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生活保護者の集いコミュのパワハラ、雇い止め…今は農家でアルバイト 「人と接する仕事はもうしたくない」

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「仕事に集中できなくて涙がでてくる とても落ち込む」「体調不良 はきけ 頭痛」「ムカツクと言われた(○○所長)」「帰社時、あいさつないと○○に怒られる」「つらい、報われない」……。

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 B5判のノートにつづられた文字の一つ一つに、水野ヒロコさん(48)=仮名=が長年、この社会で被ってきた痛みと悲しみが彫り込まれていた。

 7月初旬、北アルプスのふもと、長野県松本市。ノートを抱えてJR松本駅に現れた水野さん、あくまでも元気そうだった。

 夫は会社員。水野さんは近くの農家で、ブドウ栽培を手伝っている。「昔は農業はイヤだったけれど、今はすっかり好きになって。ひと相手の仕事より、自然のほうがすがすがしくて……」

 物腰もどこか農家のおばちゃん風。名産のリンゴのようにまんまるの顔がほどよく日焼けしているが、2年前までノートにつづられたような日々を送ってきた。うつ病を抱え、通院が今も欠かせない。

92年春、地元の建設会社に 仕事のキャリアを積みたかった
 短大を卒業したのは1992年春。既に景気が後退し、企業の採用は減り始めていたが、水野さんは地元の建設会社に内定し、希望にあふれていた。

 「父は会社員で母は専業主婦。母がよく嘆いていた。『私も手に職を持てば良かった、きちんと働きたかった』と。だから私は仕事のキャリアを積もうと思っていたんです」

 男女雇用機会均等法の施行は86年。まだ女性差別は根強く、女性の就職は「結婚までの腰掛け」と見られていた時代だった。

 「それでも就活中に出会ったその会社は女性社員を育てるようなことも言っていた。それで入社を決めて。私も勉強して、女性初の現場監督を夢見た。でも……」


水野さんがかつて勤務した建設現場では、きつい言葉が飛び交い、次第に疲弊していった(写真はイメージ)=ゲッティ
 入社後は建設現場の事務所を転々とさせられ、掃除から作業員の買い物の使い走りまで雑用の日々。現場は男社会の色が濃く、水野さんを邪険に扱い、怒鳴り散らす年上の男性社員もいた。精神的に耐えられず、3カ月で辞めてしまった。勉強どころではなかった。

 次に就職したのはリフォーム会社の営業職だったが、危険な高所作業もあり、事故に遭って退職。なかなかこれはという仕事に出会えない。ならば、と24歳で大手清掃会社のフランチャイズ(個人事業主)店主になったが、会社のうたう美辞麗句と裏腹に、とても食べていけない。2年で見切りをつけた。96年のことである。

 このころには景気悪化が本格化し、正社員の採用はわずか。通信会社でパートとして働いたり、派遣社員として事務仕事をしたりしたが、どこも水野さんたち弱い立場の人々へのパワハラがひどかった。結婚が頭をよぎった時もあったが、母の言葉が思い出され「ちゃんとした仕事に就くまでは」と考え直した。

充実していた大手食品会社での仕事、でも…
 そして2000年、30歳でやっと生涯の仕事にめぐり合った。大手食品会社の非正規社員として、スーパーと交渉し、自社製品を陳列棚の良い場所に置いてもらったり、発注を増やしてもらったりする営業職である。

 車で長野県内を駆け回り、スーパーをこまめに回った。するとあちこちに人脈ができる。水野さんが頼めば、自社の商品を優先的にレジ横の目立つ位置に置いてくれたり、新製品の発注を増やしてくれたり。33歳で夫と結婚。共働きを前提にローンを組み、家も手に入れた。やっと訪れた順風満帆の日々。

 「働く契約は1年ごとですが、同僚も60歳の定年まで働いたし、会社もそう説明していた。何より人と接する仕事が楽しかった。ところが……」

 13年3月、42歳で事実上の「雇い止め」に遭ったのだ。実はこの年の4月、改正労働契約法が施行され、有期雇用の非正規の人も、5年以上働いていれば会社は無期雇用に転換しなければならないとしていた。いわゆる「5年ルール」である。

