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生活保護者の集いコミュの趣味のモノ購入、夢のための貯蓄は許される? 生活保護受給者に許される「最低生活費」はいくらか

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http://diamond.jp/articles/-/30038

012年12月26日、安倍内閣が成立した。生活保護基準切り下げを目指す動きも、それに対抗する動きも、今後ますます激しくなりそうだ。

こんな時期だからこそ、一度、基本に立ち返って考えてみようではないか。

生活保護制度が保障する「最低限度の生活」とは、いったい何なのだろうか?

「最低限度の生活」に
必要なものは何か


神奈川県立保健福祉大学。自然豊かな広大な敷地に、美しい学舎が建っている
 貧困問題・社会政策を研究している岩永理恵さん(35歳・神奈川県立保健福祉大学講師)は、2008年から、「生活最低限」の研究を行なっている。2008年から2010年は、東京都立大学(当時)時代の恩師の1人である岩田正美氏(現・日本女子大学)の研究プロジェクトの一員として。2009年からは、自分自身の研究プロジェクトとして、大学の後輩でもある堅田香緒里氏(現・埼玉県立大学)とともに。

 現在の研究プロジェクトの名称は「『流動社会』における生活最低限の研究:『合意に基づく』基準生計費策定プロジェクト」である。と言われても、根が理系の筆者には、正直なところ、内容のイメージが湧かない。その研究は、どういうものなのだろうか?

「基本的な生活に必要なものは、どういうものなのか、考える研究です。今は、どなたかが実際に暮らしているお住まいに行って、お住まいの中にあるアイテムを全部数え上げ、そのアイテムリストについて議論する形で研究をしています」(岩永さん)

 調査の場として選んでいるのは、東京都三鷹市・埼玉県さいたま市である。いずれも、都心に通勤する人が多く住んでいる街である。岩永さんたちは、それらの街の賃貸住宅に住む単身者の住まいを訪問し、紙1枚に至るまで、すべてのアイテムを数え上げる。そして、膨大なリストを作る。そのリストの検討を通して、人間の基本的な生活とは何かを明らかにするのが、研究の目的だ。もちろん、その「基本的な生活」に必要な費用は、生活保護法でいうところの最低生活費とリンクする。

 もちろん、人の暮らしぶりは1人ひとり異なる。持っているアイテムの種類にも数にも、人によって、大変な違いがある。CDなど趣味のグッズを大量に所有している人もいれば、洋服を大量に所有している人もいる……と書きながら、筆者はふと、自分の所有物が気になり、工作机の引き出しを開けてみた。幼少時から電子工作を愛好してきた筆者は、未だに工作用の机を持っている。その引き出しには、ハンダゴテが3本、テスターが5個入っている。この1年ほどの筆者はほとんど、工作机やツール類に触れる機会を作れていない。でも、捨てたくない。自分のアイデンティティの象徴のようなものだからだ。

「夢を買う」は宝くじだけじゃない
ある男性の、ささやかな願い

 都内某市の、ある単身男性の住まいで、岩永さんたちが調査を行なっていた時のことだ。

 男性は、企業に勤務している。収入は「ワーキングプア」ほど低くはないが、決して高くはない。仕事は、極めて多忙だ。平日、住まいに滞在できる時間は、7〜8時間程度。帰って、シャワーを浴びて、寝て、起きて、身支度をして出勤する。それだけのための住まいだ。

その男性は、大量の調理器具やレシピ本、レシピをプリントアウトした紙を所有していた。使われている形跡は、ほとんどなかった。調理器具は埃にまみれ、レシピは変色していた。男性の生活を考えると、自分の住まいで料理ができるわけはないのである。大量のアイテムや紙を数え上げるのに音を上げた岩永さんたちは、つい「捨てていいですか?」と男性に尋ねてしまった。すると男性は、「捨てないでください、そのうち使うんですから」と答えた。

 岩永さんには、男性が「そのうち」に、それらの調理器具を利用してレシピの料理を作るとは思えなかった。楽しみのための料理どころか、空腹を満たす程度の料理もできない毎日の生活。何のために、調理器具やレシピを手元におくのだろう?

「本当は、料理作りたいんですよね、きっと」(岩永さん)

 では、何が足りないために、男性は調理器具を埃まみれにしているのだろうか?

「できれば、もっと働いている時間が短くて、自分で好きな料理を作る時間のある生活をしたいんでしょう。でも、それができないわけです。だから、調理器具を買ってレシピを集めて。叶えられない欲求や希望が、逆にモノに表れているんです」(岩永さん)

 叶わない夢を、その夢にまつわるモノを購入することで、いくばくかでも叶えた気になる。そんな切ない経験は、おそらく誰にでもあるだろう。

「最低生活費」は、
高すぎるのか低すぎるのか?


岩永理恵氏の研究室。明るく広やかで、居心地のよい空間だ。学生たちも、気軽に研究室を訪れる
 では、生活保護法の根拠である日本国憲法第25条「健康で文化的な最低限度の生活」に、「夢を叶えた気になる」ための消費は含まれうるだろうか?

