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中世城郭コミュの中世城郭に行ってきました!

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って方は
?どこに行ったか
?簡単な歴史
?簡単な遺構
?感想など
?写真

こんな感じで書き込みをお願いします〜。
1行くらいずつでも良いです。堅苦しく考えなくてOK^^
もし余裕があれば、参考になる文献や調査状況なんかも載せてくれると嬉しいようが気がしますっ!

他コミュとの内容重複可。
↑他が許せばですが。笑

※基本的に、中世城郭でお願いします。
一応このコミュのメインですので^^;

「小田原城」などのように、中世と近世の複合遺跡である場合は、中世部分の写真などを使用していただけるとありがたいです。

コメント(329)

(1)大畑城
  大分県中津市加来

(2)元暦元年(1184)、西へ落ちる平家に九州の勢力がなびくのを牽制するため、源義経が緒方三郎惟栄に築かせた豊前五城のひとつ。大畑城には二郎惟興が入城し、以降、加来氏を称するようになります。天正7年(1579)、前年に耳川の合戦で大友氏が敗れたことにより、豊前国内での大友氏の影響力が低下したことにより、長岩城の野仲鎮兼が大友氏に叛旗を翻し、豊前の諸城を攻撃開始する。このとき、加来安芸守統直の大畑城は野仲氏を撃退。以降、48回に渡って野仲氏の攻撃を退けたという。豊前一揆のときは籠城するも、奮戦むなしく落城。城主加来安芸守統直は主従五騎で脱出したが途中で伏兵に討たれたという。

(3)-(4)
野仲軍を48度も撃退したといいますが、ちょっとした丘があるだけです。周りは田んぼなので、かつては湿地帯に囲まれていたのでしょうか。小さな丘に七社宮があり、入り口に説明板が建っています。市指定の文化財ということですが、それ以外にはなにもありません。

(5)
画像一枚目…七社宮入り口。
画像二枚目…七社宮。
(1)坂手隈城
   大分県中津市相原 字坂手隈

(2)藍原氏の居城で上記大畑城の項でも述べた野仲鎮兼の出兵時に落城させられた。黒田氏の中津入りに藍原氏は従っています。

(3)-(5)城跡は鶴市八幡神社がある丘といわれています(画像一枚目)。丁度、訪問したときはお祭りをやっていて、ちょっと進入が大変でしたが(笑)、崖下から参道を登ると本殿に到着します。画像二枚目が本殿ですが、画像右手がちょっと高く護岸されていて、土塁の痕跡臭いです。本殿の裏手の薮の中には堀切が伺えます。また、本殿の東側(画像二枚目では左側)に長方形の曲輪を思わせる土塁残欠が伺えます(画像三枚目)。
(1)福永城
   大分県中津市湯屋

(2)福永氏の城。福永氏には鶴市八幡神社(坂手隈城跡)の由縁となったお鶴の伝説が残っている。

(3)-(5)湯屋の瑞泉寺(画像一枚目)が城跡と伝われ、裏門・前堀・前垣などの地名が残るが遺構は無いとのことでしたが、現地に行くと、瑞泉寺の方形の敷地だけが周囲より最大で50cmくらい高くなっています(画像二枚目)。
(1)法華寺城
  大分県中津市永添

(2)岩石城主高橋氏の家臣小城氏の居城。長岩城の野仲鎮兼が大友氏に離反した際、坂手隈城を攻略した後に小城氏の法華寺城に迫ったが、城主小城定久はこれをよく防ぎ、野仲軍は退却した。

(3)-(5)名前は法華寺があるからで、道路地図にも「法華寺」の表記がありますが、現地には法華寺がありません。代わりにその高台登る道には「みどりが丘霊園」の表記があり、登ってみると、画像のような状況でした。
判りますでしょうか。墓地の下にお寺の物と思しき基壇があります。恐らく、法華寺は倒産なさったため、近年廃寺となったのでしょう。跡地は墓苑となったようです。登ったところに五〜六台は停められる駐車場がありますので、自動車訪問も駐車の心配はありません。
遺構は特にありませんでしたが、細い高台になっており、大畑城よりは守り易そうな気がしました。
(1)八並城
   大分県中津市永添 字八並

(2)こちらも小城氏の城で野仲軍の襲来に落城したといいます。豊前一揆の際には「八並右京」なる人物が在城したとか。

(3)-(5)永添の円林寺の北にある「長者屋敷遺跡」が主郭跡です。「長者屋敷遺跡」は古代の遺跡で発掘調査も行われており、国の史跡に指定されています。現在は画像一枚目のように地表面は埋め戻され、野原となり、柵も施されて説明板だけが建っています。主郭の丘を北に下ったところの、道がちょっとだけ広くなっているところに八並城の説明板がありました!(画像二枚目) まさかあるとは思わなかったので、見つけたときま感動しましたが、古代遺跡の遺構と重なっていろいろ検出されたようです。説明板には土塁・空堀の想定ラインがあり、城郭の様子を伺う事が出来ますが、惜しむらくは土塁と空堀の区別がされていないのが難点でした。
説明板の近くにあった画像三枚目の盛土は、説明板の想定ラインによると、土塁跡のようです。
(1)末弘城
   大分県中津市永添 字古城

