをして、不登校になっても何もしてくれませんでした。だから私の中の大人のイメージがあまり良くなかったというか、希望が持てなかったんですよね。「誰も味方じゃない」と思っていました。

「えっ、うちってこんなにお金ないの」実家の年収を知って驚き
――当時、ご家庭の収入状況は?

ヒオカ 正直に言うと、あまり把握していませんでした。私が保育園に通っていた頃まで父親は定職に就いていたようなんですけど、精神に障害があったらしく、アルバイトを転々とするようになりました。ただ、ひとつの仕事が長続きせず、失業中は家にいることが多くて。

――お父さんが働けないのは、精神障害が関係しているんでしょうか?


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ヒオカ おそらくそうだと思います。たまにその影響で自損事故を起こしたりもしていました。

 母はパートをしていましたが、多分、ひとり親家庭の平均収入よりずっと低かったと思います。実家の収入状況を初めて知ったのは、高校生の頃、奨学金申請に必要な書類に書かれてあった年収欄を見たとき。子供ながらに家が貧しいのはわかっていたけれど、実際に数字を目にすると「えっ、うちってこんなにお金ないの」って。

――個人的な話になりますが、私の場合も貧困家庭で、同じく奨学金申請の書類で実家の収入状況を知ったのでよくわかります。「平均的な年収が400万円くらいで、うちもそれくらいはあるのかな?」と思っていたんですけれど、蓋を開けてみるとその半分もなかった、みたいなことが普通にある。



ヒオカ 親が安定して働いていないと、本当にわからないですよね。極端な話、全く働いていない時期は収入はゼロだし、働いているときでも非正規雇用でアルバイトだったりするから、安定した収入があったことがない。



生活保護を受給できない 地方ならではの閉塞感と村社会の雰囲気
――子供の頃に「家が貧しい」と思ったきっかけはありましたか?

ヒオカ 習い事をさせてもらえなかったことです。小学校の同級生はだいたいスイミングスクールやピアノ、バレエ、スポーツなど何かしらの習い事をしていて。当時はみんな『こどもちゃれんじ』や『進研ゼミ』もやっていたんですけど、家で「私もやりたい!」なんて言おうものなら、父から「わがままを言うな!」と怒鳴られていました。

――子供ながらに、周りとの格差を感じましたか。

ヒオカ 団地に住んでいる子供たちは私と同じように貧しい家庭の子がほとんどで、あまり格差を感じることはありませんでした。でも団地以外の子はほとんどが安定した収入がある家庭なので、そこで初めて、自分たちがマイノリティだったことに気付くんです。

――特に地方の、市街地と田舎の団地的なところだと、収入の差や文化的なギャップも大きいですよね。当時、生活保護を受給するという発想はご両親になかったのですか?

ヒオカ 全くなかったです。生活保護を受給するということは、村中に知られるということ。どんなに隠したくても、役所の人も民生委員の人も地元の人たちだから必ず噂になる。だから、「絶対に受給してはいけない」くらいの地方ならではの閉塞感というか、村社会の雰囲気がありました


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――私の地元でも、子供の私にすら「あそこの家庭、生活保護家庭らしいよ」とか「お母さんも働いているのに生活保護を受けてる」といった情報が入ってきていました。

ヒオカ 「誰々さんのところ、自己破産したらしいよ」とか普通に言いますよね。とにかくバッシングがひどい。

 それにもし生活保護を申請したとしても、役所ではマニュアル対応しかしてくれないから「車を処分できないなら申請できません」と言われてしまう。田舎では車がないと生活ができなくなってしまうのに。本当は、事情があれば車を残すこともできるんですけど、親もそういう知識がないから「生活保護なんて絶対ダメ!」という恐怖感が強かったんだと思います。


就活や教育にまつわるリテラシーの格差
――大きい言葉かもしれませんが、例えば東京都心や、大阪・名古屋を含む地方都市の「都会」って、地方出身者からするとまったく違う世界のように思えませんか。

ヒオカ 全然別の世界ですよね。子供の頃から条件が違いすぎる。教育ひとつとっても、都会とは得られる情報量が全く違う。私の場合、親戚に大学卒業者が1人もいなくて、周りの大人たちに知識がないので「大学って何しに行くところなの?」って感じで、大学に進学する人がそもそも超マイノリティなんですよね。いわゆる「ファーストジェネレーション」というやつです。



