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【 聖書の真ナビ 】コミュの創世記

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こんばんは!安藤修一です。なかなか私と息子の生活リズムが違ったりしていて、「聖書ナビの歌」の解説が先週アップロードできませんでした。期待していた方がおられるかも知れませんのでお赦しいただきたいと思います。これからも、体力気力が出ない時などは、次週になってしまうこともあるかもしれませんが、少々遅れても必ず最後まで解説しますのでぜひお付き合い下さい。



 では早速始めてまいりましょう!最初は旧約聖書の創世記からです。 ?《創世記の歌》(※鉄道唱歌のメロディーで) 「全ての初めの創世記  アダムとエバの罪のため  神様からの約束は   アブラハムの選びです」 【はじめに、聖書全体の解説】 聖書は基本的に宗教の本です。旧約聖書は、ユダヤ教、イスラム教の厳格な教典として用いられており、キリスト教は旧約聖書と新約聖書の2つを教典にしています。  このように聖書は、現在も25億人以上の人々が信じている巨大な宗教の教典でもありますが、アメリカの国の法律の土台でもあり、イギリスや北欧のノルウェーなどの国家宗教でもあります。歴代のアメリカ大統領が任命される宣誓式では、左手は必ず聖書の上に置き、右手は天の神を指して『私はアメリカ国民一人一人の幸せのために仕えることを誓います。』と宣誓するのです。また米国の最高裁判所の裁判長も同様です。このように聖書は、人類共通の常識であり、法律であり、人間の幸せの土台でもあるのです。  そのような旧約聖書と新約聖書の中に書いてあることの大部分は、イスラエルの国の歴史であり、人物伝であったり、美しい詩(ポエム)であったり、金言集であったり、恋の歌であったりします。 また、世の終わりについての「ハルマゲドン」の預言があったり、宇宙の最初の成り立ちについて書かれていたり、科学のような記事の内容の箇所もあります。特に「創世記」は、ユニークな本で、現代の進化論に対抗する目的で書かれたかのような、生物の誕生の記録についても冒頭部に書かれています。人間がこの地上に誕生する遙か以前の地球の出来事がどうして、そんなに詳しく分かるのでしょう?不思議です。この世を創造した神様でなければ、決して分かり得ないはずの事まで、こんなにハッキリと書いてあるのです。  しかし、歴史であろうと伝記であろうと恋の歌であろうと、科学のような記事であろうと、創造論であろうと、たとえどのような形を取って書かれたページであろうと、実は、聖書の中の全ての記事と全ての記録は、例外なく神から人類に宛てて書かれた「愛のラブレター」になっているのです。



  ですから、聖書のあらゆる記事と記録から「神の愛のメッセージ」を読み取る霊的な能力がなければ、聖書は幾ら熱心に読んでもチンプンカンプンで、読み続けることが困難なのです。私も38年前、21才の時に教会に行く少し前に、酒田市の小さな書店から新約聖書を買って読んではみましたが、「アブラハムがどうのこうの」と、訳が分からず「朗読」ならぬ「積ん読」になってしまいました。  ですから、聖書は神様の霊である「聖霊によって鍵を掛けられた本である。」と言って差し支えありません。神の霊を心の中に受けた人でなければ、決してその鍵を開けることが出来ず、読んでも正しい意味が理解できないのです。人間的な知恵と力で解釈しようとすれば、どんな有名な聖書学者であっても間違って解釈になってしまうのです。ですから聖書自ら、私的解釈することを禁じています。次の聖句を、どうぞ神の言葉としてお聞き下さい。  「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。」(?ペテロ 1章20節〜2章1節)  何故、私的解釈で聖書を読んではいけないのでしょう?それは、「滅びを身に招いてしまう」ことになるからです。それを敢えてしている人たちが、キリスト教の「異端」と呼ばれる人たちなのです。たとえば、「何とかの証人」とか、「統一なんとか」とか、「末日生徒なんとか」などの宗教団体なのです。彼らこそ聖書が禁じている「私的解釈によって滅びを身に招いている人たち」なのです。彼らは熱心な方々が多いので、本当にお気の毒に思います。




 「しかし、小学校しか出ていないような学歴の低い人であろうと、大学教授であろうと、何百人、何万人集まろうと、神の霊を心に戴いている人たちなら、必ず同じ解釈と同じ答えになるのです。神がその人たちに、直接答えを解き明かしてくださるからです。聖書は神の霊によって始めて理解できる今でも不思議な本なのです。





