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生活保護者の集いコミュの父と車で生活、学校も知らず…22歳、僕は翔太になった

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http://digital.asahi.com/articles/ASG775W80G77PTFC01P.html?iref=com_rnavi_arank_nr01
物心ついたころには父と車上生活を送り、各地を放浪していたという男性が2012年の冬、広島で保護された。半年前に父が姿を消し、独りさまよっていたという。父の身元は分からず、昨年22歳で新たな戸籍作成を認められ、人生を再スタートした。

国「存在つかむ端緒がない」
無戸籍17年、康子の場合
 戸籍名は「翔太」にした。父から「ショータ」と呼ばれていた。

 翔太さんによれば、父はパチプロだった。軽自動車で全国のパチンコ店を転々とした。母は生後まもなく生き別れたと聞いた。車中で寝泊まりし、学校とは縁がなかった。

 父がパチンコをしている間は公園で過ごした。コンビニ弁当で食事をすませ、父が買ったひらがなと算数のドリルで勉強した。

 警察には10回ほど補導された。何を聴かれても黙り込んだ。普通の人と違う自覚があった。「弱みを握られるのが嫌だった」。父の所在を聴かれて初めて口を開き、引き渡された。

 10代半ばになると、街で会った同年代の男女とカラオケや買い物をした。身の上話はせず、その場限りのつきあいだった。飛び入りの工事現場で日銭稼ぎもした。夜になると父と合流した。互いに用事がなければ話さなかった。「いま考えると、父は僕に関心がなかったように思う」

 21歳まで続いた父子の車上生活は2011年8月、突然終わった。

 夜、大阪・梅田の街をぶらついた翔太さんがコインパーキングに戻ると、車がなかった。手元に残る小遣いでカプセルホテルに泊まり3日待ったが、車は戻らなかった。「捨てられた」と思った。

 父の出身地と聞いていた鹿児島をめざし、住み込みの建設現場で稼ぎながら西に向かった。金が尽きた12年2月27日夕、JR広島駅からすぐのハローワーク広島東に駆け込んだ。

 翔太さんの尋常でない生い立ちを聴いた職員は、生活困窮者を支援するNPO法人「反貧困ネットワーク広島」の秋田智佳子事務局長(47)に引き合わせた。

 一時避難所「シェルター」のワンルームマンションに案内され、翌日から社会の一員になる諸手続きが始まった。広島市役所に生活保護を申請し、アパートを借り、広島家裁に新たな戸籍を作る許可を求めた。

 家裁は翔太さんの述べる生い立ちを「不自然」「不可解」と納得しなかったが、昨年1月、「犯罪ないし前科を隠蔽(いんぺい)するため本籍を秘匿し、就籍を申し立てたと疑うべき事情は見出せない」と「父母の氏名 不詳」として許可した。

 一人暮らしを始めた当初は台所の流しに見境なく生ごみを捨て配水管を詰まらせたり、節電しようと冷蔵庫のプラグを抜き中の食品を腐らせたりした。

 空白の学齢期を補うため昨年4月から市内の夜間中学に通ったが、クラスメートの大半は中国人ら外国人で、今年に入りほとんど行かなくなった。他人とのつきあいが苦手だ。「他人との間は二重線を引いてちょうどいい関係。自然と感情を殺している」

 今年6月、「アニメクリエーターになる」と周囲の制止を振り切って広島を去り、全財産10万円あまりを持って上京した。千葉県松戸市の古アパートを借り、2年前からネットのチャットでやりとりしてきた彼女と住む。家賃保証会社への支払いや日々の食費で手元の金はすぐに尽き、彼女のバイト代で暮らす。

 「生活保護に頼りたくない。バイトすればなんとかなる」。いま24歳。心配する広島の支援者とは連絡を絶たないこと、夜間中学に入り卒業することを約束している。

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