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聖書の学びとdevotionコミュの▲学び マルコ福音書

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マルコによる福音書を少しずつ読んで行きます。

基本的に1章から少しずつやろうと思いますけど、思いつきで、

マルコに関することなら、何でもokです。

wiki↓
http://qrl.jp/?263109

コメント(70)

あ、すみませんが甘えついでに、ルカ15:16の「いなご豆」のギリシア語はなんというのかも教えてください。
>31

。。遅れました。

「ケラティオン κερατιον」です。
LXXを含めて、ルカ15:16にしかないですね。詳細な辞書がないので、ここまでです。
>32
木人さん、ありがとうございます。
アクリスなんとか、ではなくて、結構違う言葉なんですね。
κとρの共通点はありますが。
駄目押し:

レビ 11:20-2
 羽があり、四本の足で動き、群れを成す昆虫はすべて汚らわしいものである。
 ただし羽があり、四本の足で動き、群れを成すもののうちで、地面を跳躍するのに適した後ろ肢を持つものは食べてよい。
 すなわち、いなごの類、羽ながいなごの類、大いなごの類、小いなごの類は食べてよい。
 しかし、これ以外で羽があり、四本の足をもち、群れを成す昆虫はすべて汚らわしいものである。

蝗は、律法に特例を設けてまで食べてもいいことにした食材ですね。
なるほど、古代イスラエルでもともと食べて良かった、おそらく普通に食べていた食材だったわけですね。

母も疎開先の長野で佃煮を食べさせられたと言っていました。
食べられるとわかっていても、私は食べる気しないな。
【マルコ1:16−20】 弟子の召命 (ノート一部貼り付け)

v16
ガリラヤ湖のほとりで、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネを弟子にする。この二組は兄弟&漁師という共通点。
「シモン」は、3:16で、ペテロ、というあだ名を、「ヤコブ」と「ヨハネ」は、3:17で、ボアネルゲ(雷の子)という名をイエスにつけられる。
ちなみにシモンとアンデレはカペナウムに住んでいたことが、1:29を見るとわかる。
彼らが漁師なのは、網を打っているということで普通わかるが、17節の「人間をとる漁師」とのコントラストを明確にするために「彼らは漁師であった」が加えられていると思われる。

v17
直訳すると、「さあ、私の後に!わたしがあなたがたを人間の漁師にする!」
「あとについていく」というのは、当時の教師に対する弟子の姿。
しかし、ラビは弟子をこのように召すことはないし、家族関係をも破棄させるような召しは、ラビや単なる教師というよりも、預言者としてイエスをとらえていたと考えられる。
また、その召命に、後に出てくる「権威」が感じられる。

「人間の漁師」(参考アモス4:2、ハバクク1:14、15)
この旧約に出てくる比喩も、また、捕られた魚のことを単純に考えてみても、魚にとってみたら、悲惨なものであり、さばきとしてとらえられるが、
イエスの生涯とその目的はさばきというよりもむしろさばきからの救いであり、
この漁師の比喩も、さばきというよりも、むしろさばきからの救いをあらわしていると言える。

v18
「すぐに・・・従った」
これが模範とすべき応答というようにとられがちだが、20節やその他の用法を考えると、ここでの「すぐに」は、この情景を導くものとして用いられているかもしれず、ここから”すぐに従うべき”、という法則を導くのは早急かも。

イエスに従う、ということは、他のものを置く、ということが同時にある。
ここでは、網であり、また20節では父であった。
ここでは、「捨てる」という意味はあまりない。ほっておく、そのままにして、という感じ、
結果的に捨てる、ということになったかもしれないが。
また、すべてを捨てて、というわけではなかった。
シモンはイエスが十字架に架けられた後、一度漁師に戻っている。
そして、家や家族に対しても、29−30節を見ると、捨てている、という応対はしていない。
しかし、それでも、漁師をやめる、ということは、その生活スタイルを
一変させてしまうものだったろう。
ペテロは10:28で、「何もかも捨ててあなたに従ってきました」と言っている。
【マルコ1:21−28】 会堂にて

v21
「一行は」
イエスは単独で行動されたのではなくて、いつも弟子と一緒だった。
それは、弟子たちにイエスの宣教とその意味を行動によって見せて、教えていた。

「安息日に会堂に」
イエスの宣教も、パウロの(特にはじめの)宣教も、シナゴーグと呼ばれる会堂を中心に、安息日に行われていた礼拝で行った。
v22
「権威あるもののように」
人々はイエスの教えに驚いた。
「権威ある」という言葉はBDAG(辞書)によると、支配、命令の権利を持っているということ。
汚れた霊さえも従うほどの権利、その資格がある。
つまり、イエスは、普通の人間にはない資格や権利をもっている、
2:10では、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを」
と使われている。つまり、イエスは神と同等の権利、資格を持っている。

v24
「神の聖者」
汚れた霊につかれた人の告白。3:11、5:7にも同じような場面がある。
しかし、その場合は、「神の子」と告白している。
ルカ1:35にマリヤに対して御使いのことば「生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれる」とある。
神の聖者、神の子、というのは、別のものというより、同じものを指すと考えられる。

v25
「黙れ」
イエスが神の子キリストであることを、時がくるまでは公になされなかった。それでいやしのわざなども、弟子たち以外にはあまり公にされなかった。
しかし、悪霊は知っていたので、イエスは黙れ、と語られた。

