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小説書き組合コミュの蛍(短編)

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 「美しい翼」という言葉からはどのような存在の、どのような形態が想像できるだろうか。
神話、幻想、寓話そのほか様々な伝承に(仔細は違えど)登場する天使の穢れ無き両羽だろうか。未だ発見すらされていない新種の鳥類或いはそれ以外の、躍動感に満ち溢れた羽ばたきだろうか。いずれにしろそれは、大気の流れを裂いて澄んだ青空を舞うに相応しい雄々しさと優雅さを兼ね備えているに違いない。
 
 果たしてそれは、僕の目の前にあった。

愛くるしい笑みを湛えた天使の背でもなく、艶やかな光を反射した鳥の流れるような身体の向こうでもなく。
夕立が簡単に止んだ、少し淀んだオレンジの空の下。
脱ぎ捨てられた靴下のように、開いた蝙蝠傘と同じ程度の大きさの白い羽が、黒ずんだアスファルトの上に乱雑に放りだされていた。
付け根の部分だけが、何かからむしり取られたような痛々しい痕のようになっていた他は、まさしく一点の曇りもない澄んだ白で、触れた感触は僕の知る限り子供の頃に飼っていた絹毛鼠(きぬげねずみ)の手触りに最も近く、温もりと溶けてしまいそうな柔らかさに包まれていた。片翼を右手だけで持ち上げてみる。 カラのペットボトルほどの重みも感じさせないほど軽々と持ち上がったそれは、不思議なことに少しも雨に濡れた様子がない。たとえ夕立が止んでからの僅かな時間に置き去られたものだとしても、アスファルトにはところどころ水の染みが残っているのだ。にも関わらず全く水気を感じさせないところに神秘と、どこか郷愁すら感じさせる。
 「天使の羽だから、ってことか」誰に語りかけるでもなく口にする。地面から立ち上る夏の雨上がりのむせ返る空気が、視界の向こうをふと歪めた。夕暮れに霞む街並みを見下ろす坂の上で僕は、無意識に導かれるままにその穢れ無き翼を少し汗ばんだ背中へ宛がった。
 別に、空が飛びたいなどと思った訳ではない。けれど次の瞬間、Tシャツ越しにも拘らず最初からそこに存在したかのように身体と同化した神々しい両翼は、得られぬ筈のものを得た高揚感を煽り立て、そうすることが当然であるかのように思い込ませる。
穏やかな湿った風が軽く頬を撫でるのを合図に僕は、薄汚れたスニーカーで飲み残しのスープのように濁った水溜りを弾かせ、除々に歩調を速め、限りの力を込めて地面を蹴り、手足の如く自在に動かせる翼を風に広げて――

 ……意外に、体力使うな……

時折両羽を羽ばたかせながら、最初に思うことはそれだった。自分の体重ぶんの重力に逆らうように滑空を続けるには当然、風の流れに上手く身を任せることもそうだが、なにより姿勢の制御が最も骨が折れる。テレビのドキュメンタリーで見たことのある鳥の群れはもっと気楽そうに飛んでいた記憶もあるが、単なる認識不足だったようだ。聞き覚えのある歌を口ずさんでも、その歌詞が言うほどには心が晴れたりはしない。より身体を楽に運んでくれる風を求めて高度を上げれば、酸素の薄さに今度は胸を締め付ける息苦しさが襲う。
恐怖を感じる必要はないと分かっていても、眼下に広がるはずの地上の風景は見ない。
夕暮れと夜との境界が極めて曖昧になるなかで、僕の頭の中にはひとつの疑問が沸き始めていた。
 ……何故僕は、今此処にいるのだろう?
それは疑問というよりも、口をついて出た逃避願望だ。

