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特攻隊員の話をしようコミュの元特攻隊員 回想談 賀来準吾さん

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賀来準吾さん 大分県中津市

「身代わり特攻」どげんも言えん・・・・

敗戦が色濃くなってきた一九四五年三月末。まだ桜の花が咲く前じゃったかなあ
「航空隊の隊員さんがトラックで来て広場に降りよるよ」て、近所の人が言うて、いやな予感がしました
宇佐海軍航空隊(大分県宇佐市)で対艦攻撃機の操縦教官をしていた私は、宇佐神宮近くの自宅で病気療養中でした

家の外に出ると、宇佐神宮で参拝を終えた隊員が、隊列を組んで「南無八幡大菩薩(ぼさつ)」と大書きしたのぼりを掲げて歩いてきました
みんな飛行服を着ちょったと思います
雰囲気で、ついに宇佐航空隊からも特攻隊が出ることが分かりました

先頭は山下博大尉。私が世話になった指揮官です。
駆け寄ると隊の歩みが止まりました。山下大尉は私と握手しながら「具合はどうか。大事にしてくれよ」と言ってくれた。数秒間のやりとりでした

私が心臓を悪くし、熱を出したのは、その三週間前。日に日に忙しくなる操縦士養成訓練で無理をしたのが、たたったようです
山下大尉は「すぐ診察を受けて、なんも考えんでいいからしばらく休んでくれ」と言いました
その時は気づかんかったのですが、山下大尉は私と一緒に攻撃機に乗るつもりじゃったんですね。ところが、私の病気が長引いてしもうて…。

あのときの隊列は確か四列じゃったと思います。山下大尉のすぐ後ろには、私と同じ操縦教官で同年兵の米山茂樹さんが立っちょりました
米山さんには奥さんと生まれたばかりの娘さんがおって
どげん言うていいか・・・「頑張って」とも言えんし
私の身代わりちゅうことも分かっとるから、ただ目を合わせて固く手を握りました

四月六日、山下大尉と米山さんが乗った対艦攻撃機は、南方の海へ飛び立ちました
一カ月間で八十一機百五十四人。東風に乗り、みんな飛んでゆきました、まるで桜が散るようじゃった

一カ月後、茨城県の米山さんの実家にお参りに訪れると、奥さんが米山さんの帰りを待っちょったです
米山さんは妻子に黙って出撃しちょったのです。私は何も言えず引き返しました

昨年の夏、宇佐の特攻隊全員の名前と出撃日を書いた慰霊碑を、宇佐航空隊の飛行場跡地に建てました
祖国のためと信じて若くして散った彼らのことを忘れないために
それが、生き残った私の務めじゃと思うちょります。


【宇佐海軍航空隊】
宇佐海軍航空隊は、三九年、対艦攻撃機などの操縦士養成のため開設
四一年の日米開戦を機に、約五カ月間の訓練を終えた十七、八歳の若者が次々に出撃した

だが、戦局が悪化した四五年春、隊は特攻基地に。訓練は約三カ月に短縮。「敵艦への体当たり以外に何も教えることはなかった」と賀来さんは苦々しい表情で言う
着陸が苦手な教え子もいたが、出撃すれば関係なかった

隊の任務は沖縄近海に結集した米機動部隊を撃破し、本土上陸を防ぐこと
それは、肉親や故郷を守ることでもあった。若者たちは分かっていた、多くを語る必要もなかった
終戦までの四カ月の間に、計八十一機、百五十四人が機体とともに南の海に命を落とした

基地も、米爆撃機B29編隊約三十機に襲撃された
四五年四月二十一日。敵機発見が遅れ、空襲警報が鳴ったときはもう爆撃が始まっていた
制止を振り切り、機銃で応戦した教え子もいた
敵は高度約八千メートル。弾は届くはずもない。爆撃の後、無残な遺体となって倒れていた
結局、この日は軍人、民間人合わせ約三百二十人が亡くなった



写真:八幡信仰を広めた宇佐神宮に参拝し「八幡護皇隊」と命名された宇佐海軍航空隊の特攻隊員たち
写真:宇佐海軍航空隊を経て出撃、戦死した神風特攻隊員名を刻んだ石碑を建てた賀来さん(右)と高橋さん

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