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小説書き組合コミュのバニラ

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読みやすいように段落ごとで改行しました。感想書いてもらえたら嬉しいです。







 小粒の雨がアスファルトを濡らし始めていた。ぽつり、ぽつり、と黒い水玉模様が幾つもできあがっていく。十一月のひどく冷たい雨だった。私は買ったばかりの白いカーディガンが濡れるのも気にせず、早足で見慣れた道を歩いた。

 踏み切りを渡り、寄せ合うように立ち並んだ家々の隙間を縫っていくと、敬吾の住む部屋がある。ほとんどからっぽの真っ白い部屋だ。

 ──掃除をするのが楽なんだよね。

 私が初めて来たとき、敬吾は冗談っぽく、そう言っていた。潔癖症なのにめんどくさがりな敬吾の性格にぴったりだ、と私はあっさり納得してしまった。

 そしてその日から週末に敬吾の部屋に通うことが私の新しい習慣になった。私は少しずつ、自分のものを敬吾の部屋に残していった。最初は歯ブラシのような些細なものだったけれど、次第に何もなかった部屋に小さな観葉植物が置かれ、猫の形をしたアロマポットから仄かにバニラの匂いが香るまでになっていった。

 自分の部屋が次第に変わっていっても、敬吾はなにも言わなかった。たまに配置を変えたりして、どこか楽しんでいるような気配があったけれど、私はそのことについて、なにも言わなかった。二人で秘密基地を作っているような気分だった。

 到着する頃には、雨も本降りになっていた。どこかで傘を買えばよかったかな、と私はほんの少しだけ思った。

 階段を上がり、三つ目のドアの前に立った。インターフォンを押すと、すぐにドアが開いて敬吾が顔を出した。くせっ毛の敬吾の髪は、湿度のせいで余計くしゃくしゃになっていて、やけにかわいらしくて笑ってしまう。笑っていると鼻水が出てきて、すん、と私は鼻をすすった。敬吾はびしょ濡れの私を見ると、急いでタオルを持ってきてくれた。

「その服、かわいいね」

 玄関で髪を拭いていると、敬吾が言った。

「奈央はやっぱり白が似合うよ」

 私は照れくさくて、タオルで顔を隠したまま、ありがとう、と言った。こちらこそ、みたいなことを敬吾はぼそぼそと言っていた。

 部屋に入ると、バニラの匂いがした。私が持ってきた匂いだ、となんだか誇らしげな気持ちになる。敬吾はバニラアイスが好きだから、という子どもっぽい理由で選んだ香りだったけれど、敬吾は気に入ったらしく、予備のアロマオイルを自分で買ってきた。

 濡れたままじゃ風邪をひくと敬吾がうるさく言うので、シャワーだけ借りることにした。冷えた体にゆっくりとお湯をかけていく。私は熱いくらいのお湯を浴びるのが好きだけど、敬吾は温めのお湯の方がいいと言う。猫舌だから、と適当なことを言い出す始末だ。

 敬吾の少し大きめのスウェットに着替えて脱衣所を出た。部屋はさっきより暖かくなっていた。敬吾は部屋の壁に寄りかかって、なにやら本を読んでいた。

「何の本?」と私はきいた。

「365日のおかず」

 近づいて覗き込むと、美味しそうなきんぴらごぼうの写真が目に入った。湧き上がるように唾が出てきて、私は自分のお腹が空いていることに気がついた。

「料理始めるの?」

「うん」

 にやりと笑うと、敬吾は私の後頭部に右手を添えて、そっと引き寄せた。唇が柔らかく重なり合う。ゆるやかで、とても優しいキスだった。私たちは同じタイミングで唇を離した。

「すぐ飽きちゃわないでね」

「がんばる」

 私が髪を乾かしている間、敬吾はさっそく台所で料理を始めた。元々、熱しやすいタイプなのだ。機嫌の良さそうな口笛まで聞こえてきた。

 私は三歩分くらい後ろから、調理の様子を眺めた。とんとんとんとん、とまな板に載せられたイカや野菜が手際よくさばかれていく。どこで覚えてきたんだろうか。今度は切り終えた食材に調味料を振りかけ、フライパンで炒めていく。食欲をそそる油の音のせいで、私のお腹が小さく鳴ってしまった。いつの間にか口笛を吹くのもやめて、真剣な顔で菜箸を持つ敬吾を見て、好きだ、と思った。

 お皿に盛り分けられた料理は、どう見ても美味しそうな出来ばえだった。すごい、と私が言うと、敬吾は照れくさそうに笑った。

 小さなローテーブルを囲み、私たちは早めの夕食をとった。敬吾の作った料理は本当に美味しくて、私は自分のことのように誇らしい一方で、悔しい気持ちもほんの少しあった。私は料理がすごく苦手なのだ。

「ねえ、どうして料理を始めようなんて思ったの?」

 と私はきいてみた。

「んー、美味しいものは人を幸せにするからね」

 ごはんを頬張りながら、敬吾は答える。

「って、この前テレビで言ってた」

 そんなことだろうと思って、私は笑った。でも、本当にそうだと思った。私はいま、敬吾の料理を食べることができて、幸せだ。

「本当に美味しいよ」

 そう言って私がまっすぐ敬吾を見ると、敬吾もまっすぐ私を見た。

 くすぐったいような、むずがゆいような、へんな気分だった。好きな人と美味しいものを食べられる喜び。そんなかけがえのない幸せをプレゼントしてくれた敬吾に手を合わせて感謝した。

