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初代内閣総理大臣 伊藤博文コミュの内村鑑三と樋口一葉

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伊藤博文の年表で日露戦争のところにまで来ましたので、以前に「東郷平八郎」の発表をした時に作った資料を転載いたします。 反戦平和主義者がよく使う内村鑑三と樋口一葉の本当の実像をご覧下さい。


? 内村鑑三
 
日露戦争に反対したことで有名な内村鑑三は左派や「正義と平和の反戦キリスト者」のいい宣伝材料にされていますが、実像はちがいます。 

彼はキリスト教の立場から非戦を唱えましたが、愛国者でもありました。 日清戦争には賛成し、日露開戦までは戦争反対でした。 しかし戦争の火蓋が切られてからは、もう非戦論を叫ぶことは「愚かなこと」として、出征する知人に「よく戦え」と激励しています。 

またある鑑三の弟子が死刑を覚悟で「徴兵・納税拒否」をしようとしましたが、鑑三に思いとどまるよう諭されています。 動員された兵士やその家族など、戦争の被害者をなぐさめるのがキリスト者の務めであると説きました。 

「逝けよ両国の平和主義者よ。 忌み嫌う戦争の犠牲者となりて斃れよ。 汝の職分を尽くし汝の死の贖罪の死たらんことを願えへよ。 天において敵人と手を握れ。 死に至るまで平和の祈願を汝の口より絶つなかれ」 「彼らは基督的紳士として戦場に斃れて戦争の全廃のための道を開いた。 

天に栄光を担ふ者は、家にありて非戦論を唱ふる者ではなくして、戦場にて生血をそそいで戦争の犠牲と成りし、これらの非戦主義者である」(少々略)

彼は旅順陥落の折には、近所の人々がびっくりするほど大声で「帝国万歳」を三唱していました。 明治の人々は国の隆盛はわが誇りと、国と自分とを一体化して見ていました。 自分が行かなくては、他の多く家族の人々が殺されるとして、自分を犠牲にして他に尽くそうとしました。  

鑑三はそれをキリスト的紳士、日本的紳士と理解したのでありましょう。 今の視点で過去を見るとすべてを見誤ります。  


? 与謝野晶子
 
与謝野晶子は「君死にたもうことなかれ」の歌で有名ですが、それは彼女の一面のみ。 彼女の実像もたいへんな愛国者でした。 

この歌が掲載された「明星」は、全国で二千部ほどしか流通していない雑誌で、当時世間にはほとんど影響は与えていませんでした。 

逆に他の女性歌人から「日本国民として許すべからざる悪口也、危険也・・国家の刑罰を加ふべき罪人なり」と非難されています。 彼女も後世、家族の情として書いたが若気の至りであり恥ずかしいと述懐しています。 

また東郷提督が昭和時代に亡くなった時には「いくさ艦はやぶさの威を示したる日本海見ゆ司令官見ゆ」「目を閉じて思う東郷元帥の威風とこしえにおこなわるべし」などの歌を詠んでいます。

彼女は世間では知られていませんが、「満州開拓団」賛美の歌を詠み、大東亜戦争開戦時の東条英機の言葉に、涙を流して感動したといいます。 

そして自分の息子が出征する時には「み戦さに行く猛く(勇ましく)戦え」 「みちとせ(3千年)の神の教えに育てられ、強し東の大八洲人(おおやしまびと)」という歌を残しています。 決して反戦歌人と言われるような人ではありませんでした。



? 樋口一葉

彼女は憂国の女流文学者としても有名で朝鮮情勢を憂い、英商船と日本軍艦との衝突沈没事件では不平等条約の改正を訴えました。 また西洋の植民地になっているアジア各国を例にして「日本も植民地になってしまうのではないか」と憂いていました。 そして「微力ではあるが、自分は日本の国のためには尽くさずにはいられない」と述べています。
 
このように明治以来大東亜戦争終戦までほとんどの日本国民は「祖国の栄光は自らの誉れ」と見なしていました。 自己と国とを同一視して、祖国防衛戦を必死に戦ったのです。 今の感覚で昔を判断しては歴史を見誤ります。


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