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こころとサイエンスコミュの印象操作

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印象操作
http://kiyo-server.jp/2009/06/01/社会学(2)―印象操作/

1.外見と中身、どちらが大事?
―こう問われて、あなたならどう答えるだろうか。
「私は絶対に中身が大事」と答える人も少なくないだろう。
だが、そうした人であっても、外見には全く無頓着というわけでもないはずだ。
楽だからといって部屋着で登校することはないだろうし、ここぞという場面(面接やデート等)では、少しでも相手にいい印象を持ってもらおうと外見に気を配るだろう。

→我々は常に印象を操作し、望ましい自己を呈示しようとしている

2.演技する「私」
英語の[person]には「人」「人間」という意味と共に、「役」「登場人物」といった意味がある。
それは、[person]の語源であるラテン語の[persona]が、舞台で演者がつける仮面や演じられた役柄といった意味を持つことに由来する。

このことが示唆するように、我々「人」には、日常生活という舞台で何らかの役柄を演じているという側面がある。
こうした点に着目し、人々の相互行為を演出論的視点から描き出そうとしたのがゴフマン(Goffman: 1922〜1982)である。

この報告で採用された視角は、劇場のパフォーマンスという視角である。導出された諸原理は演出上の諸原理である。私は通常の作業状況内にある人が自己自身と他者に対する自己の挙動をどのように提示するか、つまり他人が自己について抱く印象を彼がどのように方向づけ、統制するか、またエゴが他人の前で自分のパフォーマンスを続けている間に、しても良いことは何か、して悪いことは何か、を考察しようと思う。
(Goffman 1959=1974:�鵤) 
家庭、学校、サークル、バイト先、電車内など、日常生活の各場面は、ある意味で劇場の舞台であり、人はそこで観客(オーディエンス)である他者の視線を意識しつつ、それぞれの舞台に相応しい役柄(息子、生徒、先輩、従業員、乗客)を演じる一つの役者(パフォーマー)である。
我々はそうした演技(パフォーマンス)を通じて、他者に与える自分の印象を管理する「印象の演出者」なのである。

※本ゴフマンの目的は、日常生活という劇場でなされる人々のこうした「自己呈示(self-presentation)」もしくは「印象操作(impression management)」の諸実践を詳細に書き出すことにある。
 

3.ドラマトゥルギカル・アプローチ
では、なぜ人は社会的場面においてパフォーマンスを行うのであろうか。
ひとつにはやはり、「少しでも他者によい印象を与えたい」「自分をよく見せたい」という利己的な動機があるだろう。

→しかし、人は必ずしも「私的利得(private gain)」だけを目的としてパフォーマンスを行うわけではない。
人は他方で、他者のためにパフォーマンスを行う。
・気休め薬を処方する医師
・心配性のドライバーのために何度もタイヤの空気圧を確認する給油所のスタッフ
・見習い看護師が正常な行動だけをみて落胆しないように奇怪に振る舞う精神病院の患者
・道で躓いた人を見て見ぬ振りをする通行人
これらの理由に加えて重要なのは、舞台(状況)それ自身を維持するためにパフォーマンスが行われるということである。
例えば、野球の審判は、自分の判断に確信が持てない場合でも、逡巡することなく(逡巡している素振りを見せることなく)判定を下さなければならない。
というのも、ためらいがちな審判のもとでは、試合が円滑に進まないからである。

このように、我々は自分のため、他者のため、そして舞台全体の秩序のためにパフォーマンスを行っている。
しかし、そのようにして成り立っている現実(状況)は、「ごく些細な不運な出来事で粉々になりかねない繊細な壊れ物」(Goffman 1959=1974:64)である。

