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生活保護者の集いコミュの生活保護を抜けては戻った24歳 転職7回、最期は母と

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https://digital.asahi.com/articles/ASNDJ4DCHNCSUUPI005.html?iref=pc_rensai_article_short_1140_article_3

旋盤のうねる音が響き、塗料のにおいがうっすらと漂う。雑多な町工場が集まる路地裏に、その木工製作所はあった。大阪府八尾市のアパートで今年2月、母(57)とともに遺体で見つかった息子(24)がかつて働いていた仕事場だ。

ケースワーカー配置標準、7割満たさず 主要107市区
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 息子の名前を伝えると、83歳になるという社長ははっきりと覚えていた。

 「ああ、まじめな子やったで、素直で。こっちが説明していると、じいっと聞いて。口数は少なかったけどな」。ハローワークを通じて申し込みがあり、日給8千円で見習いから始めてもらった、という。

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息子が働いていた木工作業所。ソファの枠組みを製造していた=大阪市平野区

 八尾市などによると、息子は高校を卒業してから約5年間に、八つの仕事を渡り歩いた。すし店、電気工事、金属製品塗装、病院事務、パチンコ店……。一番長く続いた職場が9カ月。ほかは1〜6カ月で辞めていた。わかっている限りで最後となるのが、ソファの枠組みをつくるこの木工製作所だった。

 「いやいや、最初は木なんか切らせられへん。まずは、ごっついホチキスみたいなもんで木材をくっつけるところからや」

独立していたはずの息子は、母のアパートで、母の隣で見つかった。低体温症で、死後10日ほど。息子は母のもとを離れてから、どこでどう過ごしていたのか。そしてなぜ、母と同じ屋根の下で最期を迎えることになったのか。悲劇なのか、自己責任なのか、それとも――。二人の足取りを追うルポの3回目。
 

仕事を始めたのは2018年11月6日。社長の手元にタイムカードが残されていた。

     入     退

 6火 8:01   17:49

 7水 8:32   17:58

    〈空欄〉  〈空欄〉

 9金 8:31   18:00

 10土 8:36   17:08

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息子が働いていた作業所のタイムカード

 11月は6日から月末まで、25日のうち17日出勤し、13万6千円を稼いだ。12月になると欠勤を示す空欄が目立ちはじめる。仕事納めで恒例の焼き肉パーティーには顔を出したものの、出勤は14日に減った。さらに年が明けると、正月休みが終わっても姿を見せない。突然出てきて3日働き、また6日休む。そんな飛び石の勤務が続いた。

 「なんや、おばあさんが交通事故にあったとか、お母さんが入院したとか言うて、だんだん来えへんようになってな。熱があって行けませんとか」

 携帯を鳴らしてもつながらず、社員が住所を頼りに家を訪ねたこともあった。「上下とも新品の作業着を年末に貸してやったんやけど、このまま来んのやったら返してもらわんと、と思ってね」。借家の前には、通勤に使う自転車があったが、呼んでも返事はなかった。辞めるのか、辞めないのか。確かめたくてもつかまらない。

 結局、1月の出勤は9日だけ。息子は月末の31日、9日ぶりに顔を出すと、あいさつもないまま姿を消した。遺体で発見される1年と22日前のことだ。

 「来る者拒まず、去る者追わず。まあ最近は、ああいう若いもんは珍しくないからな」

 でも、まじめな子やったで、と社長は繰り返した。

働き口が見つかると家を出たがった息子
 息子は1995年生まれ。四半世紀で途絶えた人生は、日本経済の成長が滞り、非正規雇用が増えた「失われた20年」と重なる。

 高校を卒業してから木工製作所を辞めるまでの約5年間のうち、半分近い24カ月は母とともに生活保護を受けていた。一方で、仕事が見つかったと言っては再三、みずから生活保護を抜けた。同じ世帯の生活保護受給者が減ることから、「世帯員削除」と呼ばれる。

 当時、担当ケースワーカーの指導役だった係長はこう振り返る。

 「母子二人で生活保護を受けたまま、息子さんは働きながら少しずつ生活の基盤を築いていってほしいと考えていた。でも、働き口が見つかると、息子さんは家を出たがった……」