ここでの権威(27)も、22節と同様、それを命じ、従わせるだけの地位にある方ということ。
【マルコ1:29−39】 @ペテロの家近辺

カペナウムのシナゴーグ(ユダヤ人会堂)で教えられた後、近くのシモン(ペテロ)とアンデレの家に行く。
そこでシモンのしゅうとめの熱をいやす。?コリ9:5でパウロが書いているように、ペテロは結婚していた。

v32「日が沈むと」
会堂で悪霊を追い出したことが広まっていたので、「日が沈むと」人々は病人や悪霊につかれた人たちをイエスのところに連れてきた。
何故日が沈んでからかというと、その日は安息日だったから。
安息日には「仕事」をしてはならず、病を治療されることも、それが命にかかわることでなければ禁止されていた。日が沈むと、安息日は終わった。

v34「悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった」
これもv25と同じ理由。イエスが誰であるかを知っていたから。
【マルコ1:40−45】ツァラアト(らい病・重い皮膚病)のいやし

新改訳第三版の大きな変更点が、「らい病」→「ツァラアト」。
ツァラアトというのは、ヘブル語の音のカナ表記。新約のギリシヤ語はレプロスだけど、ツァラアトにそろえた。賛否両論あり。
当時、ツァラアトは、神に呪われた、神以外には治せないという病で、しかも伝染するものだったので、恐れられ、嫌われていた病だった。そのツァラアトを癒すもの、というのは、特別なしるしであった。

病をいやし、悪霊を追い出し、またツァラアトのものをきよめる、これは、マタイ11:5、ルカ7:22でも語られているが、旧約聖書において預言されていた、来たるべき方、メシヤのしるしであり、また神の子のしるしだった。(イザヤ61:1参照)

イエスはいろいろな方法でいやしのわざを行ったが、このツァラアトの人の場合は、わざわざ触られた。
伝染病にさわっていやす、というところにイエスの愛が感じられるところだが、まさにイエスは罪と病をその身に引き受けて下さった(イザヤ53章)。

イエスはツァラアトを癒されたあとに、旧約聖書にしるされた律法のとおりに行うことを命じている。これは、イエスが律法を破棄するものではなかったこと、そして、社会的にも彼が認められることを考慮しておられると思われる。

この人物は、だれにも言わないように、といわれていたのに、言い広めてしまって、イエスの働きの妨げとなってしまった。ただ、福音の力、よろこびは、とどめることのできないものであるとも思う。
どうでもいいんですけど、イナゴって群れをなして
大量移動しないんですよね。
大量発生のイナゴ(のような生物)が大群をなして
移動する描写があったりしますけど、これは別の
バッタの事をイナゴと呼んでいるんでしょうね。

というかバッタ全般のことをακρισと呼んでいるのかな、
と予想してみたり。
Nickさん、書込みしていたのですね。キガツキマセンデシタ(外人)