 聖書全体の解説が終わったところで、いよいよ創世記という本の解説に移りたいと思います。創世記の歌の前半と後半に分けて解説いたします。 創世記の歌【解説の前半】  「全ての初めの創世記」 (鉄道唱歌のメロディーで) この創世記の歌の「前半の歌詞」の意味は、こういうことです。  創世記には、この地球と宇宙に於ける、すべての物の始まりについて記録されているのです。たとえば、創世記は50章ありますが、
宇宙の始まり
地球の始まり
存在の始まり
生物の始まり
食物の始まり
人間の始まり
暦の始まり
労働の始まり
祝福の始まり
自由の始まり
男と女の始まり
結婚の始まり
悪魔の始まり
善悪の始まり
誘惑の始まり
堕落の始まり
救い主の始まり
呪いの始まり
夫婦喧嘩の始まり
家族の始まり
兄弟喧嘩の始まり
罪の始まり
神の救いの始まり
贖いの始まり
殺人事件の始まり
町の始まり
復讐の始まり
文化、科学、芸術の始まり
祈りの始まり
系図の始まり
長寿の始まり
悪の増大の始まり
義人の始まり
悪の抑止としての罰の始まり
大災害の始まり
天の始まり
大洪水の始まり
船舶の始まり
礼拝の始まり
全人類の始まり
肉食の始まり
契約の始まり
飲酒の始まり
民族の始まり
権力者の始まり
都市の始まり
言語の始まり
民族大移動の始まり
不妊の始まり
選民の始まり
イスラエルの始まり
王国の始まり
同性愛の始まり
献金の始まり
戦争の始まり
奴隷の始まり
割礼の始まり
近親相姦のお始まり
夢による神の啓示の始まり
墓地の始まり
偶像の始まり
双子の始まり
相続の始まり
重婚の始まり
レイプの始まり
オナニーの始まり
売春の始まり
監獄の始まり
飢饉の始まり
ミイラ作りの始まり
 天地創造から選民アブラハムまでが50、神に選ばれたアブラハムから族長ヨセフまでが20と少なくとも合わせて70もの「各種の始まり」について書かれているのです。その一つ一つの人類の歴史の中での「物事の始まり」というものは、考察するに値する非常に興味深いものがあります。

  創世記の歌【解説の後半】              


「アダムとエバの罪のため  神様からの約束は   アブラハムの選びです」                (鉄道唱歌のメロディーで) この創世記の歌の「後半の歌詞」の意味は、こういうことです。  創世記を書いた記者は、モーセだとも言われておりますが、それにしても、そのような「多くの始まり」について書いていく中で、読者である私たち人間の先祖アダムとエバは、「蛇が化身した悪魔からだまされて神に対して罪を犯してしまい、その結果として永遠の命を失い、神のみもとからの送られてくる救い主に期待するしかないほど、自分で自分を救えない徹底的に存在的に堕落してしまった」ことを創世記は、気付かせようとしているのです。自分の力では、もはや神に帰ることも、自分で自分を救うことも不可能になってしまったのです。



 そして自力救済できない全人類は、やがて何千年もあとから産まれてくる救い主イエス.キリストに期待し、待ち望まなければならなくなったことを教えようとしているのです。この「メシヤ待望」を歌にしたのが有名な「ヘンデルのメサイヤ」なのです。  そして、その救世主イエス.キリストを、やがて産むことになるのが処女マリヤの属するユダヤ民族であり、そのユダヤ民族の中でも、特に神から選ばれ「信仰の父」と呼ばれるアブラハムとその息子イサク、その孫であるヤコブの子孫からやがて誕生することを、何千年も前から創世記は預言しているのです。  それが創世記なのです。ですから初めに申しましたように、創世記は、人類にとって「唯一の救い主が誰であるか」を教え示している《宗教書》なのです。書かれている表面の色々な出来事や記事や言葉に惑わされて、科学の本や歴史の本、哲学の本として読むだけでは、用い方としては不十分なのです。いいえ間違っているのです。  創世記を読む人は、《自分の行ないによっては決して犯した罪を帳消しにすることは出来ず、自分で罪の償いをすることも出来ず、ただ神が遣わしてくださる救い主への簡単な信仰によってのみ自分の罪が赦され、罪の呪いと裁きから救って戴くしかないという真理を発見することが出来なければ、ならないのです。そうでなければ、読んだことにはならないのです。感謝な事に、愛の神が私の罪のために救い主イエスを何千年も前から送ろうとしていてくださった。》そのように読み取ることができなければ、創世記の読み方としては、正しくないのです。その創世記の中に於ける「愛の神の、熱いメッセージを要約したもの」が、「創世記の歌」なのです。            2007年9月28日(金)PM10:30                        安藤 修一



 追伸 聖書キチでもありますが、釣りキチでもある私は、先週と今週の二晩にわたって「落ち鮎」をそれぞれ250匹と300匹も釣ってきました。ほとんど全匹、欲しい人に配ってしまいましたが、今年の鮎は本当にバカデカかったですよ。魚の大きさと泳ぐ力の強さによって竿を水から引き上げることができないのです。まるで30?もあるヤマメのように体高も高かったのもいました。きっと今年の漁期末までに、昨年同様に1,000匹以上も釣ることになるでしょう。 こんな風に、神が造られた「中秋の名月」を見ながら一人赤川の中州に立って神が造られた大自然を楽しんでいるのです。 そんな釣りキチの私ではありますが、どうぞ私の聖書の解説を読みながら、もう一度「創世記の歌」を歌ってみてください。そして、《人を幸せに導く人生のナビである聖書》を、その目的通りの救いの本として用いれる人になって頂きたいと思うのです。

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