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生活保護者の集いコミュの「神様はなぜ背中しか向けてくれないの?」 漫画家さいきまこ氏が描く“壮絶な子どもの貧困”

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http://diamond.jp/articles/-/62148

生活保護のリアル みわよしこ

生活保護を正面から主題とした日本初の漫画作品「陽のあたる家 〜生活保護に支えられて〜」で話題を呼び、同作品で「貧困ジャーナリズム大賞2014」特別賞を受賞した漫画家・さいきまこ氏が、子どもの貧困を主題とした新連載「神様の背中」を開始している(秋田書店「フォアミセス」誌2014年12月号より)。「陽のあたる家 〜生活保護に支えられて〜」が果たせたこと、そして、さいき氏に残った「宿題」は何だったのだろうか? さいき氏は「神様の背中」で何を描き出そうとしているのだろうか?

貧困の成り立ちを描き出す意欲作
さいきまこ「神様の背中」


「神様の背中」第一話(秋田書店・「フォアミセス」2014年12月号)扉絵 (c)さいきまこ
 レディースコミック誌を中心として活動している漫画家・さいきまこ氏(本連載での過去のインタビュー)は、2013年、生活保護を正面から主題とした日本初の漫画作品「陽のあたる家 〜生活保護に支えられて〜」を発表し、大きな関心を集めた。作品は単行本化され、現在は2刷が販売されている。また、さいき氏は同作品で「貧困ジャーナリズム大賞2014」特別賞を受賞した。さいき氏は、それらの達成と反響に満足することなく、次の一歩を踏み出している。

 秋田書店のレディースコミック誌「フォアミセス」2014年12月号から連載開始となっている「神様の背中」の主人公は、出産を機に退職した元小学校教員・仁藤涼子だ。臨時採用ではあるものの、12年ぶりに教員として公立小学校の教育現場に復帰し、小学5年生のクラスを担任している。しかし涼子は仕事と家庭との両立に悩む。

 そして担任しているクラスには、ほんの少しだけ注意を向ければ、さまざまな形で「危機」のサインを発している子どもたちが数多くいる。親の目が行き届かず、食事を与えられていないため、おにぎりやサンドイッチの万引きを繰り返す男子児童。学校のプリントに目を通す時間もない母親は、就学援助などの支援制度の存在を知らない。自傷を繰り返す女子児童は、母親とともに生活保護を利用して暮らしている。その母親の生活ぶりは、目を覆うばかりの自堕落ぶりだ。男と遊び歩いている様子をSNSで頻繁に公開しており、周囲には「アルコール依存症ではないのか?」と見られている。

 悩む主人公に、登場人物の一人である養護教諭は、このような言葉をかける。

「先生、もう知っちゃったんですよ。見ようとしなければ見えないものがあるって。シグナルの発見って、見えなくても『ある』って知ることから始まりますから。それを知った人だけに、助けを求めて伸ばされてる手が見えてくるんです」

 もしかすると、このセリフから2つのキーワードを思い出される方もいるかもしれない。20世紀前半に活躍した米国の精神科医であるハリー・スタック・サリヴァンが “participant observation”“alertness”と呼び、日本の精神科医・中井久夫が「関与しつつの観察」「目ざとさ」と訳したものだ。

この作品は、「陽のあたる家」の連載中から構想され始めた。さいき氏は2013年8月、筆者のインタビューに対して、このように答えていた。

「生活保護制度の原則の1つは『無差別平等』ですから、いわゆる『眉をひそめたくなるような人たち』も受給しています。(略)

 眉をひそめたくなるような生活保護当事者に対しては『なぜ、私たちの税金で?』という見方がされやすいですよね。だから、『貧困はなぜ生まれるのか』を描かなくては、と思っています。そこまでは、絶対にたどりつきたいです。そうしないと、『陽のあたる家』は、私の中では完結しません」

 貧困問題を中心に、意欲作を発表し続けるモチベーションの源は、どこにあるのだろう?