空がほぼ暗闇と点在する光点に包み込まれた頃、なおも理由も無く飛び続ける僕の前に、細切れの雲に腰掛けるように浮かぶ人影が見えた。その正体が視界に飛びこんでくる前に、僕の耳に明瞭に響く少女のものと思われる声がこだました。
 「……かえして」
ノースリーブの黒いワンピースを纏ったその少女は、おかっぱの黒く、長い髪を肩口に妖艶さを漂わせる仕草でかき上げ、夜に消え入りそうな白い素足を時折無防備にばたつかせ、思いの窺えない瞳には呆けた表情の僕の姿が映し出されている。
 「君は、天使なの?」かえして、と要求されているものは当然僕の両翼だろう。本来僕の背中にあること自体が場違いのそれと、目の前に佇む漆黒の少女とを見比べる。
 「わたしは、わたし……わたしが誰かは、あなたが決めればいいけど……その羽は、わたしのもの。ないと、もうここからどこにも行けない……だから、はやくかえして」
それほどまでに大事なものを道端に放り出しておいて、僕には図々しく要求だけするというのか。
恐らく彼女が本当に天使だとしても、人を人とすら捉えない一方的な態度に、僕は不機嫌さを覚えた。
 「出来ない相談だね。第一にこの羽が、君のものだって確証はない。大事な羽なら、名前でも書いておけば良かっただろう? 第二に今この羽を背中から外して君に渡せば、僕はどうなる? この高度から落ちたら、万にひとつも助からない。君が天国行きを保証してくれるとしたって、それを理由にわざわざ死にたいとは思わない。だから僕は、今この場から逃げる」
 ひととおりまくし立てたあと、僕は疲労で重くなり始めた身体をそれでも、無理矢理に翻して飛翔する。少女の唇が何かをいいたげに動くのも無視して風から風へと舞い、あざ笑いたくなるような快感がこみ上げるなかで、緩む口元を堪えることができなくなり始めた頃、僕の目は再び信じがたい物を映し、僕の耳には聞くに堪えない、けれどガラス細工のように繊細で、凛とした声が届いていた。
 「すべての人も、物も……もどるべき、あるべき場所へかえるだけ……あなたも、わたしも」
その示唆めいた言葉が意味するところは、僕は逃げたのではなく元の、少女と出会った場所へと引き戻された、あるいは巡り巡ってそこにたどり着くしかなかった、そういうことだろう。
「だったらせめて、僕もあるべき場所とやらに返してくれるんだろ?」少女に近づくとその華奢な身体は思った以上に大きく見えた。その端正な形の顎が上下に揺れるのを確認して、僕は少女に背を向ける。僅かな痛みさえもなく翼は僕の身体を離れ、振り返るとそこには満月の光を抱きかかえるように広がる猛禽の如き翼が夜の帳をなお黒く染めていた。少女の瞳は最早僕を映すことはなく、煌々と光る血の色のような鈍く、深い赤に染まっていた。笑みも怒りも宿らない能面のような表情に吸い寄せられていると、何故自分が地上へと墜ちて行かないのか疑問に思うことすら忘れていた。
「……目を、とじて」薄い唇がそう命じる。言われるままに視界を遮ると、閉じた瞼の向こうでぼやける月光が瞳を焼くように揺れる。胸のあたりを軽く突き飛ばされるような衝撃のあと僕の身体は、軽く尻餅をつく。想像していたような天地の破滅を告げるような痛みなどはそこには無かった。どれほどの高度を飛び回っていたのかは今となっては分からないが、ぼんやりと開けた視界は、見覚えのある飴色の夕暮れを映し出していたし、汗ばんだTシャツも夕立に濡れたアスファルトもそこにはあった。勿論そこには、白い天使の羽などどこにもない。
 ……ここが僕の、あるべき場所。
去来する混乱は僕を前に歩かせるでも驚きを与えるでもなく、寧ろ心安らかにさえ感じるほど僕を呆けさせていた。

   ※   ※   ※

※「……以下の質問に、すべて『いいえ』でお答えください。『知りたいと思うことの全てを記した書物がこの世にあるとしたら、生涯の全てを対価としてそれを求めるでしょうか? それが読んでも理解に余るものだとしても? 知りたくないと思う知識の全ては無価値でしょうか? 寄り道のような好奇心は不必要だと思いますか? あなたを混乱させ続けているのは私ですか? 結論だけが全てですか?』」

※「……ありがとうございました。今日の課題は以上ですので、部屋に戻ってゆっくりとお休み下さい。寝る前には、お風呂と歯磨きをお忘れにならないように。それと――今の質問ですが、アレは嘘発見器のテストではありませんし、今後のカリキュラムへの影響も何もありません。ただあなたが今最もしたいこと、それを調べるためのちょっとしたテストです。今後もこうした機会は少しずつ増えるでしょうが、早期の※※の為にも、ご協力いただきたいと思っております。 それでは、また明日――」

飴色の光が差し込む教室に、夕立に濡れた窓。
雨粒の一つ一つに、「自由」と書き連ねたい。

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