 一方で、都会の子供は親世代の多くが大学出身者だから、就活や教育にまつわるリテラシーも全然違います。みんな大学進学は絶対条件で、いい企業に就職するために、そこから逆算して進路を選んだり塾に通ったり対策をしている。

 こういった話をすると「今はネットがあるんだから情報格差なんかないでしょ」と言われるんですけど、田舎にはネット環境がない家も多い。私は高校生の頃に初めて携帯電話を持たせてもらいましたけど、それも送り迎えに必要な親との連絡手段が目的だったから、電話とメールの機能しかなかった。インターネットに触れるきっかけがなくて、とにかく情報が遮断されている感じでした。

一発勝負の大学受験で体調がボロボロに
――高校に進学して初めて「大学進学」という選択肢について知るということですね。

ヒオカ 私はもともと勉強が不得意ではなかったので、幸運なことに自分で勉強して、公立の進学校に入学できたんです。すると、高校では先生も友達も「大学に行くのが当たり前」という感じで。団地内では「行かないのが当たり前」だったのに。

 そういう環境の変化もあって、自然と「あ、私も大学に行くんだな」と思うようになりました。

――ご両親からは「高校を出たらすぐに働け」みたいなことは言われませんでしたか?

ヒオカ ありがたいことにそれはなかったんです。「お金は1円も出さないけど、国公立の大学に行きたいなら行きなさい」みたいな感じでした。

 ただ、浪人は許されないし、受験料を節約するために併願もできなかったから、プレッシャーで体調がボロボロになりました。ずっと胃腸の調子が悪くて下痢が続いたり、倒れるくらいひどい頭痛が続いたり。センター試験の当日も眠れなくて。それでもなんとか必死で勉強して、関西の国公立の大学へ入ることができました。

シェアハウス生活を始めて、食べ物を受け付けなくなった
――大学進学後、ご実家からの援助は全くなく?


ヒオカ そうです。むしろ実家には、奨学金の中から仕送りをしていました。そういう状況だったから、大学入学後に1人暮らしをするための家具家電代、敷金礼金などの初期費用がどうしても工面できなくて。

 初期費用が必要なく、安く住めるシェアハウスに入居したんですが、とにかく環境が悪かったんです。冷暖房もなければ自分の部屋もなく、住人たちと布団を並べて雑魚寝で寝るという。

――自分のスペースがないのは、かなりのストレスでしょうね。

ヒオカ シェアハウス生活を始めてから、全く食べ物を受け付けなくなったんです。突然激しい腹痛に襲われて、ルームメイトが救急車を呼んでくれたこともありました。お粥、刻んだ納豆、ゆでた豆腐くらいしか食べられない生活が何年も続いて、だんだん衰弱して。身長が170センチなのに体重が40キロ台まで落ちてしまった。

 私、子供の頃からずっと何かしらの体調不良があるんです。初めは「体が弱いのかな」と悩んでいたんですけど、1年くらい前にようやく、生育環境での経験やトラウマが影響しているとお医者さんから指摘されました。



365日あったら364日くらいはしんどい
――具体的には、どんな症状があるんですか?

ヒオカ 自律神経に異常をきたしているので、毎日全然眠れないんですよね。頭痛もひどくて、症状を抑える頭痛薬を飲み続けているうち、どんどん効かなくなって、強い薬を処方されるようになりました。あとは吐き気があったりして、食べられなくなってすごく痩せたり、逆にすごく太ったり。未だにそういった体調不良が続いています。

――私も家庭に虐待があったので、似たような症状が昔からあります。体調が本当に悪いのに、ストレスや自律神経の失調が原因だと、どこを検査をしても異常が見つからないので仮病を疑われたり。

ヒオカ 理解が得られなくて大変ですよね(笑)。365日あったら364日くらいはしんどくて、1日元気な日があるかないかくらい。

 大学時代は途中でアルバイトもできなくなって、実家から援助をしてもらうこともできない身なので、精神的にかなり追い詰められてしまいました。それでもなんとか卒業したんですけど、就職してからも機能不全家族で育った地獄は続くんです。

撮影=釜谷洋史/文藝春秋

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