ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

生活保護者の集いコミュの社会に広がる貧困と孤独。だから子ども食堂は「子どもだけ」のものじゃなくなった

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
https://news.yahoo.co.jp/articles/6f108e9f1fc884d7c617a39418c8befb9fa21d6e

日本全国で急増する子ども食堂。その数は5000を超えて広がり続けている。人間関係が希薄になった中、孤立感を深めているのは子どもだけでなく、若者も親も高齢者も同じ。今や誰にでも開かれた「こども食堂」は、地域の多世代交流拠点としても注目されている。一方、全国の子ども食堂を支援してきた社会活動家・湯浅誠氏は「人が『生きた時間』を取り戻すことができる場でもある」と言う――。

【写真】バイキング形式に並べられた食事を受け取っていく参加者たち

* * * * * * *

◆カブトムシ、お分けします

「カブトムシを10匹いただきました〜。責任をもって飼っていただける方にお分けしたいと思いますが、ご希望の方はこちらにいらしてください〜」

40〜50畳ほどの広間によく通る女性の声が響く。

畳に座って茶色の長机で食事している親子、トレイを持っておかずを取り分ける列に並んでいる親子40〜50人ほどが、声のほうに目を向ける。「カブトムシだってよ」と子どもに話しかける親がいる。

子どもがどんな反応を示すか、長机の向かいから微笑みながら子どもの顔を見つめるのは、地域の高齢者だろう。エプロンをつけているから、ボランティアかもしれない。

カブトムシが入った10個のケースに子どもや大人がむらがり、一通りの喧騒を経て、カブトムシ10匹がそれぞれの家庭に引き取られていった。

ここは、鹿児島県鹿児島市にある玉里団地。約3000世帯が暮らす、戸建ての多いエリアだ。1978(昭和53)年に地名ができたというから、かつての新興住宅街なのだろう。丘を宅地に造成したという風景だ。会場は、その中にある玉里団地福祉館。地域のコミュニティセンターだ。そこの広間で、上記の光景は繰り広げられていた。

地域のお祭り? いや、こども食堂だ。

「森の玉里子ども食堂」。鹿児島県でもっとも早く開催されたこども食堂として、県内ではよく知られている。

なおこども食堂の定義は「こども食堂・地域食堂・みんな食堂などの名称にかかわらず、子どもがひとりでも安心して行ける無料または低額の食堂」だ。子ども専用食堂ではない。大人も高齢者も歓迎だというこども食堂がほとんどだ。

そしてその基本的な性格は「子どもを中心とした多世代交流の地域拠点」だ。そのような場が、全国津々浦々で、同時多発的に生まれ続け、広がり続けている。

同時に、こども食堂は子どもの貧困対策でもある。

お金を配るわけではないし、毎日食事を提供しているこども食堂もほとんどない。経済的貧困・食の貧困を解決できるわけではない。しかし、交流と体験、「つながり」を提供する。異年齢集団での遊び、親とは違う大人、お年寄りのしぐさや匂い、子どものような大人のような若者たち……。

子どもはそうした交流と体験を通じて、価値観を広げ、人生の選択肢を増やしていく。その「つながりの提供」それ自体が、貧困対策でもある。

◆コロナで減った隙間時間

一方、足元を見れば、コロナ禍でオンライン会議が増えた。自宅にいながら東北や九州の人と話したり、逆に九州で講演しながら大阪の人とミーティングしたり。どこにいても、誰とでも顔を合わせて話せるようになった。

便利だが、隙間時間はさらに減った。もう地方出張していることが「打ち合わせできない」理由にはならなくなった。携帯電話を持ち始めた頃を思い出した。

同時に思い出したのがミヒャエル・エンデの『モモ』だ。人々は時間を捻出しようと効率化する。しかし、効率化すればするほど時間は消えていく。それは「時間どろぼう団」の仕業だったという寓話だ。