ακρισを辞書(BDAG)で見ると、"Schistocerca gregaria"というのがありました。何のこっちゃと更に調べると、サバクバッタというのが日本名だそうです。イナゴとバッタの違いもよくわかりませんけど、イナゴはなんとなく食べれるけど、バッタは食えない、食いたくない、という印象です。
。。やっぱイナゴも食いたくないかな。
【マルコ2:1−12】罪を赦す権威についての議論
(2章タイトル:「議論・衝突の開始」)
v1.「数日たって」1章最後のツァラアトのいやしの出来事から、数日。
1:45に、この出来事があったために、「表立って町の中に入ることができ」なかった、とあるので、すこしあいだがあったか。
「カペナウム」は、ガリラヤ地方の一都市。ガリラヤ湖の北に面する町。
カペナウムには、シモン=ペテロとその兄弟アンデレの家があった。
「家」というのは、このペテロの家だったかも知れないが、それについては何も書いていない。ここで「家」というのは、だれかの家というより、外ではなくて、家に、という意味かと。
v.2「みことばを話しておられた」新約聖書の中で、「ことばをはなす」という言い回しが、この箇所とマルコ4:33、そして使徒に7回、へブルに2回出てくるが、すべて、主のことば、神のことばとして、使われている。
 これは、マルコ4:33を見ても、単に旧約聖書について語っていたというよりも、イエスのことば自体を、神のことば、みことば、としてあらわしている。
 ここで語っていたことの具体的な内容はわからないが、神の国の福音についてのなんらかしらの事柄だろう。
 病のいやし、悪霊の追い出しだけをイエスは行ったのではなくて、このようにみことばを語ることをも行われていた。
v.3「中風」(paralutiko,j>化けてる^^;)英語paralytic ...麻痺患者
大辞泉「悪風に中(あた)る意》脳卒中の発作の後遺症として主に半身不随となる状態。中気。ちゅうぶ。」
大辞林「脳出血・脳梗塞や脳軟化により、運動機能障害ことに痙性(けいせい)片麻痺や言語機能障害をきたした状態。中気。風疾。」
v.4「屋根をはがし、穴をあけて」屋根はおそらく簡易なものであったのだろう。
屋上につづく階段が外にあり、簡単に屋根にいくことは出来たと思われる。
v.5「彼らの信仰を見て」イエスのところに連れていけば癒される、という、屋根からつりおろすほどの信仰。その中風の人を含めた、5人の信仰かと。
「あなたの罪は赦された」イエスはツァラアトを癒したように、手を触れて癒そうとされたのではなくて、ただ、罪の赦しを宣言された。
*罪と体の病との関係について
旧約聖書において、たとえば詩篇41篇4節など、罪を犯したことと、病との間に密接な関係を見ることができる。しかし同時に、ヨブのように、罪とは直接関係のない病もある。
新約聖書においても、たとえば生まれつきの盲人に対する弟子たちの反応は、「誰が罪を犯したのか」というものであり、イエスの答えは「だれでもなく、神のわざがあらわれるため」というものであった。
この中風の人の場合はどうか?
三つの可能性
? この人の場合、罪が直接かかわっていることにイエスは気づいた。
? その人が、(正しいか間違っていたかわからないが)そう思っていた。その人が体のいやしよりも、罪のゆるしを求めていた。
? 律法学者たちに対して自分の権威を明らかにするために、この機会を用いてそのように言った。
ある注解者は、?か?ではないか、と言っているが、それも推測の域を出ないので、はっきりとしたことはわからないとも語っている。
v.7「神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう」
この律法学者の理屈は、確かにあたっている。罪は神に対して犯すものであるから、神以外に罪を赦すことができない、というのは、正しい。
これに対して、10節で、イエスはこのように答える。
「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために」
マルコにおいて、ここではじめてイエスは自分を「人の子」と呼ぶ。
この「人の子」というのは、マルコ13:26の記述と一致することからも、おそらくダニエル書7:13−14に出てくる「人の子」を指して言っていると思われる。
この「人の子」とは、世の終りに来られる王であり審判者であり、メシアであることをあらわしている。
その「人の子」であるイエスが罪を赦す権威を持っている、つまり、神と同等の権威を持っている、ということ。
v.12「神をあがめた」イエスの行っていることが、神からの権威であることをみなが認め、神をあがめた。  。。長くなった。
> 40 Nick(長官)さん

それ、教会学校の子供が10人に一人ぐらい気づく「聖書の間違い」です。ただし男の子限定。群生相にチェンジする特性をもつバッタで日本に生息するのは殿様飛蝗だけ。ていうか、IMEがバッタで飛蝗と変換したんですが、この「飛蝗」こそが群生相の災害形態なわけで。

江戸時代の水呑百姓が昆虫図鑑を持ってて稲子と飛蝗を区別してた筈はないので、明治以降洋学の博物学的分類を始めた学者先生連中が、単なる別称であったバッタとイナゴを別の種の和名に勝手に割り振ってしまったんでしょう。で、それが文語聖書より後だったのか、聖書を訳した連中はむしろ農民に取材していかにも害虫らしい名前の方を採用したか、でしょうな。
> 42 木人さん

その、罪と癒しの関係について「敬虔でないクリスチャン」というコミュで今まさに突っ込まれている最中。てゆーか、勝手なこというわそれをあっさり信用するわの素人ばっかで、オレ一人で浮いてる状態w。

