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大空のサムライ (坂井三郎)コミュの日本人戦争体験話のお願い

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皆さん今日は!ただ今2段目の本を書いています。課題は元日本陸海軍軍人兵の戦争体験話です。米国では日本人の見た戦争がほとんど知られていない為この本を作成しています。

「勝ったものが歴史を書く」と言われますが、それが良くないと思います。正しい歴史、日本人の目で見た戦争体験をちゃんと米人に伝えたいです。政治的のことや戦争責任等のこと一切手を振りません。日本もアメリカもイギリスも中国も戦争責任が覆いますので、誰か悪いかは言えません。一つが言える、実際に戦争に参加した人が悪くは無かったと思います。

来年のクリスマスまでにBarnes & Noble経由で出版される予定です。名古屋市のトヨタ自動車に勤め10年間駐在し、間直接14人の旧日本兵の話を聞きましたが、現在ロスに住んでいるため中々で会い機会がありません。皆さんの周りに戦争体験の方々いらっしゃいませんか?(故境三郎氏にも直接お会いでき、光栄に思います)

下記の情報を集めています:

・名前(偽名でもOKです)
・聯隊名、大隊、中隊、小隊番号
・仕事類:歩兵、砲兵、衛生、騎兵等)
・参加した戦地名
・戦争の思いで(良いか悪い)
・その他

旧日本兵の方の語る戦争の体験の情報は手書きでもOK、カセットテープ’に録音してもOKです。

手伝って頂く人には本の「お礼」の部分にお名前を乗せ、一冊送風します。

お手数かけますが、よろしく御願いします。

Dan King

PS:2年まで日本に関係する本を出版しました。1894年〜1945年の日本軍の杯。
Japanese Military Sake Cups 1894-1945
日本人の目で見た戦争歴史に大変興味深く思っている米人が増えているため、御陰さまで米国、欧州へ1,700部を売られています。

コメント(12)

親父(大正7年生まれ1999年没)も陸軍で支邦に七年従軍していました。昔はよく軍隊のときの話をしてくれて写真も沢山残っていますが、文章とかは残っていないんですよね orz
親父や従軍経験のある人の話は断片的に記憶に残っていますけど。。。。
>sunshineさん
自分は残念ながらお手伝いできなさそうですが、証言をしてくれる方がみつかるとよいですね。戦友会などを当たられるとよいかもしれないです。
あー、剣道の師匠が従軍してたな。陸軍に。
米兵を上官の命令で殺したとか何とか。
今でも夢に出てくるぐらい断末魔が頭に残ってるそうな。

聞けたらこんど聞いてみます
うちの爺さんの話し


16歳の時に満州で陸軍に入って、飛行機の整備をやったそうです。終戦の時、28歳くらいかな。

浅草のすし屋のボンが軍人で機械屋だってんで地元じゃ変わりモンだったみたいです。

戦時中は物が無いのには閉口したそうですが、タイなど各地を転戦するのは旅行気分だったようです。

大東亜戦争初頭、タイに向けて進軍中の飛行場大隊の爺様は一度だけ、敵と正面からバッタリ出くわした事があったそうですが、当時の日本軍は強いと評判だったから、こっちがほとんど武器もなかったのに、敵さん逃げていくから面白かった。と回想してました。

戦地でものんきなもので、地元の可愛い女の子を写真とったり、タイの海はキタネ〜な〜と回想したり、でも、デング熱には参った!なんて言ってましたね。

極めつけは自分の写真を撮ってもらう時、将校から軍刀を借りてきて記念撮影!!これを自慢してましたね。終戦間際には、一介の町民出にピストルを持たせてもらったんだ!!と亡くなる前まで言っとりました。「車のナンバーは覚えられないんだけどピストルナンバーは今でも覚えてるぞ!37467**********」とね。

自分の爺様は将校でもなんでもない平民出だったのでピストルは、まるで自分が出世したような気持ちで誇らしかったのでしょう。

そんな楽天家の爺様ですが、終戦の年、地元に帰った時、浅草はB−29の焼夷弾で全滅。家も地元も焼けてしまって茫然自失となり、後年の回想記にも

「なぜ、非戦闘員をこんなに殺すのか?」

とつづっておりました。玉音放送は埼玉の飛行場で迎えたそうです。その基地には最新鋭の4式戦闘機「疾風」が100機以上あったのでまだまだ戦える!と思ったそうです。

ですが、終戦を迎え、米軍のブルドーザーが基地までやってきた時、そのブルドーザーの大きさにビックリし、「疾風」を中央に集めて燃やした時、あまりのくやしさに泣いたそうです。