(2)末弘氏の居城。末弘対馬守正行のとき、大友氏に叛旗をひるがえした長岩城の野仲鎮兼軍が来襲。降伏した正行は子と共に剃髪して、城跡にその名を冠した正行寺を建立した。

(3)-(5)跡地は城慶山正行寺(画像一枚目)です。江戸時代のものという本堂はかなり大きかったです。敷地内に駐車場がありましたので、そこに車を停めて境内に向かうと、「参拝・見学の方は寺務所に一声かけて下さい」とありましたので、庫裡の方へ向かう。すると、車のエンジン音がしましたので、庫裡の脇に行くと、軽自動車がアイドリングしてる。運転手(多分住職さん)に見学したい旨を伝えると「ご自由にどうぞ〜」と言われたので、境内を歩く。本堂向かって左手、南側に土塁と空堀が伺える(画像二枚目)。うろうろしていると、本堂の方から先ほどの住職さんが現れ、「良かったら上がりませんか?」と言われたので、上がらせてもらう。パンフレットも貰いました。すぐに城跡として見学に来た旨を告げると、「城跡ですか…」と言われて本堂ではなく、本堂の脇に通される。渡り廊下から奥に古い建物がある。住職さん曰く、かつてそこに城の抜け穴があったそうで、それを埋めた上にその建物を建てたから地盤が沈んでるんですと。確かに、よく見ると、基盤の下が20cmくらい沈んでコンクリが露出してました。更に、山門の外、敷地内の東端の竹薮に連れられ、前にここをキレイにしたときに堀が出てきたとか。竹薮に入ると、浅いながらも堀跡あがありました(画像三枚目)。このあと、敷地の西外に敷地内が一段高くなっている段差があることを教えてもらい、一人それを見に行きました。
田丸城の長久寺が方形なのに対して、こちらは大まかに凸型をしており、そこから更に細かく欠けたりして折り歪みのある複雑な形をしています。土塁・空堀や段差などからその敷地がそのまま城域と考えられます。敷地の中央やや東よりの山門前に城内を南北に走る溝があり、堀跡のようで、少なくともこの堀で二つの郭に分けられていたと思われます。
とても良い住職さんでしたので、訪問のときには是非声をかけてみて下さい!
(1)池永城
  大分県中津市上池永 字城屋敷

(2)宇佐公の後裔で薦神社の宮司池永氏の居城。豊前一揆のときは城主池永重則が籠る。重則の妻が大長刀を振るって13人を斬り伏せるという活躍をみせるも落城。重則は自刃した。

(3)-(4)上池永の若宮神社・厳島神社付近が城跡といわれています。車通りに説明板があり、若宮神社付近が本丸跡といわれています。

(5)
画像一枚目…若宮神社。
画像二枚目…若宮神社東脇の土塁。
画像三枚目…若宮神社裏手(北側)の堀跡。
(1)白米城(まつたけじょう[平田城・町丈城])
   大分県中津市耶馬渓町平田

(2)豊前宇都宮氏祖信房の弟伊予守重房が野仲郷を領し、野仲氏を称したときに築城して居城としましたが、すぐに奥地に長岩城を築いて移ったため、白米城には家臣の平田掃部介を城番として配置しました。豊前一揆のときに黒田氏に攻められ、落城。城主平田氏は討死したとも降伏したともいわれています。後に黒田氏家臣栗山利安が入りました。栗山利安は、今、大河で濱田くんが好演している武将ですね。

(3)-(4)道路地図にも「平田城址」として表示があります。跡地は城址公園となっており、麓から簡単に登ることができます。ただ、登山道(車両用)などの改変から、どこがどう城郭施設なのかは判然としないです。主郭は記念碑が建っていて、それによる削平も受けているかもしれません。前面の石垣は後世のものですが、脇にある石垣は黒田氏入部後のものでしょうか。

(5)
画像一枚目…城址碑。
画像二枚目…主郭脇の石垣。
画像三枚目…遠望。北より。
(1)小友田城
   大分県中津市耶馬渓町小友田

(2)野仲氏の家臣小友田氏の居城。豊前一揆で籠城して抵抗する。

(3)-(4)
一見、独立丘に見える山に占地しています。城内は山林となっていて、城址をしめすものはありませんが、いくつかの平場が伺えます。残念ながら、全体を確認することは出来ませんでしたが、遺構は結構残っていそうです。

(5)
画像一枚目…遠望。東側より。
画像二枚目…城内。ここからが城域のような雰囲気でした。
画像三枚目…唯一の尾根続きにグランド施設があり、そこから容易に登れます。画像はグランドから見たところですが、画像右手の成形された尾根に取り付き、草むらを抜けると、林の中に入れます。
(1)長岩城
   大分県中津市耶馬渓町川原口 字扇山

