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戯画戯賛コミュの読み難い作品たち。「孤高の人」「イナンナ」など

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漫画文法にそっていない、新しい表現。
あるいはその可能性のために
なかなか素直に読めない作品がある。

それらを・・・


トピック名「狂気をはらんだ漫画」を改題
まあ、どんな漫画・劇画でも狂気をはらんでるのだが

コメント(2)

「孤高の人」画:坂本眞一、原作:鍋田吉郎.高野洋、週間ヤングジャンプ連載中

新田次郎の同名の小説「孤高の人」新潮社1969年を下敷きにする。
というが、中身は全然違う。
まあ、違ってあたりまえ。
新田次郎のそれは昭和10年(1935年)までの話だ。
現代では「装備」「登山への取り組み方」が違っている。

最も違うのは主人公「文太郎」の性格付けである。
新田のそれは、単独行で登山を行った(普通の)青年に過ぎない。が
劇画のそれは、精神の単独行をしている青年を描いている。
(登山にかぎらず、常に誰かとパーティを組みたいのだが、
 コミュニケーションがうまくゆかず、
 誤解され、誤解し、いつしか一人ぼっちになってしまう自分を
 意識して、さらに孤独に沈み
 その孤独の淵から逃れるために<精神の>高みを目指している
 ひどく、屈折した青年、である)

連載の最初の頃は、ほとんど無視していた。
原作者が変わったころからだろうか、ぽつぽつと拾い読みした。
画は上手い、しかし読み難い。
毎週きちんと読むようになったのは、ごく最近からである。
五人のパーティで冬のアルプス縦走をするところからである。

絵は「うまい」ほうである。ただ人物の顔に『狂気』がやどっている。
それが、連載開始のころに「読まなかった」理由かもしれない。
ところが、連載をきちんと毎週読むようになって気がついた。

絵が上手いのに読みづらいのは「文法」が違うからなのだ。
カットバックを多用している。
映画やTVドラマで、過去のシーンと現在のシーンが交錯する。あれだ。
こうした時系列を乱す場合。
「まんが文法(夏目房乃助氏の提示した用語)」では
過去のことや、思い出を語るシーンでは
地のコマとは違う「枠線」を使ったり、枠の色を変えたり
無地のコマをいれて、時の切れ目を演出する。

ところが、この坂本眞一氏の作品「孤高の人」では
現在と過去がまったく同じに描かれ、
そのカットバックが不分明なのである。

遭難から生還し警察の取調べを受けている「文太郎」は
ある言葉とともに
遭難の直前に戻り、そこで同行しているパーティの一人は
「文太郎」の姿を見て、数年前の自分の幻影を見、
と、多重構造をもったカットバックが
いつからが過去でいつからが今で、しかも
語っているのは主人公なのか脇役なのか・・・

この複雑怪奇な場面進行を理解できなくて
二ヶ月ほど前まではへきえきしていた。
最近、坂本眞一氏の「カットバック」文法になれてきたらしく
読めるようになった。

読めるようになると同時に
ただ人物の顔に『狂気』がやどっている、だけではなく。
主たる登場人物のすべてが『狂気』のうちにあり、
その『狂気』が、主たる登場人物を全員「孤高の人」にしている。
ことに気がついた。

(それにしても、今の若いこたちは
 こんなに複雑な流れをすらすらと読めているのだろうか。
 そうならば、もうJJ2は漫画読みとして現役ではないことになる)

物語は新田次郎の「孤高の人」とは似ても似つかない
病んだ精神の葛藤に深化している。

40年のうちに、劇画は小説を越えたのかもしれない。
いや、絵はその情報量で文字を圧倒するのだ。
その受け止めきれないほどの「狂気の情報」を
楽しんでみたいものである。

「イナンナ」画:岡野玲子 週間モーニング、不定期連載

岡野玲子といえば、反射的に「陰陽師」原作:夢枕獏が出てくる。
夢枕獏も好きな作家の一人である。
それを原作とした岡野玲子の「陰陽師」は、もしかすると
原作を越えた「画 物語」であるかもしれない。

で、表題の「イナンナ」である。
内容といえば、ベリーダンスの幻想、とでも言えばよいのか。
絵は「上手い」、きれいな線である。
そこに踊るダンサーはとても美しい。

イラストと詩の挿絵と漫画(枠で囲まれた絵と文字による重層表現)の
どれでもなく、そのどれでもである、
ジャンル分けの不可能な「二次元表現」である。
しいて言えば中世の物語絵巻に近い。
そして
一つ前の記事の「孤高の人」とは別の意味で「読み難い」。

マンガや劇画として読み解こうとすると、
「何を言いたいのかわからない」のである。
そこには、主張もないし、説明も無い。時間もないし物語も無い。


友人のユーチューブのビデオを見て、ようやく納得した。

「陰陽師」のなかで、霊や化物にとり憑かれた人を描いたように、
岡野玲子は自分自身がダンサーのひとりとして
「ベリーダンス」にトリツカレたのだ。
自分の内面におきた「歓喜」や「解放」を、たとえばJJ2がコメントとして書くように
岡野玲子は絵による「エッセイ」で描き表そうとしたのだ。

マンガや劇画ではない。あれは個人経験を伝えようとする「エッセイ」なのだ。
そう納得したとたんに、幻想的な絵や詩的な文章が
ひどく卑近に感じられてきた。
そして、読み難かった絵も読めるようになった(と思っている)。

と同時に
ひどく残念なことに、いかに岡野氏の絵が流麗で美しくとも
友人のユーチューブビデオの一分間にすら及ばないことにも気がついた。
スティル・ピクチュアとムービーの差である。

ベリーダンスは「流動する生命感」が命なのだ。
静止したベリーダンス、などはない。
ダンスの中の一瞬の静止はあるだろうが、それは動から動への転換点にすぎない。
ベリーダンスをいかに文字で書き表そうとそれは「実感できない」
絵物語にしても「実感できない」のは同じなのだ。

実に残念である。
岡野玲子は「絵師」として優秀であるが
ベリーダンスという自身の現実を「絵に表す」ことに失敗したのだ。

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