 会社が13年働いてきた水野さんの無期雇用への転換を免れるために、法施行前に「首切り」をもくろんだことは明白だった。

 「10年以上、雨の日も雪の日もスーパーを回り、会社に貢献してきたつもりなのに、ショックで……」

 会社は、売り上げ増を狙い、CMを増やす代わりに人件費を削る方向にかじを切った。悲憤に耐えかね、非正規労働者の労働組合「派遣ユニオン」に駆け込んだ。組合を通じて会社と交渉を続け13年末に和解したが、「一生働ける」と信じていた職場に戻ることはかなわなかった。

組合で交渉を始めると…パワハラが始まった
 すでに不眠など、うつ病の症状が出ていたが、まだ住宅ローンも残っている。翌春、大手食肉会社のパートとして、やはりスーパー回りの営業職に採用された。心の傷は癒えないが、それでも張り切って働き始めた。

 ここは、食品会社よりもひどかった。

 この会社も末端の人件費を削りたいのか、翌15年「食肉配送の仕事もしないと次のパート契約はしない」と通告してきたのだ。小柄で体力のない水野さんの懇願は聞き入れられず、数十キロもあるハムなどを担ぎ、スーパーに配送するハメになった。


水野さんは、長野県でブドウ栽培を手伝いながら、心身を回復させつつある(写真はイメージ)=ゲッティ
 働きつつ、前出のユニオンを通じ会社と交渉を始めると、今度は上司・社員のパワハラの嵐に見舞われた。パソコンで作った発注記録を印刷すると「勝手にプリンター使ってんじゃねえ」と怒鳴られ、同僚と数分、社有電話で連絡しただけで「何分も話すのはおかしい」となじられる。上司にはことあるごとに「むかつく」と罵声を浴びた。

 「どうしていつも報われないんだろう、と。涙が止まらなくなって……」

 診断はうつ病。重い食肉配送がたたり、肩も動かなくなった。冒頭のノート、この時期に記していたものだ。17年に会社と和解したが、またも職場に戻れなかった。

菜園で野菜作り 心身の傷を癒やす
 それから2年。好きだった人と接する営業の仕事はもうしたくない。農家のアルバイトの合間に、借りた菜園で野菜を作り、心身の傷を癒やしている。この時期はトマト、ナス、キュウリの世話に忙しい。

 「ナスは水が大切。決して水を切らしてはダメなんです。トマトもすぐ横に芽を伸ばそうとするし。野菜は手がかかる。そういうものです」

 今の日本社会に欠けているのは、この風景ではないか、と水野さんは問う。

 「企業も社会も同じ。目先の利益に動かされず、人を育て、大切にすれば、それは巡り巡って企業にも社会にとっても果実になる。コストも手間ひまもかけずに作った野菜は、どうしたっておいしくはならないんです」【吉井理記/統合デジタル取材センター】

就職氷河期と女子学生
 企業が採用を手控えた就職氷河期は、男子学生以上に、女子学生が大きな影響を受けた。文部科学省によると、女子学生(大卒者)の就職率は1986年の男女雇用機会均等法施行時は男子学生を下回っていたが(男78.9%、女73.4%)、バブル最盛期の90年に並び、91年には男81.1%、女81.8%と逆転した。しかし、バブル崩壊後、再び女子への門戸は狭まり、90年代を通じてほぼ一貫して男子を下回った。総務省の労働力調査では、男子は一貫して正規雇用のほうが非正規より多いが、女子は2002年に非正規雇用の1060万人が正規雇用1033万人を上回った。当初の均等法は採用や昇進などに関する女性差別禁止は努力規定だったが、99年の均等法改正で、差別の禁止を明文化。しかし、今も就職活動を巡るセクハラ・パワハラなど問題は後を絶たない。

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