爺様は終戦後、軍隊で身につけた機械工作の技術と、軍隊から出た退職金で、羽田に工場兼自宅を建て、東京大空襲の時、助けた婆様と結婚し、幸せに暮らしました。

我が家では正月に食べるお雑煮ですが、戦時中鶏肉がなくて、鮭のカンズメを入れた所、意外と美味しく、今でもお雑煮といえば鮭のカンズメが入っています。

死ぬほど大変でも必死に生きた人の人生は輝いてみえます。うちの爺様は恵まれてたのかもしれませんけど。
タウリンさん

いいお話ありがとうございました。

>地元の可愛い女の子を写真とったり

 あ〜そういうのウチの親父もあります。
 「中国人の女は若いうちはかわいいけど年とってしぼむのが早い」なんていってました。

 アメリカ軍の飛行基地に攻め込んだら敵はさっさと逃げてしまって、残った基地にはバー(酒のむとこね)が沢山ならんでいて、「敵はこんなに優雅にやっていたのか」とあきれたそうです。
新三郎@まっちゃん2 様

私は、世代を超えて語りあえる生の声を知る事ができてよかったと思いました。ありがとうございます。

爺様はくどいほど当時の話しをする人だったので、私の親なんかは「青春時代の話しが楽しいんだよ」なんていってました。

10年前、最後にお年玉をもらった時は「銀翼のレクイエム」陸軍編と海軍編(ビデオテープのセット)でした。笑
親戚に特攻隊の生き残りが居るらしいんですけど、まだあった事無いです
お詫び
 
 月刊Jwings5月号「歴史をつくった航空人列伝」
 「坂井三郎物語」第3話において
 享年82歳との記述にしておりますがこれは「84歳」の誤りです
 気が付き訂正を試みましたが出版に間に合いませんでした
 6月号で訂正欄が掲載されるはずですが
 フアンの皆さんに申し訳なく、訂正してお詫びいたします
 
 これからは記述には充分気をつけて執筆するつもりですので
 これに懲りませず今後ともご愛読の程
            よろしくお願い申し上げます
 
父方の祖父は中国〜ビルマ方面に行ってましたが、戦ったのはほとんど白い服を着た蒋介石軍かイギリス軍インド人兵だったそうです。夜になると楽器を弾きながら歌っている英軍陣地に手榴弾を持って夜戦を挑み、昼は「弾がもったいない。」「手榴弾がもったいない。」という事で戦う時が少なかったのと、撃ったら撃ったで100倍くらい機関銃で撃ち返されるから撃つなと上官に言われていたそうです。敵の兵隊が自分達の隠れている村を捜索に来たときも、こちらが攻撃しなければ攻撃されなかったらしいです。敵戦闘機に攻撃した友軍の部隊が爆撃&機銃掃射に合い全滅するのも見たらしいです。

じいさんは機関銃の弾が足に当たりタイの病院で終戦をむかえたらしいです。戦死者は、ほとんどが病死・餓死だったそうです。祖父は今も元気です。

母方の祖父は愛知県に配属された第五戦隊のパイロットでした。二式複座戦闘機「屠龍」でB−29を撃墜した時の話、5式戦闘機の話、夜戦で激しい機動の後上と下が分からなくなったとか、ボンベの酸素を温存したら頭がクラクラしたとか、急上昇したら失神して海に落ちそうになったとか、僚機と飛んでたらいきなり斜め後ろから敵機に襲われ仲間が戦死したとか、特攻の命令の話などいろいろ聞きましたが、当時小学生だったので理解できる事が少なかったです。

第五戦隊については元隊員の方が本を出しており、それには厚木事件の話や敗戦直後に全機特攻の作戦があったなど、当事者しか知らないような話が満載です。
昭和2年生まれの伯父が元予科練で特攻隊帰りです
松山の基地で出撃命令を待っていたのですが、空襲で乗機強風が地上撃破され、補充待ちしてたら終戦だったそうです
しばらく前までは丸や新聞に投稿してたようです

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