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生活保護者の集いコミュの「いつからアイドルになったんだ」“自分の理想像”を他人に押しつけてくる人たち

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https://news.biglobe.ne.jp/trend/1101/bso_211101_6698775533.html

 顔と名前を出して活動をしていると、本当にいろいろなことが起こる。


 書いた記事や対談がインターネットに掲載されると、ヤ●コメ欄には記事とは関係がないはずの「骸骨ババア」だの「枕元にたくあん置いて寝てそう」だのといった容姿への「品評」が次々に溢れ、そうかと思えば「吉川さんで●●ニーしてます」のような性的な嫌がらせの連絡が送られてくることもある(大体は「そうですか」と思いながらスクショを撮って無視している)。


 なかでも厄介なのは、自分の中で勝手な「理想の書き手」像を作り上げ、そこにおさまらない(=気に入らない)要素があると「作家としてその振る舞いは良くないのでは?(^_^;)」「ジャーナリストであれば命を賭してでも真実を追い求めようと思わないのですか?」などと言ってくる無責任極まりない人々の存在である。





 誹謗中傷行為がTwitterルールはもちろん、法律に反することは明らかだが、こうした「良心からのアドバイス」や「苦言」を装ったコメントについてはグレーな部分が大きく、今のところは個々にブロックなりミュートなりをしていくしか解決策がないのが難点だ。




コピーライトiStock.com


「いつからアイドルになったんだよ」

 私は普段、貧困問題や家族問題、女性の権利関係以外にもさまざまなテーマの記事や本を執筆したりメディア出演などさまざまな活動をしているため、普段、自分から進んで肩書きを名乗ることが少ない。どこの組織にも属していないため、SNSも特に戦略的に運営しているわけではなく、プライベートなことをつぶやくこともあるし、いろいろな人と交流することを目的に利用をしている。もちろん自分の写真を載せることもある。


 つい先日、クリエイターの友人と一緒にTシャツを作りたいという趣旨のツイートをしたところ、とあるフォロワーの男性から「いつからアイドルになったんだよ、呆れる」といったコメントが二度にわたって届いた。彼の意図は「グッズを作るなんてアイドルにでもなった気か。(自分の思う)ジャーナリストらしくない振る舞いをしたあなたにがっかりしている」というもので、彼はきっと私に対していわゆる「硬派」なジャーナリストでいてほしかったのだと思う。


 しかしながら、私はそのコメントを送ってきた彼のことをよく覚えていた。以前、私がSNSに自分の写真を投稿した際に「自分の好み」を押し付けるようなコメントを、わざわざ私に通知がくるような形で送ってきていたためだ。


 そういった経緯があったので、思わず「アイドルじゃないんで見た目にあれこれ言わんでほしい」と返信してしまった。すると、彼は大きく狼狽したあと、自分の思う通りにいかない、「可愛くない」私に対して敵意をむき出しにし、その日以降、執拗に粘着をしはじめた。


 要は「見た目も中身も自分の思う通りの女であってほしいが、そうならないなら認めない」というだけで、自分の理想を赤の他人に押し付けていただけにすぎないのだ。


自分の理想像にそぐわないものを排除したい、という勝手な欲望

 このような「自分の考える理想の●●」が暴走し、他人を害してしまう人々は決して少なくない。


 例えば、なんらかの社会問題や理不尽について「NO」の声を上げ、戦い続けている人に対して、ただ自分が気に入らない、というだけにもかかわらず「社会運動家としてその態度では誰も理解してくれないし、かえってマイナス効果なのでは?(^^;;」などといった「自分はよくても世間様が許しませんよ」スタンスを装って個人を攻撃し、「痛いところを突いてやった」と溜飲を下げている人々の様子は、非常によく見かける光景だ。


 こうした個人攻撃を行なっている人々は、きっと「画面の向こうにいる人」を人だと思っておらず、ストレスのはけ口に最適なおもちゃを見つけた、くらいの認識なのだろう。


「自分の思う通りの●●ではないモノは、なんとしてでも排除したい」という欲求を抱えている人たちが、よってたかって一人の人間をリンチしている光景は非常にグロテスクであり、とても看過できるものではない。


自分の思う「理想の弱者像」

 さらに最悪なのは、貧困、虐待、DVや人権侵害を受けている人など、なんらかの支援が必要な人々に向けても、こうした「理想の弱者像」が押し付けられている現実である。


 最近、路上生活者や生活困窮者に向けて配られる食事や炊き出しの内容が「豪華」であることにたくさんの非難が集まった、という話を、現場で貧困支援に携わっている知人から聞いた。貧困問題に取り組んでいる私自身も一度、インタビューで「生活困窮者に配られるお弁当の内容が『贅沢だ』という問題について、どう思いますか」と聞かれたことがあったが、一体、生活困窮者が「贅沢」な食事の支援を受けることの、何が悪いのだろうか。


 これこそまさに「金に困っている人間がうまい飯を食べているのが気にくわない」「『本当に金に困っている人』は粗食しか食べず、栄養失調に陥っていて、そうでない人間は甘えているだけである」といった、無責任な「理想の弱者像」の押し付けではないか。


 ちなみに、生活保護を受給している人に対して嫌悪感を露わにする人には「自分が払った税金で、働かずにのうのうと生活している人がいるなんて許せない」という意見が多いが、私たちは実は、生活保護受給者から恩恵を受けているところもある。生活保護費の財源の4分の3は国の負担であり、地方自治体が負担するのはわずか4分の1である。しかもこの4分の1は地方交付税でカバーすることが可能である。国から生活保護費を受け取った受給者たちが地域にお金を落とすことで、地域経済を潤している。


「生活保護を受ける人のせいで経済が冷え込む」というのも違っていて、生活保護受給者によって経済が動き、さらに病気や怪我で働けなくなった人が一時的に生活保護制度を利用し、再度働ける(=労働力を増やす)基盤づくりになることをも踏まえれば、長期的に見て、国にとってプラスになる部分が多くあるのだ。


「本当の弱者」は声をあげられないはず、の弊害

「本当に困っている人は声をあげられない」「図々しく自分の権利を主張する奴らは、自己中心的だ」と言う人たちは、要するに「可愛げのない弱者は認めない」と考えているのであり、今、実際に貧困や格差の下の方にいる人々に、「非暴力・無抵抗」を強要している。これは「そうすれば認めてやってもいい」と言いながら、その足で弱者の頭を踏みつけているのと同義である。


 しかし実際は、当事者は声をあげなくては誰からも助けてもらえず、格差の上層部、権力を持つ人々の都合のいいように搾取され続けてしまう。そして勇気を出して声をあげれば「可愛げがない」とみなされ、今度は言論さえも奪われてしまう。これらの強者による言論弾圧は、貧困問題や女性の権利問題においても共通して起きている現象である。


 最近では、どれだけ時間がかかろうと、実現が自分が死んだあとになったとしても、弱者が「弱者たる振る舞い」を強要される社会を、終わりにしなくてはならないと考え続けている。


(吉川 ばんび)

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