もし我々が「印象管理」に失敗した場合、「同席の他者は(彼に)敵意を感じ、参加者すべては一種のアノミー(対面的相互行為の小さな社会体系が崩壊することで生じるアノミー)を経験して、落ち着かない気分になったり、途方に暮れたり、顔色を失ったりする」(Goffman 1959=1974:14-15)ことになる。
したがって、我々は様々な演出上の技法(ドラマトゥルギー)を駆使して、パフォーマンスを成功させなければならない。
 
4.パフォーマンスを読み解くための様々な概念装置
ゴフマンは、日常生活の中で執り行われているパフォーマンスを読み解くための様々な概念装置を提示している。


■「パフォーマンスチーム」
我々はたった一人でパフォーマンスを行うこともあるが、複数の人と協力してパフォーマンスを行うことも珍しくない。
このとき、「一つのまとまりのあるルーティーンを演ずるのに協力している一組の人々」を、「パフォーマンスチーム」と呼ぶ。

・チームメイトの選択
・即刻の「強制的制裁措置」の保留



■「表局域」と「裏局域」
劇場にはどこでも「舞台裏(backstage)」というものがあるように、日常生活という劇場にも、パフォーマンスが行われる舞台と、通常はオーディエンスが立ち入ることのできない「舞台裏」がある。
ゴフマンは前者を「表局域(front region)」、後者を「裏局域(back region)」と呼び、それらがパフォーマンスの成否に深く関わっていることを明らかにしている。

・「表局域」と「裏局域」の境界管理
・「裏局域」の機能 

■「観客の分離」
演技の信憑性は、しばしばその演技に関係のない観客によって損なわれてしまうことがある。
こうした危険を回避するための手段が、「観客の分離(audience segregation)」である。

・同じお店で別々の商品を勧める店員
・親が留守の時にしか家に上げてくれない友達




5.「役割距離」
我々はそれぞれの社会的場面において、当該状況に相応しい「役割(役柄)」を演じることによって、他者との相互行為を秩序だった者として維持している。
しかし、人は「役割期待」に一義的に従うだけの存在ではない。

・役割への没入と「自己喪失」
ゴフマンによれば、役割に没入し、そこに全面的に関与することは、一種の「自己喪失」をもたらすという。

ある役割を受け入れるということは、その状況の中で得られると見なされる「虚構の自己」の中に完全に消えてなくなるということであり、完全にそのイメージとのかかわりで見られることであり、役割は人が受け入れることをはっきりと確証することである。
(Goffman 1961=1985:113)

■「役割距離」
こうした「自己喪失」を回避するための方法が「役割距離(role distance)」と呼ばれるものである。
それは、「自分が演じている役割によって自分の全てが定義されるわけではない」ということを示すものである。
・メリーゴーランドにふざけて乗る子ども
・手術中にジョークを飛ばす外科医
・体育祭にやる気のなさそうに参加する不良
→人は演じている役割から「軽蔑的に」距離をとってみせることで、自分が単にその役割を演じてるだけの存在ではないということを他者に対して「効果的に」伝達する。 
6.「道徳的義務」としてのパフォーマンス
このように、自己というものを、それ自体として存在する実体として措定するのではなく、役割演技(自己呈示)という他者との相互行為を通じて産出・維持されるものとして位置づけられるのがゴフマンの社会学であるが、そこで描かれる人間像、即ち外見にばかり気を配り、形式的なパフォーマンスに終始する人間の姿に対しては、よい印象を持たない人もいるかもしれない。

・グールドナーのゴフマン批判
「ゴフマンにとって重要なのは、人々が道徳的であるかどうかではなく、他者に対して道徳的に見えるかどうかである」と指摘し、その行為者観を批判している

→「欺瞞の社会学」といった否定的ラベリング

確かに、演技をすることにむなしさや徒労感を感じることもある。
しかし、我々の相互行為が、こうしたパフォーマンスによって支えられているのは、紛れもない事実である。
そういった意味で、印象操作を通じて「状況の定義」を維持することは、一種の「道徳的義務」なのである。
(なんだか心をえぐられるような内容)

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