1970年代に書かれた本だが、今でも新鮮に読める。私たちが依然としてその枠組みに囚われているからだろう。時間をきちんと管理するセルフ・マネジメントができないと「ダメな人と思われてしまう」という恐怖から、いまだに抜け出ることができていない。

『つながり続けるこども食堂』(中央公論新社)6月9日刊行予定

◆「時間どろぼう団」に抗って

『モモ』に忘れられない一節がある。ついに子どもたちに効率化の影響が及び始めたとき、モモは友だちに遊んでもらえなくなる。そのときの会話だ。

* * *

「ねえ、またきてよ! まえにはいつもきてくれてたじゃないの。」
「まえにはね!」パオロがこたえました。「でもいまは、なにもかも変わっちゃったんだ。もうぼくたち、時間をむだにできないのさ。」

(中略)

「で、これからどこに行くの?」
「遊戯の授業さ。遊び方をならうんだ。」フランコがこたえました。
(中略)

「そんなのがおもしろいの?」モモはいぶかしそうにききました。
「そういうことは問題じゃないのよ。」マリアがおどおどして言いました。「それは口にしちゃいけないことなの。」
「じゃ、なにがいったい問題なの?」
「将来の役にたつってことさ。」パオロがこたえました。

(『モモ』ミヒャエル・エンデ著、大島かおり訳、岩波少年文庫、2005年)

* * *

「そんなのがおもしろいの?」「それは口にしちゃいけないことなの。」―「何にも縛られない癒しの時間」の過ごし方を教える情報に囲まれている私たちには、なかなかできない会話だ。

こども食堂は、そんな現代社会で広がってきた。こども食堂は、無縁に抗ってつながりをつくる場、「疎」に抗って「密」をつくる場だと、著者は『つながり続ける こども食堂』で述べた。

加えてこども食堂には「時間どろぼう団」に抗って「生きた時間」を取り戻そうとする場だという側面もある。子どもが思い切り遊べる場、大人も肩肘張らずにいられる場、それを人々は居場所と総称してきた。

居場所とは、いわばモモとパオロたちがともに遊べる空間だ。こども食堂はそれを全国に増殖させ続けている。つながり、密、生きた時間……こども食堂が問うものは、広くて大きい。

◆こども食堂の広がりが意味するもの

そしてこのような広くて大きい問いをもつ場が、「ごくふつう」の地域の人々の手で、ごく短期間に、全国津々浦々に広がっているという事実も、私にとってはきわめて重要だった。

誰も排除しない、みんなを包み込む社会づくりに長く取り組んできたが、順風満帆とはとうてい言えない道のりだった。より多くの人たちが自分ごととして関わってくれる活動を模索して四苦八苦してきたが、自分ではなかなか思いつけなかった。こども食堂はそんな私の「限界」をやすやすと超えていった。

こども食堂という器を手にした人々は、そこに続々と地域と社会に対する自分の気持ちを盛っていった。続々と盛られたということは、その気持ちをもつ人たちが世の中に大勢いたということだ。それは深いところで私を勇気づけ、感動させた。

「世の中、捨てたもんじゃない」という言い方があるが、こども食堂の人たちと過ごす時間は、私にとってその希望を確かめ、その希望を膨らませる時間になっている。その意味では、私もこども食堂に救われている一人だ。

近刊では、その私の想いをベースに、こども食堂のもっとも良質な部分を描き出すよう努力した。うまくいって読者のみなさんの共感を得られたとしたら、それはこども食堂の功績、うまくいかなかったとしたら、それは私の責任である。

いずれにしろ私は、こども食堂のもっとも良質な部分が、こども食堂という場から染み出すようにして日本の地域と社会にビルトインされるよう、活動していく。本の刊行も、そうした活動の一環である。

※本稿は『つながり続ける こども食堂』(中央公論新社)の一部を「婦人公論.jp」編集部が再編集したものです。

湯浅誠

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

生活保護者の集い 更新情報

生活保護者の集いのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。