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初代内閣総理大臣 伊藤博文コミュの?伊藤博文「年表」−9

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日露戦争についての注釈は前に載せたものと重複しているかもしれません。


● 1903年 枢密院議長に 枢密院議長山県・桂首相の策謀により政友会総裁辞任を余儀なくされる

● 1904年 (明治37年)【X】日露戦争 最高政策決定に参画したが、終始慎重な態度で対露同志会などの批判を
受ける。
戦後韓国は日本の保護下となることが国際的に認められる。


【X】日露戦争

○ 伊藤はロシアとの戦争には反対であった。そして日英同盟よりロシアとの日露協商を望んだ。そして満洲をロシアに韓国は日本の支配下に置く交換を望んだ。日露戦争が始まるやロシアとの早期講話をすぐに準備した。 

○ 伊藤は米国大統領ルーズベルトとハーバードの同窓生である貴族院議員金子堅太郎を呼び寄せ「戦争が長引いた場合、両国の間に入って調停する国がないと困る。君は大統領と親しい。日本の味方にできればよいが、それが出来ない場合でもロシアの味方にさせないように働きかけ、かつアメリカ国民の間に日本に対する同情を広めるよう尽力してほしい」と懇請した。奉天会戦と日本海海戦での日本の勝利の直後にルーズベルトは自分の発意で仲介を申し入れてくれた。


○ 伊藤博文はもしロシアが九州に来襲したら、一兵卒となって武器をとって戦う覚悟だと決意をのべた。朝野をあげて恐るべき敵から必死で国を守る気概を明治の人間はもっていた。 

○ 多くの政治家や軍人が日清・日露戦争のすぐあとに急死している。また明治天皇も戦時中の心労がたたって肝臓の病で8年後に崩御された。いかに国を挙げての戦争に対する自己責任感が激務であったかの証拠です。



○ 「負ければ国も自分たちの生活もない」という意識が全国民にあり、重税に抗議して反政府運動が起こることもありませんでした。

○ 日本海海戦に勝利した時には「自分たちが苦しい中で造った自分たちの軍艦」が勝ったという思いで全国が歓喜の渦に巻き込まれたのです。国と国民とは運命共同体という一体感がありました。 


○ 旅順攻略戦での将兵は不眠不休での塹壕堀りや、貧弱な防寒具に、不衛生な環境に耐えていました。戦争という重労働にもかかわらず食事は粗末でした。奈良漬、千切り大根、梅干、たくあん、卵、ジャガイモなどが一つ、飯に少し付く程度でした。薬は征露丸(正露丸)のみだったのです。 

○ 体格ではロシア兵が勝るにもかかわらず、銃剣をふるって戦う白兵戦でも小さな日本兵が強かったのは、自分のため、家族のため、国家のためと考える日本人の高いモラルに支えられていたからです。

○ 現在の日本にみられる政治家や企業責任者が自己保身のために責任回避をする姿は明治日本のトップには見られませんでした。皆、自らの命も顧みず自己の責任をまっとうしていました。


○ 日本人の律儀さと武士道と愛国心が日本を守りました。 日本兵の任務を遂行する律儀さは世界の絶賛を浴びました。また元・武士が日本軍には多くいて規律を徹底させていました。外国兵は恐怖のために逃げ帰る自国の兵士を後ろから射殺する部隊をもっていました。
 
○ 日本軍兵士は困難な作戦でも逃げることなく多くの奇跡的作戦を成功させていました。日英同盟の関係で多くの英国報道陣が戦場へ向かい、日本兵の活躍を世界に向けて発信し、世界の軍事常識をくつがえす日本軍の活躍に世界は驚嘆しました。


○ 二〇三高地のロシア兵の間で白い日本兵のうわさがありました。いくら機関銃で撃っても死なず突撃を繰り返す様にロシア兵のなかには気が狂ってしまう者も現れました。日本には当時白い軍服はありませんでした。死んでも突撃を繰り返す日本兵の霊魂の哀れで勇猛な逸話として語られました。 (この話は昔若い頃に、私が日露戦争に最初に関心を向けた話題でした。 哀れをもようし、今も胸が熱くなります)

○ 日本人は国家を守るために国民戦争を戦い、多くの尊い犠牲者は国を守った。その犠牲の上に日本は条約改正や国際的地位の向上がなされたのです。国や家族と守るために身を犠牲にして国を救った英霊としての戦没者に感謝すべきです。犬死ではありません。


○ 日露戦争での死者の多くは脚気によるものが多かった。 昔は玄米を食べていたのが、軍隊で白米を食べるようになってビタミンB1が不足した。 そのために多くの将兵がが脚気で亡くなったのです。 
食事が原因だと主張する学者がいたが、当時の陸軍軍医のトップ(陸軍軍医総監)となっていた、後の小説家「森鴎外」が徹底的に否定したために多くの病死者を出してしまった。 海軍では食事が原因としていち早く麦飯にて死者はほとんどいなかった。 
しかし陸軍では、日清戦争では 3944人(戦死者は293人)、日露戦争では27800人(戦死者は47000人(この中にも多くの脚気患者がいた))という非常に多くの兵士の命を脚気によって奪う結果となったのです。 
http://homepage3.nifty.com/ymorita/neta5.htm



● 1905年 ポーツマス条約締結。 日比谷焼き討ち事件

日清戦争後の三国干渉受諾の屈辱のあと臥薪嘗胆を味わい、政界最大の軍国国家ロシアと困難な苦しい戦いをしてきた。 9万もの戦死者を出して勝利したのに、賠償はなく領土割譲は南樺太だけ。

民衆は怒り日比谷騒乱事件を起こしました。それほど国民は自分たちが律儀に戦った自分たちの戦争の「あかし」がほしかったのです。

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