貧困の拡大に「希望」を見出す


「ジャーナリズム」誌2014年11月号(朝日新聞社)。格差問題について、数多くの著者による読み応えある記事が、豊富なデータや事例とともに紹介されている

「ジャーナリズム」誌(朝日新聞社)・2014年11月号には、さいき氏の記事「生活保護を題材にした漫画『陽のあたる家』で不寛容な社会を少しでも変えていきたい」が掲載されている。ちなみに特集は「どうする格差社会ニッポン」。増田寛也氏(エコノミスト・元総務省)、社保審・生活保護基準部会の委員でもある阿部彩氏(国立社会保障・人口問題研究所)、竹信三恵子氏(ジャーナリスト・和光大学教授)による20ページにわたる鼎談を始めとして、読み応えあり、かつ現実的な処方箋を考えるヒントとなりうる記事多数が掲載されている。

 さいき氏の記事を読むと、優れた漫画家であるだけではなく文章力も非常に高いこと、訴求力の根源が自省・内省を含めた観察力にあることを推測できる。たとえば、自分自身が「生活保護受給者と間違われたくない」と思ってしまった遠い昔の経験を紹介するくだりにつづけて、

「無意識に抱いている認識を捨て去るには、まず『こういう認識を持ってしまっている』と自覚する必要がある。次に、その認識が不当であることを認めなければならない。いずれも、しんどくて面倒な作業である。自分が不利益を被るのでなければ放っておきたい、と思うのが普通だろう」

 と述べ、この抜きがたい認識とともにある多くの人々が「憎悪を煽られてバッシングを生む」というのだ。そして末尾は、

「(現状が)酷いがゆえに生まれた希望であると思う。(略)さまざまな困難の源にある事情を知り、不寛容から寛容に代わる機会なのだ、と。

(略・寛容な社会は)自らが不寛容から脱することで作り上げていくしかない。(略)困窮という共通体験が、唯一にして最大の紐帯となり得る。(略)無知で不寛容だった一介の漫画描きは今、自らの困窮と引き換えに、そんな希望を見出している」

 と結ばれている。

 さいき氏は、

「この国の人は、なぜこんなにも『不寛容』なんだろう?」

 と考えはじめ(同記事による)、自らを棚上げにせず考え続けた。その現在の到達点が、上記の記事であり、「神様の背中」である。

「陽のあたる家 〜生活保護に支えられて〜」が
果たせたこと、そして残した「宿題」


中学2年生の美羽が校内スピーチ大会で発表するシーン。父の急病をきっかけとして両親・小学生の弟とともに生活保護を利用しはじめた経緯とともに、『生存権が保障されている国』の意味を全校生徒に問いかける

(c)さいきまこ「陽のあたる家 〜生活保護に支えられて〜」(秋田書店)より 拡大画像表示
 さいき氏が「神様の背中」を構想し始めたきっかけの一つは、前回の短期連載作品であった「陽のあたる家 〜生活保護に支えられて〜」への反響にある。

「読者アンケートの反響は、概して良かったんです。『身につまされた』『ウチはいま問題ないけど、いつ困窮して生活保護が必要になるか知れないと分かった』という感じの、好意的な反響が多かったです。ネット上では相変わらず、ネガティブなコメントもありますが」(さいき氏)

 ネット上には、単なる暴言・中傷と片付けられないコメントも多い。

「『どうしても救われなくちゃいけない人はいるけど、そうじゃない、どうしようもない人もいるだろう』というコメントは多いです。確かに、『なぜ、こんな人を、私たちの税金で助けなくてはいけないの?』と思われてしまう方々も、生活保護を利用している方々、経済的に困窮した方々の中には含まれていますから。どう答えたら良いだろうかと、悩みました。『神様の背中』は、今の私からの回答です。『どうしようもない』と思われる人にも背景はある。『神様の背中』では、その背景を見せたかった。その上で『それでも、この人たちが救われるのは間違ったことでしょうか?』と問いかけたかったんです」(さいき氏)

「陽のあたる家 〜生活保護に支えられて〜」は、慎ましくも幸せに日常を送っていた夫妻と2人の子どもが、夫の急病を機に困窮して生活保護を必要とする状況に陥り、差別や偏見に苦しめられつつも、再生へと向かう希望の物語だ。真面目で善良なサラリーマンの夫とパート勤務の妻。明るく素直に育った中学生の娘と小学生の息子。この一家が困窮したときに「野垂れ死んでも仕方ない」と考える人は多くはないだろう。

「この作品では、敢えてそうしました。生活保護に関する世の中の誤解を解くため、多くの人が『いくらなんでも救われなくてはならない』と考えるであろう人たちを主人公に据えたんです。それは、間違いではなかったと思います」(さいき氏)

しかし、「生活保護受給者の呆れた実態」と称するものをセンセーショナルに伝えるタイプの報道や、そのような報道を疑わずに受け入れる人々に対して、この作品は影響を与えられるであろうか?