>「敬虔でないクリスチャン」
いろんなコミュがありますね^^;
ちょっと探して覗いてみよ。。
【マルコ2:13−28】

?13−17「罪人との食事についての議論」

14「アルパヨの子レビ」マタイの福音書を書いたマタイ。このレビは取税人だった。取税人は主にローマに支払う人頭税を集めていた。なので、ユダヤ人からは裏切り者あつかい、罪人あつかいされていた。
15「彼の家で」レビの家で食事をされた。
16「パリサイ派」
「分離された者」を意味する〈ヘ〉パールーシュ(アラム語でペリシュ)に由来すると言われるが,それが何から分離するのかは明らかでない。一つの説明は,〈ヘ〉パールーシュは「聖」という語と共に用いられることがあるので,「聖徒」と同じ意味で用いられ,彼らがさまざまの汚れから自らを分離して,きよく身を保とうとしたというものである.
以上のようなことからも、パリサイ人は罪人を軽蔑し、分離しようとしていたので、このように発言したと思われる。
しかし、イエスの使命は17節で語られるものであった。
17「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
「正しいもの」ここに、パリサイ人に対する皮肉がある。パリサイ人は自分を正しいものとしたが、イエスの目から見れば、罪人であっただろう。しかし、自分を罪人として認めるものを、イエスは招いて下さる。

?18−22「断食についての議論」

パリサイ人は週に2回断食を行い、宗教的熱心さを表現していた(参:ルカ18:12)。
バプテスマのヨハネは、罪の悔い改めを説いて、その悔い改めとして、断食を勧めた。
このパリサイ人の質問に対して、イエスは婚礼のたとえで答える。
花婿といっしょにいるときには断食はしない、しかし、取り去られる時、それは十字架に引き渡される時を語っていると思われる。

そこからさらにイエスは二つのたとえをもって、パリサイ人に答えられる。
古い契約は新しい契約にとってかわられることを暗示しておられる。

?23−28「安息日についての議論(その一)」

申命記23:25で、他人の麦畑であっても、かまではなく、手でつむことは罪ではないことが記されている。ここでパリサイ人が問題にしたのは、それが安息日で、パリサイ人の規定によれば、麦をつむことも安息日にしてはならない、と考えていた。
それに対して、イエスはまず第一に、ダビデの行為を引き合いに出している。
?サム21:1−6。
この事件は、聖めのパンを食べるという、麦をつむ以上のことを行って、しかもそれがとがめられていないことが記されている。ここにパリサイ人の律法主義の間違いを指摘されている。
さらに、パリサイ人が考えていることが、本末転倒であることを、イエスは指摘される。
安息日は人間のために設けられたものだということをはっきり語る。
そして、最後に、「人の子は安息日にも主です」と答える。

これは、イエスご自身が、律法の上に立つものであることを宣言する、やはり神と同等であるという発言である。
【マルコ3:1−12】(3章タイトル:「イエスの権威」)

? 1 − 6 「安息日についての議論(その二)」
? 7 −12 「ガリラヤ湖でのいやし」
? 13−19 「12弟子の任命」

? 人間のために律法があるのに、律法で縛っているパリサイ人に対する非難。
1「会堂に」どことは書いていないので、わからないが、おそらく1:2に出てくるカペナウム(?)。
2「彼ら」..6節の「パリサイ人」。
4、5 律法の精神ではなく、先祖の言い伝えによる律法厳守によって、神のみこころを行っている、神の前に正しいとし、また、それを行うことの出来ない人をさばくパリサイ人に対して、イエスは非難している。
6 この後、パリサイ人は自分の考えを改めるのでなく、ヘロデ党と組んで、イエスを「葬り去ろう」と、相談しはじめる。それが、5節の「心のかたくなさ」にあらわれている。

? 「ガリラヤ湖でのいやし」
7、8 多くの人がイエスの「行っていることを」聞いて、集まってきた。近くから遠くから集まってきた。
9 イエスは、小舟を用意しておくように弟子たちに命じる。
イエスはたびたび舟にのって、そこから群衆に向かって語った。
4:1にも、イエスが舟にのり、群衆が岸辺にあつまってイエスの話を聞いている。
11 汚れた霊が「あなたこそ神の子です」と叫ぶ。1:24と類似。
イエスはそのときと同じようにその悪霊に向かってイエスが誰であるのかを知らせないように戒める。

?「12弟子の任命」
14、15 直訳「彼らを身近において、遣わし、福音をのべつたえさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるため」。
→12人を任命した目的は、二つ。第一に、身近におくため。第二に、遣わすため。その遣わしたところで、福音をのべつたえ、また悪霊を追い出す。
イエスとはじめから行動をともにしたかが、使徒の条件(使徒1:22)。

○マルコの福音書は、出来事をでたらめにならべているように一見見えるけれど、よく考えられているよう。

1:16から3:19までがひとまとまりになって、イエスのはじめの言動を凝縮している。
3:20から3章最後まで、イエスの権威が聖霊によるものであり、神の権威によってそのイエスの言動がなされていることを保証している。

<1:16−3:19>
A 弟子の召命
B 悪霊の追い出し(黙れと戒める)・いやし
ツァラアトのいやし(知らせないように厳しく戒める)
中風のいやし<罪を赦す権威>
「罪人を招くために来た」
律法に関しての論争
律法に関しての論争<片手のなえた人のいやし>
B´いやしと悪霊の追い出し(戒める)
A´12弟子の任命

