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生活保護者の集いコミュの“街中の店に営業妨害”“喧嘩を売られたらチャンス” 「ドヤ街」で生まれ育った子どもたちの知られざる日常とは

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https://news.yahoo.co.jp/articles/ce63ba8adbea21d689b807d315f6a9808e8ff80c

 横浜の一等地に今なお現存する「寿町」は、200×300メートルのエリアの中に120軒ものドヤ(簡易宿泊所)がひしめく日本三大ドヤの一つだ。多くのドヤ街がそうであるように、寿町の住民も生活保護を受けている単身の高齢者が圧倒的に多いが、意外にも保育所や学童保育も実在している。寿町で幼少期を過ごす子ども達はいったいどのような日々を過ごしているのだろうか。

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 ここではノンフィクション作家、山田清機氏の著書 『寿町のひとびと』 (朝日新聞出版)の一部を抜粋。寿町の学童保育で長年指導員を務める山埜井氏が印象に残っている二人の少女のエピソードを紹介する。(全2回の1回目/ 後編を読む )

 ◆◆◆

ムカつく奴をぶっ飛ばす
写真はイメージです コピーライトiStock.com

 最近は悪さのことを「やんちゃ」と言い替える人が多い。「昔はやんちゃしてたんで」などと聞くと、なんとなくマイルドな感じがするものだが、中学時代に河合がやった悪さの数々は、なかなかどうして半端なものではない。

「万引き、タイマン、営業妨害、いろいろやりましたね」

「タイマンって喧嘩のこと?」

「ムカつく奴をぶっ飛ばすってことですかね。調子に乗ってる奴には、お前ようってこっちから声をかけるし、向こうから喧嘩を売ってきたらいいチャンスだから、じゃあタイマン張ろうぜってことにするんです」

 ちなみに1対1はタイマン、グループ同士が喧嘩をする場合は総マンと言うそうである。

 河合がタイマンの相手に選んでいたのは、下の学年のスカートを短くしている女子や目上に対して敬語を使わない女子、あるいは他の中学校の番長格の女子などであり、おとなしい子やガリ勉の子は相手にしなかったという。

「私、短気だったわけじゃないんだけど、自分の名を上げるためっていうか、喧嘩したくて喧嘩してた面もあるんですよね」

鴨居の番長たちが「タイマン張れよ」とやって来た
 タイマンはどういう手順でやるのか尋ねてみると、ある“タイマン”を例に解説をしてくれた。

 それは、河合が中学2年生の時のことだ。すでに河合は伊勢佐木町界隈のゲーセンやカラオケは「全部やってた」から、伊勢佐木町界隈では名の知れた存在だった。「やる」というのは、営業妨害のことらしい。

 ある日の晩、河合が自宅の2階で眠っていると玄関をドンドン叩く音がする。開けてみると、男がひとりに女がふたり、そして鴨居(横浜市緑区の地名)の番長として有名な同学年の女子が立っていた。

 男は知った顔だったから、たぶんその男が手引きをしたのだと察しがついた。鴨居の番長が来たということは、河合の名前が鴨居(寿町からは直線距離で10キロ以上ある)まで轟いていた証拠である。

 番長が言った。

「タイマン張れよ」

 河合はちょっと迷った。女のひとりが、いつの間にか玄関に置いてあった弟のバットを右手に握っていたからだ。リンチを受けるのではないかと危ぶんだ。

「早く寝たかったから先に蹴った」
「タイマンは基本1対1の喧嘩で、公園とか駐車場でやるんですが、野次馬がたくさんいて手を出してくることもあるんですよね」

 こちらがひとりだったこともあって危険を感じはしたが、「めんどくさかった」ので動きやすいスウェットに着替えて、番長一味と近くの公園へ向かった。

 相手はやはり動きやすいジャージを着て、足には中学校の上履きを履いていた。

「普通の靴で蹴ると相手に怪我をさせてしまうから、上履きを履いていたわけ?」

「えっ、タイマンにそういう配慮はないでしょ。上履きは動きやすいからですよ。どうせ脱げちゃうんだけど、動きやすい格好で来たってことは本気だってことです」

 公園で番長と向き合うと、番長が「先に蹴ってくれ」と頼んできた。

「警察に捕まると、先に手を出した方が悪いってことになるんです。だから、先に蹴ってくれって言ったんだと思います。向こうからタイマン張ってくれってお願いされて、なんでこっちが先に蹴らなきゃいけないのって思うでしょ。でも、早く寝たかったから先に蹴ったんです」

 河合のキックを合図にいよいよタイマンが始まり、しばらくの間揉み合っていると、なぜか番長の実兄が車で駆けつけてきて、番長を連れて帰ってしまった。相手の方が逃げ出したわけだから、結果は河合の勝ち。家に帰ると、妹が「血だらけだよ」と言う。耳のピアスが無くなっていた。

