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生活保護者の集いコミュの国の独断で生活保護基準を決めていいのか?

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https://news.yahoo.co.jp/articles/0a7fdbdfaecab7d442cde2114a37bec67e652c13

 生活保護基準額引き下げは生存権を侵害し違憲だとする裁判で、熊本地裁が大阪地裁に次いで全国2例目となる減額決定を取り消す判決を出した。判決は、私たちが「国にすべてを委ねるか、それとも合理性や専門的知見を求めるか」を問うものとなっている。生活保護基準は高いか低いかという議論はいったん横に置き、コンプライアンス(compliance)の視点から、今回の判決が問いかけるものを考えてみたい。

全国2例目の原告勝訴の争点になったのは?
WEDGE Online(ウェッジ・オンライン)

 2022年5月25日の熊本地裁判決で中辻雄一朗裁判長は、厚生労働相の判断過程に誤りがあったとして、引き下げは生活保護法に反すると認定した。同様の訴訟は全国29都道県で起こされており、判決は熊本地裁で10件目。大阪地裁の原告勝訴に次いで、2つの地裁が国の誤りを認めたことになる(朝日新聞デジタル、2022年5月25日)。

 争点は何か。はじめての人でもすぐに概要がわかるよう、国勝訴の名古屋地裁と、原告勝訴の熊本地裁における争点を比較した(図表1)。なお、名古屋地裁は生活保護引き下げ訴訟で最初の判決を出しており、国勝訴の判決は他の地裁でもほぼ同じ内容である。

国の幅広い裁量権を認めた名古屋地裁判決
 まずは、名古屋地裁から見ていこう。まず争点となったのは、国民感情で生活保護費を引き下げることは許されるのかという点である。今回の生活保護引き下げは、当時の政治状況を抜きにして語ることはできない。

 12年の衆議院議員選挙で、自民党は公約に「生活保護基準の原則1割カット」を掲げた。当時の自民党の政権公約資料をみると、生活保護費が25%以上膨らませた民主党政権に対し、生活保護制度の見直しにより関係予算の削減を図ることを明確にしている(自民党「The Jimin NEWS No.160」)。

 民主党を破り政権に返り咲いた自民党は、厚労相に対して基準の再検討を求めた。厚労相は、13年に衣食や光熱費など日常生活に必要な費用にあてる「生活扶助」の基準額を13年8月から3回にわけて引き下げた。世帯ごとの削減幅は最大10%で、削減予算の総額は年間約670億円に上る。削減額、削減幅ともに戦後最大であった。

 こうした情勢を踏まえ、原告側は、政治的な意図があったとして、国民感情や財政事情に基づく生活保護引き下げは許されないと主張した。

 判決では、「政策的判断においては、国の財政事情、他の政策等の多方面にわたる諸事情を広く考慮する必要があり、厚労相の裁量権もそれらの諸事情を広く考慮して行使されるべきものである」とし、国民感情や財政事情を踏まえた判断は違法ではないとした。

 次に、原告は物価の下落を反映して基準額を引き下げる「デフレ調整」について、厚労省が独自の算定方法を用いたこと、専門家が議論する審議会の意見を聞かずに決定したことをもって違法であると主張した。

 判決では、独自のデフレ調整をしたこと、審議会の検証結果を反映しないこと等をもって、判断過程に過誤、欠落等があったとはいえないとし、原告の主張を退けた。

合理性や専門的知見を求めた熊本判決
WEDGE Online(ウェッジ・オンライン)

 これに対し、熊本地裁では、国民感情による政策決定は争点にならなかった。代わりに原告は、生活保護基準の政策決定過程に争点を絞り、裁量権の逸脱・濫用があったと主張した。

 判決では、「厚労相の裁量判断の適否の審査では、統計等の客観的数値等との合理的関連性や専門的知見との整合性の有無について審査されるべきである」とした。

 そのうえで、「デフレ調整を行うに当たっては専門的知見に基づく複合的・多角的案分析及び検証を行うべきところ、厚労相は適切な分析及び検討を怠った」として、原告の主張を認める判決を出した。