(2)野仲氏が白米城から移ってきた城。以後、戦国時代末期の野仲鎮兼まで野仲氏代々の居城となった。豊前一揆で黒田長政により落城。野仲鎮兼一族は自刃。

(3)-(4)
九州最大の中世城郭という謳い文句の城跡です。各書籍にも載ってますから、細かい説明は避けますが、とにかく素晴らしかったです。特に普段、関東の「土の城」を回っていると石塁の数々に見とれてしまいます。しかも、この地域独特の薄い板のような石を重ねていくという当地独特の積み方は一見に価値があります。
城は複数の尾根にまたがり、谷間には谷川が流れており、暑い最中でしたので、谷に降りるたびに清流で手を洗い、腕を洗い、顔を洗っていました。
「東の台」→「本丸」→「西の台」と本丸のある尾根を周り、谷に一旦降りてから隣の尾根の「陣屋」から支尾根へ向かいました。間の尾根の馬場に行き忘れたのが後悔どころでしたが、もう気持ちが「石櫓」に向かってまして…。
陣屋の一番奥を上り詰めると、石の細尾根に登る脚立が設置してあります。麓から利用してきた杖(入り口に置いてあります)をそこで一旦放置し、両手を空けて脚立を登ると、左右が切り立った、幅1mくらいの細尾根に出ます。ちょっと足を踏み外すと断崖絶壁の下へ。尾根ですから、真っ平らではありませんし、直前の本丸行や陣屋の斜面を登ったことで、かなり体力は奪われています。(あと、暑い時期でしたから…)
二股の尾根を右手に行くと、一つ目の「石櫓」が見えてきます。「銃眼」とされる三つの穴の空いた「V」字のような石塁は、これが400年前のものかと疑いたくなるような程、絶壁の上で残っています(一部積み直されてるらしいですが)。実際にはこれに木造で屋根をつけたそうです。三人も兵士が入ると、手一杯な広さでしょうか。正確な話をすると、「銃眼」は所謂「鉄砲狭間」ではないそうです。「穴の向きが尾根の方向を向いていない」ということがその理由だそうで、なるほど、あらぬ方向を向いています。そして、感想としてはちょっと位置が低すぎる気もしました。「明り取り」兼「通気口」というのが有力なようです。
さて、二股部分に戻りましたが、もう一つの尾根を数百m行くと、更なる石塁遺構があるそうですが、大変危険である旨の標識があり、出来れば行かないで欲しいという説明も。自分も、ここまでの行程で膝が笑ってて、さっきの石櫓で半分満足しましたので、引き返すことにしました。別の麓からのルートでも行けるとかで、今度行くときには馬場共々訪れてみたいです。

(5)
画像一枚目…本丸。
画像二枚目…本丸への登り石塁。
画像三枚目…「石櫓」
(1)郎君城(らくんじょう)
   山口県山口市大内矢田 字良君城

(2)大内氏21代当主弘家が矢田の地に住み、矢田太郎を称した館跡。大内氏は嫡男の弘幸に継がれ、矢田氏は末子の盛賢が継いだ。

(3)-(5)山口市街から防府市に抜ける大内盆地のやや東寄り、矢田の地にある光円寺(画像一枚目)が城跡と言われます。一帯は平地で遺構は一切ありません。境内地に古い宝篋印塔が一基あり、矢田太郎弘家の供養塔といわれています(画像二枚目)。
(1)深野氏館
   山口県山口市仁保下郷 字殿河内

(2)平子氏(仁保氏)の支族深野氏の館跡。

(3)-(4)矢田弘家の郎君城から北東へ3キロ、平子氏の拠点仁保郷へ抜ける途中の殿河内にある。遺構はないが、山麓にある玄答院が跡地といわれます。山麓型ですが、少し高台になっています。

(5)
画像一枚目…玄答院。
画像二枚目…玄答院からの眺望。
(1)茶臼山城(吉則城・由利城)
   山口県美祢市大嶺東分 字中村

(2)鎌倉時代初期、出羽国由利郡の由利氏が筑前国に地頭職を得るが、この頃に長門国大峰の地頭に補せられた一族がいたと思われ、九州での再起をはかる足利尊氏に兵船の準備を命ぜられた厚東武実(長門国北朝守護)・由利基久がいるが、『博多日記』に見える「大峰地頭」はこの基久のことと思われます。
後、この由利氏は台頭してきた大内氏に従った模様です。


(3)-(4)JR美祢線美祢駅の西方300mにある独立峰に見える比高60mの小山が茶臼山で、ここが城跡です。頂上は忠魂碑が築かれ、これによる削平で頂部の遺構は失われています。それでも、頂部縁から見下ろすと切岸状になっているのが伺えます。
白石兵庫吉則の居城と、由利氏の由利城については諸説あり、書籍により曖昧ですが、『城郭大系』『美祢市史』では、茶臼山を当てています。

(5)
画像一枚目・二枚目…頂上の様子。
画像三枚目…頂上から美祢市街方向を望む。
(1)手城山城
   広島県福山市東手城町二丁目(字古城)

(2)築城期は不明。暦応年間(1338-42)に茂野入道信盛・同左近盛久が在城。信盛は山田の一乗山城渡辺氏との合戦で討死。盛久は伊予の河野氏を頼った。天文年間(1532-55)には城主は倉田盛久で、渡辺氏と合戦。渡辺氏は毛利氏の援軍を得たため、倉田盛久は手城山に籠城。後に和睦した。その後、大内氏の神辺城攻撃に際して、海上に展開していた小早川氏の一族がこの辺りに築城、手城山にも沼隈半島の渡辺越中守兼が在城した。

(3)-(4)
今は陸続きとなっているが、かつては福山湾に浮かぶ小島に築かれた島城でした。今は埋め立て地に運河や水路に囲まれてぽつんと立つ比高20mの独立丘になっています。頂上には神社が二社建っており、それによる改変はあるものの、大体は往時を忍ばせるような地形に成っています。