 生活保護へのバッシングや、ケースワーカーに生活を管理されることへの嫌悪感から、保護を受けたくないと思っていたのかもしれない。ただ、理由をたずねたことはないのでわからない、と係長は言う。

 それでも所持金が尽きると母のところに戻った。生活保護を再開したときの所持金は、16年春で21円、18年夏は115円。なかなか自立できなかった。

 直後の18年秋、息子はまたも生活保護から抜け出した。3度目だった。

 「仕事が見つかったので祖母のところで自立を目指します」

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仕事が続かなかった息子。遺体で見つかったアパート近くの広報板には、就職説明会のポスターが貼ってあった=2020年11月、大阪府八尾市

 市は、仕事を続けられない若者などを支援する「生活困窮者自立支援制度」につなごうとしたが、息子自身が望まなかったという。ただし、ケースワーカーの記録には記されていない。

 そして、市は「保護受給者ではなくなった」としてそれ以降の消息はつかんでいない。約3カ月後、息子は工芸製作所を辞めて無職に戻っていた。

 ケースワーク業務に関する旧厚生省保護課長通知では、保護を廃止すべき場合として「最低生活費の臨時的な減少等により、おおむね6カ月を超えて保護を要しない状態が継続すると認められるとき」とされている。つまり、保護を打ち切った後も6カ月ほど安定した収入が得られるかを見極めることが望ましい、と読める。

 息子の場合は廃止ではなく「世帯員削除」だが、生活保護を抜け出した後の生活を気にかける必要があるという状況は変わらない。まして、これまで2度とも、所持金が尽きかけて戻ってきている。

 生活保護の業務が適正に行われているかどうかについて、都道府県は毎年、各福祉事務所を監査している。

 八尾市では同年度、121人が「みずからの意思」で生活保護を辞退した、という。

 ただ、大阪府は本人の意思による廃止は「極めて限定的なもので、その判断に当たっては厳格な審査が求められる」として、市の廃止の取り扱いについては「自立の目途について十分に確認がされていない事例」があるなどと、3年続けて監査で指摘していた。

一緒に暮らしていたはずの祖父母「そんなん、うそや」
 息子は生活保護を抜けた後、母のもとを離れ、仕事も辞め、言葉通り祖母の家で生活していたのだろうか。同じ市内に暮らす祖父母を訪ねると、意外な答えが返ってきた。

 「そんなん、うそや。(孫と)一緒に暮らしたことなんか一度もない。住民票だけ(祖母宅に)移すよう、市から言われたって聞いた」

 生活保護を抜けた後も、息子は保護受給中の母と一緒に暮らしながら働けば、仕事で得た収入を申告する必要がある。関係者は「泳がせた可能性もあるのではないか」という。「生活保護を受けたまま働くとなると、ケースワーカーは控除なども含めた保護費の計算が煩雑になるので、本人の同意をとったうえで保護を廃止にすることもある。それを隠語で『泳がせる』というんです」

 市は「(廃止は)本人の希望だった」と否定したうえで、母と暮らし続けていると誤解されないように住民票を移すよう息子に伝えた、と説明する。ただ、実際に祖母のもとに移ったのかどうかは、業務が忙しく確認に行く余裕がなかったという。

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母の最後の住まいとなったアパート。正面入り口の扉にはクモの巣がかかっていた=大阪府八尾市末広町

 当時、担当していた係長はこう話した。

 「息子さんは仕事を見つけても、なかなか続かなかったのは確か。それでもハローワークで探せば、すぐに見つけてきたので、自立してやっていると思っていた。いま考えれば、保護を切るのではなく、働きながら母とふたり世帯として生活するよう説得すべきだった」

 工芸製作所を辞めてから、母と一緒に遺体で見つかるまで1年あまり。収入はなく、住む場所も定まらなかったとすれば、息子はどのように過ごしていたのだろう。そして、自立を目指したはずがなぜ、母のもとで最期を迎えることになったのか。

 謎が残された。

(破れたセーフティーネット)(諸永裕司)

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