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生活保護者の集いコミュのSNSで巻き起こる「カップ麺は贅沢か否か」論争から見えた、弱者を選別する“貧困ジャッジマン”たちの存在

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https://news.yahoo.co.jp/articles/0c08189fe2569acc89ab13b72fee786aeaeff003

少し前に、ツイッターで「カップ麺は贅沢か否か」論争が起きていた。

 その中で「金がないからカップラーメンばかり食べている奴は、本当の貧困ではない。カップ麺は今や200〜300円して当たり前だし、本当に生活が苦しいなら、米を炊いた方が安上がり。自炊すればいいだけなのに甘えている」というような趣旨の意見がたくさんあり、おそらくこうした論争は「貧困」について各々が有している理解度があまりにも違うがゆえに起きるのだろうと思った。

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生活困窮者の多くはあらゆる面で余裕がない
コピーライトiStock.com

 生活困窮者の多くは時間的、精神的、健康面において余裕がない。例えば、毎日劣悪な環境で長時間労働を続けていれば、帰宅するころには疲労でへとへとになり、しまいには「とにかくなんでもいいから腹を満たして一刻も早く眠りたい」という思考に陥りがちだ。

 実際、私が20代でブラック企業に勤めていたときなどは、毎日の生活――つまり職場と自宅を往復すること――を維持するのに精一杯で、次第に食事に気を遣うことがまったくできなくなった。初めはきちんと米を炊き、毎日必ず自炊して体を壊さないよう努めていたけれど、抱えている仕事が膨大になり、夜遅くに帰宅する日々が続くとともに、「職場と自宅を往復すること」以外はほとんど何もできないほど余裕がなくなった。

 友人からの誘いを受けても、毎日働き続けるために(睡眠不足になると途端に体調を崩してしまう私の場合は)とにかく睡眠時間を確保せねばならなかったから、仕事が終われば駅まで走って一本でも早い電車に飛び乗り、帰宅すると急いで食事とシャワーを済ませて布団に入る日々を過ごしていた。

「何かのサイクルが狂ってしまうと働けなくなってしまう」という強迫観念から、新しいことを始めようとしたり転職活動や勉強をしたりする余裕はまったくなく、ただただ日々を「維持」し続けるしかなかったのだ。

貧困を美化しようとする「貧困ジャッジマン」たち
 先述のカップ麺論争にも登場したワードだけれど、ここ数年、「本当の貧困」という言葉が表すものについて考えさせられることが多い。

 こうした言葉を使うのは多くの場合、困窮に喘いでいる人に対して、第三者的立場、つまり赤の他人であるにもかかわらず「この人の苦しみは本当のものであるか否か」を勝手に見定め、ジャッジし、「偽物」だと判断した相手に対しては徹底的に攻撃をはじめるような人々である。

 彼ら彼女らは自分たちが認める「弱者」以外には残酷なまでに厳しく、そこにある困窮の実態や福祉介入の必要性を完全否定し、さらには権利や声まで奪おうとする。そしておおむね、このような「貧困ジャッジマン」たちは生活困窮の当事者ではなく、いわゆる中流階級以上の人たちだ。

 貧困ジャッジマンたちのいう「本当の貧困」とは一体どういうものだろう。

 アルコールにもギャンブルにも依存せず、謙虚であり、真面目で、純粋な善人で、自炊で質素な食事くらいしか摂ることができず、痩せていて、ボロボロの服を着ていて、従順で、娯楽を享受せず、不服の声を上げたりせず、自分たちの立場を「わきまえている」、生活保護など受給せずにコツコツ働いて「自己責任」で、誰にも迷惑をかけずに貧しい生活をしている人々。

 このように書き連ねると「さすがにそこまで言わないだろう」と思う人も多いだろうけれど、上記にあげた要素のうち、どれかを逆にした途端、貧しい人々は世間からの顰蹙(ひんしゅく)を買ってしまう。

 アルコールやギャンブル依存症、傲慢、不真面目、悪人、たまに焼肉を食べることがある、太っている、綺麗な服を着ている、強情、娯楽好き、社会に対して声を上げている、自分たちの立場をわきまえず、生活保護を受給して、働かず、誰かの支援を必要としながら生きている。

 こう書き換えて見ると、どうか。たとえこれらの要素をすべて満たしているとしても、何らかの事情で働けなかったり収入が減ったりすれば生活保護を受給する資格は十分にあるし、健康で文化的な生活として認められる範囲である。仮に「ケースワーカーに報告をしていない事項がある」など不正な受給でないかぎりは、法的にその受給を否定される根拠もない。

 けれども、こうした貧困当事者たちを許せない人々は決して少なくない。だからこそ、生活保護受給者が割引になっている焼肉用の肉を買うことや、娯楽のために少しお金を使うことですら、ネット上で反感を買い、長年叩かれ続けるような現象が起こる。

貧困にある人ほど依存症、精神疾患リスクは高い
 実は貧困にある人ほど依存症や精神疾患のリスクは高く、さらにその傾向は子供世代にも遺伝する。そして貧困は文化的貧困(学歴などを含む)、社会的貧困(人脈など)、知的貧困などさまざまな要素が複雑に絡み合っている問題であるけれど、貧困家庭ほど学歴は低く、人脈やコネクションを持った親族がおらず、受けられる教育水準も低い。

 病院にかかることも経済的に難しく、健康を損ないやすい。努力をして何かを得られる成功体験を積むだけの時間的・経済的余裕がないために、子供の頃から「努力をする習慣」が身につきにくい。

 つまり、世間から共感されづらく「本当の貧困じゃない」と言われる人の方が圧倒的に貧困の沼にはまりやすいのは、ごく自然であることがわかる。そして一度でも貧困の沼にはまってしまうと、固定化された格差の中では個人の努力うんぬんではどうすることもできず、外部からの介入がないかぎり抜け出すことができないか、抜け出せても相当長い期間を要することがわかっている。

弱者に「優しくしてあげたい」かどうか
 自分たちの税金が使われているのだから、自分たちの御眼鏡にかなう弱者にしか支援は行われてほしくない。そんな風に思う人々は意外にも(意外と思わない人ももちろんいると思うけれど)多い。

 強者側にいる人たちにとって、弱者に「共感できるかどうか」は「優しくしてあげたいかどうか」を決める重要な指標なのだと思う。美しくない弱者、共感できない弱者は「本当の弱者ではない」と決めつけられ、簡単に排除されてしまう。

 このような人間の悪の部分、エゴイスティックともいうべき基準によって形成される世論は、公的支援の対象者選別にも影響するし、本来なら支援を受けられる人を、セーフティーネットから遠ざけることすらある。

 おまけに「共感されづらい人」からは人が離れて行き、孤立化が進む。誰も助けてくれない、助けを求めたくても求められない。そういう人たちが自ら死を選ぶしかない窮状に立たされていることも、債務整理などで、これまでに数千件の生活相談を受けてきた私は、よく知っている。

「福祉」とは、強者によって選別された「美しい弱者」にしか施されない性質のものなのだろうか。そんなはずはなく、誰もが健康で、文化的な生活を送る目的で、平等に受けられるのが福祉であることを、いま一度考えなくてはならない。

吉川 ばんび

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