「議論しだすと、どうしても、含めることが難しくなってしまいます。『最低』ですから」(岩永さん)

 でも、それで良いのだろうか? 先進国に生まれ育った人間の当たり前を、「生活保護だから」という理由で奪ってよいのだろうか? 

「もちろん、『奪うべし』という論理は、それはそれで理解できるんです。でも、その反対のニュアンスも考えられると思うんです。最低限度だけど、健康で文化的な生活というような。憲法25条のニュアンスって、本来は、そういうことも含んでいると思うんですよ」(岩永さん)

 岩永さんには、現在の生活保護費は、どのようなものに見えているのだろうか?

「人の生活はそれぞれ違うのが当たり前だし、そこが面白いんですけど、公的扶助としては、公正さが必要なんですよね。困っていて、生活保護を必要としている人が、どの程度本当に困っているのか。本当に困っている人を公正に扶助する手段として、『最低生活費』という仕組みが発明されたんです。公正さを、数字で、お金で表して、みんなが分かる、体系だった仕組みにして追求してきたわけですけど……あまり成功していないですね、私の考えでは」(岩永さん)

 それでも生活保護当事者は、算定された、その最低生活費の範囲で生活する義務を課せられる。生活保護費は現状で充分なのか、多すぎるのか、少なすぎるのか。井戸端会議・居酒屋談義レベルでも、議論は尽きない。

「最低生活費は、自分の生活に必要なお金と比べることが無理な性質のものです。よく誤解されているんですけど、生活保護受給者は、ひとまず最低生活費『だけ』で暮らしていくことが前提なんです。ストックがなくて、フローだけです。ストックは、必ずしもお金やモノに限らず、人とのつながりなどでもありうるんですが、最低生活費には、少なくとも生活保護の受給を開始する段階では、そのようなストックの必要性は考慮されていません」(岩永さん)

 けれども、最低生活費(生活保護費)は、ある線に定められざるを得ない。そのためには、何らかの比較が必須となる。

「比べるためには、まず、前提条件を同じにしなくてはいけませんよね? でも、同じ条件というのはどういうものなのかを考えるために、『健康で文化的な』というニュアンスをどれだけ考えるというようなことが初めて出てくるんだと思うんです。人の暮らしはさまざまで、生活に対する思いもそれぞれにある中で、『このへんが人間の基本的な生活』というラインを、議論する中から導き出していくということは……難しいけれども、やらなくてはならないことなんだろうなあ、と思っています」(岩永さん)

生活保護受給者を羨望の眼差しで
見てしまうのはいったいなぜか?


研究室の窓からは、東京湾や行き交う船舶が見える
 それでも、生活保護当事者を羨望の目で見る人々は少なくない。生活保護当事者だけが苦しい思いをしているわけではないからだ。

「人間、いろんなありようがあると思うんです。時間があっても料理したくないとか、お金があったら旅行に行きたいとか。でも、そういうありようを実現できていないのが、私たちの生活であり、労働のありかたであり、暮らしのありかたです。その不満が、生活保護へと向かってしまうんでしょうね」(岩永さん)

 生活保護当事者はしばしば、「働けるはずなのに昼間からブラブラしている」と非難される。

「就労できていない生活保護受給者の方々は、時間はあります。だから、なんだか、羨ましいと思ってしまうのかもしれませんね。生活保護受給者は決して、ゆとりがあってお金が自由に使えるわけじゃないんですけど、時間の余裕が全然ない働き方を強いられている人たちが、すごく多い世の中になっていますから」(岩永さん)

 就労し、経済的に自立していても、平日に少しだけ料理をするほどの時間の余裕もない生活を「健康で文化的な生活」とは呼べないであろう。「健康で文化的な生活」は、生活保護当事者だけでなく、すべての人に必要なのだが、このことは、しばしば忘れられてしまっている。

 2004年に歿した詩人・石垣りんは、戦後の食糧難の中、家族で食卓を囲みながら、食糧の多い・少ないといったわずかな差を気にしてしまう自分を「悲しき餓鬼」と表現した。時間であれお金であれ、生活保護当事者のわずかな「ゆとり」のようなものに心が波立つ時には、そうなってしまう自分の置かれている環境をふり返ってみる必要がありそうだ。

「私は全然知らない」から
始めた貧困研究


神奈川県立保健福祉大学のある横須賀の市街。米軍基地のある街というイメージは、あまり感じられない。暮らしやすい地方都市という雰囲気だ
 小学校時代の岩永さんは、しばしば、皇居の内堀・外堀を徒歩で通った。1980年代、そこには多数の「浮浪者」がいた。今なら、ホームレスと呼ばれる人々である。外堀の土手から、日がな一日、総武線の電車が行き交うのを見下ろしている中年男性もいた。堀に住んでいる魚を釣っている中年男性もいた。岩永さんは「何をしているのだろう?」と思ったが、どういう人達で何をしているのかは、良く理解できなかったという。そのうちに、1989年、昭和天皇が崩御。前後して、多数の浮浪者は姿を消した。代わりに、多数の警官が周辺を警戒するようになった。岩永さんは、「あの人たち、どこに行ったんだろう」と思ったが、それ以上には気に留めなかった。