へブル/ギリシヤ語文法に、同心円構造という手法があるが、それかも。
この3章までの間に、イエスがはじめに行われた行為に特に焦点があてられている。そのあとの4章では話<神の国>の内容に焦点がしぼられている。
↑上のは【マルコ3:1-3:19】だった。

【3:20-35】

?20-30「悪霊を追い出す権威」
「ベルゼブル」というのは、もともとは「家長」「家の主人」という意味。この当時、悪霊、サタンのかしらの別名として用いられていた。
悪霊を追い出す神の霊、聖霊の働きを、悪霊の働きとした律法学者に対して、イエスは「永遠に赦されない罪」として非難。

?31-35「イエスの家族」
イエスは家族を大切にしなかったということではなく、神のみむねを行うものは、神の家族、イエスの家族である、ということ。イエスは神のみむねを行う代表者でもあった。

3章の最後は、イエスの福音のはじめ(1:1)の総括のような感じ。イエスはさまざまな行いをしはじめたけれど、それが神の霊によるものであり、神のみこころを行っていたことを語る。
【4:1-20】「たとえで語られるイエス(その1)」

?  1-9 「蒔かれた種のたとえ」
v3「よく聞きなさい」:聞きなさい、という言葉と共に、「さあ」「そら」とも訳せる注意を促す言葉が続く。イエスは人々に語る前に、よくこのように注意して聞くべきことをまず語られた。この呼びかけは、申命記の、「聞け、イスラエルよ」という神の呼びかけのことばと重なる。
このたとえも、「聞く」ことについて、語っている。
 ? 道ばた    → 鳥が食べた
 ? 土の薄い岩地 → 芽を出したが、根がないので枯れた。
 ? いばら    → いばらがじゃまをして、実を結ばなかった。
 ? 良い地    → 実を結び、30、60、100倍になった。
並列というより、段階的に書かれているかも。
?芽も出さない ?根がない ?実を結ばない ?実を結ぶ

v9「聞く耳のある者は聞きなさい」23節も同じ。
直訳「聞く耳を持っている者は、聞け!」ただ「聞け」でも、「耳のあるものは聞け」でもなく、「聞く耳のあるものは聞け」とずいぶん強い言い回し。
聞く気持ちのない人は聞かなくてもいい、という、とても厳しいことば。
聞きなさい、とはじめて、最後にまた、聞きなさい、という言葉で終わっているのは、神のことば、イエスに聞くことが重要ということかと。
ローマ10:17「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによる」。

? 10-20「たとえの解き明かし」
v10「いつもつき従っている人たち」直訳「まわりにいる人たち」
十二弟子以外にも、いつもイエスのそばにいる人たちがいた。
v11,12:群衆にたとえで話される理由。群衆は、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため(イザ6:9,10節)
その意味を知ろうと、心にとめながら真剣に聞こうとするときに、その意味がわかるのかもしれない。but群衆の多くは、自分を満足させてくれるため、喜ばせてくれるためにイエスを見に来たのかも。わからないのであれば、イエスのところに行って、尋ねるべき。

v14-20種蒔きのたとえの意味
種とはみことばのこと。
?みことばを聞いても、すぐにサタンが来て、そのみことばを持ち去ってしまう人。
?みことばのために困難や迫害が起こると、つまづく人。
?世の心づかいや富みの惑わし、そのほかの欲望のためにみことばがふさがれ、実を結ばない人。
?みことばを聞いて受け入れ、30、60、100倍の実を結ぶ人。
異邦人ではなく、イスラエルに語られた。現代では、未信者というよりは、クリスチャンに語られていると理解できるか。
「実」とは?
コロサイ1:6,10が同じ言葉→救われる人が起こされる<宣教の実>の意と、良い行いという意味での実か。
ちょいマンネリ気味なので、面白そうなとこだけ、ちょい書く。

マルコ11章真ん中。ここ読んで、つまずく人がおおそうな場所。

イエス、はらへりでいちじくの木のそばに→実なし→イエス、いちじく呪う→枯れる。
マルコは呪い→枯れるの間に、宮きよめの記事を挿入。というか、これが詳細な描写と思うけど。
ペテロが「うわっ枯れてる」と言うと、イエスは、「祈って信じれば、なる!」と、わけのわからないことを言う。
昔予備校の世界史の先生が、この記事をとりあげて、「イエスはほんとうに人間的な小さな奴!」と言ってた。長くなったので、一度投入。
で、50の答えです。