(5)
画像一枚目…荒神社の高台が主郭と言われますが、櫓台よりちょっと大きいくらいでしょうか。神社の裏手に岩盤を削り残した土塁がL字状に残っているそうです。
画像二枚目…丘上西端の郭。木がなければ、西側の展望が開けます。この左下(南側下)に腰郭が伺えます。
画像三枚目…遠望。東南側より。
(1)中山城
   広島県福山市草戸町中山

(2)詳細は不明ですが、沼隈半島の渡辺氏の城といわれています。すぐ麓の芦田川の河床には有名な中世の集落遺跡「草戸千軒遺跡」が広がっており、中世後期には渡辺氏のものと思われる複郭の居館の大型の堀が検出されており、その詰め城とも考えられます。

(3)-(5)城の構造は単純で、頂上に半坂妙見社が立つ主郭があり(画像二枚目)、その南東下尾根続きに一本の堀切を経て副郭がひとつある(画像三枚目)。尾根続きの北西側には、道路となっている幅狭な切り通し状のものが伺えるが、城当時のものかは不明。
(1)鞆城
  広島県福山市鞆町後地

(2)信長により京を追われた足利15代将軍義昭が毛利家の庇護を受けたときに、毛利氏により築かれ、義昭が滞在していた城。大河なんかみてるとずっと居たようなイメージがありますが、本能寺の変の年に福山市内の別の場所に移っています。晩年は秀吉の御伽衆やってましたよね。
その後、関ヶ原の恩賞で福島正則が安芸・備後に入国すると、整備され、一時は天守閣が建てられたそうです。石垣が残っていますが、このときのものでしょうか。一国一城令で建物は一部破却されますが、福山城への水野氏入部により、鞆奉行が置かれました。

(3)-(4)城跡は鞆城山公園・歴史民俗資料館になっていますが、高台であることや、墓地・公園になってはいるものの、曲輪の配置は判る作りに成っています。名勝鞆の浦の後方高台になっていて風光明媚です。

(5)
画像一枚目…本丸跡
画像二枚目…石垣の跡
画像三枚目…遠望(円福寺より)
(1)大可島城
   広島県福山市鞆町鞆 字古城跡

(2)南北朝時代、伊予の南朝方によって築かれ、桑原一族が守っていましたが落城。中国探題となった足利直冬(尊氏庶子・直義養子)が六ヶ月程滞在。戦国期には村上氏の持ち城であった。

(3)-(4)鞆の浦の東にあり南側へ突き出す形で湾を形成している。かつては独立した島であったとか。城の頂上は円福寺となっており、狭い丘の上に処狭しと周辺建物が建ち並んでいます。寺の裏側の墓地が腰郭状に低くなり、その下は海へと続く崖となっていて要害性が高い。町割りからなんとか城郭の様子は伺えるようです。

(5)
画像一枚目…円福寺本堂。
画像二枚目…鞆港からの遠望。島の真ん中やや左の大屋根が円福寺。
画像三枚目…円福寺脇にある城主桑原氏一族の墓。
【県名】 広島県
【城名】 要害城 宮尾城跡
【感想】厳島にある毛利と陶の古戦場、もっと登って博打尾まで行きたかったんですが、時間がなくて断念。

(1)柏木屋敷
  静岡県裾野市茶畑 字境川

(2)甲斐武田氏の支族倉科信広が土着して「境川出羽守」を称し、その子広久が今川義忠から茶畑浅間宮の神主織を安堵され、以降、子孫が「柏木」を称するようになったといいます。後に、今川氏の被官で駿東地域を支配した葛山氏からも神主織を安堵されています。

(3)-(4)境川沿いにあって、100m四方の方形の敷地に土塁・水堀を伴って残っております。近年まで子孫の方が住んでいらしたそうで(現在でも土地は所有)、残存状況は良好です。今は地域のコミュニティ広場としてゲートボール場などになっています。土塁は最大で1m余の高さを有し、水が豊富な地域であることもあって、堀は水路になっています。
富士山がキレイに見渡せます。

(5)
画像一枚目…城址碑
画像二枚目…北側土塁と水堀
画像三枚目…南東隅土塁
(1)大畑城
   静岡県裾野市大畑 字古城跡

(2)歴史は不明ですが、その構造が、尾根上に主郭を置き、それを取り囲むように帯郭を設け、東西に小さい郭を設け、その外尾根を堀切で画すという、東西対称な作りは、近隣の葛山城と類似しており、その縮小版というイメージなので、葛山氏か、その支族による築城と考えられます。

(3)-(5)
熊野神社背後の尾根戦端付近に占地し、上記に述べたように尾根の東西を掘り切った間に主郭があります。
そんなに高い山ではありませんが、登山道はありません。『箱根をめぐる古城30選』にあるように、弘法大師堂の後方から直登すると、西の堀切が見えてきます(画像一枚目)。ここら辺はまだ良いのですが、そこから主郭へ向かってまず西郭に入ると、そこは胸位まで高さのある薮になっていて、前に進むのがやっとです。主郭には在城当時からあるという「塚」があり、塚の部分だけ薮が薄めで、その存在は認められますが、写真に状況が判るように撮るのは不可能です。ちなみに、画像二枚目が主郭の状況。ここから東郭からは日が射しており、薮がさらに酷いです。東側の堀切はかろうじて伺えましたが、もはや獣道もおぼつかないです。久しぶりに城跡で転びました。それも二回も…。下りも、東側からは難しく、主郭南側からなんとか直降しましたが、あまりお勧め出来ないです。
南面は居館があったようで、今は宅地となり、土塁が一部残っています。
画像三枚目は北にある五竜の滝付近から城址を望んだもの。
(1)千福城(別称・平山城)
  静岡県裾野市千福 字平山