少年院を出たら「タイマン張り直せ」と連絡が
 河合はこのタイマンの後、別件で逮捕されて少年院送致になるのだが、少年院から出てくると、すぐに鴨居の番長から連絡があった。

「知ら番(知らない電話番号)から電話が入って、もう一度張り直してくれって言うんだけど、少年院は仮退院だから無理だって断ったんです。タイマンなんか張ったらすぐに戻されちゃいますからね」

 河合ほどの大物に「無理だ」と言わせる少年院とは、いったいいかなる施設なのか、今度はこちらに興味がわいた。

 少年院に入るまでは、逮捕→留置場→検察(検事による取り調べ)→鑑別所→少年審判→少年院という経路をたどるそうだ。鑑別所は文字通り非行の程度や性格を鑑別する場所であり、鑑別所から少年院に送られるのは一握りだという。

鑑別所は余裕だったけど、少年院には二度と行きたくない
「鑑別所には1カ月ぐらいいたんですが、貼り絵とかやらされました。細かい作業は好きだったんで3、4枚作りましたね。部屋では座布団に座ってないとダメで、寝っころがると『○○番起きなさい』って注意されるし、テレビも決まった時間しか見られなかったけど、それでも鑑別所は甘かったです。私、鑑別所だけだったら更生できなかったと思います。1カ月とか、余裕でしょって感じでした」

 では、少年院はもっと厳しいところなのか。

 少年院では周囲としゃべったり、笑ったりすることも禁じられ、テレビも教育番組やニュースしか見せてもらえなかったというのだが、程度の差こそあれ、それは鑑別所も同じだ。明らかな違いは内省のためのノートを書かされることと、退院が近づくにつれて進級していくことだ。

「内省の内容がよくなって違反行為をしないでいると、バッジの色が変わっていくんです。最後は、突然個室に呼ばれて退院準備だよって言われるんですが、そこで違反をすると退院が延びてしまうんですよ」

 内省によって自分の行為を深く反省したから、河合は更生できたのだろうか。

「いや、反省したっていうよりも、厳し過ぎて無理だわっていうのが本音ですね。爪いじるのも、髪の毛いじるのも、眉毛抜くのもダメ。まったく自由がなかったから、もう、二度とあそこには行きたくないと思う。だから更生できたんです。喧嘩は、自分が一歩上になったと思って我慢すればいいんだし、欲しい物は万引きしないで買えばいいし」

悪さをするのは、目立ちたいから。やるだけ名前が上がるから
 河合の話を聞きながら、私には悪さをしたい理由がどうしても理解できなかった。河合はタイマンだけでなく営業妨害もずいぶんやったそうで、伊勢佐木町のたこ焼き屋の壁にファンデーションで自分の名前を大書し、店の前の幟を抜いて振り回して警察に補導されたりしたという。何か欲しい物があって万引きをするのはわからなくもないが、タイマンや営業妨害は、いったい何のためにやるのだろうか。

「目立ちたいからですね。見られてると嬉しいでしょう。タイマンや営業妨害はやればやるだけ名前が上がるし、名前が広まると気持ちいいじゃないですか」

 見られたいのは、寂しかったからだろうか。

「悪さしてる時って、ワーって空を飛んでるみたいに楽しかったな」

更生に導いたのは、少年院ではなく子育て
 非行に走る子供の多くは心に深い傷を負っていて、それを非行という形で表現している……。

 私は漠然とそんなふうに考えていたので、河合のアッケラカンとしたこの言葉に度肝を抜かれてしまった。

 どうにも解せない気持ちを抱えて、再度、山埜井にインタビューを申し込んだ。相変わらず、ドヤのおっちゃんのような出で立ちである。

「背後に家庭の問題があるかもしれないけど、河合さんはしたたかでね、僕は可哀想だなんて思ったことはないんです。更生できたのは少年院に入ったからというより、自分の子供を育てる中で変っていったんじゃないかな」

 23歳の河合には、すでに3人の子供がいる。河合自身は9人兄弟で、一番上の姉にも3人の子供がおり、年子の妹も3人の子持ちだ。一番下の妹はまだ4歳で、母と姉と河合と年子の妹の4人が同時に妊娠していた時期もあったという。ちなみに彼氏(事実上の夫)は10人兄弟だというから、義理の兄弟姉妹とその甥姪まで合算すると、いったい何人になるのかわからない。

 こういう状況を「貧困と多子世帯」などという言葉で括ってしまうのは簡単なことだが、山埜井は、

「僕は生活保護を抜け出すことを更生とは呼びたくないし、河合さんは子供を生んで正解だった」

 と言うのだ。そして当の河合は、

「子供は本当にかわいいです。のりたま(編集部注:山埜井氏の愛称)は、私が初めて妊娠したときも頭を抱えながら真剣に話を聞いてくれました。のりたま、見た目は変だけど、どんだけ親切か。あの優しさは話してみないとわかんないですよ」

