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好きです『北海道』コミュの◎北海道雑学

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◎北海道の基礎知識

◆変化に富む地形は多数の火山活動の副産物
 北海道で一番古い地層は、松前から上ノ国にかけてみられる約3億年前のものといわれている。現在、地形の背骨となる日高山脈や夕張山地を作った日高造山運動は、約1億年前に始まり第3記(7千万年前から百万年前)まで各地で断続的に続いた海竜や多数のアンモナイトの化石が、造山運動の名残として発掘されている。
 北海道の中央には大雪山火山群、その西に手塩、夕張山地、東に北見、日高山脈が連なる。道東の阿寒や知床の火山群、道南の渡島半島も火山群からなっている。そのため豊富な火山による地形が随所に見られ、素晴らしい景色を作り出している。例えば、湯量豊富で泉質の変化に富んだ数々の温泉。今でも、野趣溢れる露天風呂が多い。利尻や後志羊蹄といった富士山を思わせる秀麗な山容も、火山のなせる業。摩周、屈斜路、洞爺、支笏といった神秘をたたえた湖も、火山活動の副産物。これらのカルデラ湖は概して透明度が高いが、その中でも摩周湖は世界屈指を誇っている。層雲峡の柱状節理や花咲の車石も熔岩が冷え固まるときの、置きみやげ。ということは、あの層雲峡や銀河流星の滝の眺めも火山のおかげということになる。さらに、昭和新山、有珠山、十勝岳などの活火山は、火山活動の規模の大きさを改めて教えてくれる。

◆原始の面影を今にとどめる広大な湿原や原野
 造山運動や火山活動でできた山から流れ落ちる水が集まり、川となる。広大な北海道は、流域面積で全国2位の石狩川を初めとし、天塩川、十勝川などの大河をいくつも養い、その流域に豊かな平野を造り、ときとして三日月湖や湿原、泥炭地をもたらしている。開発が進んだ旭川から札幌、石狩にかけての石狩川流域でさえ、今でもその面影を巡ることは可能だ。
 その他に、サロマ、能取などの潟湖も多い。砂丘が発達した湖畔は、大半が北方系の花々の原生花園となっている。年をとった潟湖はしだいに浅くなると、釧路のような湿原になり、サロベツに見るような原野へと変化しながら、独自の景観を作りつつ独特の動植物に住拠を提供する。地平線が見られるのも、こんな環境があってこそか。

◆夏は短く、長い冬には流氷や樹氷が見られる極寒の地
 北海道の地形的特徴は、なんといっても日本最北の地ということ。氷点下30度を割る極寒を体験できたり、果てしない海を埋め尽くす流氷が見られるのも、高緯度に位置するからこそだ。
 短い夏以外は冬か冬の前後の季節で、春秋はないといってよいくらい。気候的には、冬の豪雪が特徴の日本海型、道南の太平洋型、初夏の濃霧が印象的な道東の太平洋東部型、冬に流氷がやってくるオホーツク海型に分けられる。全体に降水量は少なく、特に道東は全国平均の半分程度の所もある。

◆北海道ならではの固有種も珍しい動植物の数々
 動物は、津軽海峡に引かれたプラキストン線によって本州と区別されており、特に哺乳類にその傾向が顕著。ツキノワグマはヒグマになり、キツネはキタキツネ、シカはエゾジカとなり、全体に大型になる。絶滅したニホンオオカミとエゾオオカミを比べてもそうだ。
 また、アザラシやトドなどが生息するのもニホンでは北海道だけ、伝統的にアイヌにも敬われてシマフクロウ、タンチョウヅル、知床周辺が世界的な渡来地となっているオオワシ、高山の特定の場所に発生するウスバキチョウやアサヒヒョウモンチョウなどの蝶類、オショロコマ、イトウ、チップなどの魚類も特徴的な種類だ。
 渡島半島南部はブナ林の北限で、これより北では亜寒帯のエゾマツ、トドマツ、アカエゾマツなどの針葉樹、カンバ類、ニレ、ヤチダモなどの広葉樹が森の中心になり、道央では樹種の半数がカラフトや千島と共通になる。また、高緯度なので平野部でも高山植物の類を見ることができる。最北の礼文島では海辺から高山植物があり、ハイキング感覚で日本アルプスの高山帯に産する植物に出会える。極限された地域にしか見られない固有の高山植物が多いのも面白い。