(2)葛山氏やその支族である御宿氏在城の記録があります。桶狭間後、武田氏の駿河侵攻と北条家の介入などから、最終的に北条氏の手に落ちたようで、元亀2年(1571)の北条氏政の書状では、松田憲秀が、「平山城」(千福城)の「外張」の修築を、「侘言」が多くてなかなかやらないので、代わりに清水新七郎(下田城主清水康英の子)に下知したところ、快く引き受けたというものが残っています。
後に再び武田氏の持ち城となったようで、御宿友綱が所領としています。

(3)-(5)葛山城と、それに酷似した大畑城の間に位置し、立地も非常に似ているにもかかわらず、比較的単純な二城に対して、多くの曲輪を配した非常に複雑な作りをしています。葛山・大畑の二城が在地領主の葛山氏の築城に対して、千福城は元亀2年の書状にあるように、北条氏の手が入っていることが考えられます。
城は「信玄ゆかりの寺」とされる普明寺の裏山にあります。寺の山門には画像一枚目のような城址碑が建っていますが、勿論、ここはまだ城跡ではありません。
普明寺の墓地から山に入っていくと、茶畑を抜けて城址に入ります。一部茶畑も曲輪の跡地になっています。主郭に行く前に東名道沿いの西北端の曲輪に向かいます。多少薮っていますが、大畑城の後では大したことありません。ここの曲輪の先端からは東名道越しに富士山が伺えます。そして、その北側にL字型の巨大な横堀が現れます(画像二枚目)。堀としては城内最大級を誇り、北に面していることから、北条氏の言う「外張」の改修はここのことを主に指しているのかとも思えます。
主郭へは少し崩れた階段が設けられています。主郭は草むらになっていて以降か伺えませんが(画像三枚目)、土塁等はないようで、複数の曲輪によって守られています。
この他、広大なすり鉢状の曲輪や、クランク状の横堀とも虎口ともみられるところには石列が伺えたり、見所は多い城跡です。城跡を囲うように流れる久保川の対岸には、今は宅地と畑になっていますが、「鍛冶屋敷」「塩蔵」という場所もあります。諸書籍にあるような遺構はもうありませんが、「塩蔵」は武田氏への「塩停め」に関係するものらしいです。
(1)葛山館
   静岡県裾野市葛山

(2)当地を支配した葛山氏の館跡です。

(3)-(4)葛山城とセットで典型的な居館と詰め城の例として有名なところです。有名なだけあって整備は行き届いています。市指定史跡。
館は100m四方の方形で、最大で3mの高さを誇る土塁が素晴らしいです。館内は畑と芝が植えられています。
西となりの「半田屋敷」「荻田屋敷」は現在も子孫の方が暮らしていらっしゃいます。その北にある「岡村屋敷」を加えて、複郭式の構えに発展したものと考えられます。

(5)
画像一枚目…北外側から。
画像二枚目…北側土塁(内側)
画像三枚目…北西の土塁上から撮ったもので、土塁が食い違いになっています。ここの切れ込みが本来の虎口のひとつと考えられています。
(1)葛山城
   静岡県裾野市葛山

(2)葛山氏は大森氏の支族で、平安末期に当地に土着しました。その後、鎌倉幕府の御家人としてたびたび『吾妻鏡』にその名が見られます。鎌倉幕府滅亡後は在地勢力として史料にも散見され、国境勢力として、駿河の今川氏に半分従いながらも、独立性の高い勢力として当地に拠っていました。伊勢長氏(北条早雲)が伊豆を攻略したときはこれに援軍を送り、早雲の次男を養子にとったりして、北条氏と関係を深くして、駿東地域一帯を支配していきました。また、今川氏にも従いながらも、今川氏の家督争いに端を発した河東の一乱では北条氏につくなど、そのときそのときで勢力のおおきな方についていたようです。今川・武田・北条の三国同盟成立でつかの間の安定をみますが、桶狭間合戦による今川義元の討死から武田信玄の駿河侵攻が始まると、武田氏に属しました。
このとき、駿河に介入した北条氏により葛山の地は奪われますが、葛山氏は信玄に従い、信玄の六男信貞を養子にとって、失地回復に努めました。武田氏滅亡時に、信貞が自刃したため、滅亡。

(3)-(4)麓の仙年寺の裏に葛山氏の墓があります。そこから階段が設置され、東の二重堀切の内側に繋がっています。史跡として整備され、大変訪れ易いです。大畑城と類似し、それを大きくして東西の堀切を二重にしています。主郭への登山道は本来のものではないので、諸書を見て当時のルートを確認しておくと良いかもしれません。整備域のちょっと外まで遺構はありますが、比較的単純で判り易い遺構ですし、二重堀切も東西とも深くて素晴らしいです。