 大学生になった岩永さんは、成り行きで社会福祉学を専攻することになった。憲法、貧困、生活保護、高齢者、障害者。数多くのことを学ぶ中で、「私、全然知らないなあ」と気づいた。もちろん、言葉としては知っているが、具体的にどういうこと・どういう人々であるのかを、全く知らない。それが、現在まで続く研究への入り口だった。

 大学4年の時、「貧困を知りたい」という思いから、貧困を経験した人の話を聞きたいと思った。卒業研究では、救護施設で暮らしている4名のライフヒストリーをインタビューした。全員が、中途障害での全盲だった。中高年男性が3名と、高齢女性が1名だった。

 3名の男性たちは、インタビューに気さくに応じた。自分がどういう仕事をしていたか、どういう失敗をしたかを、率直に語ってくれた。

 女性は、とても拒否的だった。重たい口ぶりで話し、話の終わりに、「あなたみたいに若くて美しい人に何が分かる」と言い放った。全盲なので、「美しい」かどうかは分からなかったはずであるが。あとで救護施設の職員に聞いたところでは、女性は終戦直後、渋谷で「パンパン(主に米軍関係者を対象とした売春婦)」をしていたそうだったが、その経験は語られなかった。

 岩永さんは、ただ「知りたい、何かしたい」と思っただけだった。それなのに、非常に拒否的な反応に遭った。激しい衝撃を受け、帰途の電車の中ではずっと泣いていた。心の中は混乱でいっぱいだった。「悪いことをしてしまった」という気持ちと、「何なのよ!」という気持ちの両方があった。

 岩永さんは、当時のことを語りながら、苦笑まじりに語る。

「当たり前ですよねえ、そういう反応って。自分の善意は、福祉の善意でした」(岩永さん)

「誰でもない制度」と「隣のあなた」の間で
生活保護制度の設計を

 それでも、岩永さんは、

「誰かを助けたいという素朴な気持ちは、大切だと思います」

 という。生活保護は、極めて不完全ながら、その気持ちを具体化したものと言えるかもしれない。でも、誰しも、助けられる側に望んで立ちたいとは思っていない。助けてもらうということには、惨めさもつきまとう。


「生活保護の受給者になる、被保護者になるということは、『隣のあなた』、ご近所の誰かのお世話になるということではないんですよね。社会の『再分配』という仕組みとして、どの人も、生活が一定のレベル以下になったら底上げをするということなんです。支えられた人も、支え手に回ることもあるし、それは入ったり出たり、流動性のあるものなんですよね。これは、社会保障という仕組み、制度の非常に優れたところです」(岩永さん)

 そして、生活保護という形でお金だけを渡せば済むわけではない。

「生活保護の議論の中で、とても不十分だと思っているところがあります。『隣のあなた』ではない制度だけでよいのか? ということです。人が生きていくためには、ケアが必要です。少なくとも子どもの時には、誰もがケアを受けます。そこには、モノとお金だけでは解決しきれないものがあるんです。ケアの担い手は、家族であったり、『隣のあなた』であったり、どうしても、顔の見える関係であらざるを得ません。それが生きることだと思うんです。制度と、人間の関係性は、両方ないとダメなんですよね」(岩永さん)

 言葉を選びながらも明快に語る岩永さんは、最後に顔を曇らせた。

「生活保護には、未だに『保護』でいいのかという問題はあります。でも、今の制度は、弱くて困っている人を助けてあげるという、そういう趣旨です。その、保護されるべき対象を、わざわざ叩く、バッシングするということ。とても考えられません」(岩永さん)

 生活保護当事者たちの多くは、「当然の権利」とは考えていない。葛藤し、思い悩んでいる。支援者たちも、試行錯誤や葛藤の中で活動している。支援者たちの善意を悪用する自称困窮者だって、いないわけではない。筆者にはときどき、生活保護バッシングの言葉の数々が、当事者たちや支援者たちの日々のそんな葛藤や試行錯誤や努力のすべてを嘲笑しているように見える。

 岩永さんは言う。

「保護されるべき人たちを、責める。そんなところから、何をはじめようというんでしょうか? どんな議論をしたいというんでしょうか?」

 一連の「生活保護バッシング」と対抗に費やされた時間とエネルギーは、現状を冷静に認識することと、社会保障の意味とあるべき姿についての丹念な議論を積み重ねてゆくことに使われるべきだったのだろう。遅すぎるのかもしれないが、今からでも、その困難な営みを始め、続けたい。筆者は、そう思っている。

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