「そこなんです。『陽のあたる家』では、『なぜ、こんなヤツまで生活保護で救うのか?』という疑問には答えられませんでした。生活保護制度の原則の一つである『無差別平等』は、なぜ、なんのためにあるのか。その『無差別平等』が、なぜ行き渡らないのか。『神様の背中』では、それをテーマの一つに据えなくてはならない、と思いました。そのために『子どもの貧困は自己責任ではない』を切り口にすることはできるかな、と考えたんです」(さいき氏)

 少なくとも、どのような意味でも、子どもの貧困は「自己責任」ではないだろう。どのような身体や資質を持ち、どのような性別とともに、どのような親や家庭のもとに生まれるかを選ぶことは、誰にもできなかったはずだ。「本人の意欲によって良い習慣を作り上げて貧困から脱することができたはず」という意見も根強い。しかし、その「意欲」や「習慣」を培うことが可能であったかどうかも、筆者は「クジの当たり外れ」のようなものだと思っている。

 そんな筆者に、さいき氏は問いかける。

「みわさん、生活保護費を毎月29万円受け取っているというシングルマザーの話、覚えていますか?」

「生活保護を必要とするほどのハンディキャップ」を
“普通の人”が想像できるか?


「神様の背中」第一話(秋田書店・「フォアミセス」2014年12月号)より (c)さいきまこ
「子どもが2人いるシングルマザーは生活保護費を1ヵ月あたり29万円受け取っている」というエピソードは、「29万円」という数字とともにネット空間で広く流布している。きっかけとなったのは、朝日新聞の2013年3月6日朝刊の短期連載「貧困となりあわせ」のうち1回、「生活保護、子どもに言えない 体操・野球続けて欲しくて」という記事だ。記事中で描かれているのは、中学2年の長女・小学5年の長男とともに生活保護を利用して暮らしている大阪府在住の41歳の女性である。離婚した元夫のギャンブルと多重債務が発覚したことをきっかけとして困窮し、離婚・自己破産に至った。女性が自己破産せざるを得なかったのは、夫が女性名義でも借り入れを行っていたからである。

 しかしネットで話題となったのは、この一家3名に対する生活保護費が1ヵ月あたり「約29万円」と報じられたことだ。一家のやりくりの苦しさは食費などに現れてはいるのだが、他の部分のあちこちが「ここに無駄遣い、苦しいのは自己責任」といった非難の対象となっている。1年半以上が経過した現在も、この話題は相当の頻度で「ツイッター」などでの「生活保護はゼイタク」という主張の根拠とされている。

 筆者も別の意味で「29万円? 多すぎるじゃないの!」と思った。41歳女性・中学生女子・小学生男子の組み合わせで、生活扶助・住宅扶助・母子加算など有子世帯への加算に冬季加算を追加すると、最高額となる東京都でさえ、そんな金額にはならないからだ。年末の手当類、前年の就労にかかわる経費の精算分などを考慮すれば、年末には「ありうるかもしれない」という金額だ。でも、それは「毎月」ではない。もし就労を含んでの話であれば、非難されるべき筋合いはまったくないのではないかとも思う。

 さいき氏はどう感じたのだろうか?

「私、あの記事を読んだとき、『ムカーっ!』としました。しかもこの一家は生活保護ですから、医療費もかからないし、国民健康保険料も払わなくていいし。それでやっていけないわけはないでしょう? 腹が立ちました」

 さいき氏は、一人息子(現在は大学生)を育ててきたシングルマザーでもある。シングルマザーの経験がない筆者は、反発も共感も、そこまで生々しくはならない。

「でも、その『ムカーっ!』は、自分の感覚で『29万円』を想像するところから来ているんです。自分の比較的健康なメンタリティで想像しているわけです。家計の切り回しもできるし、節約もできます。『29万円』は十二分。いただきすぎだと思います。とはいうものの、落ち着いて考えてみると、『生活保護を受けている』ということは、相応のハンディキャップがあるということなんですよね」(さいき氏)

「みんな」が「普通」に行っているはずの家事・家計管理などのスキル。それから、ちょっとしたガマンや自制の可能なメンタリティ。生活保護利用者に、そういったスキルやメンタリティがあるとは限らない。むしろ、最初から構築されていなかったり失われていたりすることが少なくない。もしも「ある」としても、ストックがなく月々の生活保護費というフローだけでのやりくり、さらに「生活保護受給者」という立場によって強いられる時に理不尽な制約やストレスや屈辱感は、現在その立場にない人から容易に想像を及ぼしうるものではない。