(5)
画像一枚目…遠望。
画像二枚目…主郭の様子。
画像三枚目…西側の二重堀切を西二の曲輪より望む。
(1)深沢城
  静岡県御殿場市深沢 字本城

(2)武田軍と北条綱成の攻防で有名な城です。
元は土地の豪族深沢氏の居館址と思われますが、城としては、今川氏親が甲斐進攻の拠点として築いたものとされています。桶狭間後の武田氏の駿河侵攻時に北条家により当地の在地勢力であった葛山氏が退去し、以後、武田氏と北条氏間の攻防となった。北条方からは城将として北条綱成と松田憲秀が入り、武田軍からは駒井昌直がたびたび入った。
有名なのは元亀元年(1570)年末からの攻防。同年の時期不明に北条家のものとなっていた深沢城に武田軍が迫り、年をまたいで包囲。年明けに武田軍から降伏を促す矢文が送られ、武田軍から金堀衆などをつかった坑道戦法などで、本丸だけになっていた北条綱成は、独断で開城を決める。北条氏政の援軍は五里のところまで迫っていたが、間に合わなかった。以後は駒井昌直のもと、武田氏の持ち城となるが、武田氏滅亡と前後して駿河に侵攻した北条軍により落城。本能寺の変を挟んで、天正壬午の乱で徳川・北条間の和睦が成立し、徳川領となり、三宅康貞が入城。小田原攻めに際して廃城となった。

(3)-(4)現在、北から三つの曲輪が残存していますが、三の丸の南にもいくつか曲輪があったようです。武田氏のものとも思える馬出し曲輪を配した遺構がよく残っています。遺跡は県指定史跡ですが、全て私有地です。史跡の訪問には好意的らしく、私が訪問したときも、土地の方だと思いますが、親切に車を停める場所を案内してくれました。駐車場は無く、路駐するしかないのですが。とはいえ、跡地の殆どは田畑になっていますので、農閑期である冬場の訪問をお勧めします。
また、これは有名な話らしいのですが、現地標柱では、北から「本丸」「二の丸」「三の丸」とされており、この名称で説明されている書籍も多いですが、実際は「二の丸」が主郭で、「三の丸」が二郭です。現地に行ってみるとよく判りますが「本丸」は川にこそ囲まれていますが、土地が低く、防御に耐えません。
堀も深く、大変見応えがあり、歴史的に有名なのでオススメです。

(5)
画像一枚目…城址碑。
画像二枚目…三の丸(二郭)三日月堀。
画像三枚目…二の丸(主郭)。
(1)上野原城(内城館)
  山梨県上野原市上野原

(2)平安時代末頃、横山党の庶流が土着し古郡氏を称し、築いたとされます。和田合戦で古郡氏が滅亡すると、代わって加藤氏が入り、戦国時代には武田氏に従いますが、武田氏滅亡と共に滅亡。

(3)-(5)鶴川に面した上野原の段丘上にあったそうですが、今は南側を中央道、北側は宅地化により消滅させられ、稲荷神社のところに説明板が建つのみという事前情報を持って行きました。画像一枚目の稲荷神社に着くと、先人のサイト写真と説明板の位置が変わっており、近年建て替えられたようです。看板には往時の推定図が描かれていました。
遺構はもうないものと思い、次に向かうために中央道を渡る外城橋を渡っていると、そこから見える、中央道により掘り残された地形は、城の南端部じゃないですか。画像二枚目がそれですが、ちょっとフェンスで判りにくいですが、谷に挟まれた部分がそうです。勿論、中央道の敷地で進入は禁止です。入り口もありません。
段丘下から見上げたのが画像三枚目。かなり高低差がある段丘で(比高80m)、かなりの迫力があります。これだけでもそれなりの規模があったものと伺えます。
(1)松留館
  山梨県上野原市松留

(2)歴史は不明。地形的に上野原城から館内が丸見えなことからも、上野原城の古郡氏・加藤氏の氏族が使用していたものと考えられます。

(3)-(5)館は鶴川の段丘上にある正法寺になっています(画像一枚目)。墓地に一条の土塁が残っており、北側には堀跡も伴っています(画像二枚目)。土塁の北側の空き地(画像三枚目)には、『城郭大系』には土塁残痕があるように記載されていますが、画像のような状況でそれを確認することは出来ませんでした。複郭とするならここも可能性のある地のようです。
(1)牧野砦(御番城・鐘撞堂)
  山梨県上野原市四方津・八ツ沢

(2)『甲斐国志』では小山田氏に取り立てられた砦とされています。周囲に御前山(烽火台)や砦が配されており、その中心的位置にあることから、拠点的な役割を果たしたのではと思われます。

(3)-(4)八ツ沢発電所のあるところから尾根を西に進むとすぐに遺構が現れます。最初は鉄塔のすぐ下に一本目の堀切がありますが、はっきり言って知ってないと堀切だと判らないくらい埋まっています。全部でこの砦には、尾根を画す堀切が六つありますが、この最初の一本を除くと他はどれも素晴らしい程残っています。堀切に画されながら複数の細い曲輪が見受けられます。
この牧野砦から西続きの四方津御前山はトレッキングコースとしても有名なようで、今回、薮漕ぎの必要は一切なかったです。多少難易度が高い部分もありますが、整備という点では歩き易い山城でした。