 なお、生活保護基準の検証方法は専門的になるため、ここでは原告の支援団体が作成した四コマ漫画を紹介するに留める。オリンピック云々は除いて、原告側の主張はほぼこの漫画に集約されている。

 熊本地裁は、基本的にはこれらの原告の主張を認め、統計等の客観的数値との合理的関連性、専門的知見との整合性という二つの面で、厚労相の判断に問題があると結論づけたのである。

生活保護引き下げ訴訟が与える社会的インパクト
 生活保護基準を争った裁判としては、1957年に国立岡山療養所に入所していた朝日茂氏が厚生大臣を相手に、日本国憲法第25条に規定する「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」と生活保護法の内容について争ったものがある。世にいう「朝日訴訟」である。

 東京地裁では、低すぎる生活保護基準は違法であるとして原告の主張を全面的に認めた。東京高裁では原告の請求棄却、上告審の途中で原告が死亡。最高裁は本人の死亡により訴訟は終了したと判決を下した。

 しかし、裁判の過程で低すぎる生活保護基準が社会問題となり、生活保護引き上げや社会保障制度の発展に大きな影響を与えたと言われる。基本的人権の尊重を学ぶ際に真っ先に取り上げられる裁判であり、詳細は知らなくても、社会科や公民の授業で朝日訴訟の名前を聞いたことのある人は多いだろう。

 今回の裁判では、1000人を超える原告が違憲訴訟に名を連ねる。朝日訴訟のときとは、規模は比較にならない。

 生活保護基準は、最低賃金、住民税や地方税の減免、保育料や就学援助、介護保険や障害保険、公営住宅などたくさんの制度と連動している。「健康で文化的な最低限度の生活」のラインは、私たちの生活のあらゆるところに影響を与えている。判決のもつ社会的インパクトは、極めて大きな意味をもつ。

政治家や官僚がすべてを決める社会でよいのか
 誤解を恐れずにあえて言い切れば、朝日訴訟が「生活保護基準の妥当性」を問う裁判なのに対し、今回の生活保護引き下げ訴訟は、「生活保護基準の決め方の妥当性」を問う裁判である。

  熊本地裁判決は、私たちに「国にすべてを委ねるか、それとも合理性や専門的知見を求めるか」を問うている。言い換えれば、国にコンプライアンスの遵守を求めるのか、それとも信じて委ねるのかが問われているのである。

 コンプライアンスとは、日本語では「法令遵守」と訳される。しかし、単に「法令を守ればよい」という訳ではない。現在、企業や行政に求められている「コンプライアンス」とは、法令遵守だけでなく、倫理観、公序良俗などの社会的な規範に従い、公正・公平に業務をおこなうことを意味している。

 結論ありきで数字合わせをして、専門家の意見も聞かなくても問題はない。なぜなら、どう決めるかは国(厚労相)に裁量があるのだから。国民は生活保護引き下げを望んでいるし、財政事情も厳しい。だから、引き下げるのは仕方がない。

 これを仮に認めるとしたら、政権交代が起こり、左派政権が力を持ったら何が起こるだろうか。「企業の内部留保を吐き出させるルールをつくろう」「不労所得を得ている資産家への課税を強化しよう」というキャンペーンが張られ、国民感情や財政事情を理由に手続きをないがしろにしてルールが変更されたらどうだろう。選挙の勝者が総取りをするようなシステムは、むしろ社会を不安定にするのではないか。

 政治家や官僚がすべてを決める社会でいいのか。筆者の答えは、「No」である。

 どのような政策を選択するにしろ、判断の根拠となる統計等のデータは恣意的に扱われるべきではない。また、学問的蓄積に裏打ちされた専門的知見は尊重されるべきである。

 政策決定者は公平・公正な目でデータをみて、専門家の意見に耳を傾ける必要がある。そのうえで、適正な手続きを踏み、なぜその判断に至ったのかを説明する責務がある。私たちは、感情ではなく理性をもって、そのことを求めていかなければならない。

大山典宏

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