「『神様の背中』は、全5回の連載を予定しています。今も第3話以後のための取材を続けているのですが、最近、ある生活保護世帯の生活に衝撃を受けました。お母さんと高校3年生の娘さんの世帯なんですけど、お母さんが精神を病んでいて、住まいの中がお母さんの溜め込んだ荷物でいっぱいで。お母さんも娘さんも、住まいの中で身体を伸ばして寝ることができない状態なんです。娘さんはアルバイトをしながら高校に通っていて、家ではお母さんの言葉の暴力に耐えながらお母さんをケアしていて。台所は使えない状態なので、自炊もできません。娘さんが何か、惣菜や弁当を買って帰ってお母さんに食べさせるしかないので、食費もかさみます。娘さんも、学業とバイトとお母さんのケアでいっぱいいっぱいで、いつも疲れた感じなんですよね」(さいき氏)

 幸い、娘は成績優秀で、就職も内定しているという。担当ケースワーカーも「母親と同居して扶養するように」とは求めておらず、むしろ娘が別居して自分の人生を切り開いていくことに同意しているそうだ。「それは救い」と、さいき氏もいう。

「さっき、私、『29万円』にムカーっとなったと言いましたけど、本当に人は、知らないと、自分の生きてきた範疇でしか物事を考えられないんですよね。そのことは、自分を通して、本当によくわかりました」(さいき氏)

背中を向けている「神様」は
どこに? いつ振り向く?

 さいき氏が現在も続けている取材は、「神様の背中」の今後の展開にどう活かされていくのか、筆者は心から期待している。ところで、このタイトルにはどのような意味があるのだろうか?

「とても悩んでつけたタイトルなんですが……子どもは誰からも守られていなくてはならないのに、実際にはそうではないことが多いですよね。神様に背中を向けられてしまっている、神様の『死角』にいる子どもたちがいます。そしてその『神様』とは、自分を含めた、世間の、私たちのことです」(さいき氏)

 生活保護世帯の子どもたちは、十分に「神様」の視野に入っているだろうか? そんなことはない。多くの場合、苛酷な状況と環境の中で生育せざるを得す、十分に教育を受けることもできず、劣悪な条件で社会に出ることになる。本人だけでも「貧困の連鎖」から脱却できる可能性があったとしても、親の扶養という義務が課せられれば、結局、生涯にわたって貧困からの脱却は困難になる。

「世間に、大人に守られて育つことができなかった貧困世帯の子どもに、『親を守れ』『親を扶養しろ』とは、なんということだと思います。でも、それが世間です。生活保護を受けている家庭の子どもは、親のせいで生活にも進学にも苦労していることが多いです。もしそれで、頑張って頑張って努力して進学できて就職できたとしても、その先に待ち受けているのは生活保護を受けている親の扶養です。扶養義務のむごたらしさを、もっと知ってほしいです」(さいき氏)

 誰が、どのように、救いをもたらすことができるのだろうか? 救いをもたらすことは難しいとしても、現在以上の絶望をもたらさないことは可能だろうか? 神に祈るしかないのだろうか? 「到底、救いきれない」と覚悟しつつも、可能なときにほんの少しの支援を行うくらいしかないのだろうか? それとも、「無理なのでは?」と悲観しつつも制度や社会へ働きかけるしかないのだろうか? 

「子どもたちに背中を向けているのは、神様ではありません。あなたであり、私です。『神様の背中』とは、そういう意味をこめてつけたタイトルです。自分にできることは知れています。正義漢ぶって何かを訴えようとは思っていません。でも、私が知ってしまったことは、せめて他の人たちにも知ってほしい、知っていただかないと、と思っています」(さいき氏)

 さいき氏は、大上段に何かを訴えるタイプではなく静かな物語の作り手である。その紡ぎ出す物語とキャラクターの力は、筆者には持ちたくても持ち得ない。「神様の背中」が一人でも多くの人々に読まれ、関心を向けられ、その関心によって救われる子どもたちや人々が一人でも増えることを心から願う。

 次回は引き続き、社保審・生活保護基準部会での議論が続いている住宅扶助・冬季加算に関する話題を紹介したい。12月半ばにも行われると見られている総選挙を前に、生活保護が「凍死」の代名詞となるような近未来であってよいのかどうか、一人でも多くの人に考えてみていただきたい。

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