(5)
画像一枚目…主郭
画像二枚目…砦内最大となる東から五番目の堀切(上から)
画像三枚目…砦内最大となる東から五番目の堀切(横から)
(1)四方津(しおつ)御前山
  山梨県上野原市四方津・八ツ沢

(2)御前山とは烽火台のことで、牧野砦の西の防御のためにも使用されていたと思われ、普通の烽火台より複雑な、防御意識の高い遺構が残っています。

(3)-(5)牧野砦と尾根続きで細尾根をしばらく行くと、立ち木もない細い岩場に出ます(画像一枚目)。その上に聳える電波塔のある地点からが四方津御前山の遺構になります。牧野砦から四方津御前山に辿り着くにはこの岩場と急峻な山道を登らねばなりません。
遺構は電波塔のある物見台に始まって、細尾根の曲輪と唯一の堀切・土橋を経て最高所の主郭(画像二枚目)に辿り着きます。道は牧野砦同様かそれ以上に整備されていて、訪れ易いです。最大郭となる馬場は薮になっていました。そのまま西に下ると、「コモアしおつ」に至る自動車道へ出ます。画像三枚目は南側からの遠望。牧野砦(右側)との高低差がすごいです。
(1)栃穴御前山
  山梨県上野原市四方津・川合・鶴島

(2)御前山ですが、これもただの御前山よりは防御意識の高い砦のような遺構をもっています。

(3)-(4)四方津御前山や牧野砦のある山とは桂川を挟んで南の対岸にある、一見独立峰にみえる尖った山です。栃穴集落から登ると、尾根に土塁や堀切を伴った複数の曲輪が階段状に配されています。四方津御前山や牧野砦に比べると、少しだけ整備されていない感じがありましたが、登る分には気にならない程度でした。

(5)
画像一枚目…栃穴集落側からの遠望。
画像二枚目…石積み。
画像三枚目…主郭。
(1)鶴島御前山
  山梨県上野原市鶴島

(2)御前山ですが、土地に伝承があります。小俣日向守なる人物の居城で主郭はそれにちなんで「日向屋敷」といわれているそうです。しかし、その小俣日向守の系譜もはっきりしませんし、「屋敷」という程の広さもありません。
四方津や栃穴に比べると、普通の烽火台程度の遺構しかありません。

(3)-(4)栃穴御前山から尾根続き……とは言いますが、まず栃穴御前山からの下りがかなりのものです。急なためにロープがかけられ、後ろ向きになんとか下る感じで、かなり下ります。そこから、栃穴御前山より高いので、下った以上に登らなければなりません。
遺構は平場が少しある程度の簡素なものですが、道路地図にも「御前山」と表記されているくらいには知られているようで、トレッキングに利用されているようです。東側に下りましたが、こちらにもロープが張られている箇所があり、墓地にある登山口には案内表示も建っていました。こっちのルートの方がメジャーなのかもしれません。

(5)
画像一枚目…主郭。
画像二枚目…遺構の東端とされる稲荷社。
画像三枚目…東側からの遠望。右奥の尖った山が栃穴御前山。
(1)花咲城(花咲鐘撞堂)
  山梨県大月市大月町花咲 字上花咲

(2)武田氏国境の烽火台といわれています。

(3)-(5)岩殿城の西、中央自動車道の真上に突き出た尾根上にあります。城跡の裏手には花咲カントリー倶楽部が造成されており、そこに至る道路から容易に登ることができます。
主郭には中央道建設のときに移動を余儀なくされた社祠を合祀した神社があり(画像一枚目)、比較的整備されています。防御施設としては神社の裏手に土塁(画像二枚目)があります。『甲斐の山城と館(下)』(宮坂武男)ではこの土塁に伴って堀切があるように書かれていますが、それはよく判りませんでした。同書にある「西半分は原形をとどめていない」はこの遺構よりも西側のことで、城の遺構としてはかつがつ遺った感じです。無くなった尾根筋だけは感じて下さい。
烽火台ですが、左右の峰も張り出しており、笹子峠側(東)も、岩殿城側(西)も余り展望が効きません。とはいえ、高台としての展望は効きます。画像三枚目は大月市街を望む。
(1)与縄館(日影城)
   山梨県都留市与縄 字日影

(2)地元では谷内(口)豊後守の城と伝えるものの、その詳細は不明。小山田氏の館が近いことから、その氏族か被官のものかとも思われる。

(3)-(4)小山田氏の中津森館より東へ4キロのところ、朝日川によって開かれた谷の南側の山麓に河岸段丘を利用して営まれている。二〜三つの曲輪によって構成され、それぞれの間には「東堀」「西堀」という名の窪地を備えている。
山続きの斜面には道路による段差があるのみで、本来あるべき土塁や堀切といった施設がなんら見当たらない。

(5)
画像一枚目…西堀と東郭(平城)
画像二枚目…東堀
画像三枚目…東郭。奥が西堀と西郭
(1)中津森館
  山梨県都留市金井

(2)小山田氏累代の居館址。小山田信茂の祖父越中守信有のとき、火災に遭い、夫人の死去などもあって、南方の谷村城に築城して移るまで、この地が小山田氏の居館であった。