◎北海道の歴史
 
◆繰り返された和人の進出とアイヌの抵抗闘争
 北海道最初の人類はシベリアと陸続きの時代に獲物を追って大陸から渡来し、住みついたらしい。彼等の残した道内最古の遺跡は2万年前くらい前の旧石器時代のものといわれている。渡来後も大陸とつながっていたが、1万年前に島になった。それに続く縄文遺跡は道内各地で発掘されている。最近、南洋起源の海の装飾品などが多数確認され、当時の文化交流が想像以上の広がりを持っていたことが分ってきた。本州では縄文の跡に弥生時代がやってくるが、北海道では続縄文文化、擦分文化と推移した。また、擦文時代には大陸起源とされるオホーツク文化も網走、根室、稚内を中心として広く展開された。
 鎌倉時代半ばになると、擦文、オホーツク文化とともに衰退し、アイヌ文化が全面に出てくる。和人の移住が始まるのもこの頃。それ以降、北海道が明確に日本の領土と意識されるようになる明治までの300年間、内政的には和人によるアイヌ支配の拡大強化の歴史と言い換えられる。

 北海道には新天地を求めた和人の増大が先住民族アイヌの生活を搾取と暴力で圧迫し始め、遂に1457年道南のアイヌがコシャマインを建てて軍事的に勝利した武田信広の末裔蠣崎氏は、豊臣秀吉に蝦夷島首と承認され、ついで改姓松前氏となり徳川家康の制書をうけ幕藩体制の一藩となった。松前氏は無高だったが、アイヌとの交易独占により利益を上げ、吉宗の時代に万石大名に列せられる。
 松前藩は当初、城下周辺の和人地以外のアイヌ居住地に場所(知行地の類)を設け上級者に分かつか、直轄としたためアイヌの使役が強化された。このような収奪強化の課程で、1669年にシャクシャインの蜂起、1789年には国後・目梨の戦いという和人進出に対するアイヌの抵抗闘争が起きるが、いずれも和人により鎮圧され、その後アイヌによる組織的な抵抗運動は耐える。その場所も、江戸中期以降は運上金を納める商人に交易を委託する場所請負所に変化する。

◆日本を開国へと向かわせた北の玄関口
 一方、中央から見ると辺境の北海道は、それ故に異国に開かれた窓でもあった蝦夷地に代表される、沿岸州少数民族、アイヌの手を経た中国からの北方ルートでの渡来品が、日本の上流階級でも広く珍重された。一貫した南下政策を続けるロシアと最初に出会った日本人も蝦夷地のアイヌと和人であり、彼等のもたらした情報が江戸後期の対外政策に大きな影響を及ぼし、最終的には開国へと向かわせた。外国からの開国要求が高まる中、1799年幕府は前戦である蝦夷地を直轄とするが、1821年に松前藩は返還している。
 この間に、高田屋嘉兵衛の択捉航路開設や、伊能忠敬の東蝦夷地測量、三官寺の創建、間宮林蔵の間宮海峡発見などが相次ぐ。松前藩最統治後も時代の波は避けられず、1854年、ついに日本は開国し箱舘が伊豆の下田とともに開港された。このときロシアとの条約で、千島列島は択捉以南が日本領主、樺太の帰属は保留された。

◆開拓使設置から青函トンネル開通まで
 明治維新の箱舘戦争終結の直後、開拓使が設置され蝦夷地が北海道と改称される。水稲試作、屯田兵制度導入、千島樺太交換条約による全千島列島を支配。札幌農学校開設、開拓使官有物払い下げなどが続き、様々な形で和人による日本化が推し進められていく。当時確立された北海道開発の二本柱、官主導と先住民無視はその後長期間にわたり存在している。
 1886年に道庁が置かれ、囚人の酷使を前提とした非人道的基盤整備事業が推進された。上川〜北見道路の開設が特に有名。1899年に交付された差別的な旧土人保護法は、百年近くたった今日、ようやく見直しが図られている。その頃、江差付近は砂金発見で沸き返り、ゴールドラッシュが終熄しつつあったアラスカから抗夫が流れ込むほどの賑わいをみせた。
 第1次世界大戦に際しては、薄荷、澱粉の成金が続出。1923年には樺太への定期航路稚泊連絡船の運航が始まった。その後、大陸や南洋に国家の目が向き、敗戦まで目立った事件は少ない。1954年に千人以上の死者を出した洞爺丸沈没事件を契機に青函トンネル構想が再浮上、34年後の1988年についに開通し青函連絡船は廃止となる。1972年日本で初めての冬季オリンピックが札幌で開催され、北海道が世界に広くその存在を知られることとなった。

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