マルコ11章は、他のとこ以上に旧約との関連が深い。例えばエルサレム入城→ゼカリヤ9:9、その前のオリーブ山方面から来たこと→ゼカリヤ14:4、エゼキエル43:1-5(栄光がオリーブ山から去って(エゼ11:23)また戻る預言)。ロバがつないである→創世記49:10-11など。
エルサレムに一度入って、見回ってベタニヤに帰る。翌日またエルサレムに向かう時に、例のいちじく呪い事件。
で、このいちじくの木は、エレミヤ8:13、24:1-10、ホセア9:10、16-17、ミカ7:1などを見ればわかるように、イスラエルを指して語られている。中間時代のユダヤ文書なんかには、もっと頻繁にその比喩が使われているともあった。イエス自身もルカ13:6でその比喩を使ってる。
葉は茂っているが、実はない。それはイスラエルの信仰の状態−立派なエルサレム神殿における形骸化した信仰を示していて、イエスはそのようなイスラエルをきよめ、さばく権威が与えられていた。マラキ3:1fにもそれが語られてる。
イエスはエルサレム神殿で、神の家は祈りの家と唱えられるべき、とイザヤ56:7、エレミヤ7:11を引用しながら非難する。そして、弟子たちにいちじくの木のことを通して、形骸化した信仰でなく、真に神を信じよ、と教えている。ってのが真相。
【カイザルのものはカイザルに】(12:13-17)

無花果に引き続き、トピックで記述。
この言葉はクリスチャンでない人にも知られているのでは?でも、新共同訳では、「カイザル」でなく、「皇帝」と訳されているんだね。
政教分離を表す言葉として使われたりするけれど、その解釈は正しいか?

。。イエスを殺そうとするサンヘドリン(祭司長ら)は、パリサイ人とヘロデ党を遣わす。そして、カイザルに税金(人頭税)を払うべきか、と尋ねる。
払うべきと言えば、イエスをローマの支配から解放する王として迎えようとしている群衆を離れさせ、その間に捕らえる機会を得ることが出来る。
払うべきでないと言えばローマに訴えてやはり捕らえる事が出来る。
そのような罠の中で、イエスは人頭税に使われていたデナリ銀貨を持ってこさせ、そこにはだれの肖像があり、だれの銘があるか、と尋ねる。
「カイザルのです」と答えさせた後のイエスのことばが以下。
「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返せ」

。。ちなみにこのデナリ銀貨、買えるんだよね。入札してみようか迷ってる。
http://kat.cc/079e87
(つづく)
ティベリウスのデナリ銀貨、入札してみたけど、予想以上に値段があがり、落札出来ず。

この「カイザルのものはカイザルに」に関して、簡単な釈義ペーパーを書いたことがあったのだけど、旧PCに入っているらしく、そのコピーを以前に謝ってフォーマットしてしまったので、旧PCを立ち上げるか、HDDを取り出して、今のにつなげないとだめだ。。

。。そのペーパー書くきっかけになったのは、Bible Reviewという雑誌(magazin)に、「カイザル・・」の本当の意味は?みたいな特集があって、それを読んだからでした。
(What Jesus Really Meant by “Render Unto Caesar” ( BR 19:02, Apr 2003)
)で、これネットで読めるかなと思ったら、年間50ドルの会員にならなきゃならないので、安いんだか高いんだかという感じで、保留中。
http://www.bib-arch.org/bswb_BR/indexBR.html

で、本題になかなか入れず、また今度。
ご復活おめでとうございます。(まだ早い?)
昨日我慢した分、今日は気にせず思う存分食べてます。昼食だけで軽く千カロリー以上採ってるかも。

オークション残念でし
「カイザルのものは…」のお話が面白そうなので、そのタイトルで検索してみたら
http://www.thelordsway.net/Beliefs/render.htm
別の記事だけどこんなのが最初に引っかかりました。

斜め読みしたら、イエス様は「各自がユダヤの神か、皇帝か、どちらを神とするか選べ」という趣旨でおっしゃっているのだとサイト主は解説していました。
デナリ銀貨の銘には"Augustus Tiberius, son of the Divine Augustus"のラテン語が刻まれていて、要するにティベリウスは神の子とされているわけですね。

神殿税と皇帝の両方に払えと言ってるわけじゃなかったんですね。
もしかしたら、木人さんが書かれたのもそういう趣旨の論文だったのでしょうか。
そのうち旧PCから出てきたらアップしてください。
Felineさん@
おめでとうございます!(早い気もするが)
Felineさんは、受難を覚えて断食されてるのですか?