 と言うのである。

覚せい剤中毒の母親を持つ、ある少女の場合
 山埜井が、中学3年まで寿学童保育に通っていたある少女の話を聞かせてくれた。

 その少女の父親はフィリピン人で、母親は覚せい剤中毒患者。母親は覚せい剤を打って刑務所に入っては、戻ってきてまた打つということを繰り返していた。家庭はめちゃくちゃな状態だったが、その少女と少女の兄にはリーダーシップがあって、寿学童保育の中心的な存在だった。

 山埜井は少女の家庭環境が心配だったので何度か家庭訪問をしたが、あまりにも悩みが多かったせいか、中学時代はよくリストカットをしていたという。

 少女は中学を卒業すると、ある県立高校に進学した。学童は中3までしか通えない規則だが、山埜井は自分の体があいていればOBたちの相談にも応じていた。ある日、少女が相談したいことがあるといって訪ねてきた。

 高校を中退して、アルバイトを始めるつもりだと言う。あと1カ月すると母親が刑務所から戻ってくるから、バイトをしてお金を稼いで、母親を迎えてあげたいというのだ。少女は母親に対する不信感も持っていたが、「やっぱりママが好き」なのだった。

 山埜井は特に反論することもせず、彼女の話に相槌を打って別れた。

生きるのが下手だけど、みんな生きようとしている
 それから約1カ月後、唐突に彼女の訃報が伝えられた。死因は睡眠薬の大量摂取。彼女が亡くなった当日、母親はまだ刑務所におり、父親はオーバーステイで入管にいた。

「僕は自殺じゃないかと思ったんです」

 誰でもそう思うだろう。

「でも、真相は違ったんです。もうズタズタの子でしたけれど、自殺ではなかったんです」

 兄の証言などから、少女が亡くなった日は、アルバイトの面接がある日だったことがわかったのだ。

「いろいろあって生活が乱れていたんでしょうね。このまま夜更かししていると翌朝のバイトの面接に遅刻してしまうからって、お兄さんに睡眠薬をもらったんだそうです。それを飲み過ぎちゃって、翌朝、お兄さんが起こしに行ったら冷たくなっていたというんです。だから彼女は、仕事をしに行くために眠剤を飲んだんです。失敗しちゃったけれど、彼女は生きようとしていたんです。全然、ダメじゃなかった。寿の人たちは子供も大人もみんな生きるのが下手ですが、でも、みんな生きようとしているんです」

 山埜井は涙声になった。

「僕は踏み台にされて、蹴とばされて、消えていけばいい」
「寿町には、その辺にいるおじさんが、家出してきた子供を普通に泊めてやったりする時代があったんです。僕は権力の側に立つんじゃなくて、この町の力を信じる立場でいたいんです。子供たちが自分の可能性を伸ばしていこうとするときに、よっしゃ! と言ってやることしか僕にはできないんですよ」

 山埜井はやはり、「こちら側」の人間なのだと思った。どこまでいってもエリート育ちの過去は、捨て切れないのだ。ただ、たしかにこちら側の人間ではあるけれど、いつの日か「あちら側」の世界が広がっていって、新しい「公」を生み出すことを夢見ているのではないか。

「もう、そういう時代は去ってしまったのかもしれないけれど……。僕は踏み台にされて、蹴とばされて、消えていけばいいかなって思っているんです」

 山埜井もまた、生きるのがひどく下手な人間のひとりなのだ。

横浜の一等地に実存するドヤ街「寿町」には、わずか200×300メートルのエリアの中に120軒ものドヤ(簡易宿泊所)が林立している。そのなかの一軒「扇荘旅館」の帳場(管理人)さんは、寿町の中でもよく名の知れた人物だ。彼はなぜドヤの運営を始めたのか。そして、どのような日々を送っているのだろうか。

 ここではノンフィクション作家、山田清機氏が6年間にわたって取材を重ねた著書『寿町のひとびと』(朝日新聞出版)の一部を引用。扇荘旅館の帳場さん岡本相大氏のエピソードを紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)

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厳重に施錠されたドヤの管理人室
 取材当日、小窓から岡本に声を掛けると、小窓の横の鉄の扉をガチャリと開けてくれた。午前10時である。

写真はイメージです コピーライトiStock.com
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 ドヤの管理人は一般的に「帳場さん」と呼ばれている。ドヤは法律的には宿泊施設だから、帳場さんはホテルで言えばフロントマンに当たる。しかし、ドヤにはいろいろな人がいるから、管理人室には厳重に鍵が掛けられており、窓も小さく作ってあるのだ。外から手は突っ込めても、体を潜り込ませることはできない。

 管理人室は細長い形をしていて、ドヤの入り口から建物の奥の方に向かって伸びている。一番奥にはベッドがある。岡本が陣取っているのは、小窓のある一番手前(入り口側)である。

 岡本の左手にはドヤの各階の様子を映し出している大きなモニターがあり、右手には入り口周辺の様子を映しているモニターがある。このふたつのモニターさえ見ていれば、離席することなく扇荘新館の内外を監視できる仕掛けだ。

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