(3)-(4)用津院の付近と言われるが、居館址として適当かは微妙です。一説には北側の小山田氏の菩提寺桂林寺付近も候補地に上げられますが、用津院の北に「土居堀(でいぼり)」という水路を伴う堀がクランク状に伸びており、複郭の館跡を想定されますが、それから居館の構造を性格に判断するのは難しいです。用津院の北西となりにはこんもりとした「丘」があり、これが居館の中央に鎮座していたとも思えないし、造作された形跡もなく、物見程度に利用されたにしては非常に邪魔な位置にあります。用津院と土居堀の間には、その丘からの尾根が土塁のようになっていますが、これは用津院を作る際の「掘り残し」とも見られるので判断は出来ません。
なんとも、謎の残る館跡です。
桂林寺には小山田氏累代の墓地があります。

(5)
画像一枚目…用津院。
画像二枚目…用津院墓地。奥の山が「丘」
画像三枚目…桂林寺付近から望む(北から)。中央の窪地が「土居堀」。高いところが「丘」
(1)真鳥山城
  さいたま市桜区西堀10丁目

(2)畠山重忠の家臣真鳥日向守の居城といわれますが、詳細は不明。
今は無くなってしまいましたが、以前はこの地を「日向(ひなた)」といい、真鳥日向守からついたといわれています。

(3)-(5)南与野駅の南西側、少し土地が高くなった住宅地の中にある不動堂(画像一枚目)の辺りが城跡といわれています。境内に石碑あり(画像二枚目)。
土地が高いこと以外には遺構のようなものはありません。
(1)渋江氏館
   さいたま市岩槻区本町五丁目付近

(2)渋江氏は武蔵七党野与党の大蔵氏の末裔。太田氏が岩槻城を築くと、その配下となる。
大永5年(1525)の北条氏綱による岩槻城攻撃に際し、渋江三郎が内通して落城。太田資頼は石戸城へ逃れ、北条氏の元、渋江三郎が城代として岩槻城に入りました。享禄3年(1530)、太田資頼は渋江三郎から岩槻城を奪還した。

(3)-(5)岩槻城の大手門の外「旧渋江町」付近が館跡と言われていますが、現在、浄安寺の山門付近に旧渋江町を示す石碑(画像)があるだけで、館の詳細な位置は不明。勿論、遺構らしいものもありません。
(1)次郎兵衛屋敷
   埼玉県春日部市粕壁東二丁目

(2)多田源氏満仲の子孫多田氏の屋敷跡。多田氏は岩槻城の太田氏に仕え、薩埵山の合戦で戦功をあげている。岩槻城落城後に帰農。

(3)-(4)古利根川沿いの多田時計店から碇神社付近が屋敷跡といわれていますが、遺構はありません。

(5)
画像一枚目…多田時計店。奥のこんもりした林が碇神社。
画像二枚目…碇神社。
(1)江ヶ崎城
   埼玉県蓮田市江ヶ崎

(2)武蔵七党の野与党の鬼窪尾張守繁政(天正19年没)の城跡と言われていますが、発掘調査の結果、遺物から鎌倉時代頃の遺構だったようです。

(3)-(5)江ヶ崎のセブンイレブンの駐車場の脇に城址碑があります(画像)。しかし、城跡はここではなく、その北側にあるみずほ団地が城跡です。昭和50年代に団地が造成される前は、内郭・外郭二重の四角い曲輪の土塁と空堀が巡っていたそうですが、現在は消滅しています。
民家と団地の間に土塁の一部が残っているという話ですが、よく判りませんでした。
(1)馬場堀の内
  埼玉県蓮田市黒浜 字新井

(2)『日本城郭大系』には「野口氏館」として紹介されています。野口氏は岩槻城太田氏の家臣で、第二次国府台合戦後に帰農しました。

(3)-(5)
黒浜小学校の南側から路地に入ると、南側の窪地にテニスクラブが見えて来ます。その南の丘が城跡です(画像一枚目)。
舗装されていない道を入ってテニスクラブの南側に出ると、田の向こうに「水路」があるから危険という看板があり、そこから森へ入ります。堀切のような土の道を登ると、左右の森が城跡ですが、遺構らしいものはなにもありません。丘の端であるということ、そして、先の水路が堀跡ということくらいです。
森を抜けると、ふるさと緑の景観地という看板が建っており(画像二枚目)、そこには太田道灌の家臣と記されています。
画像三枚目は森を抜けた南側からの様子。
(1)丸城
  埼玉県蓮田市城(じょう)

(2)『新編武蔵国風土記稿』に「丸城」とあるだけで、何者の城かは判らないとしている。

(3)-(5)蓮田市城に「西城公園」があり、ここに西城沼がある(画像一枚目)。その東側の公園外には東城沼という沼があり(画像二枚目)、この二つの沼に挟まれた南側の独立丘のような場所が城跡と思われます。そこには旧家が建ち、隣はまさに宅地造成していました(画像三枚目)。
詳細も判らないので、遺構もありませんが、丘の南側は道路で削られたようになっており、これが独立丘たらしめているものです。
(1)閏戸堀の内
   埼玉県蓮田市閏戸 字松原

(2)『日本城郭大系』には「黒須氏館」として紹介されています。
北条氏綱配下の黒須氏の館跡といわれています。

(3)-(5)
閏戸のローソンの向かいの民家の庭先に城址碑が建っています(画像一枚目・二枚目)。碑の後ろの民家の敷地内に土塁が一本走っています(画像三枚目)。それ以上の散策は個人宅ということで遠慮しました。

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