「カイザル」の上のリンク、少し読んでみました。知らない要旨なので、興味深いです。
後で書こうと思ってたのですが、ご指摘のように、デナリ銀貨には、ティベリウスの顔と、「TI[BERIUS] CAESAR DIVI AUG[USTI] F[ILIUS] AUGUSTUS」=「ティベリウス/神であるオクタビアヌスの息子」と書かれています。その裏には、王座に座るティベリウスが、オリーブの木の枝を持つイメージと、PONTIF[EX] MAXIM[US]=「いと高き祭司」と書かれています。(52のイメージ参照)
真の神の子であり、いと高き祭司であるイエスがこれを見て、どう思ったかと想像します。

私のペーパーかBRの主旨、それほどたいしたものでもないので、覚えているとこ書きます。
ポイントは、イエスが、「だれの肖像、だれの銘か」と言った時、その肖像・銘という言葉を聞いて当時の群衆たちは創世記1:26の神のかたちに造られた人を思い浮かべたのでは、というものです。
そして、カイザルのもの=デナリ銀貨であるのに対し、神のもの=神の肖像・銘の刻まれた人間、という公式が成り立ち、このところからも、イエスがエルサレムに来て以来戒めてきた信仰の形骸化を悔い改め、神に献身し、真の信仰に帰るべきことを語っている、てなかんじです。
木人さんのはまた違うバージョンの話でしたか。
なるほど、神のイコンである人間は、神のもとに立ち返るべきですね。いい話をありがとうございました。

うっかりおめでとうと言ってしまいましたが、そちらの教会では日曜の朝から復活祭だったでしょうか。
カトリックは土曜の夜から復活徹夜祭があるので、こちらの習慣で言ってしまいました。
午後に挨拶するのはまだ早すぎるかも、という意味でした。

ということで先ほど復活徹夜祭にあずかって帰ってきたのですが、日本人が驚くほど少なく10人。ほとんがブラジル人で、あとはベトナム人。でも典礼の言語は日本語というなんだか妙な雰囲気でした。例年はほとんどが日本人なのですが、みんなどうして来なかったんだろう?
受洗者4人のうち3人が外国人ベイビーたちだったのを知って遠慮したのかもしれません。
夫も私も少ない日本人の中から選ばれて聖書朗読を担当してきました。


聖金曜日は子供と老人をのぞいて、カトリック信徒全体が断食デーなのです。
といっても完全断食ではなく、肉は食べず、ふだんの1/2〜1/3の量というゆる〜い規定です。
でも私なんぞは主のご受難に思いをはせることより、ただおなかすいたと思って過ごすだけなので、信仰になんのプラスにもなっていないと思います。情けない。

カトリック教会は土曜の夜からイースターという感覚なんですね。
ちなみに、「イースター」という表現をするの?これって異教起源の名称(?)だから、ちょっと抵抗あるんだけど。
>イコン
イコンて東方教会でよく聞くけど、よく知らなかった。ちなみにデスクトップの「アイコン」も、この「肖像」のgreekから来てるんだと思う。

受難日の金曜は、受難礼拝、受難祈祷会なんてやる教会が私たちの周りには多いけど、断食する人はあまりいないなぁ。それと日本人は信仰が国民性もあって積極的でないのかな?それをしているFelineさんは私よりずっと受難を覚えていると思います。
> 57 木人さん
> ちなみに、「イースター」という表現をするの?これって異教起源の名称(?)だから、ちょっと抵抗あるんだけど。

確かに「イシュタル祭」なんだけど、他の英語表現ではなんと言うんですか? リザレクションなんたらってのがあるの?


> ちなみにデスクトップの「アイコン」も、この「肖像」のgreekから来てるんだと思う。

思わなくていい、常識だから断言しちゃってw。
復活祭という言い方のほうが多いかもしれませんが、イースターも使います。
わたしはクリスマス同様「異教の習慣をすっかりキリスト教化してやったぜ。エッヘへ」と思ってるので平気で使えます。
LucifeRさんが言われるように英語圏ではほとんどEasterじゃないでしょうか。

イコンもうちらのほうではそこそこ使われている表現です。ところ違えば表現も違うものですね。
横レス。。。。

フランス語だと、イースターは、Pâques -- 過ぎ越し pascha からの派生語のようです。土曜日がSamedi << Sabbat-dies 安息日。英語圏より聖書的です。
> 60 Hong kong Joshuaさん

あれ、じゃあおフランス語で土星や農耕神はなんというんですか?
お!Hong Kongさんもいつの間にか入って下さったのですね。
よろしくお願いします。

。。フラ語ってユダヤ起源のものが多い?
LucifeRさん>>

たぶん、知っていてあえて尋ねておられるのでしょう。

フランス語の場合、他の曜日や、農耕「神」は、異教からは離れられませんね。

月 Lun-di 月
火 Mar-di 火星 マルス 
水 Mercre-di  水星 メルクリウス
木 Jeu-di  木星 ユピテル
金 Vendre-di 金星 ウェヌス