「ごちそうさま」

 通販で買ったという、ほのかに甘いほうじ茶を飲んだ。初めてこのお茶を出してくれたとき、深みが違うんだよ、と敬吾は熱弁していた。敬吾の部屋には、ほうじ茶だけじゃなく、緑茶や玄米茶など、たくさんのお茶が常備されていた。敬吾はお茶に関してだけは、妥協しない。静岡で育った男というのはみんなそうなんだろうか、と私はいつも疑問に思う。

 はー、と息をはき、敬吾は湯飲みを置いた。

「昨日は大学生だったよ」

「へえー、若い力はどうだった?」

「なかなかいいよ。まあ、なに考えてるのかわかんないところがあるけどね」

 敬吾は家具配送の仕事をしている。休日は派遣会社からバイトの人がやってきて、配送助手としてトラックに乗せることが多いらしい。敬吾の助手席に座るのは、ホームレスみたいなおじさんのときもあるし、小ぎれいで小遣い稼ぎに来ましたみたいな若者のときもあるという。

「なんかいろいろ質問してくるしさ、もうすぐ大学もやめるつもりらしいんだ」

「どうして?」

「見つかると思ってたものが大学にはありませんでした、だって」

 バイトくんを真似して、敬吾は言った。

 私は名前も知らない、その男子のことを思った。彼はきっと、他の人には決してわからない、とても大切なものを探しているのだ。だけどそれは、どんな名作の本の中にもないし、最高レベルの倍率を誇るレンズの向こう側にもない。

「彼はなにを探していたの?」

「さあ」

 とぼけるように、敬吾は答えた。

「さあ、って、きかなかったの?」

「きいたよ。でも、わかりません、って言うんだもん」

 頭をかきながら、敬吾は言った。

 きっと彼はすごく悔しそうに、わかりません、と言ったのだろう。私はなぜか、ずっと昔、大嫌いな先生に難しい問題を当てられたときのことを思い出した。わかりません、と言うのが悔しくて私はとっさに、忘れました、と答えた。先生は見たことがないくらい、かんかんに怒っていた。

「自分でわかんなきゃ見つかるわけないよなあ」

 立ち上がりながら、敬吾はつぶやいた。

「難しいね」

 他の人だけじゃなく、自分でもわからない、とても大切なもの。目を凝らしても、ぜったいに見えないし、耳を澄ませても、なにもきこえない。それはいつか彼が手に入れたときにしか、わからないんだろう。

「お茶、おかわりする?」

 と敬吾はきいた。

「うん。ありがと」

 私は言い、湯飲みを敬吾に渡した。

 私は大学に入って、敬吾を見つけた。べつに探していたわけじゃないけれど、人生の中で最高の掘り出しものだったと思う。

 台所からは、こぽこぽ、とお湯が注がれる音が聞こえてきた。敬吾は猫舌なのに、お茶を飲むときは無理をしても熱いのを飲むのだ。

「はい」

「ありがと」

 戻ってきた敬吾から湯飲みを受け取って、ちびり、と私はほうじ茶を飲んだ。食道を通って胃に落ちていくそれが、体の芯まで温めていく。

 敬吾は私の対面に座り直して、テレビをつけた。画面には派手なセットが目に眩しい、つまらなそうなクイズ番組が映った。ぽーん、と早押しのボタン音が鳴り、頭の悪そうなパネラーがアップになる。敬吾は幾つかチャンネルを回して、またクイズ番組に戻ると、テレビを消した。

 テレビを消すと、部屋の中がやけに静かになった。窓の外からは、やまない雨の音が聞こえてくる。

「……結婚しようか」

 敬吾の声がした。

 フェードアウトするように、雨の音が遠くなっていく。代わりに敬吾の小さな息の音が聞こえてきた。それと、私の心臓の音も。二つの音を聞きながら、私は壁の白をじっと見ていた。

「うん」

 壁から視線を移して私が言うと、敬吾の顔がゆっくりとほころんだ。無邪気で朗らかな、私の好きな笑顔だった。そして、私がずっと見ていたい笑顔だった。

「結婚しよう」私は力強く言った。結婚するんだ、と確かめるように思った。美味しいイカ料理に騙されているような気もしたけれど、それでもいいかと思っていた。

「ねえ、お茶の淹れ方教えて」

 ふと思いついて、私は言った。ずずず、とほうじ茶をすすりながら、敬吾は不思議そうに私を見た。

「今度は私が淹れてあげる」

「けっこう難しいんだよ」

「うん。がんばる」

 私は敬吾の真似をして、言った。

 お茶を上手に淹れられるようになったら、ちゃんと料理も練習しよう。敬吾が、幸せだなあ、としみじみ思うような、とびっきり美味しいやつを作ろう。食後のデザートはもちろん、バニラアイスだ。

コメント(4)

すっごい 素敵です

ありふれた話、だからこそ素直に感動できます
ゆえさん

ありがとうございます。
ありそうでないような日常を切りとっていきたいです。
お幸せにo(^-^)o
大学生くんもがんばって!

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