農耕神は、たぶん Saturne ですが、土曜日には現れません。

ポルトガル語だと、(週の)第二日目、第三日目〜〜〜という言い方なので、その点、「異教性」が低いですね。
本来の聖書の学びの線で。。。。聖書を文脈と背景から丹念に読み進めていくやりかた、日本人教会の青年会の聖書の学びを思い出しました。
注解書を読んだりするのもおもしろいですが、自分にない発想で聖書を読み解こうとする、数人での学びは楽しいですね。

異教性ということを言いましたが、新約聖書、特に福音書をユダヤ的な視点で読み解こうとする Jerusalem Perspectiveというのが、キリスト教が本来宿しているユダヤ性を見失わないように読み取るうえで、興味深いアプローチをしています。

http://www.jerusalemperspective.com/default.aspx?tabid=1
ひさびさにマルコの学び、気分転換にちょっと整理しながらやってみます。

〜マルコ前半のまとめ〜
・1-3章「福音のはじめ」。イエスの公生涯の開始。弟子を招き、いやしの業と教えを権威を持って行う。この権威は神の権威。
・4章「イエスの教えの内容」。神の国を種のたとえを持って語られる。
このたとえの真意は、神のことばに聞くこと=イエスに聞くことの重要性。
・5章(厳密には4:35)-8章(厳密には8:26)「イエスの10の奇蹟」
ここには、「ふしぎ発見」トピに書いたことだけど、イエスの奇蹟がツーペアで5つ、計10個書かれている。

この「10の奇蹟」に関して、これからやってみようと思います。
【第一の奇蹟】(4:35-41)「嵐を静めるイエス」

詩篇107:23-30で、嵐を静めるのは主、つまり神であることが語られている。

この出来事は、イエスが弟子たちを訓練するためであったと思われる。
もう一つの湖での奇跡の場面(6:45〜)でも、「イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ」たとある。
イエスは−推測だが−嵐が起きることを知っていたかも知れないし、詩篇によるなら、イエスが嵐を起こしたと考えられるかも知れない。いずれにしても、イエスはここで弟子たちに、自分がどのような存在であるかを示し、教えておられる。
イエスが誰なのか、という8:27以降の質問に向かって、イエスは弟子たちをさまざまな場面で教えている。
それが第一にあるが、この湖の事件を通して、イエスを信じるということがどういうことかも教えている。
イエスが共にいるということは、嵐の中にあっても、眠れるほど、安心出来るということ。全能のイエスを信頼すべきこと。又、神を信頼すべきこととも言える。神は私たちをいつも愛し、具体的な事柄・危機に関与して、助けを与えて下さる方である。
だから、イエスは「信仰がないのはどうしたことです」と弟子たちを叱責している。
弟子たちははじめ、自分たちが死ぬことを恐れていたが、このイエスの権威をみて、「大きな恐怖に包まれて」とある。
イエスはマタイ10:28で、「からだは滅ぼせてもたましいを滅ぼせないものを恐れるな、からだもたましいも滅ぼせるお方を恐れよ」と語っているが、弟子たちはそのお方を目の前にしていることに気がつきはじめたのかもしれない。
【第二の奇蹟】(6:45-56)「湖上のイエス」(→順番でなく、2セットづつやる)

イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、向こう岸のベツサイダに弟子たちだけで行かせる。舟は湖の真ん中まで進んでいたが、イエスは陸にいた。
v.48「弟子たちが、向かい風のために」舟をうまく進めることが出来ないのを見て、イエスは湖の上を歩いて、彼らに近づいて行く。そして、弟子たちを助けるのかと思いきや、そのまま通り過ぎようする。
何故イエスはそのまま通り過ぎようとしたか、多くの学者は、出エジプト33章で、モーセが神の栄光を見せてください、と神に訴えたときに、神は22節「わたしが通り過ぎる」といって、神はご自身を現されたことに重なる、と言っている。
弟子たちは通り過ぎようとするイエスを見て、神であることを悟るのではなく、幽霊だと思って、叫び声をあげる。その弟子たちに、イエスはv50「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかける。
「わたしだ。恐れることはない」という言葉も、旧約において度々出てくる、神の宣言(例:創世記26:24、46:3、エレミヤ46:28、黙示録1:17)。
v51イエスが舟に乗ると、風がおさまる。しかし、弟子たちはかなり驚いていた。それは何故か、v52「パンのことから悟ることが」出来ていなかったから。つまり、その直前のパンの奇蹟(又それ以前の奇蹟を含めて)から、イエスがただの人ではないということを悟っていなかったから、の意。
ひさびさに見たら、なかなかいいトピだねこれ。ということで、久々にageてみる。
[067]木人さん

新約聖書の何気ない言葉も旧約聖書をたくさん踏まえたものなのですね

とても勉強になりました
どうもありがとうございます

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